第二十九話
「おいまだかよッ!!」
「静かにしてろ、まだ一分程度だろ」
桐沢がエドワーズの攻撃を避けつつ言うも、獅子女は淡々と答えるのみだ。 そして獅子女の言葉を聞き、桐沢が思ったのは「まだそれだけしか経っていないのか」というものだ。 それほどまでに、下水道での戦闘は苛烈という他ない。
「宗馬くん、後ろから来ますッ!!」
「ああ分かってる……!」
桐沢の背後を襲ったのは、巨大化した腕を振るう死体だ。 何が起きているのか、死体はそれぞれ感染者に負けず劣らずの文字を扱い二人を襲っている。 あくまでもエドワーズの支配下にある所為か、その動きは本能のみで動く獣のようであるものの、まともに喰らえば致命傷にもなり兼ねない。
「ああ、アアァアアア!! なんと美しいなんと賎しいなんと痛々しいッ!! 儚き命が儚く無様に呆気なく散ろうとしているなド……ぁぁあ、あ、ア、ア……」
桐沢が死体たちの注意を引き付け、その隙を狙い東雲がエドワーズへと超高速の攻撃を繰り出している。 が、その尽くが全て当たらず、エドワーズに命中したかと思われた瞬間に霧のように消えてしまっている。
「数が多すぎるな。 琴葉、エドワーズの今は見れるか?」
「……あ、その手が。 うん、やってみる」
獅子女の横に立っていた琴葉は、目を瞑り自らの文字を使う。 名前と顔、それさえ分かってしまえば琴葉の心象風景はどこへ居ようと場所を割り出すことができるのだ。 つまり、今目の前で起きている現象を打破する可能性がある。 どこへ隠れていたとしても、琴葉の文字であれば。
「えっと……いっ!?」
「琴葉? ……大丈夫か?」
目を瞑り集中していたと思われた琴葉であったが、途端に頭を抑え蹲る。 獅子女は琴葉の肩に手をかけ、琴葉の顔を覗き込んだ。
「あ、あはは……だ、だいじょぶ。 ちょっと駄目かも、曖昧にしか見えなくて、ハッキリ見ようとしても頭が」
「無理すんな。 ってことは、場所も特定できない何かがあるってことか……」
言いながら獅子女は視線を前へ。 目の前では未だに激しい戦いが起きており、しかし状況は好転しない。 エドワーズの力の正体を暴かない限り、消耗戦で不利なのはこちらの方だ。
獅子女としては、このまま桐沢と東雲の両名が殺されたとしても問題はない。 桐沢が死ねば自身にかかっている制限も解け、生殺与奪を存分に使うことができる。 そうなればエドワーズの文字のからくりが解けなかったとしても、別に無視をしてしまえば良いだけの話だ。
だが、その気分にはならなかった。 どうしてかは分からないが、恐らく桐沢と戦いたいという欲求だろう。 そう獅子女は結論付け、目の前の戦いに目を向ける。
「東雲さんの攻撃、毎回あとちょっとってところなのにね」
「だな……ん。 おい琴葉、お前さっきの俺の攻撃はどう見えた?」
琴葉の言葉に、少しの違和感を受けた。 それを確認するため、獅子女は琴葉に問う。
「へ? さっきのおにーさんのは……えっと、あの人の頭がぶちーって感じになってたけど……」
あまり思い出したくないのか、琴葉は言う。 が、その言葉を聞き、獅子女は再度視線をエドワーズに向ける。
丁度、東雲が攻撃を加える瞬間だ。 しかし、その攻撃は素人目で見てもハッキリと躱されていると分かる程度のものでしかない。
それに対し、東雲は振り切った腕を見つめる。 まるで、完全に捉えたと言わんばかりに。
「……ズレがあるのか? 俺やあいつら、それに琴葉と」
僅かなズレ。 桐沢、東雲、獅子女、琴葉、その四名が見ている光景にはズレがある。 先程の攻撃を見るに、恐らく一番派手にズレているのは東雲だ。 桐沢の方は不明ではあるものの、次にズレているのは琴葉であり、一番ズレが少ないのは獅子女ということになる。 攻撃の避け方、そして攻撃の放ち方からしてそう見れる。 ただの個人差なのか、それとも別の何かか。
「どうしてズレてる?」
「あたしに聞かれても……」
獅子女のは半分独り言であったものの、琴葉は苦笑いをして答える。 個人差というものは、主に技量や実力は当然のことながら、情報を処理する脳によって生まれている。 視覚から入った情報を処理し、伝え、それを認識する間隔、そこで個人差はハッキリと現れるのだ。
もちろん、ただ日常生活を送るだけでは区別などできない。 感覚としての個人差であれば容易に生まれはするものの、視覚情報での個人差など滅多に生まれるものではない。 だからこそ獅子女は尋ねた、どうしてズレている、と。
「あいつの文字か、違う奴の文字か。 けど龍宮寺妹に聞いた限りじゃ周辺に俺たちと機構の感染者以外はいない。 あいつの文字と見るのが妥当だけど、そんな付随効果があるもんか?」
「おにーさんみたいに強い文字ならあり得るかもだけど、そんな人滅多にいないよ。 たくさん見てきたけど……おにーさんよりすごい人、知らないもん」
「そりゃどうも。 ってことはまぁあいつがそうってことはないな。 だとしたらあいつの文字か」
「え? あり得ないって話じゃなかった?」
獅子女の言葉を疑問に思い、琴葉は尋ねる。 が、それを聞いた獅子女はろくに答えず、耳に付けた無線機のスイッチを入れた。
「アオか? 今から言う物を用意して琴葉の携帯に送ってくれ。 ……俺の? ああ壊れたんだよ」
ポケットから取り出した獅子女の携帯は無残な形をしている。 至近距離での爆発を受ければ当然の結果とも言えよう。 そんな携帯をその場に投げ捨て、獅子女はアオへ向けて続きを口にした。
「笹枝紡って感染者の写真、それを用意して送ってくれ。 一分以内にな」
それに対しアオは二つ返事で承諾し、短い会話は終わる。 その会話を不思議がる琴葉がその理由を知るのは、僅か一分後のことであった。
部屋に充満させたのは、致死性こそないものの幻覚などを引き起こすキヌクリジニルベンジラートだ。 無力化ガスに分類されるそれは、通常は固体であるものの溶剤を使うことによりガスとして噴出される。 それを剣へと仕込み、完璧なタイミングを見計らい、文字を使い龍宮寺真也へ当てることができた。
汚い戦い方だということは自らがよく分かっている。 だが、使える手は全て使うというのが己のやり方でもあるのだ。
「悪く思え、どれだけの豪傑でも最後は呆気ないもんだ」
夏井の下に行き、まずは状況の確認だろう。 表では水無たちが均衡状態となっており、地下では桐沢たちが獅子女と戦っているはずだ。 加勢に行くべきはもちろん桐沢と東雲のところなのは間違いないが、夏井らも気になるところだ。
「……まずは夏井と合流してからだな。 武器の補充もしねえとか」
吸っていたタバコをその場に投げ捨て、廊下へと繋がる扉に近づく。 いつもならその自動扉は近づくだけで開くが、戦いの所為か電気系統が死んでいるようだ。 当然ながら、そうなれば自らの文字でも動かすことは敵わない。
「ん」
寒気を感じた。 違和感はハッキリと、目の前で形として現れる。 瞬きをし、開く。 その瞬間には扉の全てが氷によって覆われた。
まさかと思い、神藤は視線を後ろへと向ける。 その途中で視界に入った、たった今自分が投げ捨てたタバコがまるで芸術作品か何かのように、床へと届かず氷漬けで宙に浮いているのを。
気温が先程よりもぐんと下がる。 いや、それどころの話ではない。 こうしている今も尚、更に気温は下がり続けている。 異様なまでに、そして神藤の目に映るのは更に異様な光景だ。
室内の壁が、床が、天井が、まるで別世界の如く凍りついていく。 その発生源は間違いなく、閉められた防火扉の奥からだ。
「ったく……お前はしつこいボスキャラかなんかかよ」
神藤は笑い、再度タバコに火を付ける。 時期に使い物にならなくなるだろうライターは投げ捨てたが、それもまたすぐさま凍りついた。
パキリ、と音が鳴り響く。 神藤は既にその場から動けないことを悟った。 自らの足は凍りつき、身動きへ取れそうにない。 そして神藤は目の当たりにする。
数十センチという分厚い防火扉が、呆気なく砕けるのを。 そして、その奥へ立つ絶対零度の男の姿を。
「よくもやってくれやがったなクソ野郎が……。 さみぃさみぃさみぃ、クソがッ!!」
下へ向けられた龍宮寺の右手、その先へ浮かんでいるのは青い塊。 ――――――――氷点下219度、そこへ達することで起きるのは酸素の氷結だ。 だが、龍宮寺の文字はそれすら容易に超える。
――――――――絶対零度。 摂氏マイナス273.15度、考えられる最低の温度、文字通り『絶対零度』と言われるその温度が、龍宮寺が下げられる限界だ。 そして、その温度に至ったとき、その世界で生きられるのは彼でしかない。
空気は凍る、地は凍る、ありとあらゆる物質は凍り、空間ですら時間ですらも凍り付く。 彼は本来、ここまで自身の文字を使うことはない。 限界まで使ってしまえば、最愛の家族である響もまた生きられないということが分かっているからだ。
だが、この場所だけに絞ればある程度の制御は効く。 神藤総司という男を殺す程度の絶対零度であれば、問題はない。
「そうだ、全員そうやって俺を怖がって逃げて、武器を向けてきた。 親父でさえも、お袋でさえもッ!! だがな神藤、そんなとき響だけは変わらず俺と一緒に居てくれた。 あいつはまだ人間だったにも関わらず、俺を見捨てやしなかった」
だからこそ、龍宮寺真也は響だけは救うと決めた。 何を犠牲にしても、自らを犠牲にしても。 そして笹枝紡は、そんな響が大切にする仲間であり、自らも大切にする仲間なのだ。
「てめぇには分かんねぇだろうなぁ神藤ぉ!! 周りに愛されていらねぇくらいの好意をもらって、楽に楽に生きてるてめぇにはッ!!」
「分からねぇな。 お前の立場に立てない俺にはな」
神藤は最終手段として、自らの体に爆弾を潜ませていた。 だが、想像以上に真也の力が強力すぎたのだ。 完全に凍り付き、反応は全くしていない。 最早打つ手はなくなった、待ち受けるのは死のみである。
「死の間際まで落ち着きやがって……。 良いぜ、楽に殺してやる」
氷槍が展開する。 先程までとは違い、一瞬で膨大な数の氷槍が作り出された。 更に自身の体は足の先からどんどんと凍りついている。 今では腰の辺りまでが完全にといった具合だ。
「……お前とは良い酒が飲めると思ったんだがな」
「ハッ! 最後の言葉がそんなんで良いのかよ、神藤ちゃんよぉ」
「ああ、良い」
それを聞き、つまらなさそうに真也は顔を歪める。 無様に命乞いする様でも見たかったのか、それともくだらない言葉に気分を害されたのか。 いずれにせよ、真也の次の行動は決まっていた。
「だったら死ね」
首元まで凍り付き、既に足先の感覚はなくなっている。 まるでこの一室だけが別世界のように氷で覆われており、きっと氷河期はこんな光景だったのだろうと、くだらなくも神藤は思った。
目の前に浮かぶ氷槍は、その全ての矛先が神藤へ向けられる。 次の瞬間には放たれていてもおかしくないほどに引き絞られ、鋭利な形状は神藤の体を容易く串刺しにするだろう。
「……先に行かせてもらう、水無」
それは、最愛の人へ向けられた言葉であった。 そして自らだけが楽をすることになるという懺悔でもあった。 戦いから離れ、この世界における全てから解放されるという意味も含まれている。
しかしそのとき、神藤の耳に聞こえてきたのは明らかに異質な音だ。 雑音、そして聞こえてくるのは人の声。
「チッ……おいなんだよこんなときに」
真也は顔を顰め、耳に手を当てる。 その動作と自らの耳にも聞こえてくる音から、無線が入ったのだという結論に至る。 この絶対零度とも言える世界でも問題なく使える無線など、どれだけ優秀な者が作ったのかという無駄な考えも同時にした。
『龍宮寺、笹枝紡を殺せ』
そして、無線の声は端的にそう告げるのだった。