第二十三話
何が起きた。
一瞬、頭が理解に追いつかない。
感染者となってから、まともに攻撃を喰らったことなど皆無だ。 全てを殺し、無力化してきた獅子女にとって、その重みある一撃は完全に想定外のことだった。 不意を突かれ攻撃を喰らうなど、何年来のことであろうか。
文字を切ってはいない、攻撃自体の威力は間違いなく殺し、真正面から殴ろうとする桐沢を「馬鹿な奴だ」とさえ認識していた。 そう、桐沢の文字を確実に殺していたはずだ。
だが、事態は獅子女の思惑とは全く異なる方へと動きつつある。
「おにーさん!?」
琴葉の声が聞こえ、目を開く。 映った光景は下水の天井だ。 そこで改めて、自分は殴られ倒れたのだと認識した。
「……誇大妄想、妄想を現実に変える文字か」
桐沢の文字、それは誇大妄想だ。 自らがした妄想を現実へと変換させる文字、つまり桐沢はその文字を使い、獅子女の生殺与奪を消し去り、攻撃を加えた。 そう解釈するのが妥当なところだろう。
「評価を変えてやるよ妄想男。 お前は殺す、ここで殺す」
言い、立ち上がる。 口元から流れる血を袖で拭い、口内に溜まった血を吐き出す。 今の一撃で仕留め切れなかったのは失敗だと、そのように獅子女は思う。
「やれるもんならやってみろ……! 行くぞッ!!」
既に桐沢から恐怖心は消えている。 前回会ったときから何かがあったのか、それは先ほど口にしていた櫻井という者の死が切っ掛けか。 いずれにせよ、獅子女から見た桐沢宗馬は、すくなくとも最早ただの高校生ではない。
そこに明確に存在する敵として、認識する。 戦うべき相手として、排除する要素の一つとしてではなく、そこに立ち塞がる相手として認識する。
「馬鹿正直に前からか。 言っておくけど、状況は五分だぞ」
「っ!」
次に表情を変えたのは桐沢だ。 桐沢は真正面から距離を詰め、先と同様獅子女の顔を狙って一撃を放つものの、それは獅子女の右手によって阻止される。 傍目から見れば単純に獅子女が攻撃を防いだに過ぎないそれは、桐沢にとって信じ難いものだ。
自らの文字を使い、妄想を使い、獅子女の顔を再度殴り飛ばす状況だったはず。 しかし、獅子女は何事もないようにその攻撃を防いだ。 龍宮寺の氷壁さえも打ち砕き、距離という概念すら無視し、予定調和となる妄想の一撃を容易く防いだのだ。
「俺もできることは一緒ってことだ」
そして、獅子女は蹴りを放つ。 咄嗟のことに桐沢の妄想は追い付かず、その蹴りを防ぐことは叶わない。
「あぐっ……!」
「隙をあんま見せんなよ、死ぬぞ」
蹴りを喰らったことにより、桐沢に大きな隙が生まれる。 そこを逃す獅子女ではなく、腹部を抑え前のめりになった桐沢の首を狙い、右手を振り上げた。
「そっくりそのままお返しします……!」
「ッ……と、ああ、そういやお前も居たっけか」
突如、横からの一撃。 頭部を狙った鋭い蹴りを放ったのは東雲だ。 このまま桐沢に攻撃を加えれば、その蹴りをまともに喰らい兼ねない、その判断から攻撃を防御へと転じさせた。
軽くはない蹴りは、獅子女の右腕を軋ませる。 東雲の方はただの人間であるものの、甘く見ることはできないだろう。 今現在、桐沢の妄想により生殺与奪にかなりの制限がかかっている。 本来の半分も使えていない、それが正直なところだ。
が、それは桐沢も同様。 獅子女の生殺与奪は桐沢の誇大妄想を殺し、それに対し桐沢の誇大妄想は獅子女の生殺与奪を消し去っている。 お互いの文字が打ち消しあう、どれほど文字を無力化できるか、どれほど自身の文字を扱い切れるか、それが雌雄を決すると言っても過言ではない。
「二対一って随分俺も買い被られたもんだな」
「あなたにも仲間が居るではないですか」
「あいつは戦わないよ。 けれど必要になるから連れてきた……って今は関係ない話だな。 東雲って言ったっけ、あんた俺の前に立つってことは意味分かるよな?」
左足での蹴り。 お返しと言わんばかりに頭部目掛け放った蹴りは、吸い込まれるように東雲の頭へ向かっていく。 東雲はそれに反応したが、その速度に対応できるほど体調は万全ではない。
「東雲には手を出させねえぞ……!」
「……へえ」
が、その蹴りは桐沢が受け止めることによって無力と化した。 先ほどもだ、先ほども桐沢は獅子女の予想を上回る形で、目論見を外しに掛かっている。
一番最初の攻撃。 一見すれば桐沢の頭を掴み、壁へと投げた獅子女の行動であったが、それは違う。 獅子女はまず、どちらかと言えば強い東雲を狙い、動いたのだ。 だが、その間に割って入ったのが桐沢であり、一瞬ではあるものの獅子女の速度を上回ってきた。 それは今もそうだ、桐沢宗馬は強くなり続けている。
「そうか、そういうことか」
獅子女は考え、思い至る。 桐沢宗馬が強くなり続ける理由、その根本的なものに。
人を守るため、己の意思を貫くため、そういった類のものがあるとき、桐沢の妄想は果てしない強さを持つ。 その妄想がどれほど明確に描けるか、どれほど現実へ変えさせる意思があるか、それによって桐沢はどこまでも強くなり得る。
「面白いな、本当に面白い。 その力でどれだけ抗えるかやってみろよ、俺が全部叩き潰してやる」
「抗うんじゃねぇ、護るんだ。 俺は俺が護りたいもののために戦う、護りきれなかったもののためにも、俺が強くなって全部ひっくるめて護り抜いてやんだよ……ッ!!」
「護るためね、悪くはない考えだ。 けど、今のお前には致命的な弱点になるってわけだ」
獅子女は言うと、笑う。 そして、続けた。
「琴葉には戦闘能力がない、それにあいつはただ俺に助けられたから俺の仲間になっただけで、あいつの夢はまた家族で暮らしたいっていう平穏なものだ」
「……いきなり何を」
「変わらないってことだよ、平和で平穏でなんでもない世界を望むなんでもない奴ってこと。 それ以外に意味なんてないさ。 それでお前らはそれを聞いた、俺の言ってることが嘘じゃないことの証明は、あいつの顔を見れば分かるだろ? ってわけで、遠慮なくやらせてもらおう」
獅子女は言い放ち、地を蹴る。 速度を早め、拳を振り上げ振り下ろす。
その標的は――――――――東雲由々。
「ッぁ……!」
「口にしたことは果たせよ? 精々頑張って護って見せろ、妄想男」
その拳を受け止めるのは、桐沢だ。 だが、無理な体勢からの防御は確実に桐沢にダメージを蓄積させる。 標的が自分であれば見て防ぐことは容易い……が、それが東雲に対してとなると、そう上手くはいかない。
「……そういうことですか。 どこまで卑劣なのですか、あなたはッ!!」
「どこまでも。 勘違いしてんのか知らないけどさ、勝つってのはそういうことだ」
戦いにおいて、弱者から狙われるのは当然の摂理とも言える。 今この状況において、獅子女が狙うべきは確実に力で劣っている東雲の方だ。 そうなれば当然、桐沢たちの狙いは獅子女ではなく琴葉へとなる。
「……」
しかし――――――――しかし、それは桐沢、及び東雲の意思では困難を極める。 獅子女が先ほど言った言葉は本当だ、心配そうな顔付きで獅子女を見ている琴葉を見れば、そう思う他ない。
ならば、琴葉の夢も想いも、自分らとそう変わりはしない。 平穏な世界を願い、平和な世界を夢に見る。 そうであるなら、そうであってしまうなら……二人に琴葉を攻撃するという選択肢は、選べない。 選べるはずがない。
それをしてしまえば、自らの信じる道を違えることになる。 人権維持機構が志し、追い縋る夢を投げることになる。 それを見抜いた獅子女は、その策に出たのだ。
「お前らは何もかもが中途半端だ。 今のままで人間と感染者が仲良しこよしが出来ると本気で思ってんのか? 何もかもを護り抜けると、何も捨てずに何も切り離さずに戦い抜けると、常識と正義感で勝てると本気で思ってんのか? もしそうなら、お前らは――――――――物語の奴隷にすぎねえよ」
「てめぇほどの力があれば、それはできるだろ……っ! 思い通りに全部護って、思い通りに事を進めて……! なのにてめぇは、人を殺すことしか考えてないッ!!」
獅子女の攻撃を防ぎ、桐沢は言う。 その言葉を聞き、一旦獅子女は距離を取って口を開く。
「さっきも言ったろ、俺を買い被りすぎんなって。 俺はそんな善意なんて、とうの昔に捨てている」
悪。 目の前に存在する獅子女結城という男は、絶対的な悪だ。 勝つためであればどのようなことでも厭わない、どのような形でも構わない。 桐沢、そして東雲の予想は大方当たっていたとは言えよう。 獅子女結城という男は、自身の力に絶対の自信があるというものだ。
だが、勘違いをしていた。 自身の力を信じていることは間違いない。 しかし、そうであっても獅子女は一切の手を抜くことはしない。 確実に、着実に勝利のためであれば手段を厭わない男だ。 地面を這い蹲ってでも、泥を飲もうとも、その体が壊れようとも、絶対的な勝利を手繰り寄せる信念を持っている。 これほど厄介な相手だということは、二人が考えもしなかったことだ。
「クソが……! 普通悪役強キャラは油断慢心が付き物だろうが!! 弱点とかねーのかよお前はッ!!」
「あるよ。 俺は俺より強い奴に弱い」
「んな当たり前のこと聞いてねえし!?」
されどそれは事実である。 獅子女に勝つ方法は、至極単純で彼より強ければそれで終わりだ。 彼の考え、文字、力。 それら全てを上回ることができれば、勝つことは不可能ではない。
「要するに」
そこで口を開いたのは東雲だ。 淡々と、その顔は若干強張っているものの、声の調子はいつも通りに。
「……要するに、わたしが宗馬くんの弱点でなくなればいい、そういうことですね。 宗馬くん、十分でケリを付けましょう」
「それしかなさそうだな……!」
東雲は首に巻いていたスカーフで、口元を覆う。 雰囲気が変わった、気配が変わった、何かをしようとしていると、獅子女は若干警戒する。
「……あ?」
しかし、それよりも違和感が起きた。 前方に注意を完全に引き寄せられており、獅子女は自らの足を掴んだモノをようやく今になり、認識する。
「あ、う、う、あぁあぁ」
ソレは、まるでゾンビのような人間だ。 口からは唾液を垂れ流し、皮膚はところどころが腐り落ちている。 男と思われるが、その眼に生気は存在しない。
「なんだお前」
「う、あ、う」
その直後、獅子女の体は爆炎に包まれた。