屋根裏のフランチェスカ
古くさい文体、純和物しか書けないと思われていた時期があり、それに反論する為に書いた作品。
ゼンマイ仕掛けの目覚まし時計が屋根裏部屋に響いていた。ベッドがもぞもぞと動くと毛布から細い腕がひょっこりと現れた。そして、がしっと目覚まし時計を掴むと音が止まった。
毛布が蹴飛ばすように退けられるとくるりとした癖のあるブロンドの髪の少年が現れた。彼はまだ眠そうに目を擦りながら、部屋の三角窓の前に立つと開けた。太陽の日差しと冷たい秋の風が頬に感じられた。目を冷ますために頬を二回パンパンと叩いた。そして「よしっ」と言った。
木製のぎしぎしと鳴る階段を元気よく下りる。香ばしい小麦の焼く香りが一面に広がっていた。お腹の虫がぐぅと唸った。すぐにでも朝食が食べたかったが、我慢して顔を洗うことにした。
洗面台には木製のバケツが置いてあった。バケツには店の裏にある井戸から汲まれた水が入っていた。バケツを陶器製の洗面台に移す。水が弾いて飛沫が顔に付いた。冷たかった。顔を洗うと眠気が消えた。タオルで顔を拭くと、手が水の冷たさで悴んだ。もうすぐ冬がやって来るのだと体で実感した。
着替えるために屋根裏の自分の部屋に戻った。椅子に掛けていた白いシャツを着て、ベージュのパンツを履く。サスペンダーをパチンと付けた。最後に黄色のキャスケット帽を被る。食事を取ろうとした一階に脚を向ける。が、立ち止まって丸い小さなテーブルを見た。白黒の写真が入ったフォトフレームが置いてあった。
「今日も一日、楽しんできます。お母さん」
一階に下りて店に顔を出す。この家ではパン屋を営んでいた。まだ七時というのに大勢のお客さんで賑わっていた。店には豪快なエミリアの声が聞こえた。少年はお客さんの邪魔にならないようにこっそりとエミリアに近づいた。
「お早う御座います、エミリア叔母さん」
「フランチェスカ、もう起きたのかい?」エミリアはお客さんにお釣りを渡しながら微笑んだ。「今日もモンブラン新聞社の仕事だろ。朝御飯が出来ているからしっかり食べていくんだよ。お弁当も出来ているから忘れるんじゃないよ」
フランチェスカは元気よく「分かりました」と答えた。店の奥でパンを焼く石窯を睨んでいるマルコが横目で見た。顔が石窯の火の熱で真っ赤になっていた。一見怖い印象を持たれるマルコだったが、口元を上げて言葉を出さすに朝の挨拶をした。
エミリアが言ったとおり、キッチンのテーブルにはカリカリに焼かれたベーコンエッグ、レタスのサラダ、そしてバターロールとバスケットに入ったお弁当が置かれていた。フランチェスかはバターロールをフォークで切るとベーコンエッグとレタスを挟んだ。そして口いっぱいに頬張った。出来たてのパンは最高だった。
朝食を食べ終わるとバスケットを持って店の裏から家を出た。出たところには古びた自転車が置かれていた。籠にバスケットを載せるとサドルに跨がった。乗る度に脚の着く面積が増えている感じがした。大きくなっているとふと嬉しく感じられた。虹色を彷彿させる煉瓦畳みの街道をゆっくりと風を感じながら走った。
フランチェスカが向かっているのは地元のマイナー新聞社こと「モンブラン新聞社」だった。ここで新聞売りの仕事と活版印刷の活版を拾う仕事をしていた。まだ十三歳という若さだったが働いているには理由があった。御世話になっているエミリアやマルコに迷惑をかけさせない為だった。
母親であるヴェネディクトはフランチェスカが小さい頃に亡くなった。流行病だったという。その後は叔母であるエミリアの元に御世話になっていた。父親は生きているようだが、自称冒険家。今でも世界の何処かで帆を掲げて大陸を渡っていた。何時もエミリアは父親のことを話す際に、男としては最高だが、父親としては最低だと笑いながら話していた。
数台の蒸気機関を積んだ車がトトトと軽快なエンジン音を出しながら擦れ違う。むっとした蒸気と石炭の煤の香りが鼻を掠める。長いシルクハットを着た老年の紳士が杖を突きながら歩いていた。
「ウォーターマン先生、お早う御座います」自転車を止めた。
ウォーターマンは近くの中学校で教鞭を取っている教師だった。シルクハットを脱いでフランチェスカに頭を下げた。
「ほう、寒い時期になったというのにフランチェスカは相変わらず元気じゃのう」口元に蓄えた白い髭が動く。「今日も新聞売りの仕事かい?」
「はい」
「風邪をひかんようにな。仕事が休みだったら偶には学校に来なさい」
フランチェスカは簡単に挨拶を済ませると再び自転車を漕いだ。チリンとベルを鳴らして擦れ違う友人に挨拶をした。それがフランチェスカの日課だった。
暫くすると丘の頂上に出る。街が一望できる小高い丘。この坂道を下りるとモンブラン出版社が建っていた。脚を広げてペダルを漕がずに坂道を下りる。波打った煉瓦の街道でハンドルがガタガタと揺れ、風が一段と冷たく感じられた。
勢いを止める為に坂道の終盤にブレーキを掛けた。車輪にブレーキのゴムが当たって甲高い音が響いた。
モンブラン出版社の建物に前に着いた。少し黄ばんだ白い煉瓦造りの建物だった。入り口の前に自転車を止めると、籠に乗せたバスケットを持って建物内へと入った。ドアを開けるとカランと人を知らせる為の鉄製のベルがなった。
新聞社の内部には無数のロープが張り巡らされており、写真が干されていた。床には本棚には収まりきらない資料が積まれていた。フランチェスカは資料を踏まないように慎重に奥に行く。奥には電話やここ一ヶ月の新聞が積まれている大きな机があった。
「モンブランさん、お早う御座います」邪魔にならない場所にバスケットを置いた。「また徹夜ですか。今熱い珈琲を煎れますね」
机の前には割腹の良い中年の男性が座っていた。黒いパンツを吊り下げているサスペンダーが今にも弾け飛びそうなほどお腹が出ていた。この男性こそ、モンブラン出版社の社長である。ビスコ・モンブランだった。この会社の社員は三名しか居なかった。社長本人が記者兼カメラマンの仕事をしていた。
「うん、お早う。もうフランチェスカ君が来る時間なのか」大きな欠伸をした。「相変わらず元気だね」
フランチェスカは奥にある給湯室にいった。アルコールランプを取り出して燐寸で火を付けるとサイフォンの下に置いた。
「僕は元気なのが取り柄ですから」フランチェスカは給湯室から顔を出した。「もしかして朝御飯はまだですか?」
モンブランは机に顎を乗せながら「そうだよ。昨日のお昼から何も食べてない」と溜息混じりで呟いた。昨日は隣町の港で出港式が行われ、その取材に行っていた。本日の新聞のメインの記事だった。
「エミリア叔母さんのお弁当を少し分けてあげますね」給湯室から出てバスケットを取りに行った。
アルコールランプで温められたサイフォンの水が沸騰をし始めた。フランチェスカは横目で確認しながらバスケットを開けた。小さな水筒、白い紙に包まれたお弁当を入っていた。白い紙を開けると生ハムとチーズ、トマトが入った長いフランスパンだった。給湯室の引き出しからブレッドナイフを取り出すと半分に切った。そして白い皿に載せた。何時の間にか珈琲が出来ていた。サイフォンの火を止める。珈琲が良い香りが漂った。カップに注ぐとフランスパンと共にモンブランに持っていった。
「いいのかい?」目の前に出された食事を見つめていた。「これは君のお弁当ではないのかね?」
「エミリア叔母さんはいつも大きなお弁当を作ってくれるんです。だから、大丈夫ですよ」フランチェスカは屈託のない笑顔を作ってた。「それに大好きなエミリア叔母さんとマルコ叔父さんが作ったパンを美味しく食べて貰うと僕も嬉しいですから」
モンブランは「ではお言葉に甘えて」とパンを手にし齧り付いた。同時にトマトが口元から溢れる。慌てて机にあったハンカチを掴むと拭いた。
「この酸味がたまらないな」口元を拭きながらもモンブランは二カッとフランチェスカに微笑んだ。