第十二話
真っ暗だ。
暗い、暗い、暗い。
黒い、黒い、黒い。
闇よりも更に、全てを飲み込むような全てを塗り潰すような黒だった。
手先が闇に侵される。 足先が黒に飲み込まれる。 心に影が落ちていく。 ヘドロのような、どす黒い感情が溢れてくる。
「あ」
その闇の中に、彼女が居た。 彼女は手を振っている、僕に向けて、手を振っている。 さようならと、そう告げて。
「ぁああアアアアアアアッ!!」
「アオ! しっかりしろ、気を持て!」
顔を抑えて蹲るアオの体を支えたのは、我原だった。 我原自身、ロイの胡蝶之夢の対象にならなかったわけではない。 しかし、我原は既に過去のことを過去だとし、切り離して考えていた。 決して忘れられることではない、決して復讐を忘れたわけではない。 それでも我原の精神は異常なまでに分離して考えられている。 今ここですべきこと、最善の選択肢を選び抜くべく、強靭とも言える精神力を持っていた。
だが、全ての者がそれを成し遂げられるわけではない。 我原がたった今支えた彼女のように、平静を装い乗り越えてきた者もまた、居るのだ。
……いいや、それは乗り越えたとは言えない。 延々と、果てなく続く回廊を彷徨うように、その出来事から逃れられずに囚われていると言っても良い。
「あ、ぅ……! が……さん、はな」
「くだらん真似を……貴様、ただで死ねると思うなよ」
歯を食いしばり、我原は見えぬ敵に視線を向ける。 彼にとって守るべきものというのは既に何もない。 だが、少なくとも自らの力不足が引き起こすものだけは見過ごすことができはしない。 極論、我原がたった今感じている怒りという感情は、アオのためでなく自分自身のためのものである。 不甲斐なさ、情けなさ、それらから来る怒りだ。
『私に苛立つのは一向に構いませんが、それよりもアナタ様はご自身の身を守った方が良いかと、助言しておきましょう』
「なんだと?」
「離れてッ!!」
直後、アオの影から無数の怪物が飛び出した。 百鬼夜行、紛れもないアオの文字。 それらはいつにも増して凶暴性というのを増しており、更にはアオの制止が一切働いていないのか、暴れまわるように周囲に飛び散っていく。 無論、我原がその攻撃対象となるのは明白だった。
「……精神干渉、過去の傷を抉る攻撃か」
『イエス、先ほども申しましたように、私の胡蝶之夢は頑張れば解除できるものですよ? ですので、気をながーくしてお待ち頂ければアオさんは無事元通りになれるでしょう! まぁそれも、アナタ様が生きていたらの話ですが。 アナタ様が死んでしまえば、ああ可哀想にアオ様のトラウマは増えてしまう……! しかしのんびりとしていてはアナタ様の命が持たない……! はてさて、であれば解決策は一つ! 我原様、どうぞアオ様をお殺しくださいませ』
「最適解だな。 そうするのがもっとも手っ取り早く済む」
ロイの言葉を聞くと、我原は懐から拳銃を取り出した。 そしてその銃口を地面へと蹲り、無数の怪物を従えているアオへと躊躇いなく向ける。 今のアオの状態であれば、まともに防御を取ることは叶わない。 更に、アオ自身の文字がある程度の制御すら出来ていない今、その攻撃を防ぐ手段は存在しない。 ロイの文字は対象が二人でなければ意味を成さず、アオを殺せば自身が文字の対象とされることもない。 もっとも、我原自身に文字が効くとは思えないが、何らかが引き金となりアオのような状態にならないとも、言い切れない。
そしてその後は、高みの見物を決め込んでいるロイを探し出す作業が残されているだけだ。 文字の説明にあったように、近くにロイが居ることは間違いなく、後は根気比べとでも言えるものが待っているだけだ。
「オレには慈悲などない。 オレのことを良く分かっているようだ、貴様は」
『そうでしょう? 血も涙もない我原様には、その引き金を引くなど息をするよりも簡単でしょう? さぁさ、どうぞお引きください。 お約束致しますが、もしもそうなれば私にアナタ様を殺す手立ては存在しないので、素直に降参致します故』
「……降参? くく、くくくく」
しかし、我原はその言葉を聞くと、顔を抑えて笑い出す。 突然のことに、ロイは訝しげな様子で我原の様子を伺った。
「残念だ。 今の貴様の言葉でどうやら興が削がれたらしい。 言っただろう? 貴様を楽には殺しはしない、と。 オレは自身の言葉に責は持つ」
まるで、その言葉は最初から用意されていたかのように我原の口から紡がれた。 それとほぼ同時、我原は自らが持っていた銃を左手の握力のみで、破壊する。
「アオ、貴様に対してもだ」
続き、我原は懐に隠してある武器の全てを取り出した。 小型のナイフから手榴弾、何かの薬液から別の拳銃。 その全てを放棄し、コートを脱ぎ捨てる。
「お前の存在は神人の家にとって必要不可欠、そしてオレの命よりも優先すべき存在とオレは認識している。 であれば、答えなど分かり切っているな」
「が、はら……さん、だ……め……」
必死で何かに抗うアオの言葉など、我原は聞いたとしても受け入れない。 最後に体内に忍ばせているナイフの切れ端をも無理矢理に取り出し、我原は告げる。
「ロイ=ラ=ルレイ。 貴様を殺し、アオもこの場から生きて帰らせる。 オレは大人しく、貴様の望みどおりにひとまず耐えてやろう」
その言葉は、ロイにとっては受け入れ難いものであった。 誰かのために、人のためにという考えは、ロイがもっとも否定してきた考えだ。 この地下施設で一人、ただひたすら獲物が来るのを待ち続ける彼にとっては、尚更だ。
そして、その言葉はアオにとってもまた、受け入れてはいけない言葉のようにも感じていた。
「あ、ぐ、ぁあああああああああアア!!」
頭が痛む。 眼球の奥が痛む。 眼球を取り出し掻き毟りたいほどの違和感がアオの感覚を埋め尽くす。 それでも痛みが引くことはない。 その過去が消え去ることはない――――――――。
「おい、早くバケモンだせよ! バケモン女!」
突如として痛みは引いた。 そして、自身の頭に小さな石ころが当たった。 顔を上げると、そこにはいつか見た景色が広がっている。 昔のこと、スラム街で生まれ感染者としてひっそりと、表の世界の光を浴びないように生きていた日々のことだ。
その街は、感染者が多く暮らしていた。 しかし、あまりにも異質な文字を持ってしまったアオにとっては、その街すら居づらい場所でもあった。
「っし、おら!!」
自分と同年代の子供たちは、自分のことを「バケモン女」と呼び、石やゴミを投げ付けてきた。 石が当たると痛い、ゴミが当たっても痛い、小さな痛みは、日々を通してみれば大きな痛みとなって自分を傷付ける。 自分は体を丸めてそれに耐えるも、痺れを切らした『トモダチ』は、自分の体をやがて直接蹴り、直接殴る。 それは石ころを当てられるよりも痛く、ゴミを投げつけられるよりも痛かった。
「うわっ! あっははは! でたでた!」
自分が痛みを感じすぎると、意志とは無関係にソレは出てきた。 影から出る、黒い怪物。 目も鼻もなく、あるのは口だけで牙を剥き出しにする異形の怪物だ。 とは言っても、そのときはまだ小さなもので、少し大きな蛇くらいのものが一匹、出るだけであった。 危険性なんて当然なく、それがあったからこそ自分はバケモン女と呼ばれ、虐げられていた。 世間から虐げられている感染者たち、更にその中でもアオは虐げられる存在だった。
耐えて、耐えて、耐える。 いくら見た目が怖くとも、紛れもなくその怪物は自分の文字であり、嫌いという感情は抱かない。 というよりも、いつも身近に居るペットという感覚に近かった。
「ォォォオオオ」
呻き声のような、地鳴りのような声を上げて、怪物は周囲に居る数人の子供たちに襲いかかろうとする。 その行動もまたアオにとっては嬉しいものだったが、周囲から見たそれは得体の知れない気持ち悪さというのを感じるだけでしかない。 このときもしも、もっと凶暴性に満ちた怪物であったなら、子供たちは恐怖しアオをからかうこともなかっただろう。
だが、当時の怪物はただ呻き声を上げ、飛びかかろうと蠢くだけでしかない。 子供たちはそれを見て笑い、今度は怪物に向かって石を投げつける。 怪物にとってはなんの痛みも感じないものでしかなく、怪物はそれに対して一切の反応を示すことはなかった。
「うわー気持ちわりぃ! もっとでかいのぶつけようぜ、でかいの」
「これとか丁度良いんじゃない? さすがになんか反応すんだろ、あのバケモン」
蹲りつつも、アオはそこへと視線を向けた。 少年の手には大きな石、両手で抱えるほどの石があった。
「……だめ!」
「あはは! バケモン女が喋った! 気持ちわりー声!」
アオは必死に声を振り絞って言うも、少年は笑う。 それが少年の行動を加速させるとも知らずに。
怪物が届かぬギリギリの範囲まで少年は近づいた。 そして、怪物の頭上でその石を持ち上げる。 さすがに投げつけることはできないのか、上から落とすという算段のようだった。
「口だけバケモン女、そんなに嫌ならお前が代わりに当たるのかよ?」
「……っ」
言われたアオは、頭を覆って蹲る。 少年はそれに対して「気持ちわりい」と一言だけいうと、その掴んでいた手を離す。 石は重力に従い、落ちていく。
もしかしたらそれを喰らえば、あの怪物でも死んでしまうかもしれない。 そんな思いはアオにも当然あったが、身を挺して守るほどアオに勇気は存在しない。 いつも通り、自分が幾度となく石を投げられ耐えたように、今日もまた耐えるしかない。 そう思った、そのときだった。
「っと、何してんすかー。 子供の遊びにしちゃ、ちょいと度が過ぎてると思うんすけどー?」
全く知らない声に、アオは顔を上げる。 そこに立っていたのは、見たことがない少女であった。 綺麗な銀髪を後ろで一本に縛り、動きやすそうなラフな格好をしている少女。
「誰だお前! 邪魔すんじゃねえよ!」
「誰と言われましてもねぇ。 悪と悪者の敵、そして純真少女の味方! 不肖ナツメ、ここに見参! ……今の超かっこよくないっすか!?」
「あ、えと……」
事前に考えていたのか、ナツメと名乗った少女は見得を切ってそう告げた後、アオに向かってそう告げる。 困惑し、言葉に詰まる。
「バケモン女の仲間かよ! 気持ちわりー!」
「さっきから気持ちわりー気持ちわりーって語彙力のなさの塊っすかあんたら。 それ以上の悪事はこのナツメ様が許さねーっすけど、それでもやるならお相手しましょう。 言っておきますけど、僕は超強いっすよー?」
「うぐ……おい! 帰ってバケモン女とその仲間の対策会議しようぜ! 覚えとけよバーカ!!」
「バカって言った方がバカっすよ! バーカ!!」
走り去る少年たちに、ナツメは勢い良くそう告げる。 そんなふざけたやり取りにアオは思わず笑い、それに気付いたナツメもまた笑う。
それが、不思議な少女、ナツメとの出会いであった。




