第十六話
「……死なない体、それだけで厄介なのに。 アリス、なんか良い策ないの!?」
「拘束が一番良いかも。 倒せないなら無力化は常識」
「そう簡単にできれば良いんだけどね」
アリスとリリー、そしてそれに対峙するロクドウの戦いは拮抗している。 お互いに決め手がなく、しかし退くという選択はお互いにない。 アリスとリリーにとっては拠点を守るために、そして既に目の前にいるロクドウには一人の仲間が殺されている。 ここで退くということは、その仲間の死を冒涜することにも繋がるのだ。
対するロクドウは、これが作戦であるが故に退くことが許されない。 正確に言えば獅子女の指示ではないものの、代理として立つ我原の指示であるならばそれは最早一緒だ。 ロクドウの役目は誘導と突破、真正面から乗り込み最大の注意を引くことにある。 その点で言えば、あれだけド派手にやらかしたこともありその役目はほぼ果たせていると言えよう。 残されたのは障害の排除、たった今目の前に居る二人を殺すこと。
「お二人さん、君たちには信念があるかい?」
不意にロクドウが口を開く。 突然の質問になんらかの意図があるのではリリーとアリスの二人は考えるも、ロクドウ自身にはそんな意図などなかった。
「……信念?」
「そうそう、自身を保ち自身のために確固たる信念の下に行動をするということさ。 君たちにそれがあるのかなって疑問に思ってね」
リリーはロクドウの言葉に耳を傾かせる。 それ自体、ロクドウの言動に思惑があったところで関係ないと判断してのことだ。 もしもそれが時間を稼ぐ意味があるのなら、それは彼女にとっても都合が良い。 こうして敵と対峙している時間が長ければ、他に侵入したであろうロクドウの仲間が殺される確率というのも高まっていく。 この拠点内にラックス=リーライがいる限り、神人の家の者たちが殲滅されるのも時間の問題なのだ。 彼がこの状況に飽き、動けば全ての出来事に決着がついてしまう。
それは獅子女が来るまでの間の話ではない。 例え獅子女がここへ来たとしても、ラックスには敵わないという確信がリリーにはあった。 だからこそ、ここでロクドウの話に耳を傾けるのはリリーにとってはプラスに働くことでしかない。
「信念ねぇ……あるわよ、そのくらい。 ラックス様のために、わたしとアリスはそのためだけにここに居るんだから」
「自らが仕える主君のために。 うん、良い話だ。 しかしそれをするのにも理由というのが必要で、わたしが無粋ながら考えるに……命を救ってもらったというのはどうだろう?」
「はっ、勝手に決めつけないで。 あんたに説明なんてしないもん」
リリーは言い、舌を出して威嚇する。 それを見たロクドウは鼻で笑う。
「否定をしないということはそういうことさ。 だが恥じることはない、そのように信念を持つというのはとても大事なことだ。 それこそ自らの命を賭すほどならば尚更、それは大切にすべきだよ」
「……ふん、何が言いたいわけ? それに、偉そうに言うからにはあんたも尊重されるべき信念があるんでしょ?」
リリーの言葉に、ロクドウは天を仰いだ。 空は曇って雨でも降り出しそうな天気だ、いっそ、降るのであれば思いっきり降ってほしいと思いつつ、ロクドウは微かに笑う。 雨は好きだ、全てを洗い流し、そして世界を汚していく雨が好きだ。 あの日もそういえば雨が降っていたか、とロクドウは思い返す。
自らが戦うべき信念。 自らの命を賭して成すべきもの。 そんなものは、存在しないと思いつつ。 思い込みつつ。
「わたしの命は無限だ。 わたしは決して死なない、つまり私の命はとてつもなく軽いんだよ。 一人に一個の命ではないからね。 だからわたしがそんな命に信念をかけたとしても、指先一つで持ち上がってしまうほどに軽いものにしかなり得ない」
ロクドウは視線をリリーとアリスに向ける。
「わたしには信念なんてものはない。 ただただ暇潰しにしか過ぎないんだよ、あれもこれも、全てが。 だが、戦いは必ず信念を持った方が勝つとは限らない、事前忠告だ」
言いながら、人差し指を立てる。 その奥に存在する顔は明確に笑っており、ロクドウにしてはあまりにも珍しいことだった。 多少なり口角を吊り上げることはあれど、滅多にロクドウは笑うことがない。 が、今の彼女はそれまでのことを忘れ去ったかのように笑っている。
「常に殺すルートを頭に入れておけ。 わたしの飼い主の言葉だが、とても良い心掛けだと思っていてね。 わたしはそれを常に用意しているんだ」
「はん、確かに面倒だけどそれだけじゃん。 あんたじゃわたしに勝てないし、今だって一方的にボコボコにされてるし。 なに? 負け惜しみ?」
「だから言ったろう、忠告だと。 わたし自身、どうにも途中で止めることができないという話さ。 もっとも、一度殺せば問題ないだろうが……果たして殺せるかどうか、とでも言っておくべきか」
ロクドウの言葉の意味が飲み込めず、リリーは怪訝な顔をする。 しかし、そのやり取りを後ろで見ていたアリスは少しだけ嫌な予感を感じ取っていた。 今まで幾度となく、リリーの戦いを後ろで眺めていた彼女だからこそ、今回はそのいつも通りという枠に収まらないことを悟った。
だが、その気付きは遅すぎたとも言える。
「さて」
息を吐き、ロクドウは自身の左腕を掴む。 何をする気なのか、しかしロクドウの異様な雰囲気の所為もありリリーは動けずにいた。 もしも仮にこの場で動けていたとしても、既にリリーにはロクドウの行動を止める術は存在しなかっただろう。 だからこそ、その気付きは遅すぎたのだ。
ロクドウは握った右手に力を込める。 体自体はとても脆い、それはロクドウも良く知ることで、容易くロクドウの左腕は根元からもげた。 筋肉繊維が千切れる音、骨が砕ける音、肉が裂ける音、静かな辺りには気味の悪い音が響き渡るも、ロクドウは顔色一つ変えない。
「な……あんたなにしてんの……?」
次なるロクドウの行動を見て、思わずそう呟いたのはリリーだった。 ロクドウの行動は常軌を逸しており、およそ想定できるものではない。
千切り取った腕から零れ落ちる大量の血。 それをロクドウは天へと掲げ、その零れ落ちる大量の血を顔に浴びた。 浴びた……というのは語弊があるかもしれない。 浴びるように、ロクドウはその血を飲んでいる。 口から零れ落ちるのも勿体ないと言わんばかりに舌で舐め取り、ロクドウは血に染まっていく。
「奥の手というのは使わないからこそ強力な刃となるものだけれど。 仕方ない、中々ちょびっと強い君に敬意を示し、わたしの奥の手の一つを見せてあげるよ」
ロクドウは二百年以上の時を生きている。 最早、それは人としての有り様を凌駕するものだ。 心は痛み、荒廃し、朽ちていく。 しかしロクドウ自身が朽ちることはない、何度死のうと生き返り、周りが死のうと生き続け、例え世界が滅びようと彼女は何度も生き返り何度も死に続ける。 だから彼女にとって死ぬことというのはただの日常の一部に過ぎないのだ。 死ぬための手は尽くし、それでも彼女は死ねなかった。 その一つに、自らの文字を使ったものまで含まれている。
六道輪廻と呼ばれる彼女の文字は、対象者に強い精神干渉を引き起こす文字だ。 使い方によっては対象者を意のままに操ることもできれば、心どころかその身体をも崩壊させることができる文字である。 そんな彼女の文字は六つの世界で構成されており、引き込むこともできれば支配することもできるという利便さもある。 もっともそれは弱い心を持つ者にしか使えず、強い者に使ったところで多少の力を削ぐことしかできはしない。
かつて、彼女は自らの心を六道輪廻の世界へ放り込んだ。 それは、彼女に一つの気付きを与えた。 六つの世界はそれぞれが力を持ち、それを渡らせるだけが六道輪廻の力ではないということを彼女に知らせた。
つまり。
「六道輪廻」
そこに存在する道はロクドウの道となり世界となる。 その道筋は修羅の如く、争い憎み怒り狂う。 戦いを好み戦いだけを望み戦いだけを求める世界、そこに住まうは修羅の者達。 憎悪はやがて力となり、怒りはやがて力となり、戦いはやがて力となる。 全てを力が支配し、制圧し、暴圧する世界だ。
「――――――――修羅道」
その選択は自らの精神性を作り変えるものだ。 一度使えばロクドウはロクドウでありながら、その実全くの別人となる。 正しく言えばロクドウの外見をした何か、だ。
普通であれば、そんな選択は取ることはできない。 自分が自分でなくなることなど、自我があれば選べるわけがないのだ。 引き換えに得られるのはまさに修羅の力であるものの、ロクドウにその記憶など残りようがない。 ロクドウがロクドウである意味というのを全てなくし、心そのものは消失するのだ。
だが、それはあくまでも六道輪廻単体で見た場合に限る。 ロクドウが持つもう一つの文字……万世不朽は自身の存在を概念の元から再生させるという文字だ。 それはロクドウをあるべき形で修復する文字とも言え、これはロクドウにとって最大の保険ともなる。
自身が失われたとしても、ロクドウは一度死ねば元へと戻ることができる。 もっとも、それがいつかは分からない、前回これを使ったときは、気付いたときには数年という時間が経っていた。 それだけ、ある意味ロクドウにとっては賭けでもあるのだ。
が、今で言えば問題はないとも捉えていた。 今の自分には修羅道を使ったとしても殺しきってしまう人物が周りに数人はいる。 我原、雀、そして獅子女の三人は確実に自分を殺せるだろう。
「できれば使う価値のある相手だったことを願おう。 知性がなくなるから嫌なんだけどね」
言いながらロクドウはリリーを見る。 その瞳は白く染まっていく。 露わになっている肌には黒い血管が浮かび上がり、ロクドウは一度力が抜けたように頭も腕もだらりと下げた。
「アリス、下がって」
「うん」
言われた通り、アリスは更にそこから距離を取る。 リリーがアリスにそう命じることは記憶の限りほとんどない。 敵の力が推し量れない、或いは確実な脅威が存在する場合に置いてでしかあり得ない。
つまり、たった今対峙している相手はそれほどの相手ということだ。
「ぁ――ァア――――――ッ!!」
金切声のような声を上げ、足と手を地面に強く食い込ませる。 それだけで地は割れ、リリーとアリスの体を衝撃波のようなものが襲った。 最早、目の前の相手は人間や感染者というものではない。
これは、まさに修羅だ。




