表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/3

・第六章・『仮面剥奪~アノミーの舞踏~』


              *





・第六章・『仮面剥奪~アノミーの舞踏~』


 都心に位置し、線路交通の要衝でも在るメトロコミューンは今日も活況を呈していた。硝子張りの硬質な建造の内部には百貨店、カフェ、本屋、土産物屋等が混在し、電脳未来都市に於ける玄関としての責務を果たすだけの利便性、洗練された瀟洒な空間を提供している。

 そして種々雑多な人間達が行き交う雑踏の中、通学中である一介の大学生が、自動改札や切符自動販売機に隣接される無料充電装置コーナーへと何の気無しに赴いた。

 ヘッドギア端末は内蔵電池の独力でも悠に一ヶ月間は電力耐久を維持する。しかし政府機関が人民への事故防止や福祉性を徹底して追求した結果、政策の一環として交通機関の要衝へは無料充電装置コーナーが義務的に設置される事となったのだ。前時代で例えるなら路傍に点在する公衆電話や、要所で設置されている携帯電話の無料充電コーナーの様な物だろうか。

 青年は電車の到着時刻を見計らい、ヘッドギア端末の電池残量を満了にして置こうと充電端末の液晶操作パネルへ指を伸ばした。画面上では、公的機関の仕様らしく安心感を全面に押し出す様にと、制服姿で清潔感溢れるCGキャラクターの女性が登場する。

 架空の受付嬢は、懇切丁寧な説明と指示を恭しくも柔和な声音で流暢に紡いだ。

『ようこそいらっしゃいませ。インダーウェルトセイン無料充電端末装置を御利用頂き誠に有難う御座います……。充電方法の詳しい説明が必要な方はパネルの操作説明と言う項目を指でタッチして下さい……、その他説明が不要な方は、プラグを御自分のヘッドギア端末に接続して頂き、個人情報認証の間暫し御待ち下さい……』

 普段なら何事も無い日常の些末な所作に過ぎない筈なのだが、今日に限って青年は一種の違和感を覚えた。

(既に自分のヘッドギア端末と充電装置の端末は接続されている筈なのに、一向に認証作業も充電も開始されない様だが……? 本来なら物の数分と掛からない筈なのに、何故……)

 自身のヘッドギアの不具合か、それとも充電端末の故障か何かなのか? 画面上の受付嬢は姿勢を硬直させた侭、同内容の事務的な台詞をプログラム通り何度と無く反復している。その反復は、言葉の意味を理解せず人間の台詞だけを無感情に物真似する鸚鵡を彷彿とさせ、どこか滑稽なせいか益々青年の苛立ちを募らせた。

 所詮はデジタルの幻影か。青年は不測の事態に惑乱し、無闇矢鱈にパネル上へ表示されているボタン類を押し続けて見る。しかし、案の定端末は一向に無反応な侭だった。

「なあ、どうかしたのか?」

「まだ終わらないのか?」

 背後から誰何され焦燥感を募らせた侭振り向くと、後方では既に想像以上の人数が立ち並び長蛇の列を成していた。青年は困惑を隠さず、助け舟を求めようと後方の列に陳情する。

「す、すいません。でもこれ、幾等押しても動かなくて……。全然使えないんですよ」

 するとその返事を皮切りに、青年の両隣からも同様のやり取りが起き始めた。現在先頭として端末を使用している筈の者達が機械の不調を前に動揺し、痺れを切らした後続の者達から訝しんだ声を掛けられている。

「何をもたもたしているんだ?」

「後ろが痞えてんるだけどねえ、君」

 青年の横目に位置する先頭のビジネスマンも矢張り同様で、縋る様に後列の者達へと申し開きを繰り返していた。

「私が悪いんじゃない。明らかに今、この機械がおかしいんだ。嘘だと思うなら先にやってみてくれ」

 その言を釈明と取ったのか、確認の為にと後続の大柄な男性が先頭のビジネスマンを押し退け、憮然とした態度の侭で機械に接触を試みる。そしてその一瞬の後、後方の人間達も全体の異状を察知しその場でざわめき立つ……。高度な科学技術力を誇る電脳未来都市インダーウェルトセインの公衆端末が、一斉に接触障害を発生させる等前代未聞の事態だ。

 この侭一般市民が機械を前に試行錯誤しても、一向に事態は収拾しまい。右往左往する後列者達を他所に、青年は駅員へ報告しようとメトロプラザを小走りに行き始める。

青年は駆け行き現場から遠退きながらも、混雑と騒乱の声は募る一方だと背後から感じ取っていた。彼は段々と、丸で全ての異変が自分自身の過失かの様な錯覚を覚え、灰を嘗めた様な後味の悪い原罪意識すら抱き始めるのだった……。

―しかしその刹那、彼は不意に一つの憶測が火花の様に脳裏で着火された事を感じ、思わず立ち止まる。そして自身のその想像に衝撃を受け、反射的に現場へと頭を振り返った。

呆然自失と立ち尽くす中で、騒動の渦中にある現場の怒号も、どこか空々しい調子で青年の耳を通り過ぎて行く……。青年はあくまで、偶然異常事態の現場へ居合わせたに過ぎない一介の大学生だった。しかし彼の胸中で蟠る想像と疑念は、警察機関や各種メディアでさえ未だ察知していない事実と、次なる予兆の核心を捉えていた。



(最近のデジタルマスカレード通り魔事件……。例の事件とこの騒ぎにも、もしや何か関係が有るのでは……!?)




               *




 外界の漫然とした小春日和を他所に、政府中枢機関の一翼を担う都庁内部は未曾有の恐慌状態へ陥っていた。


・障害発生のお知らせ・

 平素依りインダーウェルトセイン無料充電端末装置を御利用頂き、誠に有難う御座います。

本日、都心部メトロコミューン内にて提供中の充電端末機全体に接触障害が発生しており、ヘッドギア端末の充電処置が不可能な状態に陥っております……。原因に付きましては現在早急な調査を行っております。御利用中のお客様には大変ご迷惑をお掛けした事を、深く御詫び申し上げます。本障害の詳細に関しましては、以下の頁を御確認下さい。

※ 現在、複数の方法にて正常な状態へ復旧出来る様作業を続行中です。

※ 作業の状況に由り、復旧迄の予測等が変わる事があります。状況に付いては随時、当障害情報にてお知らせ致します。


<記>

・発生日時 : ****年**月**日08時30分頃 ~ (継続中)

・影響範囲 : 都心メトロコミューンを中心とし、都市全体に波及。

・作業内容 : 緊急メンテナンスの際に動作不具合が確認された為、現在復旧作業中です。

・補足事項 :外出時に於ける当機での充電処置は当分の間見込めない為、現状はお客様各自、政府から配布された自宅用充電装置の使用、携帯性簡易充電装置(別売り)の購買、御利用を計画的にお願い致します。


・ 追記・

11:20

原因に付きましては現在調査を行っております。復旧の目処が立ちましたら、追って御報告致します。

13:15

ドメイン設定の[設定変更]に付いて、修正を行いました。設定変更時のエラーに付いては解消されております。

16:20

現在復旧に向けて作業を行っております。

20:00

復旧作業の目処が立たない為、代替機の準備を行っております。

00:00

障害はディスクに起因する物で、現在データ及びシステムの復旧作業を試みております。

08:55

障害のあったハードウェアからのデータ読み出し及び再構築に時間が掛かっております。この為当初、正午復旧としていましたが予定を大きく 過ぎる事態となりました。作業完了には現時点の進捗状況から20時間程度掛かると予測しており、明朝に復旧可能な様に努めています。

20:40

引き続き作業を行っております。長時間に渡り、ご迷惑をお掛けしています。

※現在、複数の方法にて元の状態へ復旧出来る様作業を続けております。

 ※作業の状況に由り、復旧迄の予測等が変わる事があります。

 ※状況に付いては、随時当障害情報にてお知らせ致します。

                             以上



 所謂『デジタルマスカレード通り魔事件』が社会現象化した近頃では市井の防犯意識が鋭敏になり、事件責任の矛先として政府への指弾は例年に無い程の集中傾向を提示している。そんな苦難の渦中、都心部の交通機関を端緒に連鎖した、原因不明の大規模な公共装置の切断状態……。類例を見ない不具合を発生させ、尚且つ政府は又しても対応処理が遅延してしまっている。復旧作業の目処が立っていない現状を前に、市民は政府へ懐疑的な視線を向け始めていた。

『インダーウェルトセインは世界を牽引する最先端の電脳都市と謳われているのではなかったのか? 最高水準の政治制度、社会福祉制度、高度経済、高度科学技術、犯罪発生率も極少たる治安性等……。何もかもが人民統制を目的とした、政府の甘言に過ぎなかったのか?』

 最近の失態の連続から、万人に取っての理想郷が砂上の楼閣として崩落し始めている……。この侭では国民の政府支持率は低下する一方の筈だ。都庁内部の防災センターは現在一連の対応に追われ、庁員達は一同息急き切って職場の内外を駆けずり回っていた。市民から殺到する苦情処理、各所への陳謝、端末の復旧作業と……。嘗て経験の無い修羅場に直面し、誰もが動揺と疲弊の気色を隠せなかった。

―そんな紛糾している防災センターの手広な一室で、殊更に沈痛な面持ちで鎮座する上役が一人。この防災センター部を取り仕切る室長その人だった。防災センター室長も執務上、本来は泰然とした姿勢を崩す訳には行かない。しかし事件の連続から度重なる叱責に、彼は最早耐え兼ねている様子だった。警察庁長官ロイトフにも防衛意識や対策の欠如へ批判は集中しているが、当然防災管理を旨とするこの部庁にも矛先は向けられる。各所からの指弾及び下位からの突き上げ、ロイトフの様な重鎮からの批難と完全な板挟みの状態にあり、室長は窒息寸前だった。

 そして降格や左遷、最悪の場合は解雇と云う未来予想図に気落ちし嘆息している最中、若輩の庁員が切羽詰った声を掛けて来た。

「室長、幾つかお話しが……! 整備管理部の調査から、今回のシステムダウンの原因は外部からの妨害工作にある様だとの報告が……!!」

 室長は目を剥く。

「機械上の不具合では無かったと? 具体的には何があったんだ?」 

「何者かのデータベース侵入、ウィルスの発信に由る物です。現在はウィルス解析とワクチンの作成を、全体を挙げての急務としています。犯人の正体も調査中ですが、個人情報の痕跡は未だ特定出来ていません……。しかし……」

 そう言い掛けると、利発そうな部下は次の言葉を濁した。言い淀む彼を前に、室長は二の句を継ぐ様に促す。

「他に何かあるのか?」

「―いえ、ここからは個人的憶測の範囲なのですが……。例の収束していない通り魔事件と、今回の障害には関連性が有るとしか思えないのです……。このインダーウェルトセインでは事件らしい事件等滅多に発生しません。ヘッドギアが全ての証拠記録になる事もあり、犯罪を行い難い社会なのは言う迄も無い。しかしここ最近通り魔事件発生以降から、不明瞭な異変が散発し始めている……。

 これは通り魔事件の主犯であるエス本人の仕業か、その関係者か、影響を受けた何者かの手に由るものか……。兎も角例の通り魔事件が全ての発端になっている、そんな気がしてならないのです……」




            *



   

 報告を終えた部下が戦場の如き現場へと舞い戻って行った後、室長は独り思索に耽っていた。

(―確かに部下の私見通り、ここ最近の情勢を鑑みると各個が無関係の事件とは思えない。今回の端末接触障害の一件にしてもそうだ。現代に於いてはヘッドギアの映像記録がその侭証拠として転化される為に、犯罪の発生自体が皆無に近い……。単なる愉快犯が突如出現する可能性は極めて低いのだ。犯行に及ぶなら、誰しも相当の覚悟が必要な筈だ。何か信念めいた強固な動機が無い限り、まず事は起こせまい……。

 時期からして、一連の事件は何かしらの因果関係に有ると言って良いだろう。これ等全てが逃亡中であるエス本人の仕業か、共謀者が存在するのか、エスに影響された信者の犯行なのか……。

兎も角少なくとも、件のエス本人を捕縛する事が出来れば実情の把握が可能な上、ここ最近の社会全体に満ちた不穏な空気感や波状的な犯罪は抑止出来るのではないか?)

―そしていつの間にか陽が傾き始めた頃、物思いに耽る室長を現実へ引き戻すかの様にヘッドギア内部へと電文が着信される。

 差出人や文面を見る迄も無く、緊急事態を告げる一報である事は瞬時に察知出来た。一般のメールとは異なる別件用の赤々しい装丁で、政府要人達へ一括配信された直属メールである事は明白なのだ。

「差出人:インダーウェルトセイン政府事務局

件名:各庁通達~緊急招集案内~


関係者各位


 インダーウェルトセイン政府由り緊急速報です。近頃の『デジタルマスカレード通り魔事件』から端を発し頻発する犯罪事件ですが、その被害の拡大は止まる事を知らず、更なる重大な不祥事が発生致しました。

-----------------------------------------------------

-----------------------------------------------------

-----------------------------------------------------

-----------------------------------------------------


 重篤な事態を前に、政府は各庁上役に限定した緊急招集を決定致しました。付きましては添付された資料、地図、ガイドナビゲーションを基に指定の場所へ速やかに御越し下さい。


場所:------------------------------------

-----------------------------------------


………………………………………………」


 室長は事件の詳細や指定された場所を読み進める内に、驚愕し声を失った。

(もう事件はここ迄加速し広範に波及し始めているのか……! 今直ぐ現場へ駆け付けなければならない……!! これは喫緊の事態だ……!!)




             *




 政府機関御用達である黒塗りされた高級車の一群が、『シュガーポッドシティセンター』の一角で鳴りを潜める様に停車している。昼下がり、食事時の為にビル内から吐き出された会社員達で街区は色めき立ち、俄かに雑踏の様相を呈し始めた。

 黒服で全身を固めた精悍な警護者達は、高級車の内外で寡黙に待機している。彼等は人出の増加に警戒心を一層研ぎ澄まし、周囲の動向を終始窺っている様子だった。

―この一帯は、硬質な外観が特徴的なオフィスと商業施設の複合ビルで形成されている都市の経済中心地だ。競合する様々な会社で犇いてはいるがそのどれもが一流企業の水準を誇るだけ有り、街区全体の雰囲気は歓楽街の様な猥雑とした熱気を孕む事は無い。寧ろ人工的に整備された故の冷感や、新緑に葺かれた様な涼感さえ漂っている。

 そしてそんな第一等の商業地区で、ロイトフを筆頭とする各界要人達は指定されたセンター内の工場区域へ既に集結を果たしていた。

 

 件の工場内―。要人達は全員が眼前の光景に呆気を取られ、延々と立ち尽くす侭だった。それは事前に緊急通達が為され、全員が到着する以前から想定されていた状況にせよだ。

 誰もが茫然自失とする中、やっとの事で一人が沈黙を破る様に恐る恐る口を開く。しかしそれは独白なのか、場に語り掛けているのか、誰へとも付かない自他の曖昧な調子だった。

「これは……、酷い有様ですな……」

 その当惑した台詞も、空虚な雰囲気の現場では空々しく響くのみ。各人は思い思いに視線を逸らし、聴くとも無しで終始無言を湛えていた。誰もが申し合わせた様に素気無い態度である事は無理もない。

―何しろ現在、彼等を取り巻く広大な工場施設の一面が、焼け散った無数の精密機械部品やヘッドギアの残骸で埋め尽くされているのだから……。

 社会基盤を担う為に日夜稼動していたヘッドギア生産工場内部は天災が襲撃して来た直後の如く無残に破壊し尽くされ、尚且つ大火事で炎上した様な生々しい焦げ痕をも見せていた……。本来24時間体制で一寸の誤差も無く自動的に製造、供給されて行くベルトコンベアの工程は全てが停止され、役割を喪失した機器類も物々しく半壊している。焼失前後の火煙は空気清浄装置等でとうに除去された様なので、有毒ガスに由る被害を蒙った者達は居ない様だが……。

 ヘッドギア生産工場内が壊滅状態に追いやられ機能を停止させられた現在では、周囲の虚無的な雰囲気が拭えない。それは、夜更けに閉店を迎える大規模な百貨店の様にどこか物悲しさをも漂わせている。日々栄華を誇るからこそ、閉鎖する時分には一層悲哀が増すかの様な心寂しさ、それに似ていた……。新品の製造機能を麻痺させられ頼みの綱で有る完成品の在庫迄が全壊された現状に、各界要人達は漸く我へ返り始めた。

「一体どうしてここ迄の犯行を許したんだっ!!」

「これもやはり、エスやその影響者達の仕業なのか……!? 工場内の機械の誤作動や不具合からの発火事故ではないのかね?」

 誰もが口々に怒号を発し息巻く中で、ロイトフは冷静に否定的見解を述べ彼等を神妙にさせた。

「……いや、不審火だ。工場内の全自動防災システムならば、発火監視カメラが設置されている筈だ。カメラは発火初期段階以前の高温熱ですら、火災発生位置と見做し検出出来る。そして位置情報を特定し、自動放水銃が照準を合わせ消火を開始するからな。

 つまり機械の不調から火災事故が発生したとしても、大事へ至る前に自動的に鎮火される筈なんだ。……ヘッドギアを破壊する理由を持つ者は誰か、議論する迄もあるまい。それも工場ごと焼き払おうとする様な大胆不敵な者等はな」

 ロイトフが淡々と述べた考察に、一同は息を呑んで絶句した。

「それでは、やはり……!!」

「―そう、この一件も、エスやその狂信者達の犯行と見てまず間違いなかろう」

 その冷厳な返答を受け、彼等は顔を見合わせ再度騒然とし始めた。ロイトフは周囲の動揺を他所に、首を向き直し今回の担当官に問う。

「しかし、検品する為の作業員位は駐在していなかったのか?」

 当該事件の青年担当官は、四方から刺す様な非難の視線が一身に集中した事を感じ、萎縮しながら返答した。

「はっ、全自動の生産工場である為に、就労者は少人数でして……。いつ、如何にしてここへ入り込み爆破工作を講じたのか等は、今以って捜査中の段階です……」

 青年担当官は見る影も無く憔悴し言いあぐねる。しかし明晰なロイトフはその言及を緩めない。

「各所に監視カメラや防災システムは設置されているだろう? 人的な警護体制も当然敷かれている筈だが……?」

 ロイトフは冷徹に適切な指摘を為して行く。彼は何も青年役人一人に対し全ての罪責を圧し付けるつもりも無く、相手をやり込めて憂さを晴らしたい訳でも無い。只鋭敏なロイトフは青年の態度を見て取り、彼の胸中に未だ何等かの秘匿がある事を嗅ぎ取ったからこそ、容赦無く鋭利な質問のメスを切り込んで行くのだった。

しかしロイトフからすれば詰問と云った意図では無いものの、矢継ぎ早な質問の逐一は青年に取って後ろ暗さを抉ってしまう的確な指摘の様だった。彼は殊更に恐縮し言い淀む。

 そして無益な沈黙が場を支配して数瞬。出口の無い無言にも業を煮やさず、敢えて無感情を崩さぬ侭対峙し続けるロイトフに観念したのか、青年は遂に閉ざしていた重い口を開いた。

「……実は、当方としましても不可解な事態が起きてまして……」

 漸く吐き出された告白の一節に、全員の注目がより一層青年へと集中する。

「現場で無人の時間帯が全体を占めるにしても、勿論監視カメラシステムは24時間体制で稼動しています。更に、棟内を定期巡回する警備員達も一定数の雇用はされている。

 しかし……。検問所に常駐する者や施設内を巡回する者達にも、誰一人として侵入者を目にした記憶が無いと言うんです。誰にも気配を悟られずどうやって犯人が侵入したのか、爆発発生迄、何故誰も非常時だと気付く事も無かったのか……!? スプリンクラー等の自動消炎装置が作動しなければ、それこそ施設全体が炎上してしまっていたと思うのですが……。

 そして最も不可解なのが、各人の記憶に無いだけに留まらず、デジタルな外部記録にも一切痕跡が残っていない事なんです……!!人間が侵入者に気付かなかった、と言うのならまだしも、各所監視カメラの映像記録からすら何も発見されない……。カメラは最大350℃の全方位型で、死角は有りません。当日の記録を幾ら巻き戻し精査しても、犯行映像が微塵も検出されず、普段の日常的な作業風景が淡々と流されるばかりで……。じゃあいつ襲撃されたのか?丸で犯行現場の時間や場所だけを切り取られたみたいで、我々も何かの手品を見せられている様な気分でして……」

 青年の狐に抓まれた様だと云う告白に、周囲の要人達も動揺の気色を隠せない。中には、『透明人間でも出現したと言うのかね』等と精一杯の揶揄を振り絞る者も見受けられたが、その当人も事態を把握出来ず虚勢を張っているに過ぎない事は一目瞭然だった。そして暫くの間、現場はざわめき立ち収拾の付かない状態へと陥る……。取り留めの無い雑談が場を流れ始めたが、各人の反応を半ば無視するかの様に、ロイトフだけは只一人沈黙を保っていた。

(記憶にも記録にも残ってない……?)

(現場の時間や場所だけを切り取られた様に……?)

(だとすると若しや……!)

 ロイトフは自問自答から得心を得たと云った風情で沈思を解き、周囲の中心に居直った。青年役人へ対峙すると、ロイトフは謎を仄めかす様な調子でこう語り掛ける。そしてそれは同時に、自身だけが真相を掴んだかの様な確信に満ちた口調でもあった。

「……君は、何かの手品を見せられている様だと言ったな? しかし手品はどんなに不思議でも魔法では無い、確実に種は隠されている物だ。今回の一件も不可解な様でいて、巧妙な仕掛けがトリックとして用いられている筈だ。私の思い違いでなければな……!」




            *



 

「ショーハンペウアーズ病院へ急行しろだって?」

 現代の乗り物は、本人がハンドルを握らずとも完全自動運転が可能となっている。一切の操作を全自動モードに切り替え高速道路を走行する車中、『ヘッドギア生産工場爆破事件』担当官である青年役人は思わぬ指示に訝しげな声を上げた。彼は今回の事件の重責から降格や解雇すら覚悟し恐々としていたものだが、幸運な事にそれ以上のお咎めは無い様子だった。しかし首の皮一枚繋がったと安堵していたのも束の間、一見脈絡の無い仕事が上層部から申し付けられた様だ。

 彼は自身のヘッドギア中継通信画面に映る相手を仰々しく見据える。相手の肥満体型な男は絶えず菓子やジャンクフードの類をヘッドギア越しから頬張っているらしい。漏れ聞こえる舌鼓や嚥下音が直接的に鼓膜へ響き、不快さから思わず顔を顰めたくなる。通信画面上から察するに、相手の座する場所はカーマ警察内部の一角、『電脳犯罪課特別対策室』の一部屋だろう。自動走行される車中からも今日は心地良い日和と感じられ、相手の居場所である警察庁も左程遠距離と言う事は無い。天候や気温に大差は無い筈なのだが……。

 それにも関わらず相手の部屋のブラインドは全面的に垂れ下げられ、陽射しを遮断している様子が画面越しからも見受けられる。蛍光灯一つ点けられず薄暗い室内は、手広な部屋ではあるものの無造作に放置された専門雑誌書籍類、ジャンクフードの食べ欠片、趣味性に富んだフィギュア等が山積し雑然とした様相を呈していた。明光を発する様な光源は、無数に点在する機械類のディスプレイ画面からのみ。触手の如く複雑に絡み合うケーブル、コード類はそれ等部屋の調度品や床迄を侵食し、足の踏み場も無い有様だ。

 相手の専門家、通称『サニー』は、青年の焦燥に満ちた態度を嘗め回す様に見遣り、敢えて一拍置いて思わせ振りに説明を始める。青年は毒吐きたくなる衝動を、胸中で必死に抑制していた。

(何て陰気な部屋、何て陰険な男なんだ……。自分が電脳犯罪対策の専門家だからと、頭脳労働担当では無い職員はそれだけで見下し優越感に浸ってやがる……! しかも俺や関係者達が、事件の収拾を付けられず叱責されている事態も高見の見物で嘲笑っている。そして今もこうして、わざと話しを謎めかせ俺を翻弄させる事で悦に入ってるんだ、畜生め……!!)

 長年換気や掃除が施されてないと見て取れる淀んだ空気のその部屋だが、青年に取ってはその主こそが一番の汚物にすら感じられた。相手の専門家が偏屈で社交性が欠落している男だとは、庁内でも既に浸透した常識だった。故にこうして通信連絡を受信した瞬間から一種予想はしていたが、彼の醜悪振りは目に余るものだった。

(元々の彼の出自はハッカー犯罪者だったと言うのだから、仕方ないのか……?)

―そう、犯罪発生率が僅少なこの社会でも、更に稀有な電脳犯罪者として摘発された過去が彼には有る。様々なネットワークを経由させた政府機構への無断侵入、機密情報の取得と、彼の犯行は重篤を極めていた。しかし一旦検挙されたものの、そのハッカーとしての卓抜した有能性を買われ、警察業務へ協力する事を交換条件として秘密裏に免罪されたと言う。透明性在る治世を徹底している政府からすると、極めて異例な措置だった。

 そして現在では鳴りを潜め表面上は警察内部で従事しているが、彼が改心し心根迄入れ替わったとは到底思えない。優秀な能力者である一点以外は、いつ飼い主の手を噛み、後ろ足で砂を掛けて来るかも判らない人材だ。飼い慣らせるか如何か、味方とも断言し切れない相手の尊大な態度に青年は益々怒気を発散し始めるが、相手は一向に意に介さず朗々と説明を紡ぐ。

「まず、学の無い君達みたいなのにも解かる様に、『ヘッドギア生産工場爆破事件』の犯行手口を説明しなくてはねえー。まあ面倒だし時間が無いから手短に……。一回しか言わないからちゃんと聴いててよ? この画面を観て……」

 ディスプレイ画面には、複数の現場映像が同時に拡大して映写される。青年に取っては目を皿にして何度となく見返した映像資料だ。どれだけ巻き戻し再生した所で、何ら変哲も無い当時の仕事風景しか確認出来なかった。何の手掛かりも発見されなかった資料価値の低い物を、今更提示して来てどうするつもりなのか?

 サニーはこちらの疑心暗鬼な面持ちこそ待ち望んでいたかの様に、嬉々として語り始めた。

「―全ては映像の上書きだったんだ―。

 説明せずとも、全人民に支給されているヘッドギア端末には、装着者本人の主観視点の光景がリアルタイムに記録、保存されて行く機能性が備わっている。その映像記録は事件の際、証拠として転化も可能となる訳だ。このヘッドギアの映像機能こそが、犯罪発生への絶対的抑止力として働いているってのは子供でも理解出来る事だけど……。犯人は、その不文律の盲点を突き逆利用したんだ。不文律だからこそ誰も疑心を抱かない、誰も手を出さないと言う普遍的心理を突いてね。

 犯人はまず一部のサーバーへ無断侵入し、現場の作業員や警備員達の主観視点映像を取得した。工場は、生産効率性を重視する為に殆ど全てが機械で稼動し、自動的に運営されている。作業員や警備員なんてのは、有事以外は建前として用いられる書き割りみたいな存在なんだよ。只事務的に、定型となった退屈な業務を日夜こなすだけなんだ。例えば昨夜の食事を思い出せ、と言われても案外記憶に残ってないのと同様で、彼等も毎日の決まり切った反復作業なんてのを逐一憶えてはいない。作業員は細々とした雑務を黙々とこなす、警備員は施設内を定時に定例の進路で淡々と巡回する……。そんな平凡な毎日だとすると、本人達ですら、昨日と今日の映像を観せられてもその区別を付け難いかも知れない……。

―そう、これが普遍的心理の盲点だったんだ。誰もが暇を飽かし、問題が発生するなんて露程にも想像してはいない。『デジタルマスカレード通り魔事件』は世間に取って衝撃的だったが、その影響から他の事件が連鎖している事もまだ通達されていなかったらしい。誰も、遂には工場迄が標的にされるとは夢にも思ってなかったんだろうな。―犯人は犯行当日の、施設内へ侵入する瞬間や工作処理し逃走する極く短時間の間、ダミー映像を労働者達のヘッドギア内部の視界に被せたんだ。彼等のここ最近の仕事風景の主観映像。それを編集した物を当日、彼等のヘッドギア内部で映写し、現実の視界を上書きする様にね。映像は使い易い普遍的な場面を継ぎ接ぎし、過去の会話部分や物音の様な音声は削除して、<今日>と言う日の状況を上手く演出したんだろう。

 工場は自動的に運営され、基本的に無人に近い時間帯が一日の大半を占める。犯人は当然その時間帯を狙い、なるべく短時間で工作処理を完了させた事だろう。労働者達は合成された擬似映像を見せ付けられているとは頭にも無いし、錯視は極く短時間の話しに過ぎない。日々変化の乏しい作業風景な為に、油断し切っている少人数の労働者達から違和感を訴える者は皆無だった。視覚を奪われ一種偽物の映像を上塗りする様に見せ付けられているが、本人達はそれが現在の、現実の自分の視界だと信じて疑わない。

 労働者達は今日と言う日に存在しながら、過去の映像をなぞる様にして行動し日常生活を送った。―現在に生きながら、過去の場へ住まわされたんだ。……そして問題無く一日の業務は終了した、事になった。果たして犯人は政府関連の施設でもある生産工場へ堂々と入門し、妨害工作を図った後には、また悠々と正面から立ち去って行った……。

 監視カメラも同様の手口だ。24時間体制で稼動する監視カメラだが、実際に監視者が気付かなければ殆どその意味は無い。映像記録は外部端末装置に日々蓄積されて行く訳だが、彼等はご丁寧にも、サーバーごともう一体のコピーを製造した様なんだよ。そこから無人の内部風景や労働者達の所作に合わせた編集映像を用意して置き、犯行当日に遠隔地コピーサーバーを本体サーバーと挿げ替えデータベースに繋げる。そして矢張り、<今日>と言うリアルタイムの物に見せ掛けて編集映像を同時的に流す……。この両面からの工作で、人間の記憶にもデジタルの記録にも犯罪映像は残らない。

 こうして、丸で透明人間が現場に侵入したか、一部の時間や場所だけ別次元に切り取られたのか、と錯覚させられる様な手品は成功した訳だ。巧妙な手口だったよ。データベース上では、個人情報の足跡なんかは一切発見出来なかった。映像を途中で差し替える行為の瞬間も絶妙で、微細にでも間断や継ぎ接ぎは垣間見えない。丸で旧来の、映画フィルムを繋ぎ合わせる熟練した職人の様に……。工場内の大半の時間帯が無人で占められると言う特徴は、実際の犯行へ及び易く、尚且つ編集映像が疑惑を持たれない事にも一役買っていたのだろう。無人の風景が多ければ、変化も無く只機械が反復作業をしているのみだしね。

 しかし、僕は不審に思った。機械の誤作動や不調から火事が発生した訳ではない。確実に、人為的に爆弾を設置された形跡があると鑑識から報告されたんだ。爆破跡には、工場の製品開発とは無関係な燃料成分や乾電池の破片等が発見されたからね。そこで矢張り、人為的な、故意に因る時限爆破の疑いが濃厚になった。透明人間や幽霊等存在しないし、超常現象世界の住人ならば犯行理由を持たない。結局、どう考えても犯行動機を抱く者はエス本人やその共感者達しか有り得ないんだからね。必ず何かの種は有る筈だ……、と見据え直した。そしてロイトフ長官からの依頼もあり別角度から調査した所、案の定様々な齟齬が生じた。映像は上手く編集されてはいるが、解析後の蓋然性の低い結果から、矢張り改竄映像だと確信出来たんだ……。

―うちの研究開発室では、『人物追跡システム』と言う技術が開発されていてね……。

 そのシステムは簡単に説明すれば、一場面の映像からでも複数人それぞれの移動情報を自動抽出する事が可能な技術なんだ。まず追跡対象とする人物だけでなく、背景迄も含めた画像全体の領域を抽出する。そしてこの領域の形状や位置の時間的な変化を解析する事に由って、自動的に人物追跡が開始される。従来の様な人物の数理的モデルが不要な上、遮蔽物のせいで人物の形状が変化して見えた場合でも、問題なく追跡出来る……。本来の開発目的は、大型店舗なんかの大勢の人間でごった返す場所で、通行の流れを自動的に検知し集計する機構の構築にあったんだ。今回は、空間利用の安全性と効率を向上させる為のこのソフトが、思わぬ所で役に立ったって訳だね」

 そうして自分の弁舌に酩酊した調子で、サニーはディスプレイ画面の結果を再拡大し表示して来る。無機質なインターフェイス画面には、複雑多岐に渡る項目と数理結果が表示されていた。専門的なグラフ結果が膨大な情報量で全体像を占める中、片隅には当時の現場映像と過去の内部映像の一群が列をなして再生されている。

 その分割された画面群では、一見どれも同様の内容が映写され続けている様に見受けられた。しかし専門家たる彼の説明通り、個々の映像に由って時間の経過や人間の動きには微妙な不一致が出始めている様子だった。何よりその項目の下には、赤字で煌々と輝く文字列が厳然たる異状を主張しているのだ。

―それは基になる映像素材と各自の素材を照合させた場合の、不適合を示す誤差数値表示だった……。

(確かに一つ一つの映像は日常的な作業風景として酷似してはいるが、全く同じ映像を並べて流している訳ではない……。こんな風に仕組まれていたのか……!!)。

「ねっ? 各種監視カメラの場所、時間帯を総合的に分析すると、今日と言う一日なのに形状や領域変化が微妙にずれたりしてるでしょ? 人間が進行すると思われる自然な軌跡を動線と称するんだけど、この映像の場合、位置検出システムからすると滞留比率や位置行動把握に不可解な解析結果が算出される。動線距離や指定した移動体の経路、到達時刻表示を視覚化すると更に解かり易い。警備員の時間滞在や歩行経路を確認すると、始点から終点の追尾に齟齬が生じる箇所も有る……。画像は処理し切れず、従来の数理モデルを導入して見ても明らかに可笑しい物理演算結果が出てるんだ。

 どれだけ上手く継ぎ接ぎしたりしても、空間運用の結果迄は誤魔化せないと言う事さ。犯人が、うちのソフトはほんの些細な身動ぎでも検出出来る程に高精度だって事を証明してくれた様な物だがね。

……<今日>は今日で別の日、新しい一日だから、どんなに作業的で反復に満ちた毎日でも昨日と全く同じ一日にはならない。まあ、全く同一な昨日の映像を流せば逆に感付かれ易い可能性も考えられるからこそ、犯人は<新しい今日>を演出する為にこうした編集が必要だった訳なんだろう。犯人がうちに有る様な予測技術迄も応用して映像を加工していたとしたら、真相の究明は更に遅れたかも知れないけどね……」

 青年は固唾を呑んでサニーの説明に聴き入っていたが、不意に我へと返った。

(究明は更に遅れたかも、だと……? 少し違うな。確かにこれ等の新技術は電脳犯罪課特別対策室の技術班が開発したんだろうし、今回の調査に貢献したかも知れない。しかし、まず犯行現場から犯人達の工作手法を推理し、大部分を的中させ、調査を迅速且つ適切に指示したのは誰だと思ってる? ロイトフ長官の洞察があればこそだったろうが……。あくまでも下請けに過ぎない元電脳犯罪者が、全てを自分の手柄の様に思い上がりやがって……)

 青年は、口幅ったい彼の器の底を見透かした心持ちになり、急速に相手への怒気や嫌悪感が冷めて行く事を実感した。彼は一線を引き、理性的に質問を乞う。

「ここ迄の理屈は良く解かったよ……。犯人は一時的に施設内の人間と監視カメラの視覚を奪い、仮想現実を視せている隙を狙って犯行を完遂したと。人間の目からすると一見では自然な映像も、解析して見れば理論に合ってないと言う事だろう?

 しかし、人物追跡システムと言ってもGPSでは無いんだ。あくまでも一部の空間に限定した移動情報予測技術の筈じゃないか? 何も地球の裏側に迄飛び立った相手の動向や、相手の今後の人生迄延々と予想出来る物ではないだろう?

 犯人の所在は特定出来たのか、何故今、例の病院に直行するべきなのか? 勿体付けないで説明してくれないか?」

 サニーは一瞬意外そうな反応を浮かべるも、余裕綽々と軽口を叩き続ける。

「おや、思ったより理解は早いね。そう、これだけでは犯人の正体や所在の特定迄は不可能だ。実は、ここからは並行していた別作業の成果なんだ。

―ネット上の犯罪予告検知ソフトウェアのね。

 このソフトは事件予防の為に、ネット上の不穏当な言語や議論を分析し情報を認知出来る。これは直接的な単語で無くとも、高精度の検索エンジンと検索結果の自動分類、関連キーワードの可視化機能を統合した検索システムに由って有害情報の検出が可能なんだ。

エスはヘッドギアを捨てた為に、GPSやネット上の情報と言う枷から放たれた。だから本人への電子的な追跡は難しいが……、実は氾濫しているエス関連の文書群から、彼へ協力したい意志を示唆する様な書き込みが発見されたんだ。情報規制され始めたと言っても今だエスに関する話題は溢れ返っているし、彼への賛同を表明する様な信者の書き込みは後を絶たない。

 ―そして、その中でもどこか異質で、その他大勢と違い真摯さが伝わる様な毅然とした調子で『俺はエスを助けに行く』と言う一文を書き残して行った者が居る。

 解析して行った結果、そいつは過去の僕の様に珍しいハッカーなのではないか、と推測されて来たんだ。一連のテロ染みた事件を含め、その男が実際にエスへ接触を図り既に協力している可能性は高い。

 機動隊がエスを一旦捕獲寸前迄追い詰めた一件は知ってるよね?しかしその寸前の所で、丁度出現した何者かが妨害工作を謀り逃走の幇助をしたと言う。エスの逃走経路は地下下水処理場だった。偶然第三者が遭遇する様な場所じゃあないよね。そして男は、下水処理場の機械扉を開いたり、機動隊の特殊装備を逆手に取る様な武器を駆使して来たと言う……。

 これは、どう考えても事前の下調べが無ければ起こせない行動だろう。それも、そいつは警察や行政機関の機密情報迄も取得したと見える。その気になれば僕に取っては簡単な作業だけど、まあ僕から見てもそいつは中々のタマじゃないかな。

―そして男の個人情報、過去の主観映像記録等は警察権限で照合する事が出来たが、それがどうにも怪しいんだ。

 特に最近の事件前後の生活は、矢張り擬似映像で上書きされていると思う。自分の過去の生活映像は勿論、親しい人間の視覚や有り触れた既存の映像を素材として、様々な合成と編集を加えているのではないかと僕達は推測している。

……しかしその男はヘッドギアを脱ぎ捨てる度胸迄は無いのか、GPS情報だけは取得出来たんだよ。

 情報からすると、彼の現在地は病院……。相手の目的は現地へ到着してみないと当然解からないが……。何かで病気や怪我を負ったか、病院で潜伏し何か事を起こそうとしているか。エス本人ではないが確実に重要人物と目される男なので、君に直行して欲しい、と言う事なんだ。既に近隣の警察隊もパトカーで出向している。出来ればここで手柄を立てて、名誉挽回すると良い。相手は一筋縄で行く相手ではないから、君ではどこ迄やれるか分からんがな」

 相手は逐一棘のある一言を付け加えないと気が済まない様な、口さがない性分らしい。しかし青年の胸中はそんな非礼な揶揄も取るに足らない雑音として聞き流す様な、丸で別次元を向いた毅然さに溢れ始めていた。

 それは或る一つの確信……。延々と弁舌を拝聴する内に、奴の内奥を見透かしたからだった。

 青年はあくまでも理性的に、訥々と反駁し始めた。

「……ご説明、ご忠告と御膳立て、感謝痛み入るね。しかしね……。今の話しの中で一つ訂正させておきたい事がある。エスやその助力者が、あんたと同類だと?

 冗談じゃないぜ。確かに能力からすればあんたは奴等の犯行と同等か、それ以上の芸当も可能かも知れん。あんたの知力や技能は大いに認めよう。

 しかし、あんたとエス達じゃ丸で人種が違うんだよ。エスは自己を獲得し存在証明を果たしたいが為に、素顔を曝け出して迄世界へと対峙した。たった独りでね……。それは一見すれば無謀で青臭い、自己陶酔にも陥り得る蛮勇だったかも知れない……。しかしその犯行に打算は無く、真摯で純真で、自己の人生に誠実な姿勢が根底に在るからこそ共感者達迄が出現し始めた……。今、危険を背負い街中を戦場に変え奮闘している彼等と、庇護された密室で安穏と生活するあんたと、一体どこが同じだと言うんだ? 同じ様な犯罪でも、あんたはあくまで電脳世界の中でしか遊泳する事が無かっただろう。

 奴等は違う。現実世界の中で現実を感じようと、痛みを感じようと、感じさせようと叫び、本当の意味で生きようとしている。所があんたはどうだ? いつも机上で知謀を廻らすだけだ。そしていつしか、嘲笑っていた筈の支配者の下でぬくぬくと暮らしている。皆はいつあんたが反旗を翻すか分からない、と爆弾を扱う様に慎重に怖れているが、俺は確信したぜ。

 あんたにはもう事を起こす意志や度胸は無い。檻の中で飼われる事に居心地の良さを見出したのさ。どうだ、図星だろう? 俺からみればあんたは観念の飼い犬に過ぎない。動物園の中の動物が、檻の中から外の人間へ向かい威嚇する事を、芸として仕込まれている様なものさ。牙を剥いて相手を威す様に見せ掛けているが、本心には無い闘争心。全て約束された決め事の芝居……。あんたが仄めかしている背信の実体なんてそんなものさ。吼え声だけは威勢が良いいが、実際は虚勢に過ぎず、噛み付く牙なんて既に折られ持ち合わせて等いやしない。

 狡知に長けた手練手管よりも、稚拙な行動を持って示した者の方が余程説得力が有る。百の言葉よりも、一の行為こそが雄弁なんだ……! エスは、あんたの様に相互で暗黙の了解がされた予定調和の反抗を続け、示威を見せているのとは丸で違うぜ。奴等は後ろ盾も無く全ての代償を背負い、素顔を晒して戦おうとしているんだからな」

 画面の向こう側で対峙するサニーは、青年から繰り出される突然の舌鋒に絶句した。進退窮まり追い込まれている筈だった青年の急激な変貌振りに驚愕し、そしてその論旨が彼に取っては正鵠を射る苦言でもあった為に返す言葉も失ってしまう。

―そう、それは内心ではどこかで自覚しつつも、真実から目を逸らす自己欺瞞的な姿勢。

 彼自身も潜在的には既に気が萎え、権力の軍門に下っていた。しかし自尊心からその敗北感を隠蔽する為に、既に折られた牙を周囲へちらつかせる素振りを見せ続ける。そんな姿勢を一貫すれば敵に与せず逆利用しているだけ、いつかは叉離反し反撃するかも知れない、と言う面目が立つ。全ての態度は、自己弁護する為の虚勢に過ぎなかったのだ……。

「解かったらその下らんゴミ箱みたいな口を閉じるんだな。エスは飼い犬でも批評家でもない、行為者なんだからな」

 青年は最後にそう吐き捨てると、相手の反応も待たず不躾に通信を切断した。

(一体、俺の中でも何があったんだ……?)

 彼自身が、自身の心境の変化に戸惑っていた。先刻迄は、エスの犯行に由って自分の立つ瀬が奪われ掛けたと言うのに……。何故か、他者にエスやその共感者達を中傷される事には不快感が募った。

(何故、俺は敵方を庇う様な発言をしたんだ……? 自分がやり込められそうだったから、反論の材料にしたいが為に敵を引き合いに出した、と言うのとは違う。純粋に自分の思いの丈をぶち撒けたくなった、心底からそうだ―)

 青年は根底に在るその感情へ自制を掛けなければ、と動揺する。しかし必死に抑制しようとすればする程、込み上げて来る内奥からの声は止め処なく溢れ出るばかりだった。


(……俺は自分の立場を失調され、社会的にも悪と見做されるエスに対して、羨望や憧憬すら抱き始めている……)




             *



 青年役人は言い知れない複雑な胸中の侭、『ショーハンペウアーズ病院』の門前に到着した。警醒の士として世界中から注目を一身に浴びるテロリスト達が、この院内に潜伏している可能性があると指示されたのだ。

 門外の敷地全体には、既に周囲を数十台のパトカーが取り囲み包囲網を完成させていた。

 青年役人が開放された自動扉から一歩足を踏み入れると、大規模な病院内も既に避難誘導がなされたのか閑散としている。冷徹な質感のリノリウムの床、反響する無味乾燥な足音、鼻腔を擽り脳裏を刺す消毒臭……。清潔で清浄に整備された空間の中、待合室では茫然と中空に視線を彷徨わせる者、人目を憚らず項垂れ寝入る者達等、疲弊した患者達はまだ散見される。しかしこれ等は重篤な病者達の輸送が遅延しているのであり、院内全体の人間達は矢張り撤収が完了している様子だった。秩序立てられながらも払拭し難い陰鬱な空気に満ちた建物内で、青年役人は丸で自分が場違いな迷子の様な錯覚を覚えた。尤も、本来の不法侵入者を索敵する為にこそ彼はここへ赴いたのだが……。

 既に数人の警官隊は、正門口で主導役たる彼の到着の為に待機していた。彼の姿を見て取ると、誰もが真摯な面持ちを崩さない侭口々に挨拶を交わす。他の患者達へ気取られず混乱を避ける様に私服スーツ姿で統一された彼等だが、懐には物々しい装備を携行しているらしい。

 病院内へ潜伏するシドを追及する為に集結した彼等の中から、青年役人へと状況説明の第一声が挙がる。

「一般患者達の避難誘導は大部分終了しました。既に包囲網は整備されたので、後は不審箇所を探索し相手を追い詰めるだけです……! 現在では、エスはシドと称される共犯者と行動を共にしていると思われます。今回この病院内で、そのシドのGPS番号が確認された事で追跡捜査の陣が敷かれました。彼等が何故突如病院に侵入したか目的迄は量り兼ねますが、潜伏している最中を叩く絶好の機会です……!」

 青年役人は外面的に彼等の状況報告へ調子を合わせるが、どこか余所余所しさが見え隠れする。しかしそれは現在エスを索敵すると言う緊張下の為と解釈されたのか、誰一人青年役人の内省的態度を怪訝に思う者は居ない。

 彼の伏目を他所に、捜索作業は円滑に進行して行く……。実害を被った点としても、本来青年役人は大罪人エスへ並々ならぬ怨嗟で猛り狂っている状態が当然の筈だ。しかし青年役人自身は、そんな仇敵へ断定し切れない交々に至る万感を覚えていた。

……エスの理念に対する共感や、テロを決行した勇断さに対する畏敬の念、若しくは潜在的な羨望や嫉妬……。エスの背中に英雄としての尤態すら感じ、翻弄されている。

 そして事件現場へ到着し警戒心を高めながら建物内を慎重に密行する中で、彼の加速する鼓動は全身に行き渡り緊張は極限へ達して行った。

 全身が強張り手足は震え、重厚な迫力を湛える拳銃もいつにも増して重量を感じ、改めて日頃携えている兇器の禍々しさを実感する。日常風景の中で書き割りの様に風化して行った道具や事物が、丸で息を吹き返したかの様に改めて意味や生命を獲得し存在感を放つ。日頃の生活の中で『当然』に馴染み過ぎ一種失念していた事物が、今では影から這い上がる様に具現化され深々と息衝いている……。

 彼は脈動し汗ばむ掌中で再度拳銃を握り直す。そして奄々たる気息をどうにか抑え付ける様にと一旦呼吸を停め、腹部から一斉に二酸化炭素を吐き出す。しかし深呼吸を反復する中で、彼は緊迫する事態へ一種の高揚感に衝き動かされている己をも自覚していた。

 卑近な日常を送る事で、人間は生の中で生を忘却し怠惰に堕する。そして生命の危機に瀕する様な異常状況下に於いて、感性が研ぎ澄まされ初めて生の中で生に目覚める。恐々としながらも、青年役人は胸中で千々に乱れるそんな雑感を御し切れないでいるのだ。幾重にも織り成す不条理な感情……。

(敵意に囚われても当然な程の相手に、接近している最中の筈だ―)

 しかし青年役人は、今正に対峙しようとしている標的へ、友情にも似た奇妙な親近感すら同時に覚えている事で戸惑う。

(―恐怖……。いや、歩を鈍らせる理由はそれだけでは無い。奴へ銃口を向ける事に躊躇うのは……。

 俺はエスに様々な面影を見ている。まだ対面した事も無い犯人へ、旧知の間柄の様な親近感も、英雄に憧憬を持つ様な畏敬の念も……。

 俺は、邂逅の瞬間を待ち望んでいるのかも知れない……。もし戦闘態勢へ入り引鉄に指を掛けるとしたら、一瞬の逡巡が致命的な遅れに成り得るかも知れないのだが……)

 彼の自問自答は深淵に達し、他者の存在を失念する程に内省へと向かっていた。

(―今の俺にエスが撃てるだろうか? 何か、他に投げ掛けたい台詞すら溢れ出しそうな気さえする。言葉の糸口を必死で探すが、適切な語彙が見付からない。いや、見付けたくないのかも知れないし、言葉にすれば寧ろ途端に陳腐と化してしまう懸念さえ感じる。

 今の俺の心身を貫く、奴へ駆け寄って抱擁を交わしたい様な愛しさは……。

 聖職者としての立場から、良心の呵責を覚えない訳では無い。しかし、最早抑制の効く気がしないのだ……)

 そんな思案も、生真面目な一警官の事務的な案内に因って漸く遮られた。

「シドのGPS番号が測位された場所はこの病室です……!」

 青年役人の案内役と追従者達はどこか機械的な程に杓子定規で、寧ろ滑稽ですらある。ともあれ、遂に件の張本人の潜伏場所へと辿り着いたのだ……。この扉の向こう側には、矛盾した愛憎で想い焦がれる相手が息を潜めている……。

 青年役人は邂逅を目前に控え怖々と身構えたが、全身は内部からどうしても脱力し、萎え掛けた戦意を駆り立てられない気がしてしまう。

 彼等がここに潜伏した動機とは何か? 医薬品や食料の調達か、不法占拠しての拉致脅迫か……。永遠にも感じられる様な緊迫に満ちた待機の中、重厚な病室の扉前で全員が定位置に配する。捕獲態勢を整え固唾を呑みつつ相互に目配せした、数瞬の後―。

 時機を見計らい、意を決した様に吶喊の合図が為された。一隊が病室の扉を突貫する。各人が訓練の施された熟練した動作で対陣を敷き、射撃体勢を固め一旦の硬直を迎えた。性急に人員が雪崩れ込んだ病室だが、室内はまだ何者かの動揺や臨戦の反応は無く、静寂に包まれている。

 勿論油断はならない。座標として、エス一味のGPS番号はここだと確実に測位されているのだ。室内に潜伏し、逃走か反撃を目論んでいる事は相違ない筈だった。死角を生じさせない為に、各人が相互を補完し合う様な立ち位置で捕獲態勢を維持する。


……しかし、気配や動向を窺いつつも数瞬が経過する。膠着状態が余りにも長引き、誰もが怪訝な様相を露にし始めた。

 慎重に包囲を進行している筈だが、無音の室内には人気自体が丸で感じられない。

(まさか……)

 青年役人は肩透かしを喰った様に呆然と立ち尽くし、遂には警戒を解き無防備にすらなってしまった。逆に部下の一隊は、その青年役人のあっけらかんとした態度に益々動揺の気色を募らせる。

 一介の隊員は、逡巡した後に怖々と小声で具申した。

「衛星での捕捉に無謬はありません……。時間差や距離等の差異なんてある筈が……」

 そして特に青年役人の身を案じ、語調を強め注意を喚起した。

「きっとこの部屋のどこかにまだ隠れている筈です! 気を付けないと!!」

 しかし青年役人は警告を意に介さず、聞き流すかの様に鷹揚な足取りで室内の中心へ躍り出た。先程とは掌を返した様に打って変わって、緊張感等微塵にも無い様に……。

 隊員達は事態を理解し切れず一様に疑念を呈するばかりだが、反して青年役人の足取りには好奇心や一種の根拠を得た様な自信迄が窺われた。

 彼が歩み寄る室内の片隅には、仰々しい機械装置が備え付けられている。その装置が視界に入ったものの、隊員達の困惑は悪戯に煽られるばかりだった。

―眼前に鎮座する物は、閉鎖循環式の保育器なのだ。本来の保育器とは、新生児が寝具へ顔を埋めた際の窒息を予防する等、不測の事態を逸早く発見する為に全体の囲いは透明な仕様となっている物だ。しかし現代では個人情報保護の為に、頭部のみが不透明なモザイク状のプラスチック板で隠蔽されている……。人工呼吸器や点滴用のチューブ類が触手の如く複雑に絡み合い接続されている中で、モニター類はあくまでも淡々と平常時の動作を続けていた……。

 頭部は透過されないが、寝台に乗る余りにも小柄なその体躯は明らかに新生児と見て取れる。青年役人は既に一人では得心していながらも、一応の形式的な質問を空疎な声音で背後の隊員へ投げ掛ける。

「現在の犯人のGPS捕捉位置は?」

 ヘッドギア内部のデータ画面を一目し、部下は悄然と返答した。

「……め、目の前、です……」

 その言葉を吐き終わるが早いか、突如室内に大音量の金切り声が響き渡った。隊員達は咄嗟に身構えるが反射的な防御の後にはその警戒も不要と悟り、各様が呆然自失と立ち尽くす……。


 突然の大音量は犯人達の急襲に由る騒音ではなく、寝覚めの悲鳴を挙げた赤ん坊の泣き声だった。

  

                        

              *



「本日はウィングフィールズ空港をご利用頂き誠に有難う御座います……。現在の発着状況は……」

 透明感溢れる近未来的な建築物内で、喧騒を貫く様に清廉なアナウンスが鳴り響く。

『ウィングフィールズ空港』。国際拠点としての役割を果たし、緻密な航空網を連携させる世界でも有数の空港だ。

 毎日800便もの飛行機が離着陸する施設内では、種々雑多な利用客達で今日も相当な混雑を呈していた。

先鋭性溢れる人工的で大規模な空港内。チェックインカウンターの従事に追われる一介の係官は、怒涛の様に押し寄せる仕事の波が落ち着き漸く休憩所で一息を吐いた所だった。

最近では巷を騒然とさせている通り魔の累犯を受け、空港内でも通常以上の入念なセキュリティー対策が厳命されている。エスやその信奉者達に由る空港内占拠や航空機ジャックを想定する事で、緊急的に基本業務以上の厳重な警備、監視、検査が課せられたのだ。急速な連日の激務に、従業員達の大勢は疲弊や重圧を抱え鬱屈としていた。

 確かに旧時代では不法な密輸や、テロリスト達が航空警備を突破しハイジャックを決行する事例は散見された。例えば搭乗前に幾度と無く金属探知機の前を通過しながらも、靴底に仕込んだ爆発物で機内へ乗り込み航空機を爆破させようと試みた犯罪者。また、持参したコーヒーに液体爆弾を混入させたり、オーディオへ少量のプラスチック爆弾を詰めて置く、厚手の冬物ジャケットや書類鞄の裏にシート状の爆弾を隠蔽させて置く、と言った手法で犯行を目論んでいた者達等……。犯罪者達の偽装工作は多岐へ及び、運輸保安局の眼を欺く実に狡知に長けたものだった。

 しかし現代では、旧来の様に空港内や航空機内を容易に支配出来るものではない……。インダーウェルトセイン政府が直々に製造し設置している検査装置は画像解析アルゴリズムを使用しており、爆発危険物と非爆発物とを判別可能にしている。

 検知機器は中性子を荷物へ照射し、内容物から発生するガンマ線によって爆発物を発見する仕組みなのだ。放射されるガンマ線の波長は元素によって全て差異があり、疑わしい物体に中性子を照射すればその物質の化学成分、手荷物の内部や裏側に爆発物が秘匿されていないか迄も精査出来る。また荷物の外側に微量の成分が付着する事へも着目し、残留物を検査する機器も複合的に組み込んだ事で爆発物の痕跡を検知する事も可能としているのだ。

 それ等一連の警備機構の他、税関局が導入した自動出入国管理システムは円滑に機能している。出入国する旅行者に対して人間の係官が通常施行している入国審査と税関業務を自動化する、安全且つ簡便な仕組みは既に常識として定着していた。

 特にウィングフィールズ空港ではチェックゲート内の個室で顔認識システムを用い、政府管理データベースに在る国民の顔画像情報と一致するか照合作業を実施している。

 これは撮影した顔の画像を数値コードに変換し、検索可能なデータとして保存する人相認識技術だ。人相認識ソフトウェアは瞳孔の中心、眼窩の距離、鼻筋の傾斜具合、唇の厚さ、頬骨、額の生え際、皮膚の詳細な質感等、人相を構成する特徴点80件以上を測定し、テンプレートを作成してデータベースに保存する。尚且つ2次元顔認識の他、3次元モデル画像照合を機能的に組み合わせる事でより一層精度を向上させてもいるのだ。

 3次元顔認識アルゴリズムは照度や角度、表情や加齢、頭部の向き等の不確定要素にも対応しており、ホログラムの概念に近似した3Dの精密な顔画像を造り出す。2次元顔認識の様な正面方向だけではない立体認識を行う為、2D画像よりも包括的な情報が取得出来る機構だ。加えて骨格等の硬組織へも焦点が当てられる様に調整されており、認識用カメラから凡そ2メートルの範囲内に接近すれば一卵性双生児を判別する程の精密さで本人を識別する。

 この自動人相照合システムは現在の高性能なボディーチェック・スキャナー体制と複合され、通常の入国審査と税関検査は相当に効率化されているのだ。身分証明標準としてもテロリズム対策の一環としても、国家や市井は既にこれ等一連の完全自動入国審査システムへ全幅の信頼を置いていた。

 しかし、現況では未曾有のテロ犯罪がエスの一派に由って頻発している。空港内の自動化された工程だけでは不備があると判断され、警備体制の徹底を余儀無くされた。武装した屈強な警備員を増員し全域を巡回させる、自動人相認識以外の高性能X線スキャンによる貨物検査や身体検査の他、原始的な係官自身の手によるボディタッチ、口頭審問、手荷物検査と……。時代性の為に、職員全体が自動入国審査システム以外の作業経験に乏しい事は無理もない。彼等は不慣れな接客や手作業にと多忙を迫られ、疲労や重圧の気色を色濃く覗かせていた。

……本来であれば一連の自動生体認証すら、現代では語義通りの『通過儀礼』に過ぎなかった筈なのだ。現代社会に於いてヘッドギアが犯罪抑止の中枢で在る事は論を待たない。

 例えば路傍で暴漢に強襲されたとしても、被害者はヘッドギア自体から任意で防犯ブザーを鳴動させる事も可能な上、現場映像は内部で保存されながら警察へも送信出来る。当局はその通知された受信記録を基に、映像やヘッドギアGPS測位から現場と当事者を瞬時に特定する。両者の主観映像が総じて確実な証拠記録となる為、偽証を謀られる事は有り得ない。

 この様にヘッドギアは多角的な防犯性が備わっている為、不文律として犯罪発生率は極端に僅少なのだ。国際空港内でもその治安性は磐石なもので、社会構造上現在では万人に於いて身分詐称は不可能。仮に反体制思想者が潜入を目論んでいたとしても、搭乗前のヘッドギア検査から本人の犯罪者予備率は機械的に考察されるのだ。

 搭乗客が自動人相認識を通過する工程では、必然的に無人の個室で自身のヘッドギアを着脱する運びとなる。その際は一時的に空港側がヘッドギアを預かり、被験者が人相認識を受けている合間を利用して内部の生活記録等を専用端末装置が精査して行く。

 被験者の生活風景から不穏な動向、思想、会話等の危険要素が自動的に高速で検索される為、犯罪者予備軍の事前摘発も可能なのだ。この様にヘッドギアの内部記録は各方面へ流用可能な為、あらゆる観点から犯罪抑止対策の要と成り得る。故に、一連の査証は形式的な通過儀礼に過ぎない筈、だったのだ……。

 しかし現在物情騒然とさせているエスを分析するに連れ、便宜的な個人情報や社会的地位等は所詮上辺の記号に過ぎず、犯罪者予備軍を特定する事は極めて微妙な問題だと認識させられる。

 知能や精神面に於いて正常と判断され搭乗を許可された者が、機内で突如錯乱しないと誰が断言出来ようか? 一介の常人と看過されていた者が突如発狂し、未来を鑑みずに犯行へ走る……。自暴自棄に陥った犯罪者の出現は警戒しても万全と言う事はなく、未然に阻止し切れるものでは無かったのだ……。

 ヘッドギアの個人情報や各種映像機能こそが人間の行動を監視し、抑止する効力を有すると誰もが盲信し切っていた。しかしエスと言う通り魔の出現に由って電脳情報や記録映像もそれ単体のみでは只のデジタル情報に過ぎず、事件現場そのものを収束させる実行力を持つ訳では無い、と言う冷厳な現実を認識させられたのだ。

 ヘッドギア本体の存在目的や各種映像機能に於いて、最早人間は記号化されていたと言って良い。

 しかしエスと言う存在は、最もアナログ且つ動物的な『感情』と言う不確定的要素を以って、既成概念や社会的論理へ反抗する事も可能だと実証した。自暴自棄に陥った狂人であれ、何らかの確固たる信念を持った英雄であれ、末路を鑑みない者に取ってヘッドギアの防犯機構も絶対的拘束には成り得ないと……。



…………。


 休憩時間終了間際を通知するヘッドギア内部の時刻アラームが鳴動した。休憩室で思索に耽っていた一介の係官は、途端に多忙な現実へと引き戻される。

 当初は激務を極める職務状況の為に、物思いを廻らせる暇も無い生活が続くかと青年係官は当て込んでいた。 しかし警備体制の強化を指示され環境が変動している事を肌で実感し、何か言い知れない程の強烈な触発を感じさせられている。

目まぐるしい現況だからこそ、寧ろ日頃以上に内省的な思索を要求される様な焦燥感……。

(―思えば自身の毎日も、凡庸で退屈極まりない、事務的で作業的な仕事をこなすだけの日々だった……。

 空港内に於ける職務工程の殆どは自動入国審査システムへ委譲されている為、職員の存在も便宜的な書き割りの一つに過ぎない。事故や犯罪の発生率も絶無に近い為、誰もが安寧を永久不変なものと盲信していた。

 しかしこうして現在エスやその狂信者は基より、万人が自発的意志から犯行を起こす事も可能だと再認識させられている。意思に由って加害者に廻る事も可能であれば、不本意でも何らかの被害に巻き込まれる可能性も有る。人生は状況の変異に左右される事も有り得る為、自身の安危も一寸先は闇。政府が謳う恒久の安全や平和等は、神話に過ぎなかったのだ―)

 端緒は、凡庸な一学生からの発作的な反抗に過ぎなかった。しかし一人の青年が巻き起こした暴挙は、社会が貞淑に覆っていた真理へのベールを剥ぎ取ってしまったかの様に想える。青年の行為は社会的影響力を生み、肥大して行く激動の潮流はそれ自体が一個の生命を獲得したかの様だ。その初期衝動をぶち撒けたが如き苛烈な激流は、市井一人一人の暗部迄へと懸命に語り掛けて来る気がして止まない。

 (―特に自分は空港職員と言う職業柄、エスの出現以降から何か無言の示唆を受け取っている様な気さえする……。

 空港へは毎日膨大な利用客が押し寄せるものだが、自動入国審査システムの操作を担当し溢れ返る長蛇の列を処理する時、不意に一抹の疑念が脳裏を差す瞬間があるのだ。

 搭乗客本人は、検閲を通過する為にまずは通信圏外の個室へと案内され、室内で自動人相認識システムを受ける。その前後にもヘッドギア本体から本人の国籍番号、住所、連絡先、出身地、生年月日、血液型、家族形態、職業等、あらゆる個人情報が正確に照合されるのだ。

 しかし電子鑑札は絶対的正確性を有しながらも、矢張り表面的な記号以上でも以下でも無い。政府から付与された学業、職業、住宅等の社会的立場……。もし、何等かの災害等に遭遇し、ヘッドギアの様な身分照明を失った時……。全てを剥ぎ取られた際には、何を以って自己を証明するのだろうか……? 親しい隣人でさえ、相手が素顔ならば判別すら出来ないかも知れない。

 翻って自分自身も、一個の人間として全ての社会情報や虚飾を剥ぎ取られ裸に晒された時、何か自分を自分自身と根拠を持って宣言するだけの手立てが有るだろうか? 仕事柄、日々大勢の人間と貴重な一期一会を繰り返している筈だが、俺は、誰の、何を見知ったと言うのだろうか……? そして、俺自身も何者かの心や記憶に留まる事は一切無い、通り過ぎて行く書き割りの一部……。

 エスの脅威に怯える情勢の中、自分自身も一部の信奉者達の様に奴の毒気へ中てられ始めているのだろうか?

 自分自身がヘッドギアを棄て去る様な覚悟を持ち切れはしない。しかしエスの主張に共感の一端を感じ、奴が次にどの様な犯行を繰り出すかと、内心ではその動向へ期待を膨らませ始めてもいる……)

 気が漫ろになりつつも、彼は休憩を切り上げ職務へ戻ろうと立ち上がる。

……しかしその矢先、不意に物思いを掻き消す様な騒音が鼓膜を突き刺した。

 青年係官は何事か、と項垂れていた頭を反射的に擡げる。すると、空港内の中心部に設置されている超大型テレビジョンへ搭乗客達が群がっている様子だった。そして居合わせた空港利用客達から発せられた怒号が施設内全体を劈いた、と察知するのに青年係官は数瞬を要する。大型テレビジョンの下へ結集した群集が口々に吃驚の声を挙げ、或る者はディスプレイを呆然と指差し、或る者は隣人と顔を見合わせつつも言葉を失い立ち尽くす……。

 大音声の騒乱から各人の会話の逐一迄は聴き取り切れない。未だ事態を把握出来ない青年係官は暫しの間、茫然と眼前の光景を見遣っていた。しかしその刹那、自身の職務と使命をはたと思い直し、突如発生した異常事態の現場へと性急に疾駆し始めた。

「お客様方、落ち着いて下さい! 調査致しますので道をお空け頂けますか!!」

 係官は慇懃さを失しない様に意識しながらも、どよめく喧騒を掻き消す為にと叫声を張り上げた。そして立錐の余地も無い人垣を半ば乱雑に通過する中で、ふとした瞬間に眼前が開かれた。勢い余り、係官は前方へ倒れ込みそうになる。最前列に位置する群集を突き抜けたと気付き、彼は反射的に両手と片膝で床面を突き体勢を立て直した。

……しかし何事かと傍観する集団の最前へ踊り出ながらも、結局は係官自身も呆然自失と立ち尽くす他は無かった……。

 問題の大型テレビジョンを見上げると、巨大ディスプレイから次々と大写しにされるものは一般市民と思わしき者達の顔、顔、顔……。そう、本来政府直轄の基で厳重に管理保護されている一般市民の個人情報、素顔の撮影写真が次々と映写されて行くのだ……!それも個人情報の他、現在チェックゲート内の個室で素顔の撮影を受けている一般利用客達の光景迄もがメインロビーの大型ディスプレイへ漏洩し始めている……。

 呆気に取られつつも、係官の脳裏では不測の事態を引き起こした張本人が誰か、既に確信していた。機械の不具合で、この様にメインロビー内の巨大ディスプレイへ個人情報の流出が起こると言う事はまず考え難い……。

(―エスだ! 奴とその一派は現在施設内のどこかへ潜伏しているのか、もしくは遠方からのハッキングに拠る妨害攻撃をして来ているのか……。実際は量り兼ねるが、奴等が厳重に管理されている筈のシステムデータベースへと介入し、個人情報を流布していると言う事だけは間違い無い……!)

 その瞬間、居合わせた者達の緊張を益々煽り立てるかの様な、冷厳とした調子のアナウンスが施設内へ鳴り響いた。

『―不穏なガスが検知されました。空気濃度を低下させ、後に施設内に於ける酸素の供給を停止致します。施設内をご利用のお客様は職員の指示の下、速やかな避難をお願い致します……。繰り返します。不穏なガスが検知されました……、空気濃度を低下させ……』

 巨大ディスプレイへ個人情報が流出されている現状だけでも当事者達は混乱しているのだが、更なる追い撃ちを掛けるかの様な不穏なアナウンスに誰もが当惑する様相を見せた。

……そして次の瞬間、居合わせた者達誰もが我が目を疑った。

 日中の燦々たる陽射しを四方から取り込む様に設計されている空港内部だが、透明な窓ガラスの内外両面へ、灰色の防火シャッターが一斉に降り始めたのだ。

 遥か見晴るかせていた管制塔や滑走路の景観が、突如硬質なシャッターで遮断される。

 瞬き程の速度で、施設内は一転して夜の帳が降りたかの様に一面の薄闇と化してしまったのだった……。

 重厚な防火用隔壁もほぼ同時に作動し始め、間近に居た空港利用客達は泡を食った面持ちで脱出を試みる。しかし、遂には厳重に閉鎖されてしまった鉄扉を前にして虚空を仰ぎ、腹立ちを紛らわし切れず拳を叩き付けるのみだった。



             *



……。非常用電源により施設内の各照明は程無く復旧したものの、通信装置の類は一切が使用不能だと判明。居合わせた被害者達の動揺は、最早歯止めの効く所ではなくなってしまった。係官は騒乱を鎮める為に施設内を奔走するが、大所帯を宥めるにも最早限界を来たしている。

「一体どう言う事なんだっ!」

「早くここから出してくれ、あんた等はこの空港の人間なんだろっ!!」

 空港利用客達が掴み掛からんばかりの気勢で口々に詰め寄って来る。係官も流石にその迫力には気圧されたが、内心では叉別の思索を廻らせてもいた。

(現状、これ等がエスの仕業と判断している者は極く少数の様子だ……。ここでその推測を伝えた所で皆は益々戸惑うばかりだろうが……。どうする……?)。

 そして先程のアナウンスを受け通風孔の状態を確認する為に立ち働いていた職員と物見高い客達が、驚嘆の声を次々と挙げた。彼等の声は、換気が停止された無風の施設内から更に酸素自体が除去され始めた事実を明らかにしていた。施設内全体が無酸素状態へ陥った後の惨状を想像し、被災者達の動揺は極点へと達する。

「嫌だ! 死にたくない!!」

「誰かここから出してくれっ!!」

 不安と悲鳴が木霊する叫喚の中で、係官は唯一平静を保った侭状況を推察していた。

(エスは今迄の犯行上では、信念の為か一般市民へ暴力的な危害を加えた事は無い。例えテロ行為としても、反体制を唱えその声明を市井へと伝える為に、象徴性を感じさせる様な犯行ばかりを仕掛けて来た筈だ……。本当に火災や毒ガスが散布されたのなら、既に被害を受け昏倒する者が確認されても可笑しくはない……。矢張りそのガスの検知情報自体が何かの細工で、サイバーアタックの一環に過ぎない筈だ。彼の狙いは、何か他に在る……)

 係官は群集の騒乱を制止する様に鶴の一声を挙げた。

「私は空港内職員です! 皆さん落ち着いて下さい!! 良いですか? ガスが感知されたと言う情報は機械の誤報かと思われます!我々が異状の原因を究明し、必ず短時間の内に空港内の全機能を復旧させますのでご安心を!! 空港内が自動的に封鎖され防災処理の為に酸素が段々と薄くなって行っている様ですが、この場合は取り乱す程悪戯に酸素を速く消費してしまいます!

酸素の消耗をなるべく最小限に抑え肉体上の機能を損なわない為にも、皆さん床に突っ伏して下さい!! 慌てず落ち着いて! ここからは我々職員や警備員の指示へ従う様にお願いします!!」

 超然とした彼の案内から、半ば狂乱し掛けていた利用客達は若干の安堵を覚えた様子だった。喧騒が鳴りを潜めると、程無くして施設内の全員が従順にその指示へ沿う様に動き始め、漸く一旦の規律を見せ始める……。騒動に多少の沈静化が図られた事で一部の職員達も漸く平静を取り戻し始めたが、今度は叉逆に、騒乱を一喝した係官の急変振りに圧倒されてもいる様だった。

 控え目で、どちらかと言えば主体性を持たず職務に従事する男、と言う印象を職員達は抱いていた。だが、窮地に陥った現場で突然人間が変わったかの様な変貌振りは一体どう言う事なのだろうか、と怪訝な様子を露わにしている……。

係官自身は職務としての崇高な使命や義務感へ衝き動かされる以上に、内心ではエスの犯行を全貌迄見届けたい好奇心にも駆られていたのだが。

寧ろ先頭を切って群衆を庇護しようとする姿勢は擬態の様にすら感じられ、エスの次手が如何なるものかを想像し、期待感すら押し隠していた……。

(エスの意図は何だ……? 我々を閉じ込めて、その後何を謀る? この侭居合わせた人間達を無差別に窒息死させるのか。それとも監禁した状態を利用し、我々を人質として政府への交渉材料に用いる気か。もしくは外界の警備や一般市民の存在が手薄になった事を利用し、パイロット達を脅迫する形でハイジャックし海外へでも逃亡するか……。エスよ、何を、何を狙ってる……!?)。

 係官は推理小説に於けるトリックの解明を読み急ぐ様に、固唾を呑んでエスの動向を待ち望んでいる……。

(空港管理下の制御システムにも無論厳重なセキュリティが敷かれている。防御プログラムも乗り越え環境装置を操作するとは、並みの手練れではない。アクセスの痕跡を消してはいるのだろうが、何かの形でエスの現状や足跡を辿る事は出来ないだろうか? そして、エス自身はここに潜伏しているのかどうか……)

 係官が思索を紡ぐ刹那、施設内の一角から吃驚の声が挙がった。彼は思考を中断され、反射的に声の方角へと頭を振る。緊張下に耐え切れずヒステリックを起こした者の叫声かと思いきや、その大声の主は予想だにしない呼び掛けをし始めた。

 その男性は遠方からでも人目を惹く程に派手な服装で、無数の安全ピンや刺々しい鋲が留められたライダースジャケット、タータンチェックのボンテージパンツで全身を包んでいる。その見るからにパンクスと言った風体の男は大勢の耳目が惹けた手応えを得ると、眼前に置かれた大型の貨物を頻りに指し示した。そして、窮地を脱する一助を発見したかの様な嬉々とした面持ちで彼は必死に訴え始めた。

「皆、見てくれ! この段ボール箱の中に大量の酸素スプレー缶が入れられているぞ! 空調が効かない様だが、暫くはこれを使えば凌げる!!」

 その指摘を端緒として、堰を切った様に利用客達の意気が沸き上がった。彼等は餌を求める蟻の行列の如く現場へと群がり、叉も施設内は騒乱に満ち始める。

「これは人数分有るのか!?」

「俺に、俺に寄越せ!!」

「子供を先にして! 私の子供を助けてよ!!」

 我先へと急ぐ様に、居合わせた利用客達は一斉に酸素スプレー缶へ手を伸ばす。

―そして、遂には骨肉相食む様な争奪が始まった……。

係官は暴動を制止するべき職務も失念し、遠巻きからその光景を茫然と眺め立ち尽くすばかりだった。緊急事態への対応策にしても、空港側が酸素缶を常備している等と言う話しは寡聞にして知らない。あれが防災用の代物では無かったとしても、運搬される筈の貨物が経緯も不明な侭、只一個のみロビー内で放置されているものだろうか?

保安態勢の一部として、空港内には数十台に及ぶ防犯カメラも設置されている。その各個防犯カメラには所有者不明の荷物が一定時間放置されていると認識した場合、セキュリティセンターへと自動的に通知すると言う探知・警報機能が導入されてもいる筈なのだ……。

 狂乱し、経緯不明な酸素スプレー缶を奪い合う者達の醜悪な光景……。その混沌の渦中で、こんな遣り取りの一部始終が耳目へと入って来る。

「おい、幾ら酸素が無くなるからって勝手にヘッドギアを外して良いのかよ!? これじゃ最近のエスの事件と同じで捕まっちまうぜ!?」

「お前こんな時に何言ってるんだ!? 死んじまったら元も子も無いだろうが! 例え後で捕まるとしても俺は死ぬ位ならヘッドギアを外すぜっ!! この状態がいつ迄続くか、スプレーが人数分に足りるかも判らないんだから、要らない奴はどいてろよっ!!」

 係官はその喧々諤々とした会話を見聞きした瞬間、はっと天啓の如き閃きを得た。

(これだ……! エスは矢張り一般市民迄に暴力的な危害を加える気は無いんだ。監禁した人間達を政府と渡り合う為の盾にする訳でも、逃亡を謀る訳でも無い……!

俺達自身を試し、そしてその結果を広く世間から政府へと伝える為に……!!)

 事態を静観する係官の視線を余所に、醜悪に満ちた酸素缶の争奪戦は益々の激化を見せていた。その阿鼻叫喚を挙げた地獄絵図を前に、係官は更なる冷静な分析を巡らせる。

(―そう、自分達は試されている。生命が極限の状態に置かれた中で、その本人がどんな行動を選択するか……。助かりたい者は後先を捨て、まず酸素スプレー缶を手に入れる為に自身のヘッドギアを脱ぎ去るだろう……。その時、ヘッドギアを外す事に躊躇する者も、問い掛けめいた何かを受け取る筈だ。

―これは『自我』を捨てる事なのか、寧ろ『自我』を得る為の行為だろうか? 社会的生命を喪ったとしてもまずこの危機を乗り越え生き延びようとする希求は、尤も人間らしい生物的本能に満ちた足掻きとも言える。この場合、生物としてどちらを選択する事が正しいのか? 自分はどちらを選ぶのか? 問われている……)

 係官が騒擾を傍観している折、不意に一抹の違和感を覚えたのは、酸素スプレー缶の存在を周囲へ伝えたパンクスの動向だった。大量の酸素スプレー缶は十中八九エス一派の用意だろう。更に、先程切迫した調子で大勢を扇動した張本人の姿は影を潜め見当たらない……。

(あのパンクスはどこへ消えたのだろうか? もしや奴は……)

ともあれ係官に取って、最早事態の収拾や犯人の特定等は想念の外にあった。仮面の内奥では秘匿していた期待に見事応えてくれたエスへと、賞賛の破顔を湛えてすらいたのだ……。

彼は、自衛と言う大義名分を以って仮面を剥がす機会を与えてくれたエスへ感謝や畏敬の念すら感じ、綻んだ口許を直せない侭でいる。

そしてそんな笑い声を悟られない様に必死で押し殺しながら、他の者達へ倣う様に見せ掛けヘッドギアを外すその手を頭部へと掛けた。




           *




・第七章・『眩惑の照明の下で真実の告白を』


【―真実のチェックゲート―ウィングフィールズ空港全面封鎖事件】―デカート通信―

 近日、繁華街ヒルサイドで発生した俗に言う『デジタルマスカレード通り魔事件』から彗星の如く出現した重犯罪者・エス。彼の存在が絶大な影響力を放ち、連日に及ぶ犯行が世情を騒擾とさせている事は最早論を待たない。そして昨日、叉も彼の累犯と推測される大規模な事件が発生した。

 事件発生地は、国際的拠点として日夜多数の航空便が行き交うウィングフィールズ空港。この国際空港内部で、厳重に保護されるべき搭乗客達の個人情報が詳らかに露出され、遂には空港内全体が突如として閉鎖されたと言う。

 居合わせた空港利用客達や各関係者達からの証言を収集すると、事の顛末は以下の様だ。まず、本来政府管理下の基で厳重に秘匿されて然るべき個人情報の逐一が、どうした事か空港中心部のロビーに設置されている巨大ディスプレイから次々と映写され始めた。個人情報は、電子鑑札上記録されている本人の国籍番号、住所、連絡先、出身地、生年月日、血液型、家族形態、職業等多岐に渡るが、何より個々の素顔迄が大胆に露出されてしまった為に一様の騒動へ発展したと言う事だ。

 メインロビーの巨大ディスプレイに検閲用の個人情報が流出する事等は接続システム上有り得ない為、空港職員の一部は直感的にエス一派の犯行に由るものと察知していた。しかしその周知を促そうかと職員が逡巡する内、空港内部の環境装置迄もが誤作動を引き起こし、場内の酸素を除去し始めた事で混乱は極点に達したと言う。

そして群集が無酸素状態からの窒息死を恐怖する中、一人の男性客が貨物から大量の酸素スプレー缶を発見。その男性からの呼び掛けを引鉄に誰もが我を忘れ、酸素スプレー缶を強奪し合う惨状が呈された。

 環境装置が正常に復旧した後、空港内全体の封鎖も自動的に解除され事態は数時間後に収拾を見せた。しかし間も無くして被害者達からウィングフィールズ空港本部への抗議が殺到し、関係者達は対応に東奔西走しているとの事だ。そして専門技術者達の検査後、映像流出や環境装置の誤作動は機械類の不具合、操作ミスでは無いと

判断された。痕跡は見事に消されているが、一連の事件は矢張り外部犯に由るサイバーテロの線が濃厚の様である。個人情報の漏洩に関する不始末、一時的な機能麻痺に由るダイヤの混乱等から、空港側が被害者各位へ賠償する総計は巨額に昇ると言う。

 空港内各所に設置されている監視カメラの映像から事件の一部始終を視聴した犯罪心理研究家シャイア・ハワードは、今回に於ける事件の本質をこの様に考察して述べた。


『―犯人達は空港を巨大な実験場へと変化せしめた。エスと思わしき一派に由る一連の犯行は、そのどれもが象徴的で示唆に富んでいる。エス一個人に於ける初犯は通り魔として発作的、衝動的な傾向を帯びているが、その動機は社会全体へ問題提起する反体制思想が根底に脈付いているのだ。

次にヘッドギアの充電端末ネットワークをシステムダウンさせる、ヘッドギア生産工場を爆破する、と累犯されて行くが、これ等の犯行は効率的にヘッドギアの機能性、生産性を阻害しつつ、何よりも民衆を丸裸にしようと仕向ける意図こそが伺える。

彼等は警察の捜査活動を撹乱するのみの目的では無く、ヘッドギアを一種の支配的象徴と捉え反目しているのだ。彼等がヘッドギアと言う社会性の中枢を唾棄し執拗に破壊工作を仕掛け続ける行動原理は、政府や市井へ警世を齎そうとする価値観に基づいていると定義付けて良いだろう。彼等の主張とは言わずもがな、市民が匿名性に覆われた社会構造から脱却し、本人が自己責任を背負い生きるべきと言う個人主義思想―。彼等は政府直轄に由る個人性の保護や防犯を、過剰な拘束と解釈し叛意を唱える。故にエス一派の犯行は基本的にヘッドギアと言う機構の一点に収束され、何者かへの直接的危害は加えていない。そして、これ等の考察を顕著に表象しているのが今回の空港襲撃事件では無いだろうか。

空港と言う現場自体は、無論ヘッドギアの機能性や生産性に関わる機構では無い。しかし、入国審査や税関等の検閲システム……。これ等のチェックゲートは<自己証明>を披瀝する、或る種では最も個人性に依拠する現場なのだ。

―ヘッドギアを着脱し個人認証を受ける際に、重視されるのは個人の素顔だろうか、ヘッドギア内部のデジタル情報だろうか……?

エス一派は、チェックゲート時に個人の素顔を晒す通過工程へ着目し、機構上の弱点として犯行に利用した。叉、上記の様なアイデンティティクライシスと言うべき命題にも内省的思索を廻らせ、犯行へ象徴的な意味合いを内包させたに違いない。更に個人情報を不特定多数へ流布する事で、情報保護は政府ですら万全を確約出来るものでは無いと言う事も犯人達は立証せしめた。

そして極め付けは施設内全体を封鎖し無酸素状態へ仕立て上げる事で、利用客達の反応を観察し、誘導した事にある……。出所不明の酸素スプレー缶は大量に用意されていたと言う。尚且つ環境装置の誤作動も一定時間後にはあっさりと解除された為、矢張り犯人達には他者へ肉体的な危害を与える意図は無かったと判断出来るのだが……。

死が迫り来る緊急事態を前に、人々はどの様な反応を示すのか。ヘッドギアを打ち棄てれば生き延びられる可能性もある特異な状況で、各人はどの様な選択を取るか……? 事件現場では当然居合わせた利用客達が血相を変え酸素スプレー缶の争奪を繰り広げた訳だが、

注目すべきは、躊躇無くヘッドギアを脱却した者と逡巡し続けた者達とで二分されたと言う事実だろう。

エス自身も各様の観察と誘導を果たしたかったのだろうが、その空港内を巨大な<実験場>に変えた目論見はまんまと成功したと言わざるを得ない。極限下でも受動的な反応しか出来ず、後手に廻り続けた者達は少数では無かった。

―そう、ここで各人の反応と行動とが試され、導かれていたのだ……。

緊急事態ならば法律的にも自衛として認められて然るべき行為すら、既成観念に縛られ身動きが取れない……。利用客達が無事だった事実に政府は胸を撫で下ろすだろうが、その反面、禁忌を破った者達への法的処置を公的に議論する必要性に迫られている。現状、彼等は二律背反とも言えるこの問題に苦慮している事だろう。そして、ヘッドギアを脱却する事に最後まで躊躇していた者達は精神の奥深くへ問い掛けられ、自問自答の只中を彷徨っているのではないだろうか? 万能と盲信し切っていたヘッドギア及び政府の社会的庇護も、緊急下では寧ろ障害に過ぎなかったと言う厳然たる事実に衝撃を受けて……。

―果たして、ヘッドギアの存在とは自身の根本へ迄支配的に根付いた肉付きの仮面なのか? エスの表立った一連の犯行はこの様に一面的で単純な仕業では無く、どこか象徴的で教唆的な意味合いが内包されているのだ。

エスは我々一般市民の既成観念や帰属意識に異議を唱え続ける。例え近日中に主犯である彼の逮捕が成功したとしても、その影響力の余波は若年層を中心に波及し続ける事は想像に難くない。何の疑念も無く政府の恩恵を享受していた我々も、各人が社会の成立を見直し自身の回答を提示する、そんな必要性を要求されているのだ……』




―…………―。


 麗らかな陽射しが降り注ぐ日和……。人工的に整備された植樹の中で息を潜めつつ、僕はこの社説の切り抜きを読み終えると丁寧に折り畳み胸ポケットへと仕舞った。

現在、僕とシドは二人、テレビ局『ボーステラング』の裏口付近で人目を忍ぶ様にひっそりと潜伏している。高層中心部の展望室が印象的な球体のオブジェとしても設えられている硬質な建造の下。一帯は広大な海浜の間近で開発された地域だけに開放感で満ちており、時折吹き付ける清爽な潮風が心地良く鼻腔を擽る……。

この放送局は一般視聴者とのコミュニケーションを活発にする為に施設内の見学が可能となっていて、各放送番組のグッズショップ、カフェテリア、スタンプラリー、視聴者観覧等のイベントが随時展開されていた。ここでは日夜膨大な観光客達が大挙する様に押し寄せ、無論警備体制も敷かれている。そんな衆目に付き易い名所へと、何故僕達は態々赴いたのか……?

……僕達の目的は、アポイントメント無しに番組へ生出演する事……。そう、謂わばスタジオジャックを敢行する為に危険を承知でここ迄赴いたのだ……。以前クラブの地下で潜伏していた際に、政府管理下の裏サイトへと侵入し入手した機密情報。その枢密を、テレビ放送を利用し大々的に世間へと発信する為に……。

 僕自身の犯行の数々に象徴的且つ風刺的な意味合いが内包されている事を、鋭敏な感性を持つ一部の者達は感じ取り言及して始めている。僕の存在、行為、そしてヘッドギアの存在意義その物に迄、是非曲直の論争が活発化した現状……。状勢が変移し時代が緊迫の極点に達し始めた今こそ、愈々市井へと問題提起の最たる材料を提示する瞬間なのだ……!

 通り魔事件以降、既に僕の外貌はネット上で知れ渡っている事だろう。しかし正規のメディアを通じて主体的に自身を露出し様とする試みは、矢張り未体験故えの緊張感が走る。何由り生放送の番組をスタジオジャックすると言う事は、市井から警察全体へ自身の居場所を高らかに宣伝する事と同義なのだから……。


 茂みの中で息衝きながらカード式ホログラフィ映像装置を取り出し電源を入れると、ボーステラングの建築構造全体図が立体化された。テレビ局等の公的放送機関はテロリストの占拠を想定し、敢えて迷路の様な複雑な内部構造で建造されている物だ。しかしシドがハッキングし入手したテレビ局内構造全体図を基にすれば、施設内への侵入経路を事前に計画立てられる……。

武器数点を全身に携帯し準備の整った事が確認された所で、僕とシドは自然と視線を交錯させ合図を取った。無言の内にどちらから共無く頷き合いながら、決然とした調子でシドは意気を挙げる。

「さあ、いよいよ革命の瞬間だぜ―!」




              *



  

 鈍重な車輪の音、地面を走る際の不規則な振動……。僕は現在、大型な掃除用具箱の底で息を潜め、揺られる様に運搬されている……。運び手は制服を調達し掃除人に擬態したシドだ。

矢張り侵入の際、第一の難関は検問所の通行規制だろう。門前の個人認証端末装置の他に不測の事態を想定して立ちはだかる警備員や、隣接される事務所に常駐している職員達……。

これ等の個人認証や監視を如何にして潜り抜けるか……? 僕達には有無を言わさぬ強行突破を謀る覚悟もあるが、無益な流血を極力回避したいと言う良心も人並みには持ち合わせている。

何由り、各種武器は調達して来たものの局内の人間達を威嚇し目的地で在るスタジオ迄を目指すには、内在する関係者達の人口、建築規模等が余りに巨大過ぎた。なるべくならば、スタジオジャックを決行する迄は人目を凌ぐ様に侵入するべきなのだ。

 潜入に際して、シドは事前に掃除人としての偽造IDを取得している。ヘッドギア自体を有しない僕は現状の様に、貨物の中にでも潜伏する他は手段が無かった。

何とか個人認証や監視の眼を欺く事が可能だとは思うのだが……。

 僕は数々の掃除用具の山下に埋もれ、閉所の暗闇と加重とに押し潰されそうな息苦しさを堪えていた。際限無く脈打つ鼓動が検問に立つ警備員達へ迄漏れ聴こえはしないか、と愚にも付かぬ想念に囚われつつ、計画が端緒から頓挫する事が無い様にと僕は懸命に祈り続ける。

 愈々通用門の入り口に近付くと、立ちはだかる警備員の応対と個人認証端末の作動音が微かに耳朶へ忍び込んで来た……。

「クリーニング会社の方ですね……。ご苦労様です、どうぞお通りを」

 当初の危惧は杞憂に過ぎなかったか偽造IDは警備員や自動認証を見事に騙し果せ、無事に通過する事が出来た……! 台車の中、貨物へ紛れ込んだ僕にもテレビ局内部への潜入に成功した事が肌で実感され、一旦胸を撫で下ろす心持ちになる。頭上からも、一先ずの安心感と達成感の為か一息を吐くシドの仕草が感じ取れた。

その後の足取りは、無難に局内の通路を進行している様子だった。業界関係者達が行き交う人波は流れているものの、一介の掃除人に注視する者も居ないのだろう。

 この侭首尾良く目的地のスタジオ内部へと辿り着いてくれ……。早鐘の様に鳴る鼓動を抑えながら、僕は渇きを癒す様にゆっくりと唾を飲み込み唇を舐めた。局内を行く潜入は丸で終焉の無い行進の様で、永遠かの様な曖昧な時間感覚に捕らわれる。ささやかに輻輳し耳朶を打つものは業界関係者達の忙しない足音、番組制作や放映時に関する仕事上での会話。切迫した状況下で落ち着く筈も無いのだが、何故か不可思議にも穏やかな昼間の電車内でまどろむ様な、そんな緩やかな午後のひと時に似ている気がした……。

 どれだけの距離を進行したのだろうか、不意に台車の進行が停止する。……そして、業務用エレベーターの前に着いた、と思わしき一時の静寂が感じ取れた。

……もう直ぐ。もう直ぐで無事に辿り着ける筈だ……。昇降するエレベータが微細な駆動音を立て当階へ到着した際には、現場と不似合いに軽快なチャイム音を立て停止した。重厚な鉄扉が自動的に開かれ行く音が漏れ聴こえ、僕が潜伏した台車を何事も無いかの様に振る舞い運搬するシドの気配を感じる。

台車内からも密室の様な閉塞感のある空気に一変した事が肌で感じ取られ、漸くエレベーターへ乗り込めた事を実感出来た。ここ迄来れば、最早目的地で在る生放送スタジオへと邁進するのみだ……!

 束の間、第三者の存在しない密室空間に入り込めた事で、僕達はどちらから共無く安堵の一息を搗こうとした……。

……だが、その刹那だった。

『ビーッ!!』

 安堵し掛けた瞬間、僕は我が耳を疑った。しかしこの生理的に切迫を煽られる様な機械音は、紛れもなく周囲への警告を示している。丁度エレベーター内へと乗り上げた僕達を見咎めるかの様に、頭上から物々しい警報が鳴り響いたのだ! 爛れた色の警告ランプが回転し始めたのだろう、真っ赤に室内を照射する光が台車内迄へも射し込まれて来る。途端に僕の脳内は真っ白な思考停止状態に陥り、手足が萎縮する様な驚愕に貫かれた。

 何等かの防犯システムに引っ掛かってしまったのか!? 冷厳な警告音は際限無くその音量を高め続け已む事が無い。不意に、警告ランプに染め上げられる自身の地肌が恰も鮮血に塗れている様な錯覚を覚えた……。

 積載荷重の警告ブザーか? 偽装目的として籠へ放り込んだ掃除用具の他、搭乗者は僕とシドのたった二人分にも関わらず……!?

シドも明らかに凍り付き考えあぐねている様子だ。これは単なる機械の誤作動なのか? それとも、僕達の様な不法侵入者を感知した為の警告音なのか? もしも前者の様に機械の誤報であれば、この現場から離脱する事で却って周囲から懐疑的な視線を向けられるかもしれない。寧ろ一般の掃除夫ならば自分自身に何の後ろ暗さも持ち合わせる事は無い。誤作動と思われる警報を一刻も早く停止させようと、率先して関係者を呼び寄せる様にすら働き掛けるのが自然な反応ではないか。

 偽造IDと制服で正面門の警備員や自動認証装置は通過出来たのだ。単なる機械上の不具合ならば、敢えてここに留まる事で駆け付けた警備員達の確認を受け、あくまで善良で誠実な一般掃除夫と言う擬態で押し通す事も可能な筈だ。但し後者の様に何等かの理由で防犯システムから察知されている場合、エレベーターの様な密室で退路を塞がれる事は致命的な失策にも成り得る……!

 事前に確認したホログラフィ地図に由れば、局内の構造からして目的地は未だ遠距離に位置しているらしい。この現場からエレベーターで上昇せず階段を使用するならば、それだけで手間が掛かり時間を消耗してしまう。加えて現状では道行く先々で脱兎の如く逃走に必死な姿、掃除夫に取って無関係なフロアで場違いな格好を晒す等、不審さを助長させる結果にも繋がりかねない。新たな人的視線、不確定要素は増すばかりだ。無論、エレベーターと言う密室で取り囲まれれば元も子も無いのは確かだが……。

 僕達は進退窮まっていた。躊躇せずこの現場を離脱するべきか否か……? 往くか、退くか、決断は瞬時に下さなければならない。僕は潜伏している事を気取られない様に、慎重にそっと籠の隙間から外界を伺い見る。幸いにも行き交う業界関係者達は、訝しげにこちらを一瞥しながらも無言で通り過ぎて行く様子だ。彼等からすれば、矢張り機械の誤作動や何等かの手違いで一介の掃除夫が困惑し、立ち往生させられている様に見受けられるのだろう。誰にでも起こり得る些細な不運、雑談の端に上ったとしても翌日には忘れ去られる様な他愛も無い出来事、と……。天井から大音量で警報が鳴らされたとしても、日常的光景の範疇に収まる。彼等はシドを見て、些細な恥を掻く現場に偶然突き当たってしまった凡庸な掃除夫と思い込んでいるだろう。

 しかし思案する内に、鳶色の制服に身を包んだ如何にも頑強そうな体格をした一団が通路を小走りで駆け寄って来た。

彼等が警備員である事は一目瞭然だ。僕はその様子を受け咄嗟に

籠の奥深くへと頭を引っ込め潜り直す。途端、心拍数が上昇したかの様に僕達の内心へ緊張の一糸が走る。潜伏する台車の中で僕は全身に脂汗を掻きながら意識を必死に研ぎ澄まし、周囲の動向を敏感に感じ取る事へ集中し始めていた。 

 相手に気取られてはならないと肝を据えたのか、乗場側で佇みながらシドは平静を装い機先を制した。声音は、寧ろ平生以上に快活な調子ですらある。

「クリーニング会社の者なんだが……、積載過重の判断で警報が鳴っているのかい?」

 しかしシドの明朗さとは裏腹に、警備員の声調は冷静沈着そのものだった。

「いえ、設備異常が発生した場合に私達が出動する事になっているのですが……。これはおそらく、荷重検知システムの作動に拠るものではありませんね。考えられる要因としては、当社独自の赤外線透過装置、温度監視システムに拠る物です。エレベーター内の監視カメラネットワークで実映像の他、不審な動向を検知する画像解析技術とサーモグラフィ装置を複合させ稼動していまして……。解析・検知技術を用い監視映像の動的な変化を検出しています。 不審な動きがエレベーター内で発生した場合、動的状態の判定値が高くなり警告アナウンスを発する仕組みなのです」

 シドは芝居掛ける事も無く、反射的に怪訝な声を挙げた。

「そんな馬鹿な、俺がエレベーターへ乗り込んで直ぐに警報が鳴り出したんだぜ? 機械に特定される様な異質な身動きなんてする暇も無い」

 その通りだった。只単に台車を乗り込ませたシド、籠の中で些細な身動ぎも抑える様に息を潜めていた僕に、解析へ引っ掛かる様な所作が見受けられた筈は無いのだが……。

気色ばむシドを前に、警備員達は平静を崩さない。

「であれば、同社のサーモグラフィ画像解析に拠って不穏な熱源や何等かの形状を感知したと言う可能性が高いですね……。

こちらは当社エレベーター内に於ける人物の有無を判定する技術でして……。基準となる無人状態の内部映像に何等かの形状が出現した場合、データベースが前後の輝度値分布を一旦比較します。そこで抽出された変化領域の面積が一定値以上であり、形状が人型に近ければ監視システムが自動的に人物が存在している、と見做す仕組みになっているのです。

このサーモグラフィには人間に近い体温、人型と思わしき熱源の形態を成す物は鞄や箱等も通過し、自動的に検知する技術を導入しています。以前、番組放映に使用された動物が紛れ込み騒ぎを起こした事もあったので、勿論万能な技術と言う訳では無いのですが……。

そして、当局は内部で従事する人口や建築規模が巨大なものです。その為、これ等の機構の他に入退室時に於ける記録管理システムも連携させていまして、出入り口で記録された入局者数は常時正確に監視データベースで数値化し記録しているのです。                                                    

 何かの手違いか誤作動だとは思うのですが、現在入退室管理データベースの情報では定員以上の人間がテレビ局内部に存在している可能性が提示され、サーモグラフィからは貴方以外の何等かの熱源が透過されています……」

 関係者以外の侵入や所有物を規制する為のシステム……! 局内の構造は事前に解析していたが、防犯システムはエレベーター内に迄徹底されている程厳戒だったのか……!!

手持ちの通信端末が指し示す時刻は12時10分。当然生放送は既に開始されている。本来ならば1時と言う番組終了時刻の10数分前には到着する手筈だった。ここで仮に警備員達と格闘を起こせば更に大幅な遅れを取る事にも成り得る。その上、防犯技術の高度なエレベーターならば震動が強度へ至った場合、現場がオートロックされるか昇降中に最も近い階で緊急停止してしまうだろう。

 彼等を扉から排斥するか拘束するかにしても、何等かの形で計画が頓挫させられる可能性が高い……。ここ迄来れば、最早手練手管を弄するよりも単純で愚直な前進……、強行突破しか方法が無い。警備員達から疑念を向けられ硬直してしまう程の焦燥を覚えたが、今ではそれ等の恐怖を通り越し、超然とした決意すら湧き上がって来た。


 コツ……。

 シドが合図する様に、台車の下部をそっと弾く様に蹴り付けた事を背後で感じ取った。ここからは対話を介さない以心伝心の行動だ。

 1……。

「おいおい心配性だな。別に掃除用具以外に物騒な物なんて何も入っていない筈なんだが……」

 2……。

「不審人物が爆発物を設置しないとも限りませんからね。クリーニング会社の方に身に覚えが無くても、例えば知らぬ内に何者かから危険物を忍び込まされていた、と言う可能性も有り得ない事では無いので……」

 3……!

「念の為なんですがボディチェックの他、台車の中を検めさせて欲しいのですが、宜しいですか……?」

 僕は跳び上がる様に台車の覆いを撥ね上げ上半身を露出させた。その刹那、現場の中心に立つ警備員の虚を突き彼の鼻面をヘッドギア越しに拳で掠め上げる。

不意の襲撃を受けた事で、見るからに精悍な警備員も背後へ仰け反る様に倒れ掛け、反射的に後方の一団は彼の背中を受け止めようと両手を差し出す。警備員達も警戒意識を鋭敏にさせてはいたのだろうが、僕の唐突な出現と一撃に面食らい一瞬の硬直を見せた様子だった。

 その間隙を狙い、僕は懐に忍ばせていた筒状の武骨な金属物へ抜かりなく手を掛ける。掃除用具が山積する台車の中で足元は不安定な侭だった。しかし全身のバランスを崩しながらも僕は一切意に介さず、その筒状をした固形物の安全ピンを取り出し様に引き抜く。極度の興奮状態故か、時間の経過がコマ送りの様に緩慢に過ぎ、途切れ途切れに瞬いているかの様な錯覚を覚える光景の中……。掌に収まりつつもずっしりと重量を持ち無味乾燥な配色がされたそれを、僕は内心の叫びを吐き出す様な衝動と重ね合わせ横手で放擲した。

 そして次の瞬間、エレベーターホール周辺一帯が轟音と閃光で眩く包まれた。後方へ凭れ掛けた中心格の警備員を始めとして、当意即妙に閃光を防御したシド以外の全員が想像外の衝撃を受けがっくりと地面へ膝を突く。僕自身も閃光と音響の余波を回避する様に身を屈め防御していたが、徐々に周囲の余韻も鎮まり細めていた視界が開かれ出した。

鼓膜で反響していた轟音や眩めく視界が通常時へ馴染む様に回復し始めると、周囲一帯では既に気絶し倒れ臥した者達が散見される。叉、声無き悲鳴を挙げながら、眩んだ眼窩を押さえ付けたいばかりに両目の部位をヘッドギア上から宛がって煩悶している者達も……。

……雷光と轟音の正体は、シドお得意の閃光弾だ。頽れる警備員達を余所目に、台車を置き捨てて僕達は俄かに走り出した。ボーステラング内中央アトリウム一帯が眩さに包まれた事で、警備員以外に居合わせた者達も漸く異状を察知し色めき立つ。呆然と立ち尽くす通行人を縫う様に、時に突き飛ばす様にして僕達は猛然と疾駆した。

 全速で流れ行く視界の片隅にはテレビ内で見掛ける有名人も入り混じっている様子だったが、緊急事態であると言う理由以前に、僕には何の感慨も湧かなかった。前方の別路に設置された『民間人立入り禁止区域』と表示されるロープ標識をハードル跳び競技の如く盛大に乗り越え、僕達は目的地である生放送スタジオへと直走る。

 そうだ、枢密を世界へと発信する機運は正しく今、今この瞬間を於いて他に無い……!


 


              *


                     


 そして僕達は鋼鉄の扉を蹴破る様に突貫した。場内の人間達は、テレビスタッフ、出演者、観覧客共に未だ僕達の存在を感知していない。舞台横手の暗幕や極彩色をした書き割りの下、僕達は一旦周囲全体を見渡した。天井で複雑な格子状に入り組んだ機器類から点在するスポットライト。その眩い照明の下、四辺から多角的に舞台上を映写する複数のカメラマン達。和気藹々と笑劇を繰り広げる国民的人気タレント達と、そしてその滑稽なやり取りに一人余さず魅了されている観覧客達……。先程逃走する中で一部の芸能人達を見掛けた際には別段興味も湧かなかったものだが、広大なスタジオ内は生放送特有の緊張感と熱気を孕み、闖入者である僕達をたじろがせる程の風格に満ちていた。

 長年に渡り昼間のチャンネルを席捲して来た国民的生放送番組、『ラフィン?』……。当時から通俗に馴染めず浮世離れしていた僕でさえ、日常生活の中でこの娯楽番組を横目に入れた事ぐらいは有る。この番組の知名度と信望は絶大なもので、レギュラー出演を獲得した芸能人達は不動の地位が約束されていると評しても過言では無い。つい先日迄一介の学生に過ぎなかった自分が、華美に彩られた看板番組の前へ躍り出る事には為るとは、想像だにしていなかった……。極く短期間の内に激変して行った出来事の記憶達が、綯交ぜに脳裏と内奥を去来する。僕が今から発表する事実と声明は、巨万の視聴者へどの様に受け取られるのだろうか……?

 僕が自己を獲得しようと決起した後の犯行の数々は、賛否両論を伴いながら様々な影響を及ぼした。無色から有色の存在へ成り変わる為の自己表現と、社会への問題提起……。テレビ放送を利用する今、これ等一連の告白は愈々以って最終段階に迫っている。

そこで僕が不安に囚われるとすれば、警察の追跡等では無い。仮に検挙されたとしても、その後の刑罰等は既に覚悟の上の事だ。

 真の恐怖とは、抱いた大志を半ばで挫かれる事……。問題は、民意へと問い掛ける前に妨害されてしまう事そのものなのだ。描いた目的を達せられたら僕は逮捕も獄死も厭いはしない。

自身の実存を賭けた生死の戦いは、声明は、果たして人々の心に迄届くだろうか……? 一息を搗くと、僕とシドはどちらから共無く視線を交わし志気を高揚させた。そして旺然と踏み出すと、進行を憮然と見遣っていた裏方や業界関係者達を押し退ける様に行進し始めた。背後から強引に突付かれた者達は反射的に振り返るが、僕の容貌を視界へ入れた途端、誰もが一様に声無き悲鳴を挙げ硬直するばかりだ。シドは機先を制する様に周辺の警備員へ銃口を向け、最も警戒すべき敵の動向を封じた。僕達は番組内のセットを裏手からも廻らず、無遠慮に壇上へ侵入して行こうとする。

 和気藹々とした雰囲気に満ちた番組の進行中、突如眼前を横切った人影に会話を遮られ、舞台上の出演者達は呆気に取られた。何者かの闖入は番組内で意図されたハプニングでは無い。不慮の事態に、出演者のみならず会場全体が声を喪った。

そして次の瞬間、頭部にヘッドギアを装着せず素顔を露出した侭の僕を見て取り、堰を切った様に場内は狂騒に包まれる。

 ―ヘッドギアを着脱している者、即ち世情を騒擾とさせている張本人、エス……! 耳を劈く様な叫声が反響し始める中、間近に迫られた出演者達は身の危険を悟ったのか全員が申し合わせた様に反射的な後退りを見せた。複数のカメラマン達は思わずファインダーから視線を外し、壇上の光景を呆然と立ち尽くしながら見遣っている。

恐怖感に駆られ座席から身を翻した観覧客達も散見されるが、場内から脱しようと一斉に通用口へ大挙して行く為に、却って門前は一際の混雑を呈していた。出演者達は動揺の気色を隠せず押し黙った侭だ。僕は舞台中央へ毅然と立ち、周囲の混乱を鎮静させる為に最大限の大声で一喝した。

「諸君! 御静聴願おうっ!!」 

 すると、丸で時間が静止した錯覚を覚えるかの様に先程迄の狂騒が止み、場内は静寂に包まれた……。そして僕は、誰とも無い中継カメラへと事前の牽制を掛ける。この突然の闖入者を前にして、中継スタジオ側も困惑の渦中にいる事だろう。

 現在のテレビ局とは不測の事態が起こった際、即座に編集対応可能な様にと数秒から数分間遅れで生放送を放映するディレイシステムを導入しているのが一般的だ。しかし今現在、場内でシドの銃口は四方へ慎重に向けられ威嚇が怠われる事は無い。一触即発の事態だと言う事は現場に立ち会っていない者達でも明白。僕達の声明を事前に放送中断する事は人身にも関わる、と危険性は十分に印象付けられた筈だ……。

「局内のスタッフ達に告ぐ。現在、ご覧の様に業界関係者、一般観客共に人質として我々が確保した。これから我々の政見放送へと番組内容を変更させて頂くが、程度の多少に関わらず妨害行為を働いた場合には断固として処置を行う。もし何等かの方法で我々の進行を阻害した場合、この現場に居合わせる人質達の安全は保障しない……。くれぐれも、ディレイシステムを作動させ放送中断や編集作業を行わない様に……!」

 粛然とした場内で中継カメラ及び場内全員の関心が一身に集中され始めた事を肌で実感し、頃合いと見計らった僕は訥々と告白の口火を切り始めた。

「ご存知の通り、僕は現在世間を騒然とさせている逃亡犯、エスだ……!

この素顔を見れば解る通り、現在の状況は番組内で仕込まれた演出等では無い。この局内、番組は僕達がジャックした。

……脅迫する様で恐縮だが、この隣に立つ仲間は銃器も所持している。もしこれからの演説を妨害する者が現れれば、容赦無くその銃口が向けられるので事前にご了承を。勿論、進行を阻害さえしなければこちらから積極的に危害を加える事はしないと約束しよう……。

だから皆、心して聴いて欲しい。今回、何故僕は敢えて素顔や所在を晒し、捕獲される危険迄も犯して生放送を妨害するのかっ!?

僕は逃亡生活の中で、政府が隠蔽している或る陰謀の一端を垣間見たからなんだよ……。

しかし、もし政府が極秘管理している機密情報をネット上から個人的に発信しても、個人の妄言や捏造として一般読者や政府からも処理されてしまうのがオチだろう……。現在の言論統制が敷かれている政治状況下では、暴露文書を公開した所で政府監視サーバー側から即座に削除されてしまう事態も充分想定出来る……。だからこそ僕は、自身の素顔を敢えて再度世間へ晒し真実を告白しようと、生放送のテレビ番組と言う媒体を利用するに思い至った。

さて、今、君達一人一人が頭部に被っている国家からの庇護……。この政府管掌のヘッドギアは、現在では欠くべからざる必需品として万民が恩恵に与っている……。更にGPS測位とヘッドギア装着者の主観映像は連携され、多角的な社会監察は既に前提的な現実と化している訳だ……。

報道されている様に、僕はそんな何もかもをヘッドギアへ依存し個人性が剥奪された社会へ著しい疑問や不満を覚えていた。そして、その鬱積していた憤懣は或る日爆発し、独りで叛意を起こすに至ったのだ……。僕は単純に、たった一人ではどこ迄出来るかは解らないが最後まで世間へのアジテーションを行おうと、信念を持ち立ち回っていた。

 しかし、市民や警察の眼から逃れようと某所へ潜伏している時期の事だ……。只ヘッドギアと言う支配的象徴や社会構造へ反抗するだけでは終わらない、世間一般へ隠蔽されていた真実へ突き当たってしまったのさ。

逃亡生活を送り社会機構を調べ上げる内に直面した、何より僕が告発すべきだと戦慄した事実はここからなんだ……! いいか? 心して聴いてくれ…!


―政府は、市民へ電子監察以上の洗脳統治を謀ろうとしている……!!


 僕がインダーウェルトセインで衝動的に通り魔へと走った事件があるが……。その犯行当時の僕の主観映像はネット上で可及的に氾濫した。そこで事件の過熱から興味を持ち犯行映像を反復する様に

視聴していた者達の中から、一種の催眠状態に陥り、自分自身が行為を犯したと錯覚した者達が続出したらしい……。追体験の果てに遂には僕と言う重罪者と同一化し始め、自分自身がエスと云う存在だと妄信し始めたんだ……。

 僕の犯行を端緒とした今回の事例は偶発的な結果だが、政府はこの様な催眠現象の軍事利用を潜行させている。

 奴等は平穏に生活を営んでいる市民一人一人のヘッドギア電脳へと意図的に介入し、映像等を利用して情報操作からマインドコントロール迄を実現しようとしているのだ……!

 政府は対人恐怖症、引篭もりを救済する名目の下、ヘッドギアを普及させ万民を24時間体制の監視、管理下へ置く事に成功した。このヘッドギア電脳の機能を電子監察以外に悪用し、例えばヘッドギア内部の電極から装着者の脳波を測定させ、常時心身の変化を数値化し記録する事で個人の動向や心理状態を更に把握する。そこでサブリミナルメッセージ的に政府の意向に則った情報を本人の生活の中へ定期的に挿入し、暗示効果を働き掛ける。叉、虚偽の映像音声を重ねるか、もしくは逆に不都合な情報や事象のみ主観視点から削除し、不可視、不可聴状態を造り上げる……。

 日夜、実生活の中で無意識の内に潜在意識や深層心理に干渉され、誘導されているとしたら……。時に個人の主観すら歪曲されているとすれば、僕達は架空の非現実世界へ住まわされているのと同じ事になる……。

 この様に政府は一連の機能と高度技術を融合させる事で民意を把握するのみならず、人々の思考や情動迄も共有化し均質化させ、遂には支配しようとしているんだ……!!

 想い出して欲しい。君達の昨日迄の過去の体験や記憶……。それは本当に実感を伴う実体験か? 昨日と云う平凡な一日も人生の大いなる節目も、自恣に由るものか、真に実在した時間と断言出来るか如何か? ヘッドギアの恩恵を享受する限り、記憶とは記録であり、電脳へと蓄積されて行く……。唯一無二の人生を、自身の胸へ刻み込む事無くデジタルデータに全て委ねてしまう、それで本当に満足なのか!?

 自我や体験は客観的事実で構成される物でも、何者かに記録管理され共有化される物でも無い。この政府に由る一連の統治計画は、既に実用段階迄間近に迫っているのだ……。

 今、ここに居る観客達よ、テレビカメラの向こう側に居る不特定多数の視聴者よ、君達は政府の独善的支配に屈従し続けるのかっ!?

 立て! 今こそ蜂起する時なのだ!! 仮面を脱ぎ捨て、自己を獲得する為にっ……!!」



              *


 

「これは人心を撹乱する為の捏造された情報だと公的見解を発表するんだっ!!」

 ロイトフは腹立ち紛れに、署内の調度品を手当たり次第壁へ叩き付け喚き散らし続けていた。その狂乱振りに圧倒され、直轄の部下達も一様に彼の粗暴な振る舞いを傍観し続ける。

(エスが政府最高機密迄をも入手し、テレビジャックを敢行するとは……!!)

 一連のテロ犯罪でも極め付けの所業に、政府及び上層幹部達の立場は愈々以って崖際へ追い込まれた。テレビジャックの一件で既に質疑や抗議の連絡は署内へ殺到し回線はパンク寸前だ。本来当然の事ながら、エスが暴露した洗脳統治計画と言う陰謀は緘口令が徹底されていた。何より実質的にはマスコミも政府の支配下に在り、メディアを通して誘導的に政府の正当化を図る事も可能な筈だった。

 しかし、稀世の英雄と声価を受けるエスの中でも、最も大胆な犯行と声明……。仮にそれがプロパガンダだったとしても、彼の熱狂的支持者達は直ちに盲信した事だろう……。

 今後、一貫してテレビジャック時の告発内容はテロリスト・エスの妄言であり、事実無根と断言する事は容易い。但し、だからこそ反論する側も一般大衆への隠蔽工作では無いと言う確固たる証拠を提示しなければならない。『在る』物を証憑として提示する事は最上の説得力を有するが、元来無形の事象を証明する事は困難だ……。現状では最早釈明も通るまい……。

 市民に由る政府への反感、不審感は上昇する一方だ。人権保護と社会管理を名目に政府機関が実効していたものは、市民の自意志や感情迄も制御する様な抑圧支配であり、失策であると……。今や安全神話が崩壊し、最早国家は転覆し掛けている。体制や役員の一新を迫られる程の革命時期が到来し始めたのだ。一介の繊細な学生が

起こしたヒステリーは、短期間の内に情報戦をも巧みに織り込んで社会を激動の中に引き込んでいる。

―ロイトフは未だ対面し得ないエスへ、宿怨と呼べる因縁すら感じ激昂に駆られていた。自身の権威や社会的信用は失墜し、最早挽回の余地も無い。今後騒乱が収束したとしても更迭は免れないだろう。

(それならば、それならばせめて……。諸悪の根源であるエスだけでも道連れにしたい……!)

 ロイトフは決然と肩をいからせ、衆目の中心へと躍り出た。

「……この侭私の将来が潰されるとしても、エスの首だけは殺って身を退きたい……! それが、長年世界に冠たる電脳都市インダーウェルトセインの治世を司って来た私の最後の矜持だ……! 既に見通しの無い戦いだが、皆、協力してくれるか……!?」                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                     

 一同は神妙な様相で頷いた。政府統治計画はロイトフの独断によるものでは無く、彼も叉組織構造に絡め取られた被害者の一人に過ぎないと言う一面もある。何より頭目たるロイトフの器量、手腕は本物であり、誰もが全幅の信頼と憧憬とを抱いていたものだった。最早首脳達の退陣は予期される結果だろうが、曲がりなりにも警察へ身を置く者達として、エスにだけは一矢報いたい……。介する一同の気概は全員一致していた。

 ふとその時、元ハッカー犯罪者であるサニーが全員の中心へと躍起な調子で歩み出る。

「僕に任せて欲しい。先程の一件でも、奴等は自身のIDを病院内で保育されていた新生児のID番号に紐付けてGPS捕捉を混乱させた。人員は割かれ、その際のタイムロスにも付け込まれ現状の様なテレビジャックや逃走を許している……。

 奴等がヘッドギアの機能を逆手に取ってテロを実行するのなら、こちらは更にその上手を行き逆利用する迄さ。僕も出し抜かれてばかりで、これ以上黙ってられないからね」




             *




 切り裂かれた風が背後へ流れて行く。生番組をジャックし政府の陰謀を世間へ告発すると言う目的を果たした僕達は、テレビ局から首尾良く脱出し用意して置いた大型バイクで目下逃走中だ―。

……疾走する中で視界が狭まり、風景が塗り重ねられた絵具の様に、曖昧に暈けて行く……。それ程の高速運転中、僕は振り落とされない様にシドの背中へ必死でしがみ付いていた。

 しかし恐怖感よりも、車体から身体へと伝わり来る振動が本能的な高揚を募らせ鼓動を際限無く高鳴らせて行く……。そしてシドへ腕を廻し密着する事で、長年感じ取る事の無かった他人の体温を感じ取る。他者への関心や、自他と言う実在の希薄さ……。生きながら実存が不確か、と言う虚無性が根底に淀んだこの現代社会で、閉塞を打ち破る手段は只こんな風に他人の脈打つ生命を直に体感する事ではないか? 難解な理屈も哲学も要らない、仲間との肌での触れ合い……。たったそれだけの事なのかも知れない、と僕の胸中で

ふっと雑感が湧いた。

 たった今、僕が世界へと向けて吐き出した衝動と相俟って二輪の加速とシドの脈動が、過去から纏わり付いていた自己嫌悪や虚無感、社会への不信感等……。そんなあらゆる鬱屈を全て洗い流してくれる様な気がした。

……僕達のテロ計画も愈々最終局面へと到達し始めた。市井へ政府の枢要を暴露した事で社会はどの様な変動を提示するか? 僕達の行為や主張にどれだけの意義が在るか、どれだけの共感者を生むか……。ふと、一過性の自家中毒に潰えるか、と内心の不安が渦巻く。

 僕の声は街へ届くのか?

 僕の声は街へ届くのか……?

 様々な切なる想いが去来する中、不意に黙々と運転していたシドが言葉に為らない叫声を挙げた。逃走経路を進行するだけでも精一杯の為に運転中は終始無言だったのだが、彼は突如として独りでに慌しくハンドルを切ろうとした。

―僕は何事かと眼を剥く。その刹那、急停止に由る怒声の様な機械の駆動音と、路面を走るタイヤが挙げる悲鳴の様な擦過音とが身を震わす程に鼓膜を劈いた。瞬間、慣性を失い僕達二人は車体から前方へと放り出される。

 アドレナリンの分泌からか、時間の感覚が一瞬の様にも永遠の様にも感じられた。先程迄の自分自身の視界や感性等とは遊離した様な、前後不覚の不可思議な浮遊感……。

別人の視界を通す様な、素人の簡素なビデオ撮影画面を通す様なコマ送りの主観映像。火花の瞬きの様な一瞬と、走馬燈が廻る様な永遠との同居の中で、周囲の風景が反転する。

そこで自身が放物線を描く様に宙を舞っていると把握したのも束の間、僕達の全身は舗装されたコンクリートの路面へと強かに叩き付けられた。



             *



……激痛が火を帯びた蛇の様に全身を這いずり始め、思わず苦悶に呻き意識が覚醒させられる。瞼が開かれると、視界全体が藹々と棚引く茜雲の夕焼けで覆われている事へ気付き不意に驚いた。丸で目覚めた瞬間、夢と現実の居場所や状況を混同してしまったかの様な違和感。しかし、次第に僕は記憶の糸口を掴み、論理的思索を紡ぎだして行く……。

―そうだ、僕達はバイクから転倒したんだ……。咄嗟の受身を取る余裕も無かった刹那の中、路面で全身を強打し暫くの間呼吸や意識すら奪われた。しかし性急な状況だったとは言え、前方に障害も無い状態でシドが不注意を引き起こすだろうか……? シドや、バイクはどうなってしまったんだ……?

 倒れ臥す中、横目で状況を確認すると視界には矢張り僕と同様に路上で突っ伏し意識を失っているシドの姿、そして横倒しになったバイクとが見て取れた。シドは丸で眠り就いたかの様に失神している。特に目立った外傷は見当たらない様だが、早く近寄って容態を確認したい……。その目と鼻の先には路面を擦過し横臥した車体が、エンジンを空吹かせ当て所も無く車輪を廻し続けている……。

 僕は苦痛で呻きつつも、一足早く徐々に立ち上がり始めた。事故に陥った事で追跡の手が速まる、と言った懸念は希薄だった。何由りもシドの安否こそが最優先だ。そして僕は恐る恐る彼に近寄り、横たわった身体を軽く揺すりながら悄然と呼び掛ける。

 事故現場はまだ無人の状況だった。バイクが復旧出来るかは兎も角、逃げ果せる事は充分に可能な筈だ。シドの意識が直ぐに回復しないのなら、それこそ引き摺ってでもこの現場から離脱すれば……。

 そんな思案の合間、か弱い途絶え掛けた呻き声が漏れ聴こえて来た……。

「シド! 大丈夫か!?」

 彼が息を吹き返し始めた事に思わず僕は驚喜の声を挙げる。彼も暫くの間、昏倒から現実の意識へと帰還する為に彷徨っているかの様だった。

「うう……。そうか、いや、大丈夫だ。皮肉な話しだが、これに守られたらしい……」

 息も絶え絶えの様子だが、気丈にもシドは自身の頭部を指差す。そうか、確かに皮肉な話しだが、装着していたヘッドギアの強度で頭部は保護されていたのか……。

僕達に取ってヘッドギアから恩恵を浴する事は一種屈辱的な事柄でもあり、単純に無事を喜べない複雑な胸中から来る沈黙が流れた。しかし、そもそも先程に於ける事故の具体的原因は何だったのか?        最も当然な質問を失念していた僕へ、シドは歯噛みする様な調子で説明し始めた。

「クソッタレ……! さっきは済まなかったが、ハンドルを制御出来なかったのは訳があるんだ……!!

 今迄自分自身のID番号を逆用して、映像や他人のID、居場所を摩り替えて敵を撹乱したりして来たよな? 悔しいが、そのお株を奪われたらしい……。

 運転中、視界が突然ブラックアウトしたんだ。前方の主観映像が真っ暗に陥って、車体の操作を誤ってしまった……。そこで停まり切れず俺達は派手にバイクから吹っ飛ばされちまったって訳だ……。

とうとう俺のIDや現在位置が政府にGPS捕捉され介入されてしまったらしいな。ここから先は、ヘッドギアを逆手に取った戦法も難しい様だ。まあどちらにせよ、もうこいつは使い物にもならない様子だけどな……」

 シドが指差す通り、彼の頭部を包むヘッドギアは転倒に由る強烈な衝撃で片側が半壊していた。コーティングされていた表層部が所々破損し、機械内部が剥き出しに露出され痛々しい様相を呈している程だ。最早機能を使用する事も儘ならないのは一目瞭然だった。

「しかしな、これで丁度良かったのかも知れない、ここが潮時なのかも知れないぜ……。矢張り、主張や覚悟を貫き通して世界へ表現するには、もうこいつの存在は邪魔だしな。ヘッドギアの機能を利用する事も、もうここで金輪際封印するんだ……」

 どこか達観しかたの様に、シドは逡巡無く頭部に手を掛けると、あっさりとヘッドギアを脱ぎ捨てた。その一連の仕草は丸で起き抜けに衣服を取り替えるかの様な自然さを伴う、呆気無い程の軽快さだった。

 余りの気易さに呆然としている僕へ、初めてその素顔を晒した彼は人懐っこい笑みを浮かべる。そして、敢えておどける様な調子で恭しく口を開いた。

「……初めまして。そう、やっと出逢えたな」

 彼は自嘲気味に挨拶を述べた。僕は自身以外に、敢えてヘッドギアを脱ぎ捨て素顔を露出した人間と初めて対峙した。どこか未体験に近い不思議な感慨が湧く。

美醜の観念が培われていない現代人の僕達だが、シドの外貌は想像以上に端正なものと感じられた。そして、言い知れない万感が込み上げて、僕達はどちらから共無く二人で破顔し、顎を外す様に大笑をし始めた。夕闇から覗く光に、シドの笑顔が茜色に差し染まる……。


―ふとその時、一頻り笑い挙げた僕達の背後からひっそりと接近する第三者の影が視界を覆った。瞬時に振り返る。

 すると、如何にも精悍な体躯の男が一人毅然と立ち尽くしている……!

 その折り目正しい制服や背筋の通った佇まいからして、明らかに政府直属の人間である事が見て取れた。

 咄嗟に僕達は後退して身構える。転倒の影響で手負いの身だが、シドは警戒する視線を一定させた侭で自身の全身をさり気無く弄っていた。所持している武器類が周囲へ吹き飛んでいないか、携帯された状態の侭であれば故障が無く使用可能かどうか、抜かりなく確認しているのだろう。

……しかし油断を怠らず対峙した僕達を前に、何故か相手は両手を中空に掲げ立ち止まった。

 ふと、相互の動静が停止する……。この何者かは、武装及び敵意が無い事を意思表示して来たのか? ……僕達は攻撃意識と言うよりも、訝しむ顔色で彼を見据えた。

「御覧の様に俺は政府の者だが、この通りあんた達と事を構えるつもりは無い……」

 僕達は横目で相互に目配せし、警戒意識を保ちながら彼が継ぐ二の句を待った。何かの罠かも知れないが、眼前の相手からは一本気な気骨が伝わり、心根の卑しさの様なものが雰囲気として漂わない事を僕達二人が共に感じ取っていた。

……暫しの間周囲が静寂に包まれ、僕達が攻撃態勢へ入らない事を確認した彼は、訥々とその口火を切り始める。

「ヘッドギア生産工場や病院では世話になったな……。病室でやっと出会えるかと思ったが、まさか自分達のIDを新生児の番号に摩り替えるとは想像もしなかったよ。散々あんた達を探し回り、漸くここでご対面出来たと言う訳だ。本来なら、俺は職務上あんた達を拘束する為に今直ぐにでも飛び掛るべきなんだろうが……。

 しかし正直に告白すると、心が狭間で揺らいでいるんだ。あんた達の声明や行動を見聞きする事で、果たして体制側に属する自分が正しいのかどうかを、な……」

 叉も肩透かしを喰った様な心持ちで僕達は目配せし合う。生産工場や病院での犯行を現段階で見知っていると言う事は、矢張り彼は警察の人間と言う事に相違無い筈なのだが……。

 眼前に対峙する仇敵は、何を言わんとしているのか。

「……俺は正直、世間の一部勢力の様にあんた達へ心情が傾き掛けているんだ。今迄何の疑問も抱かず政府役人である事を聖職として誇りに想い、忠実に職務を遂行して来たつもりだったが……。

この世界が虚飾に覆われた悪平等を生み、我々は仮初めの平和の中で圧政を受けているのか、如何か……。

 だから、答えを見極めさせて欲しいんだ。あんた達の抵抗を最後迄見届ける事で……」

 暫しの無言の後、シドは放心した面持ちでこう問い掛けた。

「つまり、取り敢えずこの場は見逃してくれるってのか……?」

 青年役人は黙して語らない。ここで僕達へ寝返らない迄も、電網監視下に置かれている以上、既に彼の立場も危険へ陥りつつある筈だ。シドの様な共感者の先例は在るものの、僕達は体制側に属する人間の内面に迄影響を与える事が出来たと言って良いのだろうか……。どこか誇らしい気持ちを得た僕達は、ふっと敵意を喪失し肩の力を抜いて微笑を交わす。

 青年役人は僕達と意志の疎通が図れ信用を得られたと悟り、一旦の安堵を見せた様子だった。

……しかしだからこそ本題に入れると踏んだのか、次の合間には一際に不安気な気色を浮かべ、切迫した忠告を挙げ始めた。

「今では、市街の各所であんた達の声明に触発された者達が暴動を起こし始めている……! 政府は事態の収拾を付ける為に、今夜から機動隊を総動員して武力鎮圧へ乗り出すだろう……。そして、何より完全な解決を果たす為にあらゆる手段を駆使し、草の根を分けてでもあんた達を捜索しようと躍起になっている筈だ。

 そう、さっきバイクで転倒したんだろうが、あんた達の運転を妨害した者は明らかにうちの班に所属する元ハッカーの仕業だ……。今ではGPS測位からも逃れられるだろうが、事故を起こし信号が消失した情報を受け、この地点を目指し警察が急行して来ているだろう。

 ここからが正念場だぜ、生命の危険も覚悟しなければならない様な、な……」

 青年役人は、僕達の行く末を案じるかの様に気遣いを露わにしている。精悍で武骨な印象を受ける男だが、対称的なその繊細な優しさにはどこか好感が抱けた。

「まあ、危険と言うなら、今僕達と会話している君自身も既に含まれているんだろうがね……」

 僕は彼が何も不服を言わず、僕達の趨勢のみを心配している事に厚意を覚え敢えて軽口めいた言い方をする。そう、彼はまだヘッドギアを常備している。僕達の今後を邪魔しない為にも自身への糾弾から逃れる為にも、彼は直ぐにこの現場から去り追手から目を眩ませる必要がある……。彼は未だ完全な反体制側へ宗旨替えし切っていなくとも、既に自己責任を背負う様な状況へは片足を突っ込んでいるのだ……。

 

―ああ。恐怖と昂揚の入り混じる身震いが止まらない。僕達は革命の最終段階へ突入する間近なのだ……。

そして僕は去り際に、気骨ある反体制予備軍の士へ或る言伝を申し出た。

「答えを見極めたいと言うのなら、一つ手紙を政府へ届けてくれないか? 仮面舞踏会の終幕を飾る為に記した、僕達からの招待状をね……」




              *



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ