『前奏~仮面舞踏会前夜祭~』
『前奏~仮面舞踏会前夜祭~』
―僕は背景が存在しない白亜の空間に立ち尽くしている。
静寂と云う形容をも超越した完全なる無音の世界。足元の高低差も判然とせず、四方を見渡しても方角や面積が推量出来ない程に広大な空間の下。そんな無限大の様な空間の中で僕は独り、何をしようとしているのか?
<何を、しようとしているのか……?>
何かの映像を観賞する様に、客観を通して僕が僕自身の背後を眺め遣っている、と云う瞬間が厳然と在る。しかしその<僕>はそんな視点や意識の混在に疑問や違和感を呈しない侭で、何気無く歩を進めて続けている様子なのだ。
此処には時間軸が無い。丸で無重力の小宇宙空間……。余りにも空虚で森閑とした、感触の希薄な夢幻の世界……。
<完結した永遠の中で、当所も無く歩き続けるのは何故だ?>
<君は何処に行こうとしているんだ?>
<否、そもそも君は何者だ? 君は僕なのか? 僕は君なのか?>
主観と客観の視点が錯綜する中で、僕は歩み続ける自身へと矢継ぎ早に問い掛ける。しかしその<僕>は口を噤んだ様に一向として答えはしない。何処か無感情な様相で、薇を捲かれた陳腐な機械人形の如く愚直な迄の前進をし続けるのだ。
そしてその中途、<僕>の行進を立ち塞ぐ様に眼前へ忽然と何者かの影が出現した。空白に満ちた世界で突如煙の様に噴出した幻影……。しかし、歩行者である<僕>はその現前の仕方へも眉一つ吊り上げる事は無い。潜在意識下に住まっているらしい僕は、この無限空間で初めて他人と邂逅が果たせた事実こそを最優先に驚喜し、何事か相手に語り掛けようとする。
……しかし、声が出ない。無音の世界での仕組みだからなのか、自身では発音している心算でありながら、咽喉が塞がれたかの様に頑として発声が効かないのだ。一転して惑乱した僕は、口真似や表情、身振り手振りで必死に表現を図ろうと試みる。だが顔面は肉付きの仮面で固着されたかの様で、一筋の変化も不可能で在る事を即座に自覚させられた。
何故だ?
話し掛けたい。話し方が解らない。
微笑み掛けたい。笑い方が解らない。
更なる困惑が募り不様な程に取乱した僕は、その所作にも全くの無反応を保つ眼前の相手へと縋る様な視線で見遣る。しかし静観する相手はそれでも微動だにしない。それもその筈なのか……、僕は眼を剥いた。
何と相手には頭部は存在しても、顔が見受けられないのだ……!意思を表す事も、会話も不可能な顔面……。本来所定の位置で個々に収まっている筈の目鼻、口と云った肉体的部位が一切存在していない、完成前の人形の様な無面……。不測の事態に思わず僕は畏怖の悲鳴を挙げてしまった。しかし塞がれた咽喉のせいかその悲鳴は殆ど反響する事も無い。
静謐な空間は残響をしっとりと吸収し、何事も無かったかの様に世界は再度永遠の虚無で満たされる。
動悸が収まらない僕は、その場で必死に自身の外貌を手指で弄り始めた。僕も彼と同様に、顔無しの無機質な木偶人形に成り変っているのだろうか?
―怖い、怖い、怖い。一体の人形に成り果て、この虚無の世界に取り込まれて仕舞うなんて……。僕は顔が欲しい、声を出したい、無感情な人形には成りたくない。助けて、助けて、助けてくれ……!!
―悪夢はいつもここで醒める。
*
『入場受付・~仮面舞踏会へようこそ~』
―ようこそ、電脳仕掛けの仮面舞踏会へ!
若し貴方がこの舞踏会へ参加したければ、事前に入場資格を得る為の原則と知識をお教えしよう。
……古来、仮面舞踏会とは参加者達が寓話的且つ宗教的な仮面と衣裳を装着し、典麗なる行進や舞踏を宮廷内で執り行っていた催しが起源とされる。
―しかしこの一連に於ける舞踏文化が隆盛を極め公的な祭典迄へと認知されるに至った際、時の権勢者達は一抹の畏怖を覚え禁止令をも発布したと言う。
曰く、『仮面舞踏会は風紀を紊乱させる反道徳的性を秘め、社会的悪影響の元凶に成り得る』と……。その潮流を受け、為政者のみならず各界でも公然たる批難は続出し、各地でも反対運動が散発し衝突が繰り返された……。
―それでは何故、仮面舞踏会は物議を醸し社会全般から危険視されたのか……? その社交舞踏文化の何処に、人心を撹乱してしまう程の蟲惑的な魅力が孕まれているのだろう……?
身分素性、容姿すら仮面の基では白紙に戻され、会場内の参加者達は誰もが平等に扱われる。愛好者達はきっと自身に於ける出自、家庭環境、社会的立場や役割等、人生に纏わる柵や鬱屈、劣等感から解放される時間を希求していたのではないだろうか?
仮面はどんな人間も記号化し、個人性を喪失させる。相互の正体を秘匿する事は、過去の隠蔽、捏造をも可能にせしめるのだ。舞踏会への参加者達は、そんな現実逃避がささやかな一時では物足りなくなり、現実へ回帰する事そのものを躊躇し始めた……。
そんな変身願望に囚われた民草が増殖すれば、社会機能全体が麻痺し政治経済が立ち行かなくなる事態すら想像される。時の権力者達はそんな情勢に危惧を感じ、強制的な禁止法すら創案したのではないだろうか……?
―そう、人間は何者かへなりたがる。人間は自分と言う存在や状態から脱却したいと、秘密裏に渇望する。仮面舞踏会の参加者達は何者かを演じられる事での昂揚、何者でも無くなりあらゆる束縛から解放される事への安堵を得て、隠れ家から踏み出る意志を萎えさせられたに違いない。
―そして望むのならば、案内役たる私は飛躍的発展を遂げた未来で開催される、電脳で仕組まれた仮面舞踏会の祭典へ貴方を導こう……! 豪華絢爛たる退廃の宴、享楽と夢幻の一夜へと酔い痴れて頂く為に……!!
―それでは先ず、この仮面舞踏会の起源から解説を始めよう……。
この社会が構築され始めたのは、悠久の太古である二千年代……。当世、世界全体の経済社会は混迷を極めていたと云う。三流喜劇と揶揄された、傲慢と欺瞞で腐敗された悪政。
メディアに於ける情報操作の潮流を盲信し、主体性も無く資本社会の飼い犬に成り下がった一般市民達……。
当時は、退廃が悪疫の如く蔓延し人心を変質させていた。そして取分け人間の内奥へと侵食し、どこ迄も反吐の如く癒着している社会問題が存在した。
―それは同じ人間。有態に表現すればコミュニケーションだ。当時、社会全体で対人恐怖症、視線恐怖症等の精神的病理を訴える患者達は爆発的に急増していた。本来、悪因を総括、断定するには複雑過多であるのが生物の精神構造と云うものだろう……。しかしメディア全般は、それ等病弊の主因とは社会の急進的な近代化が人心を圧迫している、と云った見解を実しやかに喧伝し続けた。そして、その論旨は容易く固定観念として世間へも浸透して行く……。
資本主義社会を引鉄として苛烈な社会競争が発生し、国家単位では地球の存亡が危険視される程の破壊力を搭載した近代兵器が氾濫。散発する戦争、テロ。生き馬の眼を抜く程の経済大戦、物価の高騰、食糧危機、自然破壊、厳罰的且つ画一志向な社会教育、普及したテクノロジーの利便性から希薄に陥り行く人間の生存感覚……。
識者に依っては、一方論では在るがこんな指摘を為していた。巷で横行する異常犯罪や社会問題は、上述の要因が民衆を刺激しつつ、その苦境からの逃避として向けられた高度なゲームやアニメ、インターネットと言った二次元的文化に責任の所在が有ると。
過剰な暴力や猟奇的、性的場面が悪影響源と総括され、これ等の娯楽が若者の現実感を空虚にさせ犯罪を助長していると云う。他に電子通信技術が飛躍的進化を遂げ普及するが、匿名的遣り取りもまた人間関係の本質から逸脱しており実際的ではないと危険視した。
現実逃避の経路を創出している二次元文化。それに依って非現実や妄想を現実世界と混同、又は判別出来ぬ若者達が増加し、問題を群発させる……。確たる根拠も無い抽象論だったが、スケープゴートを渇望している大衆はそんな責任転嫁を図れる対象の出現に喜悦した。或る種のテクノロジー、サブカルチャーは槍玉に挙げられ、規制される方向へと助長して行ったのだ。
勿論、病院等の療養施設では患者に対して心療療法、自己催眠、薬剤投与、整形手術、カウンセリング等の療法を施行してはいた。
―だが。具体的な解決策は発見され得ない侭、精神病患者数は鼠の繁殖を想起させる如く増加の一途を辿り、遂には極点に到達する。一般的に健常者を正常に対人関係を図れる者と定義するならば、精神病患者数がその正常層を超越してしまったのだ……。
ここで逆転現象が発生する。偏頗で在った筈の精神病患者達だが、民主社会に於いては多数派こそが勝者……。
―つまり、対人恐怖こそがこの世界の常識に変貌してしまったのだ! 社会に於いて『常識』とは『掟』と同義語に成る事が暗黙の了解でもある。こうして、本来正常と云う範疇に安住していた人間達は自然淘汰されて行った。
当時に於ける人間の交流手段は、極端に限定的なものへ塑性変形される。電話、PC、掲示板、メール、チャット……。オンライン機器の通信等で二次元の画面上でしか意思の疎通を図れない者達が、一時期は偏執と讒謗されるも何時しか市民権を獲得してしまったのだ。
……想像して見て欲しい。
―貴方は不意に外出を試みる。しかし本来ならば膨大な人口、人種が坩堝と化し犇めき合っている筈の市街下で、どれだけ歩を重ね様とも道行く先は全くの無人なのだ。
それは多忙なビジネスマン達で混雑する筈の経済都市だろうと、活力有る若者達が横溢する筈の繁華街だろうと、婦人達が井戸端会議で嬉々としている筈の住宅街だろうと、子供達に取って通学が義務である筈の学校だろうと、世捨て人が掃き溜まっている筈の路地裏で在ろうと……。
……市民総勢で蟄居し、外界との接触を断絶しているのだから。
引き篭もり症候群の世界。
無音の世界。
……無論、正常から異常の烙印を捺された層も漫然と時代の潮流に平伏した訳では無かった。生産性が崩壊し緩慢に麻痺して行く社会機能を回復させようと、政府が或る打開策を実施したのだった……。
―さあ、そろそろこの扉を潜る準備は出来たかな?
*
・第一章・『仮面舞踏会開催~招かれざる主賓~』
―【新・改訂六法全書】―
第1章―国民の権利及び義務―
第1条〔基本的人権の享有・本質〕
全て国民は、個人として尊重される。生命、自由、幸福追及に対する国民の権利に付いては公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で最大の尊重をされる。
第2条〔装着の義務〕
国民は政府から支給されるヘッドギアを装着し、社会的生活を送る事を義務とする。義務であるヘッドギアの装着を怠った者、素顔を公共の場面で晒した者には、50年以上の禁錮を処する。
・〔財産権〕
ヘッドギアは公営の支給品以外の着用を禁ずる。正規品以外のヘッドギアの装着、又、正規品の構造分析、違法改造を厳重に禁止する。この条例に抵触する者は禁錮30年~50年か、三千万以下の罰金に処する。
・刑罰〔個人の尊重〕
国民は全ての基本的人権の享有を妨げられない。他者のヘッドギアを強奪、損壊と言った個人保護侵害行為を働いた者には、それが故意、事故に関わらず無期懲役か死罪を処する。
発行所/『マスコリーダ出版』
―…………―。
徐に手に取った雑誌や書籍も、結局感興が赴かず定位置に戻した。元々立読みだと気が削がれる上に、ディスプレイ画面が透明な壁の様に介在して読書へ没入出来ない錯覚が煩わしいのだ。
無愛想な店員の、無機質で無感情な「有難う御座いました」と言う儀礼的な挨拶を余所に、どこか心ここに在らずと云った風情で僕は本屋での素見しを終えようと自動扉へ脚を踏み出した。
(口先だけで簡素な空気を吐き出している様なものだ―)
そんな風に内心で店員の怠惰な気質を誹謗しつつ、寝起きの様に漫然としていた僕の意識は不意に正気へと覚醒される。自動扉が瞬間的に開かれた途端、眼前に広がった雑踏と、耳朶を打つ程の喧騒に思わずたじろいだのだ。黒山の人だかり、と形容すべき膨大な通行人の混雑……。閑散としていた書店と外界は、丸で陰陽の如く真逆の世界を展開していた。
そう、今日からパレードが始まる。僕、僕の名前は国籍番号742617000027……。だけど、出生時に国から割り振られた名前なんて便宜的記号に過ぎない。だからこんな無機質な記号の羅列は記憶してくれなくても結構だ。
明確な動機も展望も持たない侭で入学した中流の大学も休講、手持ち無沙汰で索然とした昼下がり―。休講の為漫然と街頭へと繰り出し、不意に市街全体から揚がる熱気を感じる迄、僕は今日が大規模な祝祭だと言う事にも丸で無関心だった。そう言えば自分の友人やら恋人から、口々に遊覧へ誘われた様な曖昧な記憶は在る。しかし人混みが苦手な自分は、最初から食指が動かなかったのだ。我ながら冷淡な事に、友人達へは未だしも恋人相手の誘い迄も無碍に断ってしまった……。
「私と一緒では気乗りしないの……? 楽しくないの……?」
彼女が気色ばんだ台詞を、半ば独り言の様に呟いた事は明確に憶えている。因みに、僕は最近毎月の貯金から捻出して、交際一周年を記念する高額な指輪を彼女へと贈ったばかりだった。
その指輪は虹を想起させる様に淡く儚い七色の光彩を放つ、特殊な性質を帯びた天然鉱石で設えられた逸品……。そう、そんな高額な記念指輪を贈られたばかりの彼女が、急に素気無くなった僕を訝る事も無理は無い。
只、ここ最近の自分自身でも把握し切れない内省的な精神状態を整理したく、一旦孤独な環境に身を投じたいと僕は望み始めていた。
そして、そのやり取りの前後から両者共無く連絡は皆無。気不味い関係の侭今日に至る……。しかし如何ともし難く、最近の僕は閑談や社交に費やすだけの気力が欠乏している。
それ以上に、外部の生活へ対する現実感すら希薄なのだ。いつから自分がこんな風に無気力な精神状態へ減退して行ったのか、その記憶もまた泡沫の夢の様に朧気なのだが……。
今の僕には実生活の中で、視界に在る物全てが演劇上の書割りの様に見えて来てしまう。
―例えば<都心>―。
そこは正しく人間の坩堝だ。栄耀たる都心部に犇く、市民達の殷々とした様相……。最近の僕は、そんな殷盛を極める街中を往来する中で、平静を装いながら不意に狂騒に襲われる時が在る。
……大勢の人間の中で、自分だけが片隅に追い遣られて行く様な孤独感、自分の真の居場所はここでは無い筈だ、と言う違和……。
日増しにそれ等の不一致は肥大して行くのだ、想い想いに行き交う群集と。
皆、権謀者達に拠って形成された既存の社会に、何の葛藤も無く適応して今この場所を歩いているのか? 彼等は何処から来て何処へ行くのか? 僕の内面等は孤独や無力感以上に、根底に在る生存動機すら危ういと言うのに。その疑念は荒波の渦中で転覆し掛けている小船の様に、不安定に振幅し続けていると言うのに……。易々と社会へ適合している模範市民からすれば、僕の観念等余りにも青臭いと哄笑されるかも知れない。だがそれでも、僕の内心の煩悶は木霊するばかりだ……。
<自分とは何か?>
<自分の生存理由とは?>
<自分の生存価値とは?>
―例えば<学校>―。
一般的な若者として、ご多分に漏れず僕も学業に不熱心ではある。事務的に教鞭を執る教師達の退屈な講義を日々受講する度、何とまあ通り一遍でティッシュ一枚の様に浅薄な教示だ、と欠伸を噛み殺しているものだ。
しかし僕に取って、反感の対象は既に枯渇した様な大人達ばかりでは無い……。僕を取り巻く級友達の日常も叉単調極まりないからだ。大抵の生徒は受講だけを反復する変わり映えの無い毎日で人生を浪費し、確固たる夢も持たない。只学校と言う小規模な社会に於いて、規範から逸脱しない様に、周囲の人間から忌避されない様にと細心を砕く。
僕に取ってはここも所詮上辺だけの馴合いが横行する、実に白々しい学芸会の舞台だ。希望に満ち溢れた青春の謳歌等何処にも無い。保身と引換えに、退屈と言う檻に自ら入獄した惰弱な囚人達の巣窟……。僕には本音迄を曝け出せる友人等一人として居ない。
……教科書には便法ばかりが載るが、夢を持つ事迄を説きはしない。
―例えば<家族>―。
絵に描いた様に平凡で円満な家族。無知で善良な両親の元で、何の障害も不足も無く、僕は手塩に掛けてここ迄撫養されて来た。家庭内では軋轢等皆無で、思春期の反抗なんて現代では風化した通過儀礼だ。何所の家庭も扶養される者は従順で卒が無い。
両親は息子である僕がこの侭大学を巣立った先には、順風満帆に平均水準の社会生活を送り、程々の女性と結婚し、自分達の家庭を築き、何れは両親達の老後の世話迄をも甲斐甲斐しく担って行ってくれる……、当然の様にそんな未来予想図を確立させているに違いない。無論僕も両親に対する敬愛や謝意を持ち合わせていない訳では無く、それ程の薄情者でも親不孝者でも無いつもりだ。
両親が想い描く家族計画は至極真っ当な物だろう。しかし内心を告白してしまうと、僕は両親や世間に浸透した既成概念には馴染めない……。……安定や保証と言った、処世術に終始した一般的価値観にだ。
眼を背けたくなる様な異物も汚濁も傷跡も無く、丸でテレビCMの様に整合的に配備された、絵空事の様な理想的生活空間。全てが約束事に満ち、快適さや健康を典型として、安息を第一義とする教条的人生。最終的には幸福な結末が用意されている周到な台本……。
誰もが社会の進行に順応して行かなくてはならないのか? 予め定められた流れに乗れば安楽に生きて行ける。しかし人間として生まれ落ちたならば、只の歯車の一部として日常に埋没するのでは無く、生きる証を立てる様な夢を追い求めてはいけないものなのだろうか……?
夢と言う概念自体が枯死して幾時代も経過している……。そんな無機質な現代で生育されて来た故か、疑念を抱えながらも確固たる生き甲斐と言うものは、正直僕自身未だ掴め切れてはいない。しかし若しそんな理念が具体的な事柄として浮かび上がった時、僕は安定した将来や家族の期待、信頼に対して違背して仕舞うかも知れない。
若し僕が社会から頽落した時、両親はどんな反応を見せるだろう? 僕の毎日の行き帰りに向けてくれる愛想も、冷淡な幻滅の横顔に変わるのだろうか……?
―例えば<恋人>―。
いつから、どんな経緯で交際する事になった? 友達からの紹介だったかも知れない。ともあれ、数年も経たない高校時代すら、脳内の記憶回路に幾重もの靄が掛かったかの様に不鮮明だ。ここ数年、僕はどんな想い出を積み重ねて来たと言うんだろう?
丸で教科書を模写したかの様な、上辺だけの付き合い方しかして来なかった気がする。
僕は彼女の何処に魅かれたのか? 否、そもそも本当に僕は彼女を愛していただろうか? その逆に、彼女は本当に僕を愛していただろうか? 自分の実在が影の様に薄らいでいる事へばかり気取られている僕が、本当に他人の心情迄気が回るだろうか? 自分自身が自己の希薄さに潜在的恐怖を感じ怯えているのに、彼女が僕のどこに特徴を覚え、理解し、時には魅力を感じてくれたと言うのか?
そう、今迄の人生を敢えて回顧する時。自分が接点を持った人間達と、果たして心からの交感が一度として在ったのか如何か……?
……解っている。
―僕は空っぽだ。何も無い器だ―。
そして他人も……。
生活空間の背景も、周囲の人間関係も、全てが虚構で仕組まれた舞台の様な非現実感。巨大な世界の流動と循環に、一人だけ取り残された様な孤独感。こんな風に意識ばかりが内省へと向かい、実生活では電池の切れ掛かった機械人形の如く無感情なのは何故なのだろう? 叡智と栄華を極めた先進都市で出生した僕達市民は、温室の様な社会教育の中で培養されて行く。
そこで、最近僕の脳裏で矢鱈と反芻される謳い文句が有る。観光客向けの都市刊行物に載る過賞な宣伝文や、街頭のスクリーンで豪奢に映発される案内映像から……。
【―万全たる教育制度、政治制度、社会福祉制度。そして最高水準を更新し続ける就学率、就職率、経済力。犯罪発生率も極少たる治安、最先端を推進する高度科学技術、環境保護も考慮しながら洗練させ利便性に富んだ都市空間……。世界の理想を体現する電脳未来都市、『インダーウェルトセイン』へようこそ!!―】
現代の社会政治上では、一般学生達は大学を卒業すれば殆ど自動的に就労先が決定される。それは当然の様に、本人の主意に副う訳も無い仕事を永久就職先として宛がわれるのだ。
そして何の展望も持たない僕にも近日中に付与される予定の筈だ、凡庸で陳腐極まりない退屈な仕事が……。
整合性と言う名目の下、体制の歯車に一個の部品として組み込まれる。消耗した部品は何れ廃棄され、矢継ぎ早に代替品は用意される。何の疑念も葛藤も抱く必要が無い、何かに泥臭く努力する必要が無い。禍福無く安穏と、温室で生育される植物の様に只生き永らえる……。
平常。平常とは振幅が存在してこその定義だ。歯車の可動に故障や障害すら有り得ないと保証された時、それは平常や維持ですら無い。
停止だ。
この社会は停滞し続けているだけでは無いのか? そしてその枠組みで閉塞している僕自身も。……そんな疑念ばかりが澱の様に内心で沈殿する。どんな場所に居るとしても、僕の魂は胡乱に身体から抜け掛けて中空に浮遊して仕舞っている。
全てが空疎だ。
時折僕は内外の現状を、吹き出しに何の台詞も書かれていない未完成の漫画原稿の様だと想起する。
相容れない、馴染めない何か。僕は制御し切れないそんな情動に、日増しに憑依されている気がするのだ。段々と噴出しそうな叫び。
(全ては虚構だ、嘘っぱちだ、全ては虚構だ、嘘っぱちだ……)
そんな内心の咆哮に。
……不意に耽っていた物想いから目覚める。立ち止まって傍観していた祝祭の活況へと、次第に視界の焦点が定まって行く。当初丸で無関心だと前述したが、今日のパレードに於ける熱気は不感症気味な僕の精神状態へ、多少なりとも現実感を呼び戻し掛けてくれているかも知れなかった。
耳を劈く様な雑駁たる大音声。中てられて仕舞いそうな人熱れ。建物は旗や花等で見目も華美に装飾されていて、紙吹雪は粉雪の様に舞い散り、何時しか石畳を極彩色に彩っていた。
晴天の蒼空には、色鮮やかな数多の風船群が植物の綿毛の様に浮遊しながら次々と吸い込まれて行く。行進する楽隊に由って奏でられる心躍る様な賑々しい音楽が、時に音塊と成って腹部へ響き、時に玉を転がす様な心地で耳を快くさせてくれる。そして街区を闊歩するのは、仮面舞踏会と言う祝祭に於ける本日の主役、古式床しい仮面と衣装で盛装した舞踏家達と牽引される馬車の一群……。
微笑ましい家族連れ、愛を誓い合った恋人達、熱に浮かされた様に疾駆する子供達……。
(皆、幸せそうだ―)
その交歓に満ちた情景に紛れながら僕は想う。
(皆、幸せそうだ―)
そう、或る一つの特徴を除けば。
この世界は或る金科玉条に由って成立し支配されている。それは、僕の頭部を丸々と覆っているヘッドギアの事……。そう、全市民が装着している同一規格の大型ヘッドギアの事だ。
このヘッドギアを自発的に、特に衆目で着脱する事が禁忌とされ、四六時中の装着が義務付けられたのは古代二千年代初頭と歴史的記述が為されている。
―当時の世相は、所謂対人恐怖症、視線恐怖症、醜形恐怖症等の精神的病弊を抱える人間が急増し、人々のコミュニケーション不全が社会問題視すらされる程に民度の衰退が顕著な時代だったと云う。
各種機関は社会全体を侵蝕し行くコミュニケーション不全の原因を究明しようと試みたものの、具体的な根拠や結論は一向に導出されなかった……。
心理学や精神医学は過去を分析、統計する傾向が強い。尚且つ個々の人間に於ける過去、生活環境、人格、因子等から総合的に原因を判断し様とするならば、絶対的且つ普遍的な療法等、基より発見出来る筈も無かったのだ。
結局は効果的な療法が講じられない侭に社会問題は肥大化し続ける。蟄居を生活基盤とする市民が増発して行く状況に難色を示した各種メディアは、当然の如く否定的見解を強調させ市民の更生を煽ろうとした。
しかし悪影響を受けた居食い達が増殖されて行く事態に抑制は効かず……、段々と『働かざる者食うべからず』と言った格言が死語と化して行く。本来ならばいつの時代も、社会的価値観とはメディアの論調に拠って自在に左右される誘導的なものだった。
しかし引篭もりが恥辱とはされず常識的概念として浸透し、情勢はほんの一時代で激変してしまった……。それは、世間がメディアの潮流を一蹴した歴史的転換点となったのだ。
……そして幾許か経ち、社会機能の麻痺を懸念した政府は問題打開の為に自ら神輿を上げた。
政府側はコミュニケーション不全に対する公的見解と打開法案を、大々的にこう発表したと云う。
<……現在 社会全体を閉塞させているニート/引篭もり問題。我々政府はこの社会現象の解決を国家的命題と厳重に捉え、抜本的な改革案の創出を目下急務として進行させている。
では先ず治世を司る政府の見地から、社会機能へ支障を齎している根本的病理、人々のコミュニケーション問題に関して考察したい。……対人恐怖症、視線恐怖症、醜形恐怖症の患者達に取って、恐怖の主因とは素顔に於ける人間との対峙である。
外貌を晒す事が他者に取っての第一情報、接触の始点となり、即ちその第一印象に由って人間関係が左右される。その過程で他者から精神的外傷を負わされる可能性も有り得る、と言う悲観的想像力。これが恐怖心の本質なのだ。
精神的外傷の程度は個々に由って大同小異在れど、以前の人間関係に於いて発生した心理的な苦痛。それ等の苦痛の記憶を根拠として事前に自己開示へ抑制を掛けて仕舞い、防御反応の過剰が閉鎖的性向を助長する。
他の要因としては、事故発生率、犯罪率の増加、世界的にもテロや戦争が散発している不穏な世界情勢等が挙げられる。時代の趨勢から来る荒廃に伴い、市井の警戒心が自然と助長されている事は論を待たないだろう。
そんな情勢下に於いて、市民一人一人の人間関係に対する恐怖心、不全は不可避で在るとも考察される……。
―そこで我が政府は一計を案じた。自己不信、対人不信を解決する方策……。それは他者認識、他者評価の因子を根本から排除すれば良いと云う事。
ならば、自己存在証明と成る外貌……。そう、全人民の、一人一人の顔を覆い隠して仕舞えば良い!
其処には一切の差別が存在し得ない。自己存在、自己証明、人種、美醜……、あらゆる評価の基準が白紙へと戻せるのだから……>
公式発表後、程無くして政府内で同一規格ヘッドギアが開発され、全人民に対して一斉支給が行われた。そしてこの世界は、政府管理下に置かれた電脳ヘッドギアを四六時中装着する事が義務化されたのだ。この新法成立は歴史的に電脳仮面制度と呼称される。
若しこの電脳ヘッドギアを他者の面前で着脱し様とすれば、危険信号を受信した警察は直ぐ様現場へ駆け付け当事者を逮捕してしまう。先ずその治安維持の仕組みだが、国民へ支給されたヘッドギア内部には装着者で在る本人の個人情報が詳細に記録されている。そして政府は一手に管掌している電脳ネットワークとヘッドギア内部に於けるGPS機能や映像機能を連動させ、一般市民の行動を常時電子監察しているのだ。
24時間に及ぶ国家的監視の下ではヘッドギアを公的な場所で着脱する行為は愚か、誰もが軽犯罪すら慎む他は無い。……こうして政府は、人民を画一化させ記号化させる事に成功した。多数派と少数派、その天秤の高さが入れ替わる寸前に全てを綯交ぜにして……。
無論新法に対して抵抗運動を見せる健常者層は存在したが、その反抗も虚しく運動家達は厳罰の前に敢無く駆逐されて行った。政府への抵抗者は容赦無く投獄される為、従順な一般人達は国家的圧力の前に屈服し新制度を受容する道を選ぶ。
そして対人恐怖症等の病弊を抱えた幾万の民草は、この特殊な新法の生誕に由って思わぬ社会復帰の光明を得る。彼等は想像だにしなかった一新の機会を得る事で、自ら仮面を装着し進んで外出を始めたのだ……。
精神病者達が本来的な一般生活に回帰すると、政府の目論見通り社会機能は飛躍的な回復を見せた。そして世界は有史以来前例に無い程の恒久的な安寧秩序を獲得し、中枢たる電脳都市インダーウェルトセインは益々の隆盛を極め現在に至る。
……因みに電脳仮面制度の制定から始まった社会性の変遷を指し、こんな都市伝説の様な噂も世間では流布されていた。
『その時代の病理を電脳仮面制度と言う画期的発案から解決した事で、政府は謀らずしも社会機能と人心を完全に掌握したのではないか……?』と。
現代と成っては、誰もがこの電脳ヘッドギアを当然の如く生活の指針として活用している。最早これは自身の素顔を隠蔽する為だけの仮面では無く、最先端技術の恩恵を浴する全能型生活支援装置……、もう一つの不可欠な頭脳なのだ。
例えばヘッドギアの電脳を介し、ネット機能を連携させ作成された生活予定表を閲覧し日々の行動を取る。何事かの調べ物を百科事典の要領で情報を引き出す。内部電脳は電子鑑札も兼ねるので、相互の認識番号を赤外線通信で照会する事や身元記録も出来れば、電子マネーでの買い物取引等も可能だ。電話やメール等一連の通信機能としても活用出来る上、他には地図表示、音声や映像の記録、テレビ、ラジオ、音楽、映画等の鑑賞等、放送媒体迄もヘッドギア本体のみで事足りる……。
……この様に、現代では誰もがそんな多機能を持つヘッドギアの恩恵を授かっている。例え素顔を晒す事が合法に成り得たとしても、今更誰もこの快適さから脱却したりはしないだろう。
素顔の隠蔽、電子監察、ヘッドギアテクノロジーの利便性。これ等の相乗効果に由って、この仮面が人民の個人性を剥奪している事は紛れもない事実だった。
―そう。僕は友人や恋人は愚か、実の家族の素顔すら生まれてこの方未見なのだ……。僕が離人症気味なのは、そんな社会機構が一因に成っている、と評しては責任転嫁に過ぎるのだろうか?
そこで僕はずっと疑念を抱いた侭生きている。他愛も無いと揶揄されるかも知れないが、人間は疑い出せば際限は無い。例えば自分が帰宅した時、出迎えてくれる家族は本当の血族なのか? はた叉、昨日迄同居していた人間と同一人物なのだろうか? 体型が似通っているとしたら、他人が家族に成り済ましていても容易に区別は付かないかも知れない。勿論ヘッドギアを着脱して他人と交換する事等は認証上の問題も在り不可能に近いのだが……。
只、こうして思考を繋げば全てに妄想の糸が絡んで行く。若し或る時期に、誰かが僕の友人や恋人に成り済ましていたとしたらどうだろう? いつ、誰と誰が入れ替わろうが何等支障無く円滑に生活は進行して行くかも知れない。そして、若しその相手を変装者だと気付かず交際を続けていれば僕は道化染みた間抜けでしかない。本人を見抜く事も出来ない程度の紐帯や愛情しか紡いで来なかった酷薄な人間、と言う結論付けすらされて仕舞う。
逆も叉然りで、或る日突然僕のヘッドギアを入手した者が居たとする。動機は兎も角、若しその盗人が僕に成り代わり、僕の役割を演じ始めたとしたら、一体どうなるだろう? その侭誰も感知せず、昨日と同様に平穏な日常が続くとしたら……。
そうなれば今迄築き上げて来た自身の人生や意味は全て崩壊する事になり、僕にはその不在感に耐えられる自信は無い。そもそも本人に本質が無く、生きて来た証が無い、なんて事実には……。
丸で臆病な幼児の妄想と嘲笑されるかも知れない。
『実は居間でテレビを観ながら団欒している家族が、自分の血族ではないのかも知れない』。飛躍して『自分以外の人達は全て宇宙人か何かではないか……』と言った類の、突飛で子供染みた想像に近いのは認める。しかしそんな疑心暗鬼に駆られる程に僕の内心は掻き乱されている。
寝惚け眼を擦りながらベッドから這い起き、机上のヘッドギアへ手を伸ばす時……、毎朝想う。
『僕は進んで仮面を被ろうとしているのか、進んで仮面に被られようとしているのか?』
『僕が仮面なのか、仮面が僕なのか?』……。
仮面を得る事で自我を消去する? 自発的に自我を消そうとするなんて、余りにも矛盾した表現じゃないか。
今迄は微塵の疑念も湧かず、仮面を被る事に由って個が消されると一面的に捉えていた。しかし寧ろ仮面へ自我を預けているとすれば、最早仮面を被っていない素顔の僕こそが何者でもない……、無だ。
今迄の社会生活、人生の全記録はあらゆる媒体でこのヘッドギアの電脳に保存されている。出生から家庭での団欒、学校や教室の気怠い空気、授業の内容、試験の点数や成績、運動会や学園祭での結果、読書した本の内容、鑑賞したテレビや映画、音楽の内容、旅行地での景観、友人との交際、恋人との逢瀬……。
文章や映像としての詳細な記録情報だけで無く、日記としてもそれこそ追想のアルバムとしても電脳はその目的を果たしてくれる。振り返りたければ、些事に過ぎない生活の一瞬すらも巻き戻し再生を行って鑑賞が可能なのだ。年月日から何時何分何秒迄をも詳細に指定して。
そんな一連の記録や記憶が体系化されて格納されているとすれば、今となっては物言わず無機質で硬質なこの仮面こそが僕の素顔……。僕自身の存在証明で在り、自我と解釈出来るのではないだろうか……?
自室での時間は、ヘッドギアを着脱出来る唯一独りの空間だ。僕は近頃鏡と対峙する度、対面する相手へ呟く様に問い掛ける。
『……君は何者だ?』
『……君は美しいのか?』と。
憲法上の経緯からメディアも規制され、人民は悉皆自分以外の外貌を見た経験が無い。故に、顔の造作等への美的感覚も完全に欠如している。
何が美しく何が醜いか? 古来では、容姿こそが自己証明や他者認識等を図る為に最も生理的且つ簡便で強力な要素だったらしいが……。前時代では第一印象で人間性迄が結論付けられる事も日常で、美貌在る者は優遇される事も当然だった。それこそ羊頭狗肉な人間すら芸能界では持て囃され、それだけで生涯豪奢な生活が享受出来た者達も存在したと言うのだ。
一種の道徳観に反して、人間は平等に生まれた訳では無いのが世の真実なのか? 万人は平等で在るべきだ、と言う社会的倫理観は偽善的建前に過ぎないのか。
確かに現代では差別等存在しない。しかし現状は、人々が平均化されている以上に画一化されているに過ぎず、人間の差別心の芽そのものが潰えた訳では無い筈だ。
そう、只区別が困難な程、個々が不透明にされているだけだ。
画一されていると言う事は個々の役割が存在しないと言う事。
誰の生死が在っても頓着せず世界は進行し続ける。
世界を構築する者は誰でも良く、誰でも有り、誰でも無い。
僕は只の記号。
僕は透明な存在。
他人は只の記号。
他人は透明な存在。
他人と比較しなければ、僕は自己確認が出来ない……。そうだ、他人こそは自分の鏡。そして、僕もまた他人の鏡……。
……そう暫く物思いに耽っている時だった。
混雑の中で立ち尽くす中、不意に或る衝動が僕の胸を強襲した。
ヘッドギアを介した視界に広がる目抜き通りでのパレード。
その光景を傍観している内に、こんな甘美なる囁きが脳裏を去来
したのだ。
『奴等は特例組じゃあないのか?』
祝祭に於いて、仮装の為にヘッドギアの着脱が特例として政府から容認された劇団……、否、若しかしたらこの劇団の連中も政府から派遣された局員と言う可能性も在るが……。
どちらにせよ、この一群は覆面や仮装で薄皮一枚と言う状態に危機感も抱かず、観衆へ愛嬌を振り撒き街路を行進し続けている。
この事実を察知しただけで、何故か油溜まりの様に粘着質で鈍重な背徳感が内心から湧出して来るのだった。
そんな惑乱の刹那、楽隊の生楽器に由る原初的な演奏とは似つかわしくない、機械的で軽快な着信音が鼓膜に響いた。ヘッドギア内部のディスプレイに新規メールの通知が丁度二通表示される。文章、音声、通信者側の映像が三分化されつつ、同時に読解と視聴が可能なインターフェイス。誰からの連絡か、視線認識と音声認識機構で差出人や件名を確認する。
「誰からのメールだ?」
反射的にヘッドギアの内臓音声が作動し、文面と音声で質問に対する開示が為される。
「一件目ノ再生。配信者、インダーウェルトセイン政府カラノ直属メールデス」
『就労先通知』
『拝啓 インダーウェルトセイン政府より、時下益々健勝の事と慶び申し上げる。さて厳正なる選考の結果、貴君の勤務配属先が決定した。
・就労分野……「コンピュータ事務」
・勤務地……「セブンスプラスティックトゥリーヒルズ・ゲートタワー内部」
・勤務時間……始業(8時30分) 終業(19時00分)
・休日……定例日毎週日曜日、祝日
・基本賃金……月給200000ペッソナ
・社会保険加入状況(厚生年金、健康保険、厚生年金基金)
4月付けから、貴君も誇り高きインダーウェルトセインの忠実にして誠実なる労働市民だ。インダーウェルトセイン市民として勤勉な態度を旨とし従事せよ。模範市民と成る様な貴君の精励、社会的貢献に期待している。 敬具』
「二件目ノ再生。配信者896501756カラノメールデス」
『久し振り……。今、どこにいるの? あの後から何となく連絡しにくかったけど……。これで終わりって事じゃないよね?
今日のパレードは一緒に観たかったな……。この前貰った指輪は、何時も大事に着けています。良ければ返事を下さい……』
ふっと全体の映像が消失し、ディスプレイは受信画面に戻る。
暫しの間、放心状態の自分が居た……。
先ずは一通目のメール。僕の半生は、余りにも安易に巨大な権勢に由って決定付けられた。
現在の政府は整備され、透明な管理社会性を徹底している。決定される配属先の環境や給与条件等も、誰からも不平不満が噴出しない様に平等性を遵守しつつ厚遇を敷いているものだ。実際僕から見ても、決定された業務や提示された労働条件に対して何ら不満を挙げる余地が無い。厚生省の人事部も、当事者の過去の経歴や学業成績、嗜好等も分析し資質判定をしているのだろう。
そして二通目のメールは、彼女から和解を持ち掛けて来る様な内容だった。ここで僕からも儀礼的な謝罪をし、打ち解けて行けば容易く交際関係は修復する筈だ。時期が過ぎれば、何事も無かったかの様に全てが平穏に収束して行くだろう。
それは人生の美観だけを切り取った、絵空事の映画の様に……。
政府から提示された配属先に関して、取り立てて不満は浮かばない。だが自身がその業務へ従事して行く人生を想像した時、燃え立つ様な充実感を得て日々へ向かえるか、つい鑑みてしまう。自問自答すれば、傾注する程の情熱は湧かない、と言うのが正直な心境だろうか。
ともあれ、今の僕に確固たる展望は無い。それならば将来の就労も対人関係も、この侭大勢に押し流されて行けば無難に人生は過ぎるのだろうが……。
<―大勢に押し流されて行けば……?>
<―これからの自身の未来さえも他者に委ねて……?>
通信画面を透過して、眼界に拡がる様相を一瞥する。街区の熱気は途絶えず、劇団は変わらず祝祭の主役として行進し観衆を盛り立てている。僕はと言えば、その空間へ馴染まずに遠巻きから傍観しているだけだった。そして、何故か先程からの妄想には拍車が掛かるばかりだ。
(……例えば、連中の誰かが道の往来で不意に転倒してしまう。そこで思わず仮装や覆面が肌蹴て、当人は公衆の面前で自分の素顔を曝け出す事態に陥る。当然、観衆は一斉に注視する……。
そして次の瞬間には一大事と為り、現場は大騒動へと発展するのだ。僕は群集の一部に混じりながらも、内心ではそんな混乱にほくそ笑む……)
そんな悪しき想像の虜に成って呆然と立ち尽くす自分が居る。
(何を考えてるんだ! 止めろ、馬鹿な考えを起こすな!!)
苛烈に湧き上がる犯罪衝動を抑制しようと、僕は自分自身へ必死に言い聞かせた。
そして意外な事に、道端で俯いた侭の僕を見遣っても誰一人振り返らず通り過ぎて行く。傍目から見れば挙動不審かとも思ったが、群衆は現場の熱気に浮かされ昂揚を隠さない。パレードの享楽に耽っている者達が、一介の通行人の様子に気を留める事も無いのだろう。
―思い詰めた自己との葛藤……。
……どれ程の逡巡の経過が在ったのか、気が遠くなる程に長大な様で、瞬きの様な一瞬にも感じられた。
しかし遂に、僕の甲斐甲斐しい理性と言う抑止力は足蹴にされた。
僕の名前は今、「衝動」に成り変わる。
丸で自分以外の何者かに突き動かされている様な狂熱に全身を包まれ、視界が非現実感に満ち始める。眼を逸らした訳でも無く、只定位置で立ち尽くして居ただけなのに、眼前の情景が曖昧にぼやけ様変わりした様な違和感。
胸奥が不穏にざわついている。しかしそれと同時に、これから起こす大事へ武者震いする様な不敵さも根底では息衝いている……。丸で熱病の中、自身の内部が無数の人格に成って遊離している様な複雑な心境だった。
僕は管理画面のホスト端末へ、これ迄に取った事が無い程の高圧的な調子で呼掛ける。
「さっきのメールへ返信だ」
「了解致しました、メール画面に移行します」
言うが速いか、即座にメールの通信画面が眼前に表示される。確固たる文面や口頭での内容等、練られてもいない筈だった。しかし僕は丸で予め台本を用意していたかの様に、思いの丈を流暢に紡いで行く。
「御日柄も良く、崇敬なる糞っ垂れのインダーウェルトセイン政府様。私は国籍番号742617000027番。本日『セブンスプラスティックトゥリーヒルズ・ゲートタワー』に永久就労が決定した一介の男性です。さて、不躾ですが早速本題へと入りましょう。
……私は貴兄等の崇高な理念と治世に拠り決定された強制労働を、丁重にお断り致します。
―想えばいつからか、僕は僕の存在の実証性の無さが怖くて堪らなかった……。先進的で在るとされるこの社会の一視同仁な平等性が、いつしか個を排除する悪平等だと感じ始めた。
あんた等のやり方が悪政なのか、僕が異常なのか、それは未だ解らない……。只、僕はたった独りの、個人に由る独立宣言を此処で宣誓する。
僕は僕の生まれた意味を、価値を掴みたい。僕は僕の生存理由や生き甲斐を、自分自身の手に由ってこそ創り上げたい。ベルトコンベアの工程に載るのでは無く、この眼で物を視て、この両足で道無き道を拓きたい。己だけの生きる証、生きた証を手に入れたいのだ。
僕は僕が何者なのか自分でも解らなくなってしまっていた。否、その不在を自覚し、意志を持とうとする時からが真の人生の始まりで在るのかも知れないがね……。
無色から有色へ僕は変わる。僕だけの色で、この世界を塗り替えて見せる。今から始まる情景から目を逸らすな。捕まる事等最早僕は厭わない」
「……896501756―。今迄僕と付き合って来てくれて有難う。やり直そうと言ってくれたメール、君にも勇気が要っただろうし嬉しかったよ。只……。僕はもう頭のネジがぶっ飛んでしまったんだ。社会から食み出る異端者に成ってしまう一歩手前だ。
『自分を出す』とはどう言う事なのか? そもそも自分とは何なのか? 単純な様で堂々巡りを繰り返すこの問いに、僕は独り延々と囚われていた。
今迄何も築き上げて来なかった僕が居る。確かな物が何も無い、無為に流されて生きて来た僕が居る。自分に確固たる足元が無い人間が、自分を好きになれる筈も無い。自分が好きになれない侭では、他人に対して心を開いたり、好きになると言う事も難しかったんだろう。だから僕は、君にさえ胸襟を開いて接して来れなかったんだと想う。否、開くだけの心が元々無かったんだ。
最後の思いの丈だけは、君に伝えて置きたかった……。今からが人生の真の始まりだと僕は息巻いている最中だ。これから起こす行為は、どうあっても世間からは非難される事だろう。
でも反社会的だろうと、もうこの衝動は止まらないんだ。僕が投獄される前に、君へ迷惑が掛からない今、はっきりと別れを告げて於こう。
僕の事なんかは忘れて、君は君の人生に踏み出して行って欲しい。―それじゃあ……」
一気呵成に喋り倒すとその声明は自動的に文章・音声化され、遠方の該当者達へメールとして発信された。発信完了画面を観て、不安の胸騒ぎと戦意の高揚とが入り混じる。役所の人間達はこのメールを受信したら悪戯とでも取るだろうか、それとも憤慨して直ぐ様機動隊でも派遣して来るだろうか?
彼女は別れ話しを持ち掛けられる以上の不穏な声明に、僕の気が触れたとでも思うだろうか。一応也とも付き合って来た男の頭が可笑しくなった、と。それとも不謹慎な冗談だとか、迫真の演技で謀ろうとする僕なりの報復だとでも誤解するか……。
彼等の解釈がどうあれ、今から件のメールが犯行声明だったと証明する為に僕は歩を進めた。余りに退廃的で甘美な、犯罪の衝動に突き動かされて。
「アアアアアアアアアアアアアッ!!」
僕はパレードの喧燥を掻き消す程の咆哮を上げた。観衆の誰もが一斉に振り返り、何事かと唖然としながらも僕と言う一点に視線を集中させる。しかし僕は怪訝の色に満ちた注視等は意にも介さず、並み居る群集を両手で乱雑に掻き分ける。そして遂には熱気に包まれた分厚い人波に穴を開け、道中を行く仮装行列の連中に迄走り寄り……、躊躇無く掴み掛かった。
呆然とする観衆と仮装者達……。特に標的を定めていた訳では無かったが、偶々自分の眼前に入った道化の仮装者を手始めの獲物として決めた。
僕は何の逡巡も無く、世界の不文律に、掟に、隠蔽された秘部に、人間の存在証明に手を伸ばす。掴まれた仮装者は一片の抵抗も無い。不測の事態から、反射的に防御する事すらも覚束無かったのだろう。法律制定有史以来、こうして禁忌を犯そうとする者も皆無だったのだ。世界の人民誰もが想像もせず、身構えもして来なかった反社会的行為に……。
一拍を置いてから事態の深刻さに気付き、打って変わって必死に制止しようと幾人かが現場へ雪崩れ込む。祝祭の主役たる劇団員に突如暴行を加えようとする所か、強引にでも仮装を剥ぎ取って素顔を暴露させ様とする、そんな僕の逸脱した意図を察知した様子で。
切迫した声調で飛び交う言葉の数々が、僕の脳裏で反響していた。しかしそれは何処か遥か彼方で交わされている会話の様で、丸で僕を論点にしていない錯覚迄起こす様な浮遊感が伴っていた。潜水している中で外界の反響音が脳内に迄到達して来る様な、非現実的な感覚の侭周囲のやり取りは輻輳して行く。
「何をする気だ、止めろ!」
「皆、早くこいつを取り押さえてくれ!」
「精神異常者だ!!」……。
一般の通行人達も勃発した騒動に動揺の気色を隠せない。全員がその足を止め、遠巻きに異例な光景を見詰め出した。何事か事態を把握し切れてない者、固唾を呑む者、思わず嬌声を上げる者とが入り混じる。
しかし緊迫しざわつき出した周囲の様相に反して、僕の心は沈着さすらをも取り戻して行く。
そう、内奥に住まうもう一人の僕が語り掛けて来る。
<顔を見せ合わない世界のどこに健全さが在ると想う?>
<異常なのはこいつ等の方じゃないのか?>
ああ、そうさ、その通り。僕は仮面を脱ぎ捨てよう。上辺だけを着飾った、退屈な仮面舞踏会を打ち壊す為に……!
僕が組み敷いた相手は、身体付きや抵抗の膂力から自然に男だと
感じ取れた。彼も自身の人生を固守しようと必死なのだ。そこで僕の深奥からは益々愉悦が溢れ出る。
そうだ、それで良い、お前も抵抗するんだ……、『自分』自身の為に。
ふと、僕は我へ返るかの様に諸手の取り合いから戦線放棄し、無言の侭その場で立ち上がった。
一瞬の静寂。
異常事態の収束かと感じ誰もが思考停止したのだろう。僕は穏やかに微笑みながら(勿論その微笑は誰にも観えないものだが)、自身のヘッドギアに何の躊躇も無く手を掛けた。
そしてあっさりと頭部から取り外したそれを、人工的な程清潔に舗装された路面へと、全身全霊を籠めて叩き付けた……!!
次の瞬間、周辺へ盛大に飛散するヘッドギアの機械部品達。同時に衆目から、きゃあっと言う絹を裂く様な金切り声が反響する。そして次の瞬間には民衆の怒号が巨大な音塊と成り、広場全体を震動させるかの如く劈いた。
―大混乱の中、市民の視線が、僕へと一身に注がれる……。
十数年来僕の顔で有り、人生の指針でも在ったヘッドギア。云わば肉付きの仮面……。僕はたった今、その顔を引き剥がし、棄てた。僕の自己証明で在った筈のそれは、社会から管理される為に必要だった筈のそれは、見るも無残な姿で地面に散乱しているのだった。
破損部分の所々から露出されたケーブル、機械部品。ヘッドギアはジージーと無機質な音響を延々と奏でていたが、断末魔は遂には果てて途切れた。その光景は何処か昆虫の死に際を彷彿とさせ、言い知れない哀切を漂わせている気がした。
……そして僕は、大衆に素顔を晒した今世紀初の人間に成ったのだ!!
酒の比では無い、高純度の薬物でも摂取した直後の様な酩酊と覚醒の中で。僕の四肢は風船を括り付けた様に、今にも浮遊しそうな程軽やかだった。狂喜に身体が自然と踊り出し、自身の身体では無いかの様に抑制が効かない。丸で内奥に在った不敵な別人格が引き摺り出されたかの様な心境。
生まれ変わった……、否、もっと適切に言うならば、『やっと自分自身に成れた』。そう想えた。
眼前に広がる光景すら何故か祝福された様に多幸感で満ち溢れ、宝石の海の如く煌めいている。
全てが台本の様に設定され進行して行く、予定調和の街……。僕はそんな仮面舞踏会を台無しにする招かれざる客となった。
一体この現場には何百何千の人数が居合わせているのだろうか?広場中を埋め尽くす人間達のヘッドギアから、一斉に機械音声がけたたましく鳴り始める。
「視線交錯率40%」
「……視線交錯率50、60、70……」
ヘッドギアが、他者の外貌を自動的に感知し警告音を発しているのだ。視線交錯率が100%に達すれば、信号を受信した警察が敏速に現場へと到着する。捕縛されれば、僕は第一級犯罪者として重罪処分を受ける事は言う迄も無い。
しかし今の僕に取ってはそんな切迫した警告音声すら、自分の為へと吹奏される祝福のファンファーレに感じられる。
「視線交錯率80%。警告シマス! コレ以上ヘッドギアヲ装着シナイデイル事ハ重大犯罪デス。警告シマス! コレ以上素顔ヲ外界に露出スル事ハ……」
僕は箍が外れ狂った機械人形の様に、哄笑がいつ迄も止められなかった。実際に警察が乗り出すであろう異例の事態へと突入し、現場に居合わせた市民達は申し合わせた様に互いの顔を見合わせる。ヘッドギア越しでも全員の困惑が手に取る様に感じられた。
自分と言う一点に向けられる、威圧的な警告音と騒乱の叫声で混声された合唱。その歌曲に心躍らせつつ、僕は猫の様に軽やかに踵を返す。最早僕を追走する者は居らず、只誰もが遠巻きに傍観するのみだった。この侭失踪してしまおうか、と算段を付け数歩行った時、僕はふと見慣れない物体が視界の片隅に留まった事で一瞬足を停める。
それは普段ではお目に掛かる事も無い、今日の祭典の為に用意された馬車だった。……それを暫し見遣り、僕は思わず唇の片端を上げた。街路を行進する仮装行列の一部で在り、有料で市民も乗車可能な都市名物……。この馬車を逃走手段として用いる事を思い付いたのだ。
僕は充足していた。神に転身したかの様な全能感すら在った。逃げ切れる、と言う根拠の無い自信に満ち満ちていた。本来であれば近代的な都市の景観にはそぐわない、典雅な意匠が施された馬車に跨る。すると、今迄の騒動に丸で無頓着な侭悠然としていた二頭の馬が、怠惰な形相の侭で徐々にその足取りを進め始めた。
段々と歩調が速まり軽快な蹄の足音が大路に響き出した頃、僕は振り返り茫然と眺め続ける観衆へ愛嬌付く様に、大仰に片手を振りながら叫んだ。
「さようなら!」
馬車は更に加速する。遂には馬達も、風に乗り昂揚し始めたのか戦慄きを挙げる。その速度と戦慄きへ呼応する様に、僕も更なる大声を張り上げた。
「僕は仮面舞踏会から抜け出すのさ!!」
*
・第ニ章・『離人症の英雄~主賓品評会~』
【―破壊された祝祭―ヒルサイド通り魔事件】―デカート通信―
未曾有の大事件が発生した。事件発生地は先進都市インダーウェルトセインの繁華街ヒルサイド。同日午後1時40分頃、祭典の熱気に包まれたその街中で、一介の男性が突如通り魔と化したのだ。
現場は百貨店やブティック、飲食店等が軒を連ねる繁華街。容疑者は同都市名物である祭典『デジタルマスカレード』が盛況の真っ最中に仮装行列の一群を急襲し、劇団員が纏う仮装の一部たる仮面を強奪しようと試みた。
周囲の関係者がその暴行を取り押さえる為に駆け寄ると、乱心を極めた容疑者は制止から逃れようと暴れ廻り、遂には自身のヘッドギアに手を掛けたと言う。
そう、何とヘッドギアを自ら着脱し、並み居る群集に向けて自身の素顔を露出させたのだ。
パレードの中、大路は多数の見物客で賑わっていた。素顔を開陳した男性は気の触れた様な哄笑の中、都市名物開催時の一環として公用可能な馬車へ乗車し、単独での逃走を謀ったと言う。
偶然現場に居合わせた目撃者達は『まさかこんな事件が起きるとは…』『眼前の光景が信じられず、動く事も出来なかった』等と地元メディアの取材へ対し口々に受け答えている。
容疑者が現場から逃走した後も遭遇した見物客達は衝撃の余り立ち尽くし、後から騒乱を見聞きした野次馬達も詰め寄る等して人だかりは増大する一方だった。現場へ続々と警備員や警察が駆け付けるものの、容疑者は既に消息を絶っていた模様。豪奢にして壮麗な都市を挙げての祝祭が一人の男性の発作的犯行に由って打ち壊され、騒然とした雰囲気は暫くの間余韻を残していたと言う。
カーマ警察等から公開された情報に拠ると、男性は犯行を決行する直前に、警察機関へ犯行声明らしきメールを送信していた事が記録から判明。その他に、ほぼ同時刻に交際関係を築いていた女性へも犯行への決意を仄めかす伝言を送り届けていた事が調査済みだ。
容疑者への批判は当然だが、事件を予見し未然に防止出来なかった警察機関及び事件に関連した主催団体、民間警備会社の不備にも非難の矛先は向いている。関係各機関は、『想定外の事態だった』『対応が後手に遅れた』『デジタルマスカレードを楽しみに参加した大多数のお客様方に申し訳無く想う』……等と、遺憾の意を表した。容疑者捜索を開始した警察からは、目下犯人の目撃情報等を積極的に募集している。
―…………―。
国籍番号以外に役職の便宜上から仮称を付けられた者の一人、警察庁長官『ロイトフ』は嘆息交じりにディスプレイ画面を眺めた。
(正に青天の霹靂だ……!!)
個室である長官室の中、ロイトフは自身の胸中で澱の様に沈殿して行く粘着質な憂悶を御し切れずにいた。光源を点ける気力も無い侭で、憂鬱の原因たる事件に付いての記事をディスプレイ上から眺め遣る……。
ロイトフは先程から同様の文面を延々と読み返していた。本来、彼は行政機関の重役として事件の概要は寧ろ報道機関の人間以上に内見し、把握もしている。更に政府は公式広報サイト以外にも、機密事項の通信を目的とした関係者だけが知り得るコミュニティサイトを管理してもいるのだ。
しかしそれでも市井の反応が懸念なのか現実の事態を客観的に受け入れられないのか、彼の無意味な再読は止め処無く続いた。無味乾燥な低質の菓子でも、眼前に在れば空腹で無くとも攣られて食指を伸ばしてしまい、惰性で延々と貪り続ける……。そんな自律の無い怠惰にも似ていた。
一通りネット上の記事を読み漁ったが、数多の通信社は基より個人サイトに於ける話題の主軸も今回の通り魔事件に付いての言及ばかり……。そう、現在、時代を席捲する社会現象と迄加速し始めているのがヒルサイドでの発生事件……。
世間で最近浸透し始めた通俗的な表現で敢えて呼称するなら、この『デジタルマスカレード通り魔事件』なのだ。
横手の長机を見遣れば、机上には各種新聞、雑誌媒体が散乱しているが……。一度見遣ってしまえば氾濫する文字群は踊りながらロイトフの視覚に飛び込み、彼の胸奥へ更なる鈍重な追撃を与える。数十誌有るとしても、各誌の表紙や見出しはどれも申し合わせた様に『デジタルマスカレード通り魔事件』の特集ばかりなのだ。テレビ画面上でも同様で、娯楽番組や報道番組と云った分野の境目も無く、どの時間帯にどのチャンネルを廻しても確実に通り魔事件に関する話題へ突き当たる……。
電網が過密に張り巡らされた近代社会の情報の洪水の中、時代の本流を独走し注目を一身に集める存在。それがたった一人の、何処にでも居る平凡な学生だった筈の若者なのだ……。そして各種メディアは今回の事件に付け込み、容赦無く警察を糾弾する論調を展開している。民間、関連運動団体、企業、法的機関と、ありとあらゆる層からロイトフは槍玉に挙げられ弾劾され始めていた。四方八方からの苦情処理に追われ役職としての責任問題に迄発展している今、
彼は心身ともに疲弊し切っている。
(誤算だった。まさかこの私が世間から非難される立場に陥るとは……。当初は、誰もが今年の祭典も恙無く終了すると完全に思い込んでいた筈だ。確かに一時的にヘッドギア着脱を認可された劇団員の仮装姿は、全員が薄皮一枚と言う状態では在った。しかし外貌を晒す危険性が皆無とは言えなかったかもしれないが、よもや本当に危害を加える異常者が出現するとは誰も夢にも想うまい……。それは自殺志願と同義なのだから……。
そうだ、本来は私が悪い訳では無い……。警察上層部の長だからと言って、現場監督でも無かった私が八方から責められる等、余りにも理不尽では無いか! 古今から鑑みても、こんな精神異常者が現れたのは史上例に無い。悪いのは犯人自身に決まっているではないか、何故この私が、私が、私が……)
ロイトフは頭を抱え慨嘆する。
(何より犯人を逮捕出来た所で、問題は山積みだ……)
そう、通り魔の出現を予想するだけの先見力は発揮出来無かったものの、曲がり形にもロイトフは警察機関の頭目を張っていた。彼の慧眼ならば、既に次の局面は想定出来ているのだ。
―今回の事件を発端として、更なる問題が遺伝子形態の如く連鎖して行くと云う事は―。
(社会現象と認知される程の大事件が勃発すれば、当然法的機関の管理体制や防犯意識の是非が問われる。しかし何よりも懸念なのは、警察を糾弾する世論では無い……。
重大犯罪者を唾棄するのではなく、寧ろ大胆な行為者と看做し英雄視する、そんな影響者達こそが最も潜在的脅威なのだ……!
逃走中である犯人の追跡こそ目下の重大事項だが、水面下で潜行している社会的危険性は、寧ろ連鎖的二次犯罪を起こす『模倣犯』に在る……)
*
(こんな奴が現れてくれるとは……!)
PC画面上で再現される犯行映像を、飽く事無く反復させ観賞し続ける一人の青年―。『シド』と仇名されるその男は眼前の映像に息を呑んだ。
―ここは電脳都市インダーウェルトセインでも最大の集客数と規模を有するディスコクラブ『サイバーベルファーレ』。
今宵も盛況を観せるダンスホールの一角で、シドは饗宴に参加し踊り明かす事も無く、叉、訳知り顔を保った侭で遠巻きに光景を眺め遣る様な冷笑主義の手合いへ陥る事も無かった。
大音響のダンスミュージックが地下を震動させ人々の鼓膜を劈き、煌びやかな照明が身を包む中で……。人工的且つ無機質な音楽の奔流に原初的本能を刺激され、人々は内面の衝動を吐き出す様に踊り明かし、酒を酌み交わし、恋を囁き合う。
しかし今のシドには大音響の演奏やダンスの喧騒、見目麗しい美女達の存在、酒や電脳薬物等、危険や誘惑を匂わせる筈の全てが陳腐に想え微塵にも意識下には無かった。
(―地下世界が底無しの闇では無いと気付いたのはいつからだったろうか?)
シドと言う青年も日常や社会に対して順応し切れず、不満を募らせ不良と化した様な一介の若者に過ぎなかった。しかし彼は自分自身でもその憤懣の本質が見抜けず、何処か鬱屈とした日々を過ごしていた。
自分が何に苛立っているのか、自分が将来何を手掛かりに生きたいか、何を人生の使命の様に成すべきかが測れず、内面の指針は常時不安定に振幅し続けていたのだった。
いや、一つだけ語弊は有るかも知れない。……見抜けずにいたのか……? 『憤懣の本質が見抜けず』にいた侭だったのだろうか?本人も何処か心の片隅では薄々自覚していた、そんな側面も有るかも知れない。
意図的に眼を逸らそうとし続けていたのかも知れない自身の内心。自己の生存動機や存在証明を模索する労苦へと、対峙する勇気が湧かない……。そしてそんな自己欺瞞に耐え兼ねて鬱屈としていた、と云う方が適切なのかも知れない。
各所のライブハウスやダンスクラブには連日連夜若者が押し寄せる様に大挙し、日常の憂さを晴らそうと発散に励む。しかしその饗宴の後に、一体何が残ると云うのだろう……? 一時的な享楽の果てにも無関係に、毎日太陽は昇る。
その注がれる朝日を、自分は一身に浴びられるだろうか?『眠らない街』『終わらない夜』……。人々は何時の間にか、こんな言い回しの意味を巧妙に摩り替えて真実と対峙する事を忌避しているのかも知れない。
例えば弱味を曝け出さない、虚勢を崩さない『友人』達との馴合い。自身も乗り遅れない様に話題を合わせ、時には本意でも無く必要性も乏しい様な、電子監察から見逃して貰える程度の下らない軽犯罪に身を染める。また一夜の情事の為に、女の歓心を買おうと巧言令色を弄し行き摺りのセックスに耽る。そして痛飲し泥酔した後や、電脳薬物に依存し地下クラブから外出する事も億劫な侭で朝を迎える度に、シドは冷厳な現実を突き付けられるのだ。
(……地下世界は底無しの闇ではない……。此処が底辺だったと云うだけの話だ。
終わらない夜等は存在しない。今日と言う扉を叩こうとしない者に、明日と言う扉等は永遠に開かれはしない。少なくとも、今日の自分は真の意味でこの朝日を浴びる事は出来ない……!)
一夜の現実逃避。非現実から帰還した時には、逃避した分だけ現実が遠のく。結局の所真実から眼を逸らす事が更に自身の首を絞めていると、シドも薄々自覚はしていた筈なのだ。
(地下世界の闇に永住する事は出来ない……。パーティーにも終焉は有る。現実に立ち戻った時、俺を何を為したい? 何を成せる? 泡沫の夢の終わりには、繁華街の宵闇を潜り抜けて独りで歩き出さなければ……)
―そんな苦悩に明け暮れていた矢先の事だった。突如として、自分自身の代弁者の様な存在が颯爽と出現し世間を騒擾とさせ始めたのは……。
その男は、行き場の無い自分の焦燥や葛藤を引き受ける様に、社会へと独力でアジテーションしてくれた。自身の安否すら金繰り捨て、敢えて犯罪者に身を窶しさえして……!
シドはネット上で公開されている通り魔の犯行声明や犯行映像を隈無く収集し、じっくりと飴玉を嘗める様に、幾度と無くその一連の内容を堪能していた。そして犯行直前に通り魔が警察へ送り付けた声明を、又も再生して観ようとする。
『御日柄も良く、崇敬なる糞っ垂れのインダーウェルトセイン政府様。私は国籍番号742617000027番。本日『セブンスプラスティックトゥリーヒルズ・ゲートタワー』に永久就労が決定した一介の男性です。さて、不躾ですが早速本題へと入りましょう。
……私は貴兄等の崇高な理念と治世に拠り決定された強制労働を、丁重にお断り致します。
―想えばいつからか、僕は僕の存在の実証性の無さが怖くて堪らなかった……。先進的で在るとされるこの社会の一視同仁な平等性が、いつしか個を排除する悪平等だと感じ始めた。
あんた等のやり方が悪政なのか、僕が異常なのか、それは未だ解らない……。只、僕はたった独りの、個人に由る独立宣言を此処で宣誓する。
僕は僕の生まれた意味を、価値を掴みたい。僕は僕の生存理由や生き甲斐を、自分自身の手に由ってこそ創り上げたい。ベルトコンベアの工程に載るのでは無く、この眼で物を視て、この両足で道無き道を拓きたい。己だけの生きる証、生きた証を手に入れたいのだ。
僕は僕が何者なのか自分でも解らなくなってしまっていた。否、その不在を自覚し、意志を持とうとする時からが真の人生の始まりで在るのかも知れないがね……。
無色から有色へ僕は変わる。僕だけの色で、この世界を塗り替えて見せる。今から始まる情景から目を逸らすな。捕まる事等最早僕は厭わない』
<僕は僕の生まれた意味を、価値を掴みたい。僕は僕の生存理由や生き甲斐を、自分自身の手に由ってこそ創り上げたい>
<ベルトコンベアの工程に載るのでは無く、この眼で物を視て、この両足で道無き道を拓きたい。己だけの生きる証、生きた証を手に入れたいのだ>
……これだ! 正にこれこそ自分が捜し求めていた、魂を撃ち抜き真実へ目覚めさせてくれる様な至言の弾丸に違いない!!
そしてシドは更に通り魔事件の犯人に付いての情報収集を重ねる。矢張り電脳掲示板でも、事件に関する論議は活発に行われている様子だった……。
●「デジタルマスカレード通り魔事件」について語ろう ●
1 :Nanashi_et_al.
未曾有の大事件が起こりました。
2 :Nanashi_et_al.
散々他でもやってるだろ?わざわざ新しくスレッドを立てなくても……。
3 :Nanashi_et_al.
いや、語り尽くしても足りない。
4 :Persona:
私は偶然事件現場に居合わせた目撃者の一人です。
例の犯行映像は、当然現場に居た大勢の見物客のヘッドギア電脳へ保存されていました。
犯人がどこかへ逃走し周囲の混乱が落ち着き始めた後、目撃者は一人一人警察に事情聴取され、犯行映像部分だけ証拠映像として没収される運びになったのです。
警察側がこれ以上の事件の拡大を恐れ犯行映像を抹消したかったのは間違いないでしょう。
しかしその一場面の記録を警察が削除して行ったと言っても、あれだけ大勢の見物客の中から一本も映像が流出しないと言う事は現代の電網社会では有り得ません。
まだ今なら規制が入る前に、事件映像がネット上で入手出来る筈です。
しかし私は実際に現場を目撃しておきながら、未だにあの日の光景が非現実みたいで信じられません……。
5 :Nanashi_et_al.
すげー、生で観たんだ。
でもその映像って、一応観るだけでも違法になるのかな?
6 :Nanashi_et_al.
データを流出させた側が罰則対象になるのであって、
享受する側の責任性は問われないんじゃないっけ?
7 :Nanashi_et_al.
事件映像、他のサイトで発見したよ!!
その辺の映画観るよりずっと生々しくて
興奮した!!(^^)
8 :Nanashi_et_al.
俺も映像は手に入った。
他人の素顔をこうして観るのも初めてなので、
良く判らない不思議な感慨みたいなのがある……。
9 :Nanashi_et_al.
僕に取ってあの人は神だ。
10 :Nanashi_et_al.
>僕に取ってあの人は神だ。
やっぱりこうして神格化する奴が出て来たか……。
あんなの只の犯罪者で精神異常者、狂人だよ。
憧れてどうする?
11 :Nanashi_et_al.
>>10
まあまあ。多分>>9は思春期の少年なんだろ。
青臭い主張や身勝手な行動に共感して、重大犯罪者を
英雄視する奴等って必ず一定数出てくるんだよね。
所詮麻疹の終わってないガキ。
偶に出てくる異常者を社会が祭り上げると、
当人は勿論として影響された奴等も妙な思い上がりを持ち始める。
結局の所は只の異常者なのにな。
12 :Nanashi_et_al.
犯罪かどうかは兎も角、
お前は犯人と同じ位大胆な行動を取れるのかよ?
社会全体を揺さぶる様なさ。
所詮匿名って言う安全な立場からの批判しか出来ない癖に。
13 :Nanashi_et_al.
>>12
匿名と言う安全圏で批判しているのは今のお前も
同じじゃないか?
14 :Nanashi_et_al.
おいおい、皆落ち着けw
事件の性質や犯人像に付いて語るべきだし、
この儘だと話しが逸れて行っちゃうよ。
15 :Nanashi_et_al.
よし、仕切り直そう。
「この事件が発生させるに至った通り魔の
犯行動機、社会背景とは如何なるものか?」
16 :Nanashi_et_al.
犯人の犯行声明が全てを物語ってると思うけどな。
実際そのまんまだよ。
彼は社会の中で埋没した存在である自分に我慢出来ず、
自我や個性が欲しかった。
犯行声明文だって、上の事件映像の件みたいに
ネット上でならどうにか入手出来るでしょ。
今後警察側から公開されるかも知れないけど。
17 :Nanashi_et_al.
『御日柄も良く、崇敬なる糞っ垂れのインダーウェルトセイン政府様。
私は国籍番号742617000027番。本日『セブンスプラスティックトゥリーヒルズ・ゲートタワー』に永久就労が決定した一介の男性です。さて、不躾ですが早速本題へと入りましょう。
……私は貴兄等の崇高な理念と治世に拠り決定された強制労働を、
丁重にお断り致します。
―想えばいつからか、僕は僕の存在の実証性の無さが怖くて堪らなかった……。先進的で在るとされるこの社会の一視同仁な平等性が、
いつしか個を排除する悪平等だと感じ始めた。
あんた等のやり方が悪政なのか、僕が異常なのか、それは未だ解らない……。
只、僕はたった独りの、個人に由る独立宣言を此処で宣誓する。
僕は僕の生まれた意味を、価値を掴みたい。
僕は僕の生存理由や生き甲斐を、自分自身の手に由ってこそ創り上げたい。
ベルトコンベアの工程に載るのでは無く、
この眼で物を視て、この両足で道無き道を拓きたい。
己だけの生きる証、生きた証を手に入れたいのだ。
僕は僕が何者なのか自分でも解らなくなってしまっていた。
否、その不在を自覚し、意志を持とうとする時からが
真の人生の始まりで在るのかも知れないがね……。
無色から有色へ僕は変わる。
僕だけの色で、この世界を塗り替えて見せる。
今から始まる情景から目を逸らすな。
捕まる事等最早僕は厭わない』
18 :Nanashi_et_al.
犯人は気が狂ってるみたいに言われるけど、
この文面を読む限りではしっかり物は考えてるんじゃないか?
19 :Nanashi_et_al.
>>18
まあ青臭いと言うか、旧時代的だとは思うけどな。
現代の若者なら到底湧いても来ない心理の筈なのに。
この犯人だって元々は普通の大学生だったんだろ?
20 :Nanashi_et_al.
そう、何て言うか、別に犯人が言ってる様な事は考えた事も無いし、
犯罪に駆り立てられる程葛藤する事も無いと言うか……。
文章は理解出来るけど、心情はとんと共感出来ない。
21 :shadow:
>>20
犯人を青臭いとか言う奴は多いけど、
あの文面の心情が丸で理解出来ないって奴はもっとお子様なんだよ。
犯人の思索に対する肯定否定は兎も角ね。
例え否定側に廻るとしても、俺は彼の心情は推し量れるね。
22 :Nanashi_et_al.
>>21
それはつまりどう言う事ですか?
23 :shadow:
精神分析的に言えば『自我の目覚め』。
要はあの事件の張本人は、生きる意味や個性に付いて模索し始める段階に到達したから犯行に及んだと言う事。
赤子だと、精神が未発達なので自我や自意識と言うものは
希薄だろう?だが幼児年齢から段々と、自分の持ち物や
遊びに拘りを持ち始める様な行動が顕著になって来る。
そうして段々と人格形成がされて行く訳だ。
そんな『自己』と言う存在の確固たる認識が
欲しくなったりと、アイデンティティクライシスに陥いり易いのが
多感な思春期、と言うものだ。
そしてその実証を掴む為に努力するのが青年期と言えるだろう。
犯人は、少年とも大人とも言えなかった思春期から、青年期へと突入し始めていた。
端境期に於ける葛藤を解消する為の行動。
それが一連の事件の本質じゃあないかな?
24 :shadow:
今回の事件で、犯人の精神性に共感出来る奴は
上述した様な自己存在、自己証明に対する観念へ
何らかの形で鋭敏な部類。精神年齢的にも犯人に近い。
根本的に意味が判らないと言ってる奴は、
つまり『自分とは何か』『生きる意味とは何か』
と言った人類の永遠たる命題に考えが及ばない、
未だ自我や自意識が未発達な受身の子供と言う事。
若しくは、逆にそう言った葛藤を超越したか、
思索する事自体を辞めたと言う意味での『大人』。
25 :Nanashi_et_al.
良く判った。
犯人の動機に共感出来ない奴は、
つまり『自分は生きる意味に付いて考えた事も無い』と
言ってるに等しいと。
26 :Nanashi_et_al.
いや、でも生きる意味とかに付いて
悩んだ事が有るなら偉い訳?
別に俺達一般市民であって、宗教者や哲学者じゃないし。
考えなくても、例えそれが子供っぽい侭だとしても
社会に何ら迷惑は掛けてない訳で。
犯人が自分なりに思い詰めていたにしろ、
結局は身勝手な行為であって犯罪は犯罪じゃないか。
27 :Nanashi_et_al.
まあ確かに……。
28 :Nanashi_et_al.
善悪は兎も角、犯人が狂人とは言い切れないかもね。
前時代に、対人恐怖、視線恐怖の蔓延を抑止する為に
政府からヘッドギアの装着が義務付けられた。
そして大方の市民がそれを喜んで受け入れたと言う。
時代の変遷に由って、価値観とか常識が変質してしまっている。
まあ時代や社会の価値観ってのはボールの様に
転がる不規則で流動的なものだ。
自分達が生まれる前の古い時代だったら、犯人の言ってる事は
至極真っ当な意見なのかも知れない。
29 :Nanashi_et_al.
俺は断然支持するけどね。
今ネット上で探せば、映像だけじゃなくて写真として
犯人の御尊顔も拝めるよ!(^^)
30 :Nanashi_et_al.
犯人犯人、と言うのも何だし、
彼に名前を付けないか?
国民番号も判ってるけどそれだと長いし。
31 :Nanashi_et_al.
さっき精神分析が持ち出されていたよな。
基本的自己認識の「自我」から、高次元の
『超自我』を求めているので「スーパーエゴイスト」ってのは?
32 :Nanashi_et_al.
『スーパーエゴイスト』ってw
33 :shadow:
高次元の心理層だと道徳心や良心の制御と表出が主眼になって来る。
寧ろ自己解放を求める原始的欲望、犯罪衝動って方向じゃないかな?
だから『自我』より最下層に在る『原我』……。
エスやイドって言い方の方が適切な気がする。
34 :Nanashi_et_al.
エス……。
覚え易くて一番良いんじゃない?
35 :Nanashi_et_al.
エスで決定。
36 :Nanashi_et_al.
しかしエスって、逃走中だと言うけど
今どこで何してるのかな?
37 :Nanashi_et_al.
確かに。ヘッドギアのGPS機能から逃れられているから
警察も簡単に現在地は割り出せないだろうけど。
でもふらふらと街で食事をしたりホテルに泊まったり
する訳にも行かないし。
38 :Nanashi_et_al.
繁華街で生活するのは無理だよな。
となると、裏ぶれた掃き溜めみたいな
場所に逃げ込むしかない訳だ。
しかし近代に誇る先進都市インダーウェルトセインで、
整備や管理が行き届いていない区画なんてまず無いぞ?
だとすると犯人の潜伏先は自然と限定されて来る。
支持派は残念だな。
エスは近日中に呆気無く捕まると思うよ。
そうでなくても餓えや深夜の冷え込みって言う宿無しの生活に耐えられず、自首して保護を求めて来る様な情けないオチが付くかもね。
39 :Nanashi_et_al.
確かに有り得る……。
仲間なんて居る筈も無いし、こうなった以上
誰にも頼れないもんなあ。
でも逆に各地で強盗なんかを繰り返すって線も想定出来るから、
近隣住民は多少警戒した方が良いかもね。
40 :742617000027
俺は絶対に捕まらない。
41 :Nanashi_et_al.
>>40
えっ、この国民番号って……!
本人が御降臨!?
42 :Nanashi_et_al.
>>41
んな訳ないだろw
本人が書き込める状況に在る訳が無い。
43 :Nanashi_et_al.
まあ今の奴は冗談めいた騙りだろうけどな。
でもエスが逮捕されたとしても問題は収束しないかも知れないぜ?
ヘッドギアって言う主観映像のサブリミナル的危険性も在るから。
ヘッドギアを装着した侭で例の犯行映像を見続けている奴等って、
刷り込みが行われている様で怖いんだよな。
TVゲームが現実と非現実の境目を曖昧にする
有害性、みたいなのが社会的に問われていた時代も在った位だし。
単純に犯人の行動や思索に影響されるだけじゃなくて、
映像を観賞し続ける内に一種の催眠、洗脳状態に陥って
同じ様な事件を起こす奴って出てくるんじゃないかな?と
危惧したりして。
44 :copy.
……俺、今その状態に在る!
実は、事件現場に偶々居合わせた目撃者達の映像だけじゃなくて、
エス自身が装着していたヘッドギアの電脳記録が奇跡的に存命していたらしいんだ。
その映像は既にネット上の某所から流出して、段々話題に成りつつある。
その気になれば、エス自身の主観映像が拾って観れるんだよ……。
彼本人の視点から犯行声明や実際の犯行を見聞きしていると、
いつしか自分自身がエス本人なんじゃないかって錯覚が強まって来る様な……。
45 :Nanashi_et_al.
追体験して犯人と同一化し始めたのか……。
回線切れ。
暫くネットに繋ぐな。
それと映像は消去して一旦普通の生活に戻って忘れろ。
46 :copy-2.
自分も44と同様。
只、まだ自分がエスだと混同する様な
錯乱状態へ至らない段階で、ここを読んではっと平静を取り戻せた。
何回も観ていると、映画にのめり込む様な感覚以上に
それが現実の様な錯覚すら出て来ると言うか……。
マジで危ない精神状態に迄行き掛けていたかも。
47 :E`s.
テレビやネットで騒がれているのは偽者だよ……。
だって俺が真犯人だし……。
48 :Nanashi_et_al.
さて、この人の発言は本気なのか冗談なのか?
49 :ID.
違う。犯人は俺だ。
他の奴は自分が犯人だと思い込んでいる偽者なんだ。
50 :Nanashi_et_al.
今お前等だってヘッドギアは装着してるし
自宅かどこかで書き込んでるんだろ?
事件の張本人な訳ないじゃん。
それともやっぱり釣ろうとして愉しんでる?
51 :Nanashi_et_al.
まあこの文面だけじゃ本気とも冗談とも付かないけど、
エスをカリスマ扱いする奴や、それこそ自分自身がエスだと
思い込み始めた奴が模倣犯として出現し始める
頃合いに成って来たのかもな。
52 :Nanashi_et_al.
二次犯罪が続出したら、警察でも手に負えないんじゃないか?
一斉に皆ヘッドギアを脱ぎ捨て始める訳でしょ?
53 :Nanashi_et_al.
確かに凄い光景になるな。
でも所詮追従者は追従者……。
元祖の価値には勝てない。
……。シドはここ迄読み進め、或る決心を固め始めていた。
(エスだのイドだの、世論上の呼称等はどうでも良いが……。
―彼を助けたい。今の頽落した自分に決別を付けるには、彼と邂逅する事以外に考えられない。彼が警察に逮捕され最悪の場合死刑に処せられたとしたら、永遠に自分自身の転機の鍵をも失ってしまう。そんな強迫観念すら押し寄せて来る……。それにしても一市民の犯行が模倣者達を生み出し、遂には国政の安危すら脅かす程の影響力を持ってしまう事態になろうとはな……!)
シドは、あくまで理知は保っていた。当時の犯行映像を観賞し続け、一種の追体験から自身がエスだと錯覚する様な影響者には陥っていない。エスに対する畏敬の念は有るが、盲目的信者では無いのだ。
(あくまで個人対個人として彼に出逢いたい……。寄り掛かり合うのではなく、自分自身の立脚で彼と同じ地平に立ちたい……)
54 :SID:
俺はエスを助けに行く。
自己を救いにも行く。
共犯者を求む。
掲示板へそう簡潔に書き込むと、シドは立ち上がり音と光の洪水の中を決然と歩き始めた。そしてその様子を見て取り、同席していた仲間達が訝しげに問い掛ける。大音響のダンスミュージックや喧騒に掻き消されない様にと、張り上げられた大声。
「シド、どこへ行くんだっ!?」
シドは背中を向けた侭、振り返る事も無く淡々と呟いた。その呟きは返答とも独り言とも付かない声音で、仲間達の耳元迄届いたかどうか定かでは無い。
「……救いに行くのさ、エスと、自分の心をな……」
*
国籍番号896501756と呼称される女性は、鎮座するしか他に無い自室の中でげんなりと溜息を搗いた。室内や玄関先、自宅周辺に頑強な刑事達が常時警戒態勢を敷き、張り込む様になってから数日……。
本来見知らぬ男性達が、事件解決の為とは云え強面を崩さぬ侭で玄関先では凝立し、叉数人は室内で居座り続けると言う緊張状態では彼女も安堵する暇が無い。
そう、一時期ぎこちない不仲に陥りつつも、彼氏に和解を持ち掛けた祝祭当日。祭典を一緒に観回る事も一つの和解の切っ掛け、と想いを募らせていたあの日。彼氏は突如として豹変し、街中で時の喊声を挙げ一躍重大犯罪者となってしまったらしい。
返信の文面は彼女に対する別離の挨拶であり、社会全般に対する異心の告白であり、そして今正に決行する寸前の犯行予告だった。そこで事件報道が沸騰する頃合いと相前後する様に、彼女は世間を収攬させている通り魔が自分の恋人だったと理解した……。
理解は出来てもその現実を受容出来ず呆然自失としている渦中に、門扉を物々しく叩く音が耳朶を打つ。扉を開けた瞬間、数人の精悍な男性達は儀礼的に警察手帳を彼女の眼前へ突き付けて来た。
……こうして数日間に渡り、警察からの執拗な事情聴取は行われたのだった。その上、犯人が彼女の自宅へ逃げ込んで来る可能性も想定される為に、警察は延々と居座り続ける姿勢を崩さない。彼女は一時も息吐く間が無かったのだ。
そもそも警察から入念に事情聴取された所で、彼女が提供出来る有益な情報等一片も有りはしないのだが。一時期疎遠になりかけていた上に、恋人である筈の自分自身へも一度として打ち明けられた事の無い彼の内心。犯罪へ踏み切る前に長広舌を振るった彼の犯行声明……。
彼がそんな風に煩悶を募らせていた事自体、彼女には全く察知出来無かった。今にして振り返れば、時折心ここに在らずと云った風情で物想いへ耽っている時も見受けられたかも知れないが……。
ふとした一瞬、置物の様に微動だにせず職務を真っ当している刑事達の仏頂面が、彼女には異様に疎ましく想えた。しかしそんな閉塞した状況での鬱憤も、彼女は直ぐに自制しようと視線を逸らす。見方を変えれば、現在彼女は警察から24時間体制の保護に遇されていると云っても良い。
彼氏……、現在では精神医学用語から准えて『エス』と俗称される彼氏は、素顔も身元証明も全てを包み隠さず世間へと開陳した。現在彼の実家へマスコミやパパラッチが連日大挙し、両親達がその対応に逼迫している事は想像に難くない。そして、更には大学関係者、同級生、友人、隣人へとメディアの質問攻勢は波及するだろう……。そこ迄食指が伸びれば、当然最後に記者達が嗅ぎ付ける格好の獲物は通り魔と交際していたとされる恋人の存在だ。
加えてマスコミだけに限らず、当事者や関係者の自宅を突き止めた市井の行動は予想の範疇に収まらない。現在世論は激震している。エスの意想や行動を民草の代弁者として礼賛する信者層と、一種の国粋主義者達に由る讒謗とで、真っ向から対立を見せているのだ。時代を席捲するだけの影響力を放ち、毀誉褒貶を受けるエスとその関係者達を、過激団体がこの侭看過するものだろうか? 一種の政治思想者達の暴力的威圧を危惧すれば、身辺を常に警護してくれる存在は有難いものとも云えた。
……そして数刻が経つと刑事達の様相が変わり、俄かに忙しなくなり始めた。自宅での待機が長引き彼女にも疲弊の色が翳り始めていたのだが、突如周囲の空気が張り詰められ思わず神妙に背筋が伸びる。
「あの……、何かあったのでしょうか?」
刑事の一人が、礼儀は弁えつつも憮然とした調子で答える。
「マスコミやネット上で、貴女の存在が明るみに出始めているんです……。こう言った事は、必ずいつかはどこからか情報が漏洩するものなので余り動揺して欲しくはないのですがね。兎も角近い内に、貴女の存在を嗅ぎ付けた記者や興味本位の野次馬達がここへ一斉に押し寄せる、と言う事態が考えられます。他には、不安にさせたくはないですが過激派の襲撃、と言う線も……。
ですから、今の内にひっそりと貴女の寝泊りする場所を移したいのです。今、グランドフィアット『シュガーポッド』ホテルでの宿泊を手配している所です。なーに、我々は貴女に事件そのものの関連性は無いと判断していますし、寧ろ現在は警護する事が仕事の主体になりつつあります。宿泊もあくまで事件解決迄の一時的な間です。警察が威信を賭けて貴女を護りますので、ご安心下さい……」
*
……そうして警察が配備した覆面自動車で秘密裏に護送される中、彼女は夜道の車窓からエスの面影を捜し続けていた。
輻輳する喧騒。煌びやかな照明に色付いた街頭。行き交う膨大な通行人達……。無論、街中で逃亡犯の後姿等が見付かる筈も無いのだが、彼女の心中は全てエスへの懸想で満たされていたのだ。
彼が意を決して吐き出した、胸中の告白を反芻する。
『自分を出すとは如何言う事なのか?』
『そもそも自分とは何なのか?』
『僕は、君にさえ胸襟を開いて接して来れなかったんだと想う。いや、開くだけの心がそもそも無かったんだ』
『僕の事なんかは忘れて、君は君の人生に踏み出して行って欲しい』
(……この社会の成り立ちに付いて、今迄思い巡らせた事も無かった。子供の頃から存在する環境を、通念を、疑う事も無く当然として受け入れて私も生きて来た。大半の人間なら常識として捉え、寧ろ享受すらしているヘッドギア。それが自己や個性を覆い隠す仮面だ等と、不満に感じた事も無かった……。
でも、今迄の私の人生は全てが仮初めだったと言うの? 貴方と一緒に過ごして来た日々の全てすら、お互い内実の無い演技の遣り取りだったと言うの? そう突き付けられると自身の過去の全てが余りにも無意味で空虚な、吹けば飛ぶ様な幻想に想えて来て耐え切れなくなる……!)
(只、私自身が不穏な状況に巻き込まれてはいるけれど、彼に対する怨嗟等は一欠片も無い……。
寧ろ、初めて彼を『知った』気がして来たのだ。視界に入る物全てが書き割りの様な非現実感の中で、一つ一つの物体や事象が有り有りと鮮明に浮かび上がって来る様な、そんな実在感がひしひしと湧き上がって来る……。この社会の機構が虚構だと提議された今。自身が危険に晒されている今。想い人の行方や安否を気遣い焦慮に駆られている今。危険や死が接近する事で、私は初めて『生』を実感している……。
742617000027番。エス。ねえエス。貴方は心も身体も、本当の意味で素顔を世界に向かって曝け出した。自分に成った気持ちはどんなものですか? 今の私は危険が迫る事で初めて自身の実在を実感している、『生』と言う昂揚を生々しく体感している……! そう、そして貴方の行方を心底から案じる今、『他人』を想う事で初めて『自分』を獲得してもいる気がするの。
ねえエス。私は今、身も焦がれる程に貴方を愛している。今なら貴方と、上辺では無い真の睦み合いが出来る。そして貴方と再会を果たせた時、その時は……。貴方に付き添い、私自身もこの顔を……)
彼女の白魚の様に透き通った左手の薬指には、犯行以前のエスから贈られた指輪が嵌められている。真新しく擦り傷一つ見当たらないその虹色の指輪は、段々と早春を想わせる様な仄かな桜色を帯び始めていた。
*
742617000027番。現在、世情ではエスと俗称される重犯罪者を産んだ肉親達は思い掛けない事態を前に憔悴し切っていた。連日大挙する野次馬やマスコミ連中の監視を前に、彼等も叉自宅で蟄居せざるを得ない鬱屈とした状況下で過ごしている。
妻方は精神的動揺から容態が急変し、数日間一切の飲食も会話も無くベッドルームで寝込んでいた。そして父親方は現在たった一人、消灯させた薄暗い台所の中で暗鬱と立ち尽くしている。その虚無的な様相は、幽霊と見紛う程に生命感が希薄だった。
床に臥せる妻を甲斐甲斐しく世話し続ける中、連日押し寄せては尋問や情報収集を求める警察やマスコミへの一連の対応にと切迫し……。父親としての責務を意識し続けて来たが、彼自身も既に精神は疲弊し限界へと近付いている事を自覚していた。
警察関係者ならば真っ当に相対せざるを得ないが、連日雲霞の如く押し寄せるマスコミや近隣住民、運動団体から成る野次馬連中を追い払う事は不可能に近かったのだ。
ヘッドギアに由る監視機構がある為に、自宅へ下世話で侮辱的な落書きを書き殴る、窓ガラスへ石を投げ込まれると言った類の軽犯罪被害はまだ蒙っていない。しかしだからこそ過熱する暴動の熱量は捌け口を知らず、24時間絶えず何者かが自宅付近を徘徊し自分達を苛み続けて来ると言う、衆人環視の冷徹な蔑視として攻撃手段が取って代わっていた。
自宅設備のシャッターやカーテンは全て閉め切っているが、今も四方の窓外から第三者達がうろつく気配があからさまな程に感じ取れる。父親は魂をも吐き出すかの様に深く慨嘆した。
(家庭の範疇に限らず近隣や学内でも品行方正と言う評判で通っていた息子が、パレードの最中に進行を妨害し、あろう事か社会に於ける最大の禁忌迄を冒したと言うのか……! そして更に犯跡を眩ませ、逃亡生活を続けていると迄……!!
警察からの急報を聴き付けた時は、誰かから祝祭に託けた冗談を受けているのでは、と訝ったものだが。まだ、今でも息子が突如発狂し、その様な犯行に走ったとは信じられない……!
しかしあの犯行声明を手掛かりとすれば、息子は以前から強烈な犯罪願望を鬱積させていた様だ。これ迄生活を共にしていて、情けない事に息子の胸中や変化の仕方等、何一つ読み取る事は出来なかった……)
<……何故、エスと言う怪物は現代社会から産み落とされたのか……? 今迄何不自由無く円満な家庭で成育され、近隣や学校でも真面目で温厚な青年と評判の立つ彼が犯行に及んだ、その精神的病理とは一体何なのだろうか?>
その様な一連の考察や議論は各種メディアで挙って展開され、警察からの事情聴取でも特に綿密に訊かれる事柄だった。
(原因の所在は家庭に潜んでいると言うのか? 教育者としての私達に責任が在ると言うのか?)
しかし混乱する脳内で思索を幾等巡らせても、思い当たる節は何一つ浮かばない……。父親からすれば正に寝耳に水、と言った心境だった。
(確かに、あの子は幼時からどこか感受性が鋭敏な所はあったかも知れないが……。しかし思慮深く温和な性格だった為、時折物思いに耽る合間は見受けられたとしても、何かへ反抗を示す事は無かったと想えるのだが……)
ふと、現状からの逃避や懐古の情も伴って、息子へ最大限の情愛を注いでいた極く幼い頃の日々が回想された。
…………。
(―「……お父さん、僕はこっちの道へ行きたいよ」
自宅への帰路の中。藹藹と茜雲が棚引くの空の下、夕陽に照り映えるその子供は屈託無く反対方向を指差した。未だ年端の行かない幼児の他愛も無い気紛れ。こんな些細な我儘は、初めて我が子を得た父親としては寧ろ微笑ましい対話だった。
男は、思い遣りを十二分に含ませ、子供でも理解出来る様にと一語一語を噛み砕く様に教え諭そうとする。
「まだヘッドギアの操作が解っていないのかい?幼児用と表示された項目に目線を合わせてオートモードにしなさい。
良いかい?お前が今頭に被っているヘッドギアは生活の全てを支えてくれる素晴らしい機械なんだ。今、私達がお家に帰ってお母さんが料理を作って待っていてくれていると言う情報はヘッドギアに入力されている。私達の現在地や目的地を、機械が政府のデータベースと通信して距離や時間、道路状況等を計算する事で最適な経路を検出し教えてくれるんだ。
ちょっと難しかったかな?つまりね、簡単に言えば画面に表示されている地図、矢印、音声に従って歩いて行けば、一切迷う事も無く目的地に着けるんだよ。ヘッドギアはこちら側の道路へ行く様に指し示しているだろう?」
息子は暫く呆然と黙りこくって立ち尽くしていた。私は解り易く説明しようと心掛けたつもりだったが、これでも未だ年端の行かない子供には理解の及ばない範疇だったのだろうか?
しかし、私が感じた若干の反省や解釈とは裏腹に、息子は子供特有の突拍子も無い奇妙な放言をし始めたのだ。
「……機械でも解らない近道は無いの?」
今度は私が呆気に取られる番だった。子供の意を汲む対話とは容易なものではないのかも知れない。
「機械に解らない事は無いし、間違い等は決して起こさないよ。ヘッドギアは最も正しい答えを教えてくれるんだ」
「でも、あの庭の茂みを突き抜ければもっと早いんだよ」
息子は誰も知り得ない秘密を明かすかの様に、得意気にその庭先を指し示した。私は反射的に声を荒げて説き伏せ様とすらし始める。
「お前は今迄人様の庭を勝手に横切っていたのか? そんな事は許されないし、機械の情報には無い、絶対に指示されない間違ったやり方だ!」
私は父親として、社会人の教育的責務として若干威圧的に断じた。矢張り子供へ言い聞かせるには、多少の権威を滲ませなければならない場合も有り得る。しかし、それでも息子は承服し兼ねる態度を崩さず、他愛の無い質問を止め処無く語り続ける。
「もし、裏道で見た事の無い綺麗な景色があったらどうするの?」
「いいかい、素直に言う事を聴きなさい。目的地に着く事が大事なのであって、途中の道のりや景色等は関係無い、どうでも良い事なんだ。気紛れなんて何も齎さない。ヘッドギアの指示には従わなくてはならないし、その通りに従っていればヘッドギアは万能で間違い等無いんだから……」―)
……そうだ、あの子は指示に無い道へ行きたがる事が間々見受けられた。それは幼児特有の無邪気な好奇心や他愛無い気紛れと看過して来たが……。
ヘッドギアが文章や音声映像を同期させ低度の警告を発する。
『ヘッドギアの指示に従って下さい。進行方向と目的地が違います』
『ヘッドギアの指示に従って下さい。現在時間から到着予定時間を修正する必要性が生じます』
『ヘッドギアの指示に従って下さい。ヘッドギアの指示に……、ヘッドギアの指示に……』
思えば現代社会の人間は誰一人として道に迷った経験が無い。息子は、敢えて見知らぬ道へも踏み出したい、迷う事で得られる何かも有り得るのではないか、と子供ながらに精一杯訴えていたのではないか。
ここ暫く本格的な調理作業がされた形跡の無い整然とした厨房は、住人達が存在していると言う生活感の様なものを日に日に希薄にせしめていた。
(……もう、私自身も疲れ果ててしまった……。責任を取ってこの人生を終わらせたい……)
普段料理は妻に任せ切りで、道具の配置一つ覚えていないものだが……。そんな小道具一つ取っても、ヘッドギア電脳は画像記憶、映像記録から物品の情報も詳細に提示してくれる。
画像や名前を検索すると、個人の記録映像からどこにその品物を置いていたのか、個人の使用回数から頻度迄も時間を巻き戻して精査する事が可能なのだ。また逆に何等かの道具を視認した際、対象に於ける名称、使用方法等も逐一百科事典を紐解く要領で調べられる。
父親は、台所の戸棚に仕舞われていた包丁をヘッドギア情報から見付け出すと、その刃物の放つ光沢にじっと魅入られていた。
―そして次には、無造作にその鋭利な切っ先を自分自身の首へと向ける。しかし刃物を実際に首へ宛がおうとした矢先、ヘッドギアは周辺へも轟くかの様に突如大音声の警告を発し始めた。
『警告します。現在、包丁に於ける持ち方が一般的な使用方法から逸脱している可能性が感知されました。使用者本人に重篤な危険が及ぶと判断された場合、速やかに中止を促す様に政府管理下の基、ヘッドギアは設定されています。
若し使用者に由る意図的な自殺、と映像記録から判断された場合、その後の国民保険は遺族へ適用されません……。
繰り返します……。若し使用者に由る意図的な自殺、と映像記録から判断された場合……』
父親は悄然と包丁を振り下ろした。例えば台所から火事を発生させる、高所から飛び降りる等と試みても、ヘッドギアは事前に防御機能を働かせ周囲へ大音声での警告音を発する。それと同期し、異変時の急報は身内の者や近隣住人達へと瞬間的に伝達され、事故の防止や応急処置の指示をも的確に図る事だろう。そして政府直属の救助隊は事故現場へ迅速に到着し、その高度な医療技術を以って簡単には自殺志願者を彼岸へと向かわせてはくれまい……。
(……私には、ヘッドギアの警告を無視して迄自殺し切るだけの度胸等、最初から持ち合わせてはいなかったのだ……。
息子よ、私は生活も生死も自我さえも、全てをこの電脳へ委ねていたのだと、漸くお前から気付かされた……。
私の足元には何も無い。
本来生き続ける中で、自分自身で築き上げるべきだった、揺らぐ事の無い確固たる地盤と言うものが……)
片手に携えられていた包丁は、力無く開かれた掌から滑り落ちる。そして、カタッ、と空虚な音を立てて、その身を静かに床面へ横たえた。
*
・第三章・『交錯の舞踏~誰と踊りますか?~』
暗然とした空間の中を一心不乱に歩き続けている……、出口を見晴るかす事も出来ない程、延々と伸び往く通路を。横目には鈍色をした水流が続き、せせらぎが耳を擽る。
ここはマンホール下の暗渠。僕が下水処理場に潜伏してから多分数日が経つ。
発作的に市街で犯行を起こし逃走中の今、思い出すに付け我ながら大胆不敵な行動に及んだものだ、と驚嘆する。きっと地上は物情騒然としている筈なのだが、警察が僕の居場所を嗅ぎ付ける迄、後どの位の時間が掛かるのだろうか?
本来僕が突発的に犯行を起こす前から、逃走経路が皆無と言う事は暗黙の周知だったのだ。区画整理と警備網が徹底され、尚且つヘッドギア自体が自己認証となる近代都市インダーウェルトセインに抜け穴等は有り得ない。犯罪発生率自体が僅少なこの世界に、犯罪者達が密集する魔窟等も殆ど存在し得ないのだ。政府の方針の下、前時代からとっくに浮浪者やその住処等も一掃されている。
現代には路地裏が無い……。訳有りの人間が追い遣られる掃き溜めの果てが。当然都市の公的交通機関は多岐に発達しているが、目下追跡中であろう僕が利用出来る筈も無い。そこで僕は先ず中心地から離れ隣町を目指そうとし、徒歩で大衆の目を掻い潜る為にと一計を案じマンホールの蓋を開け地下へ潜入した。
それに、地下道へ潜伏するならば深夜から早朝に掛けての冷え込みや天候不順もある程度は防御出来る上、他者の気配を懸念せず睡眠にも入れると踏んだのだ。時折空腹を覚えた時は、深夜を見計らって地上へと浮上する。そこで夜陰に乗じて人目を盗み、レストランや食品店の残飯を漁り出しては叉翻る様に地下下水道へ逃げ込む……。ここ数日はそんな未体験の潜伏生活を繰り返していた。現代は治安が良く、浮浪者や何某かの犯罪に免疫の無い市民ばかりだ。食品店の人間も何者かに残飯を探られる様な経験は皆無に等しいのだろう、これ迄誰かに気取られる事は一切無く、首尾良く食物を失敬している。
摩天楼の地下世界に潜む魔人―。時折自分がそんなミステリーホラーに登場する怪人の様に想える。
……そして今では、僕の目的と進路は徐々に変移し始めていた。都市中枢部から隣街迄逃げ果せたとしても、それは束の間の存命に過ぎない。ヘッドギアを自ら脱ぎ捨てた以上、一般人を装う様な擬態は不可能だ。最早僕の逃げ場は世界の何処にも無いのだ、世界の何処にも……!
最果てにすら居場所が無いとすれば、取るべき手段は一つ。そう、社会へのテロしかない……! 胸中は我ながら澄み切った蒼空の如く静穏としていた。正直に告白すれば、先日の大罪にも良心の呵責と言った殊勝な感情は一抹として無い。これから攻勢を仕掛けようと変心し始めた事にも、何の臆気も湧かないのだ。
僕は『自己』を欲し犯行に及んだ。
仮面を脱ぎ捨てると言う行為は、自己存在を獲得する為にはどうしても必要な通過過程だったのだ。無色透明な存在から脱却し唯一と成る為にこそ不文律から違犯したのであれば、いつ迄もこうして
溝鼠の様に地下を徘徊している訳には行かない。それも叉無色透明の一形態と堕してしまうからだ。
有色で在りたいのならば、隠逸は不可。それは誰にでも無い、自分が自身へと架した誓約の様なもの……。例えどこかに世間の目や警察の追手から遁れられる隠れ処が存在したとしても、そこへ安住する事は許されない。
自身の理念と覚悟を立証し続けるには前進以外は無いのだ。統一記号で構成された社会へ、唯一の記号を背負い身を投じる。
―つまりは素顔の侭社会へと対峙する。それだけだ。それ以外には道は残されてはいないのだ……。
*
都市全体を眺望出来る、高層ビルの一角インダーウェルトセイン・シティビュー。その市街の景観に魅入る事も無く、寧ろ睥睨しながら忙しなく足踏みを続けている恰幅の良い男が一人。
―警官達を大量動員し、市街全体に警備網を敷いてから数日が経つ。しかし一向に目撃情報が収集されない事等から、ロイトフは更に焦慮を募らせていた。世論から自然と呼称が定着して行った通り魔『エス』……。大規模な捜索の中でも奴の足取りが依然として捕捉出来ない。
奴の所在はどこだと言うのか? たった一人の逃亡犯も捕獲出来ない様では警察機関の信用問題に関わり、引いては国家全体の威信と安危にも関わる重大問題にも成り得る。犯人捜索の成果が振るわなければその日数に比例し警察機関への重圧は増大する一方で、反面、権威は失墜して行く……。
自身の地位が根底から脅かされている現在、ロイトフは見るに耐えない程焦燥し切っていた。
(―唯一の救いは、捜査を撹乱する様な偽情報や誤報が通報されない事だが……)
そう、現代ではヘッドギアに由る個々の存在認証が徹底されている。ネット上の掲示板程度ならば匿名同士でのやり取りも容認されているが、当然個人情報は全て記録されているのだ。確実に身元を特定出来るが故に、警察へ通報する場合匿名を押し通す事は不可能。前時代ならば、大事件が発生する度に悪質な悪戯としての偽証迄もが爆発的に警察元へ舞い込んで来ていた筈だ。現代では通報者の身元を割り出せる以上、こう言った怪情報に惑わされる心配は無い。
その情報の正確性だけが今では唯一の生命線だった。
しかしロイトフが釈然としないのは、犯人の足取りが一切掴めない事だ。突発的に発生した事件とは言え、現在では都市全体を包囲する様に厳戒な警備体制が敷かれている。エスが逃亡を謀るなら、
どうあっても交通機関の要衝に突き当たる筈だ。例え人目に付く街区を避けて歩いたとしても、いずれはどこか、街と街との橋渡しで何等かの関門を通過する必要に迫られる。
陸路、空路、海路、地下……。想定出来得る交通手段の中、エスは何を逃走手段に用いたのか? 公園や路地裏に生息していた所謂ホームレス等は、美的景観や社会福祉の名目から前時代に一掃されている。難民にもヘッドギアと就労先が付与された為、現代では道端に棲む人間達も存在しない。犯罪者や難民が密集する様なスラム街が存在しない以上、エスが一定の場所に潜伏し続けている事はまず考えられない。否、潜伏にしろ逃亡にしろ、最早エスには世界のどこにも行く充ては無い筈だ。
(だとすれば、奴の現在の所在は……?)
陸路。奴は一先ず馬車へ無断乗車したとは言え、現在も使用している筈は無い。徒歩ならどうしてもどこかで人目に付くが、バスやタクシー、乗用車の線も有り得ないだろう。
海路。船上で追手と対峙する場合、海上では逃走手段が余りにも限定され過ぎる。
空路。空港へ潜入する? 確かに、前時代では偽造パスポートの使用や整形による成り済ましでの密入国等、潜入方法は幾通りも実在した様だ。不法入国者を介助する為に、仲介者が人間を鞄に詰め込んで税関を通過していた様な前例すら多々見受けられたと言う。検閲の目をあっさりと欺き、隠し通した武器を持ち出して空港や飛行機の内部で犯行を決起したテロリスト達の事例も寡聞では無い。
―エスは何等かの偽装工作を謀って飛行機の内部へ潜入し、それこそ今では海外へでも高飛びしているのか?
否、前時代ならいざ知らず、管理体制が向上した現代で完全な潜入工作等可能なものだろうか? 人間を鞄に詰め込んで荷物に見せ掛けて移送する事も、協力者無くしては不可能な犯行計画だ。
……矢張り明確な選択肢が浮上して来ない。本来防犯体制が磐石である筈の近代都市インダーウェルトセインで、監視網に掛からず犯罪を遂行する事等は……。
尚且つ市民一人一人に装着が義務付けられたヘッドギアは、一種昆虫が持つ複眼の如き構造を持った視覚網でも在る。ヘッドギアは装着者本人の内外両面で、自然と監視カメラの役割をも果たしているのだ。何気ない日常生活も個人の動向は主観映像として記録される上、視界に入る外界の事象もその侭全て自動保存が為されて行く。故に現代に於ける電脳社会の機構には、個々が相互に監視し合っている様な側面も自然と備わっていた。
最後に想定される線は地下……。地下鉄は路線が多岐に渡り発達しているが、地上から降りる事はそれ以上逃げ場の無い閉塞を意味する。論を待つ迄も無く地下鉄は最も可能性の希薄な逃走手段だ……。
…………。
(否、待て。確かに公的交通機関を利用する事は、現在のエスに取っては不可能に近い。中でも地下鉄は逃走手段として最も不都合だ―。が、しかし、元々奴が公的な交通機関や公的な行路を選択するだろうか? そもそも公的機関に警備の要点を置いたとしても、発見出来る筈が無かったのでは……?
監視や捜索の目が行き届かない場所はまだ幾つか数え上げられる。地下鉄は最も低次の警戒区域と関係者達は断じているが、例えば『地下下水処理場』ならどうだろうか……!?)
ロイトフはヘッドギア画面上からネット接続を図り、政府要人だけが集結する極秘サイトへとアクセスする。
トップページは極秘サイトで在る性質上か、一面黒塗りで主張の無い、地味で簡潔なデザインだ。訪問者を出迎える看板には、重厚なロゴデザインで<クラブ・ユング>とだけ記されていた。
ロイトフは勝手知ったる様子で手際良くページ内のコンテンツを操作し、早急に各様の要人へ伝令を掛ける。
「至急捜索隊を召集し、本部指定区域から機動開始せよ。具体的現場は……」
*
警察官のヘッドギアには、仕様として数種類以上の特殊機能が内臓されている。防犯機能として『集音』、『遠隔視』、『赤外線透視』、『異臭探知』等の能力が付与されているのだが、特殊機関仕様のヘッドギアは目下捜索中のエスへ対して徐々にその効果を発揮し始めていた……。
冷然とした地下下水処理場の中、ロイトフに由る厳命の下でマンホールから地下世界へ潜入した捜索隊は、既にエスの足跡を掴み掛けている―。当初、地下への調査命令が下りた際は誰もが首を傾げたものだが、今では捜索に従事する者達全員が長官の推測に信服の念すら覚え高揚していた。
エスが地下へ潜伏していると言う仮定から事件現場の区画内で捜査を開始した所、まず一箇所のマンホール蓋が強引に抉じ開けられたかの様な形跡が発見されたのだ。これは周辺の指紋採取を図れば更に正確性が増す為、ネット通信を介し早速鑑識へ検索依頼が掛けられている。
そして肝心の地下世界の様相だが……。ヘッドギアの内部気圧計や温度計から、従来の地下下水処理場とは異なる微妙な変化が計測された。つまり、何者かの侵入に由って地下の気圧や温度が変移した、と言う可能性が浮上して来たのだ。葉脈の様に地下世界を網羅する下水道内だけに、一人の人間の所在を突き止めるのは砂漠で砂粒を選り分ける程に困難な作業ではある。しかし、少なくとも犯人の逃走手段迄は看破した。後はエスの逃走経路と現在地を読み解く迄に捜索活動は進展しているのだ……!
どこに潜伏しているか計り知れぬエスの急襲を警戒しながら、捜索隊は慎重にその歩を進める。何者かの足跡を発見出来れば、靴の型や進行方向、泥や埃の堆積、鮮度等の要素から科学的に精査して行く事も可能なのだが……。
……そして暫くして不意に、一人の隊員が大仰な声を張り上げ上司格の男へと誰何した。
「隊長、見て下さい、これ……!」
一人の部下が指し示すその先を、反射的に一同が振り向き一斉に凝視する。示されるその先には、薄闇の下に翳りながらも目に付く異状が横たわっていた。
通路の片隅に打ち棄てられた残飯……。これはつまり、下水処理場の通路で何者かが食事を済ませた、と言う物的証拠だった。この形跡を見て取った瞬間に、捜索隊は一様に騒然とした声を挙げどよめき立つ。犯人の特定に緊張を感じ萎縮する者、既に犯人を逮捕したかの様に愉悦を感じ浮き足立つ者と、各人の反応は千差万別だった。
そんな各様の反応を窘める様に、上司格の男は一喝する。
「気を引き締めろ! 犯人が近いと言う事はこちらにも危険が及ぶかも知れないと言う事だ。自暴自棄になった相手は何をしでかすか判らんぞ。
そして、万一にも奴を取り逃がす訳には行かない。捕獲出来るなら今この時、この場所しかないのだ!!」
鶴の一声に、一同は一瞬にして襟元を正す。勿論恫喝しながらも、上司格の男にも興奮や恐怖心は内心で脈打っていた。しかし隊を指揮する役割上、部下から気取られない様に平静を保つ事は義務に近いのだ。
―そして全員が神妙になったその刹那、ヘッドギアの集音機能から一定の規則を伴う音が鼓膜を掠めた。
一同はダイヤルを最大限に上げ耳を欹てる。
……カツ、カツ、カツ……。
コンクリートの床を反響させているその物音が、人間の足音だと判断する迄に数瞬も必要は無かった。
「奴だ! そう遠くないぞ!!」
部下達へ一斉に動揺が走る。しかし言うが早いか、部下達の反応を確認する前に隊長格は疾駆し始めた。聴取される足音、歩調の質や音量をヘッドギア電脳に計測させ、犯人の大よその現在地と方向性を探る。
(自分とエスとの距離間は凡そ数百メートル、北西の方角と言った所か……!)
息が乱れる程に疾走する最中、隊長格の男はヘッドギアの視界を夜間用暗視スコープへ切り替える。
真暗闇でさえも視認可能とさせる赤外線照射機能を付加させ、視界可能距離は150メートル、最長認識距離を100メートルに迄引き上げさせた。その上で高感度な温度検知能力に由る体温自動追尾機能を同時展開させる。ヘッドギア内部の視界には、熱画面と可視画像の同時表示が瞬時に成された。これに由り、高温点の対象が移動し続けても捕捉が消失する事は無い。
何より現在、地下下水処理場に存在する人間の体数等は極く限られている。温度検知能力は、捜査する熱源を人間の基本体温一点のみに設定して置くだけで良いのだ。
(地下世界ならば、追い詰めた先はどこにも逃げ場の無い閉塞……。それ以外は無い。ここ迄来れば奴の捕獲は目前だ……!)
微かに響く声音や足音から、部下達も懸命に自分を追走している事が背後からも感じ取れる。しかし彼は仲間の追随を心強く思うよりも、本心では疎ましいので振り切りたい、と拒絶すら覚え必死に
脚力を上げて行った。
それは社会的注目を浴びる犯人へ接近している事を生々しく肌で実感し、急激に本人の胸中で下賎な欲目が擡げ出した故の心境だった……。
(―手柄は俺の物だ、俺の功績だ……! エスを捕らえ、世間を席捲する英雄はこの俺と成るのだ……!!)
*
―水路から足早な歩調が反響し始めた事に気付いた。
不意に僕の鼓動は加速し始める!
地下の構造上、壁に反射した音が茫洋となり多方面から反響音が耳を覆う様で、当初はそれがどの方向から響いて来るのか判断が付き兼ねた。只、現状に於いて言える事は一つ。
―地下下水処理場に自分以外の他者が潜入した、と言う抜き差しならない事実だ。
何者が下降して来たのか? 下水処理場の作業員か、それとも矢張り警察の捜索隊か……? どちらにせよ長居は禁物だ。仮にその何者かが警察だとすれば、正直想像以上とも言える捜査の進度だ。
まず僕が懸念と後悔に囚われるのは、ここ迄の道程で食後の痕跡を残して来てしまった事だった。若し警察が地下へ潜入し僕を追跡し始めているとしたら、これ程明白な追尾の筋道はあるまい。それは丸で道中にパン屑を点々と撒いて行ったヘンゼルの様なものなのかも知れない……。童話との相違はそれが家へと引き返す道筋にもならず、追跡の手掛かりにしかならないと言う事なのだが。
ともあれ僕は気を取り直し、現状から逃げ切る為に足音を反響させない方法を即興で考案した。
靴を脱ぎ捨てれば又それも逃走時に於ける痕跡の一つになってしまう為、敢えて靴の上から靴下を覆う様に履いたのだ。これならば、足音の反響は軽減出来る上に足跡も残らない。
六角形状になった蜂の巣の如き迷宮を、足音を殺す様に自重しながら速足で歩を進める。何者かが追手だとしても、これだけ複雑に入り組んだ下水道では簡単に僕の所在は掴めない筈だ。外部者の存在を事前に察知出来た事は幸運だった。
―未だ捕まる訳には行かない……! そして今なら僕は逃げ切れる、逃げ切って見せる……!!
*
可笑しい。僕は足音や足跡が気取られない様な工作を施し、慎重さを失しない侭俊敏に逃走を謀っている筈なのだ。地下道は眼前がやっと視認出来る程度の薄闇に包まれているし、方向感覚を失ってしまう程に複雑な通路構造となっている。僕はこの迷宮を、時には敢えて遠回りすらする様に方向転換しつつ進行していた……。
しかし、それでも背後から接近して来る影を振り切れている気がしない。拡散していた外部者の足音も、今では一方向から鳴り響くものだと断定出来た。その歩調には惰性や逡巡が欠片も無い。或る強靭な意志や目的を、確信を持って踏み締めている―、そんな一本気な行進の足音なのだ。
背後から迫り来る人間は僕と言う存在を感知している。断じて地下下水処理場の作業員等では無い、明らかに僕の捕獲を目的とした警察からの追跡者だ! しかしGPS機能を打ち捨てた人間を、こう迄精密に追尾出来るものなのか? 警察官等には、一般市民が装着するヘッドギアの基本機能に加え特殊防犯機能が複数内蔵されていると聞き齧った覚えは有るが……。
この正確な追跡もそのヘッドギア機能の賜物とすれば、分岐路をわざと迷走して見せた所で何の撹乱にもならないと言う事か……。
―不味い。徐々に追跡者との距離が縮まって来ている。奴等は確実にヘッドギアの特殊機能を駆使して僕を追尾している、と実感させられた。その上、仕事柄彼等は相当に訓練された精鋭の筈だ。何の武器も無く丸裸同然の上、数日の逃亡劇で疲弊している僕はあらゆる条件で不利だった。
段々と奥まった場所以外の選択肢が無くなって行き、言い様の無い焦燥感が全身を貫き始める。
行き止まりだと一巻の終わりだ……!
異臭は満ち、その不快さに鼻を顰めつつ足だけは停めない様にと前進し続ける。しかし閉塞する空間のせいか焦燥感は益々と煽られ、胸の鼓動が再度加速し始めた。心臓が際限無く膨張し、脳裏で冷や汗を掻き、手足の末端迄が恐怖心で震え始めるこの感覚。
不味い、不味い、不味い……!! この侭では呆気無く捕まってしまう。僕は傍目からしても不様な程に惑乱していた筈だ。
―そして、薄闇の中で、更に愕然とする絶望的な事実が立ち塞がった……。
暫く思考停止して、僕は呆然と立ち尽くす。何かの要衝か警備システムなのか、眼前には行く手を遮る様に鉄の扉で厳重に封鎖されていた……。横手にはカード認証装置やコントロールパネルらしき物が設置されている様だが、素人の僕が操作等知悉している筈も無い。仮に操作方法が解った所で、作業員でも無くヘッドギアすら装着していない僕が、認証識別を無事に通過する事等土台不可能だ……。
背後から迫り来る足音の音量が段々と高まり、明確に聞き分けられる程接近して来ている事が感じ取れた。
その追跡者からは、犯人と思わしき僕に対して一言の誰何も無い。声を掛ける事で僕が反射的に逃走するか、反撃して来るかを危惧しての事だろう。そして、僕に投降を勧告する様な説得の必要性を彼等は根本的に有していない、と言う一面もある。
それも至極当然だろう。更正の余地が見受けられる軽犯罪者なら兎も角、僕は既に長期間の懲役どころか死刑すら有り得る身の上だ。そんな重大犯罪者と一先ず平和的に論議しよう、等と言う程に警察が寛大な訳も無い。彼等は既に、武力行使してでも僕を捕獲し様と思い詰めている筈だ。
無意味な行為だと解り切ってはいるものの、僕は眼前に立ち塞ぐ鉄扉を何度も叩き続けた。手先に走る苦痛も介さず、骨へと直に衝撃が響く程鉄扉を殴打し続ける……。
駄目か、もう駄目なのか……。僕は志半ばで、こんな辺鄙な所で捕まってしまうのか……。
諦念に囚われ、冷え切った地面へと力無く頽れそうになる。
……しかし何とか重厚な鉄扉へと寄り掛かり、僕は倒れ切る前に自分を支えた。明瞭な思索が紡げず、恐怖心や絶望感の闇が脳裏を覆い、呼吸迄も塞がれる様だ……。吐き気すら催され呻く中で、僕は懸命に自分へ言い聞かせ、なけなしの勇気を振り絞ろうと必死だった。
―そうだ、どうせ捕まるのなら、やるだけの事はやって散ろうじゃないか……。
不様でも最後迄悪足掻きは通す。そんな気概を遵守しなければ、僕の犯行声明や行為は虚偽のものと堕してしまう。……それだけは許されない! 絶対に!! そんな妥協や諦念こそ、僕が最も唾棄していた大人や社会の姿勢と言うものだったじゃないか!!
捜索隊は武術訓練を施されている上に、各種武器も所持している事だろう。そんな精鋭達を相手取り勝算は無いが……。だが、少なくとも一人か二人は道連れにして死んで見せる……!
そう覚悟を想い定めた、その時だった。
…………。足元から地響きが、身体全体を劈く程に伝導し始めた……。一瞬地震かとも錯覚したが、丸で眼前へ光明が差す様に、足元から天井へと鉄扉が上昇して行く……!
そんな馬鹿な。僕には鉄扉を開門させる事は不可能だ……。あちらから道が開かれる事等有り得ない……。
しかし充満した異臭を風圧で吐き散らし、仄暗い地底へ曙光が照らされるかの様に、先への扉は開け放たれたのだ。次の瞬間、僕は更に驚愕する事となった。
開かれた鉄扉の向こうでは叉も何者かが立ち尽くしている!
僕は一瞬、行く手を塞ぐ扉が開門された事で一縷の希望を感じた。しかし眼前の人間が視界に飛び込んだ瞬間、捜索隊から挟撃の構図で追い詰められていたのか、と叉も絶望の疑獄へ精神が堕ちて行く……。
もう、駄目なのか……?
そうして事態を受容し切れず呆然としている刹那、眼前の相手は僕へと躊躇無く歩み寄る。反射的に身をたじろがせるが、相手は意に介さず僕の頭部へと手を伸ばし抱き込んで来た。
不意の行動に、矢張り捜索隊の人間が繰り出して来た逮捕術なのか、と気が動転する。しかし、相手の懐から解放され視界が開けた瞬間、奴は僕を平然と押し退けた。
危うく地面へ倒れ込みそうになり膝を着く。……そして束の間の解放から、僕は単純な事実を察知する。今、僕の頭部を抱き込んで来た相手は、背丈や体格、服装からして青年……。それも警察や軍事機関とは凡そ無関係な一般市民と見受けられた。
ヘッドギアの下から全身は、無数の安全ピンと刺々しい鋲で留められた鉤裂きの服、タータンチェックのボンテージパンツと言った風体だ。その極彩色で一種生々しくささくれた意匠は、旧時代から連綿と続く音楽、服飾文化に於いて代表的な型だった。察するに、パンクスと呼称される様な人種だろうか? 政府へ反体制を表明する様な、あの……。そして察知した事柄の二つ目は、僕が彼に頭部を抱き込まれた理由だ。僕の聴覚は今や封鎖され、逆に内耳では身体の律動が雑音の様に輻輳している。
ヘッドホンだ。僕は彼から、防音を目的とする様なヘッドホンを無理矢理装着させられたのだと気付く。無音の状態の中、振り向くとこちらへ向かい疾駆して来る一隊が視界に飛び込んで来た。僕を追跡して来た捜索隊だ! とうとう警察はここ迄追跡を果たし、僕の発見に成功したのだ。彼等の鬼気迫る様相を見れば、僕を断固として捕獲しようと言う気迫は一目瞭然だった。
もう走る事で振り切れる距離では無い……!! こちらへ目掛け走り寄って来る警官達を前に、僕は暴力を行使してでも抵抗しようと覚悟を決めて拳を堅く握り込んだ。屈強な集団を相手取り、果たしてどこ迄闘えるかは量れなかったが……。対して、僕を押し退けて警察へと立ち塞がったパンクスは一向に動じていない。毅然さを固持した侭奴等へと対峙する、彼は何者なのか? 一体何の目的でこの地下下水処理場へ下降して来たのか? そして何故、警察と僕が衝突する危機的状況へ即妙に到着出来たのか?
そんな疑問が泉の如く次々と湧き上がる中、ふと気付くと彼の片手には何等かのコントローラーが携えられていた。彼が徐にその装置へ手を掛ける。
……するとその一瞬の後には、こちらへと息巻いて突進して来る隊員達の歩が明らかに鈍った。
突如その場で静止し始める面々に、僕は怪訝な顔を浮かべる。接近して来る一隊は、どうした事か大仰に頭を抱え込み、次々に地面へ倒れ臥して行ったのだ……!! 彼等はきっと苦悶の悲鳴を挙げているに違いないが、防音ヘッドホンを装着した僕に取っては、無音の侭一人一人が崩れ落ちて行く一種異様な光景にしか映らなかった……。
僕が事態を呑み込めず呆気に取られていると、パンクスは僕の手を引き、開かれた扉の先へと先導し始めた。
信じられない。彼が何をしたのか……!? 逮捕される寸前の窮地に迄追い込まれたが、若しや僕はこうして逃げ切れてしまうのだろうか!? 並走する中、青年は手振りで僕の頭部に装着されたヘッドホンを着脱して良いと指し示す。そこで僕は素直に彼の指示へ従い、耳を覆っていたヘッドホンを取り外した。
その直後、初めて青年は僕に向けて声を発する。
「前を向いた侭で居ろ」
それが第一声だった。渋味の利いた低音の声……。だがその声質や話し方から、矢張り彼は僕と同世代程度の若者であると直感的に推し量れた。僕は彼から出された指示の真意が理解出来ず、横目で状況を一瞬だけ盗み見る。
すると倒れ臥していた隊員達の一群から、息も絶え絶えながら這い上がろうとする一人が見て取れた。流石に国家機関の組織だけあり、相手も一筋縄では行かない。立ち位置や雰囲気からして、その唯一再起しようとしている男は一隊の指揮権を持ったリーダー格なのだろう。
「良いか!? 絶対に後ろを振り向くなよ!!」
真意は計り兼ねたが、僕は彼の指示に従い更なる全力を両脚へ込めて地を蹴立てる。風は切り裂かれ、視界が更に狭まって行く。丸で自我と肉体が別物として分離したかの様な自意識の消去……―。
そして数瞬の後、大音響と共に、仄暗い地底を真昼の様に照らす閃光が背後から瞬いた!
丸で僕等の逃走を後押しし、道筋を照らし指し示してくれるかの様な聖火……。僕にはそんな祝福と気勢の火花が散ったかの様に感じられた。と同時に、リーダー格と思わしき男が挙げる苦渋に満ちた声が微かに漏れ聴こえて来る……。明滅する空間の中で好奇心を堪え切れず再度横目で後方を見遣ると、リーダー格の男はヘッドギア越しに両目を押さえ込み蹲っていた。正体不明のパンクスに由る、何らかの妨害工作が奏功したと言う事なのだろう。
パンクスは僕と並走しながら、息を弾ませ快哉を叫ぶ。
「ざまあ見やがれっ!! クソッタレの政府の犬共めっ!!」
程無くして分岐路に突き当たった。しかし、そのパンクスは本来辿って来た道順なのもあってか、勝手を知った様に逡巡無く僕を先導し始める。そして辿り着いたその先には壁に打ち付けられた錆付いた梯子が在り、天井からは微かに開いたマンホール蓋が見て取れた。
出口だ……!
僕は逃げ延びる事が出来るのか……、謎の青年に由る助力の甲斐もあって……。
彼は手際良く梯子を昇り切り、僕を出迎える様に頂上で待機した。後へ続く様に、僕自身もいそいそと梯子に手を掛け出口へと昇り始める。そして程無くして昇降口付近に到達し始めると、僕はふっと一瞬顔を顰め眼を眩ませた。しかしそれは不快だからでは無い。
―マンホール蓋の隙間からは、外界から一筋の光が射し込まれていたのだ……。
*
・第四章・『中庭での社交~初めまして~』
まだ動悸が早鐘の様に、胸奥で反響し続けている……。枝葉の隙間から、そっと周囲の気配を窺う。
無人だ。この路地に通行人の気配は無い。
その静寂は僕の興奮と対極をなす様でもあり、周囲が閑静だからこそその興奮を逆撫でされる様な矛盾した心持ちでもある。
……警察からの追跡を振り払った僕達は、下水処理場から外界へと脱出を果たす事が出来た。
今では追跡網を逃れる様に、一時的な休息も兼ねて路地裏の鬱蒼とした茂みで身を潜めている。但し僕は依然として、状況を完全には把握出来ていない。寸前でどうにか警察を撒く事は出来たが、危機一髪の瞬間に颯爽と現われ、救いの手を差し伸べて来た彼は何者なのか?
横手で息を潜め僕と同様に周囲の動向を観察していた彼も、まじまじとした僕の疑問視に気付いたのか漸くその重い口を開いた。
「自己紹介が遅れたな……。俺の名前はシド。仇名だ。国籍番号は長ったらしくて忘れちまった。俺はエスの共感者だ」
「エス?」
「そうか、あんたはまだ知らなくて当然か。今、あんたは一躍時の人に成ってるのさ。エスってのはネット上で広まったあんたの仇名だ。心理学用語の原我、から来ているらしいぜ。小洒落てるよなっ!ハハッ!!
……兎に角、今や世界ではあんたの話題で持ち切りだ。当然、お堅い保守主義者みたいな奴等からはあんたは批判されてるし、近所にエスが徘徊していたら、なんて想像をして戸に鍵を掛けて怖がっている奴等も多い。そしてこれこそ当然で、さっき振り払った様に
あんたは警察からも追い回され始めている訳だが……」
シドは一呼吸置いて言った。どこか照れ臭そうな面持ちだが、彼は僕を確りと見据え直す。
「だが少なからずあんたに共感した奴等もいるんだぜ。こうしてどうにかあんたを助けられないか、と馳せ参じた俺はその第一人者って訳だ」
僕、僕の支持者……? 俄かには信じ難かった。僕はここ数日間であっと言う間に社会全体を敵に廻し一身に憎悪を浴びる様な、そんな四面楚歌の状態を覚悟していたからだ。本来、実際には一度も対面した事の無かった僕なんかの為に、こうして自身の危険も顧みず助力を尽くしてくれる様な仲間が現われてくれるとは……。ここ迄来たら、彼も逃亡者幇助の罪責は免れない筈だ。
一面識も無かった僕の為に、自らの人生を擲って逸早く共犯者に迄なった彼の勇気、献身に身が打ち震えるのを感じた。
只、矢張り一連の疑問や困惑は堰を切った様に口を衝いて出る。
「実際に会った事も無かった僕の為に、何故そこ迄出来る!? さっきは警察から逃げられたかも知れないけれど、もう君迄が協力者として警察の手配に回ってしまったんじゃないか!?
これから先、いつ迄も逃げ果せるかは僕自身が判らない……。犯罪の経験や逃亡の手立てなんて、今の時代じゃ誰も持ってやしないんだぞ?
そうだ、そもそも僕に取って避難出来る場所はもうこの世界のどこにも無い……」
僕に取って避難出来る場所はもうこの世界のどこにも無い……。自身では既に覚悟し切っている事実だが、こうして言の葉に乗せると、改めてその深刻さが実感として跳ね返って来る。周囲の空気迄もがその重圧に包まれた気がした。
僕はシドの救助には心底から感銘を受けているし感謝の念も感じている。しかし、だからこそこれ以上彼を巻き込みたくはなかったのだ……。
……そこでシドは半ば興奮し詰問する様な僕の口調に、寧ろ訝しげな調子すら呈し始めた。彼は肩を大仰に竦めながら応える。
「<僕は僕の生まれた意味を、価値を掴みたい。僕は僕の生存理由や生き甲斐を、自分自身の手に由ってこそ創り上げたい。ベルトコンベアの工程に載るのでは無く、この眼で物を視て、この両足で道無き道を拓きたい。己だけの生きる証、生きた証を手に入れたいのだ……>
これはあんた自身の言葉じゃないか。俺はあんたが警察へ送り付けたこの犯行声明に、物凄い衝撃を受けたんだぜ。俺も叉、鬱屈とした日々の中で出口も無く、只々無為に生きていた。夢も目的も無く、流される侭に生きてたんだよ……。
そしてこの侭歳を重ねて行く自分を想像する度に、堪らない程の怖さがあった。もし、この侭何も無い空っぽの大人になって行ってしまったらどうしようか、と……。しかしそんな不安へ目を逸らし真正面から対峙せず、心の片隅に追い遣って誤魔化そうともしていたんだ。
腐っちまってた俺の生活に、洗い流す様な風を吹かせてくれたのがあんたの犯行だ。それは何よりも生々しく、何よりも刺激的な事件だった。誰もが生温い生活に甘んじ、大半の人間は今の社会に疑問を感じる事も無い。いや、感じたとしても抗う意志を持ち、本当に実行する様な奴はまず居ないだろう。喧嘩を売るには余りにも世界は巨大過ぎる……、と、少なくとも俺達はそう思っていた。素直に社会へ与する事が出来ず、かと言って確固たる抵抗や克己が無い、そんな半端さの侭ずるずると飼い犬としての鎖を引き摺られる。犬小屋で吠え立てながら、その犬小屋の秩序と安寧に庇護され今日も眠りへ就く……。そんな矛盾や無力さに、自己嫌悪や劣等感は日増しに募る……!
何かを掴みたくて探し続けている様で、未だそれが何なのか自分でも判らずさ迷っていた俺達の様な人間に取って、あんたの言葉や行動は喝を与え、曖昧な暗幕を剥ぎ取る答え、啓示だったんだ……!
だからこそ俺も立ち上がろうと想った。危険を敢えて背負って、変わりたいって意志を口先だけじゃなく実証しようと想った。
そうして自分が何者か、何者に成りたいかを、掴もうとしているんじゃないか。己の生きる意味や理由を……。己で形作る道を……。夢や生きる証を……。その為には、まずはあんたと何が何でも逢わなければいけない、と想ったんだ。一種の義務や使命、強迫観念すらあった。
俺も自分だけの生まれた意味や価値が欲しい。その為に、まずあんたが捕まっちまう事だけは絶対に阻止して、共闘して掴み取って行きたいと想ったんだ……。それが理由じゃいけないかい?」
*
もう僕は何も言えなかった。思い掛けない邂逅の末、唐突に手に入れた盟友……。ここ迄一途な男を、信じない訳にも行かなかった。そしてどこか誇らし気なシドは、警察を妨害する迄の経緯を朗々と説明し始める……。
「まず、あの時はあんたの現在地や動向を掴みたかった。しかし、ヘッドギアを捨てたあんたには当然GPS機能は使えない……。そこで視点を切り替え、警察は一体どこ迄詳細を把握しているのか、と言う事に着目したんだ。具体的にどう調べたかと言うと……。
―そう、警察へのハッキングだよ。そこで、警察の捜査は予想以上に核心へ接近していると知り驚愕した。俺は一刻も速くあんたに出会うべきだと焦り、どうすれば警察を妨害出来るかも必死で考えたんだ。そして、警察がマンホール蓋を開封し地下下水処理場に潜行した情報を得て、あんたの逃亡手段や現在地は大体予想が付いて来た……。市街の厳重な包囲網に引っ掛からず、数日間逃げ延びられている理由がな。
あんたは上手く皆の心理の盲点を突いていたな。そこで奴等が、
防犯機能を複数内蔵した特殊機関仕様ヘッドギアを積極的に用い、あんたを追尾するだろうって事も事前に判明した。丸腰のあんたと鬼に金棒の警察じゃ話しにならない。だったらどうやって撃退を図るか……。
すると、奴等の恵まれた特殊機能を逆手に取ってやれ、と閃いた訳さ。現場へ介入した時、まずあんたにヘッドホンを被せたろう?
―あれは防音用のヘッドホンだったんだ。奴等は高性能の集音機能を使ってあんたの足取りを追っていたんだよ。俺は奴等の高機能を逆利用し、準備して来た高周波アラームを最大限迄引き上げて聴かせたんだ。あいつ等の鼓膜を突き破るフルオケーストラを奏でてやったって訳だが、それでも執念深く追い掛け様と這い上がって来た奴がいたな? あいつは作戦部隊の隊長格だった男だ。流石に根性は坐ってた訳だな。奴は奴で、ヘッドギアの視界を夜間用の暗視スコープに切り替えていた。地下道ではどうしても薄暗いので、その機能に頼ったんだろう。あの暗視スコープは、真暗闇でさえも視認を可能とさせる赤外線照射機能付きだったからな。
だが、それも叉逆手に取り、俺は調達した閃光弾で奴の目を眩ませてやったって訳さ。真昼以上に輝く光を直に浴びせられて、奴も吸血鬼みたいにぶっ倒れる事になった。だからあの時、あんたに後ろを振り向くな、と警告したのさ。
……事前に警察の情報を探知出来たお蔭で、妨害工作は想像以上に上手く行った。まあ奴等からしても、部外者の登場なんて予想外だったろうしな……」
……僕は既にシドへ魅かれていた。危険を省みない、蛮勇と言える様な衝動的行動に出たかと思えば、警察の先鋭的な技術力や防衛力を出し抜く程の知力や機転も併せ持つ。そんな二面性は危うさを孕んではいるが、その危うさこそが何よりも耐え難い磁力を放っている気がするのだ。彼も叉、初期衝動の塊そのものの様な人間なのか。
本来一時も気を緩められない窮地に居ながら、僕は彼との時間の共有に平安すら覚えた……。しかしこの安らぎは、今はまだあやす様に眠りへ就かせなければならない……。
「シド。怒ったり勘繰ったりするなよ。僕は何もお前を疑ったりしている訳じゃない。だけど……。今は一旦散開するべきだ。理由は解るか?」
シドは暫し無言を保ち、不承不承に頷いた。
「なあ、俺自身はもうこんなクソッタレの仮面を剥ぎ捨てるなんて怖くも何とも無いんだぜ、本当に。だが今はあんたを支えて行く方が先決だから、未だ脱げない。本当にそれだけなんだ」
「ああ、解ってるよ。只、今は……」
「そうさ、仕方ない。俺自身のヘッドギアは今後の行動の為にどうしても必要になる。しかし逆にそれが足枷にもなって、あんたと一緒に居られなくもなる……」
そう、シドの機智ならば、ヘッドギアの全機能を駆使して僕を支援してくれる事は最早間違いない。しかし逆にそのヘッドギアの音声、映像記録機能やGPSは僕達の居場所や動向を特定する重要な糸口にも成り得てしまう。警察の一隊と対峙した一連の場面も、当然その侭奴等のヘッドギアには重大な証拠映像として保存されているだろう。僕に助力し公務執行妨害を犯したシドの正体は、間も無く警察の情報解析に由って判明してしまう筈だ。先刻は有耶無耶の内に警察の追跡を煙に巻けたとは言え、そろそろシドの個人情報、一連の動機や現在地迄もが特定されてしまう頃合いではないか? だとすれば、それこそ現在の会話すらも傍受され兼ねない筈だ。今のやり取りすら情報としてシドのヘッドギアには蓄積されている以上、今後電脳網上から警察に精査されたら……。
そう冷静に分析すると、名残惜しいが一旦はシドと別離するしかない。シドは収まりが付かないのか延々と僕へ言い聞かせようと気を吐き続けていた。
「俺だってとっととこんな仮面は脱ぎ捨てたいんだ。その上で初めて自分に成れる、とも想ってる。そして、そうして初めてあんたと顔を合わせ、やっと対等の仲間に成れる。本気でそう想ってるし、そうしたいんだぜ……!」
ああ、解ってるさ……。誰もお前を見縊ったりなんかしない、するものか……!!
「そうだ、あんたの為にちょっとしたアジトの用意はしていたのさ。これを上手く使ってくれ……」
シドは口惜しそうにしながら、懐から瀟洒な装丁のカードを差し出して来る。その紙片には、<クラブ『サイバーベルファーレ』/VIP会員証>と明記されていた。
「この磁気カードの会員証を使えば、クラブの地下室へ自由に出入り出来る。話しはマスターと付けているから、俺のカードさえ裏口で使えばボディチェックや個人認証、監視カメラなんかの措置は全部不問だ。暫くの間はそこでやり過ごす事も出来るだろう。まあ、あんたの事だからずっと逃げ込んでるって事は無いんだろうけどな」
僕は胸中を見透かされている様で、多少の戸惑いを覚えた。
「……解るのか? 僕の、これからの目的、みたいなものが……」
「解ってるつもりだぜ。ずばり、あんたは警察を中心に社会へとテロを仕掛ける。俺が用意したクラブの地下なら、上手く細工して行けば当分の間警察の目を掻い潜って隠棲する事も不可能では無いが……。だがそれはあんたの本望じゃない、だろ? 地下に潜伏した侭なら、あんたの最初の犯行声明や素顔迄を晒した意味に反するからな」
正鵠を射ていた。自己を渇望し社会に一石を投じた僕が、蟄居し続ける事は許されない。それはシドと逢う直前にも自身へ課した誓約なのだ。
自己を欲した者が志半ばで雲隠れしてどうする? 叉無色透明に陥る訳には行かない。この侭例え地下世界へ潜伏し安全を保証された侭生き永らえたとしても、それは自身の行為と誓約への抵触で有り敗北……!!
僕は後には退けない。何が何でも外に出る、前に出る。現状はその為の戦略的一時撤退に過ぎなかった。
―そして僕は肝を据えた面持ちを見せる。その僕の決然とした表情を読み取ったのか、シドは先程のやり切れない様子から一転し、我が意を得たりと云った調子で僕の肩を威勢良く叩き始めた。
「だから解るんだよ、あんたの気持ちはさ……。それでな、クラブの裏口への入り方は……」
*
・第五章・『舞台裏を覗く者達』
―平生ならば静寂を旨とするべき警察庁内の空気だが、現状では棟全体が異様な緊迫感に満ち満ちている。
エスを発見しながらも寸前で検挙失敗、再度逃亡を許す結果になったと云う第一報を聞き及び、ロイトフは愕然としていた。
(エスの逃走手段や行方は自身の端倪通りだったと言うのに……!)
一旦は接触しながら取り逃した以上、捜索は益々困難の一途を辿るだろう。それだけの修羅場を体験し潜り抜けた者ならば更なる危機意識と敵愾心を併せ持ち、今も逃亡先のどこかで自らの牙を研ぎ澄ましている筈だ。退路を断たれた獣が完全に覚悟を定めた……。失敗は紙一重の惜敗だったとしても、寧ろ犯人を強かに成長させる裏目へ出たのだ。
(しかし寸前の所で介入した第三者とは何者だったのか? エスは計画的犯行に及んだ訳では無く、発作的、衝動的な通り魔だ。その第三者が、エスと以前から何等かの関係性を持っていたと言う線は希薄なのだが……。
そして不意打ちの様な形とは言え、警察の機動に妨害工作を仕掛けるだけのその機知と胆力……。これは、逃亡幇助者の正体や動機も究明せねばなるまい)
現在迄の捜査方針……。それは無論逃走犯エスの捜索が主体ではあったのだが、時機が経過した事でその性質は徐々に変質化し始めていた。当初は凶悪事件勃発に由って世間から警察への指弾が集中したものの、張本人たる犯人の捕獲は数日間で完遂される容易な捜査だと想定されてもいたのだ。GPSでの捕捉は当然不可能なものの、四面楚歌の状況下で丸裸同然のエスを焙り出す事等は造作も無い、素顔がその侭目印へと転化し社会から浮き上がる異物等、否が応でも発見出来る……、と誰もが楽観視した。寧ろ当て所の無い閉塞に耐え兼ねて犯人が自首して来る、と言った可能性を視野に入れる者達が散見される程だったのだ。
……しかし、状況は不穏に変移している。個人の特定と市街全体の包囲に由る二段構えで捜査は進行していたものの、大方の予想を裏切りエスの影は一向に掴めなかった。エスが固定観念の裏を掻き地下世界へ潜伏していたと判明するも、追い詰めた矢先では部外者からの妨害も受け、再度の逃亡を許す……。この一件を受け、捜査方針は一旦白紙に戻らされた―。
ロイトフは、エスの家庭環境や学生時代の過去、知人友人の証言等を調査し件の犯行声明を読み解くに連れ、彼が一般市民に危害を加える可能性は希薄だと内心では捉えていた。衝動的な通り魔ではあるものの、彼は本来では寧ろ温厚で理知的な若者だったのではないか……。内面に混沌とした悪心を煮立たせた邪悪では無く、聡明で多感であるが故の希求に由る犯行……。そんな気がしてならなかった。
―彼は自己存在の不透明さに耐える事が出来なかった。
彼が疑問視し、敵対意識を感じたのはあくまでも世界の仕組みや成り立ちだ。革命へ打って出るとすれば、その攻撃対象は世界の構造を掌握する政府の様な国家権力に対してのみ……。彼の精神性を分析すれば自然とそう帰着する筈だ。
彼は彼なりに、警醒の意味も込めて行為へ及んだに違いない。故にロイトフ自身は、正味の所エスが一般市民に迄攻撃対象を拡大させる危険は無いと踏んでいたのだが……。
しかし正体不明の助力者も出現し、捜索隊を撃退する様な暴力性も確認された以上、警察としてはあらゆる可能性を考慮し検討せねばならない。事件周辺地域の住民からは不安の声も募っている。こうして事態が変移しているからには、周辺地域の警戒も更に強化するべきだろう。
……そして捜査要素が増加する事で、機動の比重が攻性から防性へと推移し始めた事にロイトフは懸念を感じていた。エス個人への追尾や包囲と言う攻性の捜査から、エスからの襲撃を危惧する事での防備へと……。
―世界が個人を追い詰めて行く筈が、個人が世界を突き詰めて行く……。
そんな形勢の逆転すら覚えて目眩を感じてしまう。『もしエスが政府へと反旗を翻した所で、たった一人の力ではたかが知れている……』。当初ならば、それが論議を待つ迄も無い全員一致の感想だったに違いないが……。しかし助力者迄が出現したらしい状勢から鑑みると、今後は大規模なテロへの対応も念頭に入れて置くべきかとロイトフは予見し始めた。
何由り、目下人員が割かれ捜査力が低下する要因は他にも顕在化して来たのだ……。『それ』はロイトフの慧眼から既に予測していた案件ではあったのだが。そして『それ』は捜査の散漫にも撹乱にも繋がる上に、第二、第三と言えるエスの出現や、エス本人への助勢となる危険性も憂慮される。
足音が硬質に反響するリノリウムの通路を闊歩するロイトフ。その足音の中で、無数の嗚咽や気勢が漏れ聴こえて来る……。事情聴取室へ赴くと仕事中の部下一同が一斉に振り返り、その頭を垂れて彼を出迎えた。防音壁の硝子越しに取り調べの光景を一瞥すると、机を差し挟み対峙する刑事と容疑者が見て取れた。時に恫喝し、時に懐柔する様に質疑を進行させて行く刑事と、時に居直り、時にさめざめと告解する容疑者と……。古株のロイトフに取って本来は然程感興も湧かない日常的風景に過ぎない筈なのだが、現状でのその光景は丸で未体験の如き異質の様相を呈していた。ロイトフは振り返ると、皮肉る様に側近の部下へ言い放つ。
「……いつからここは精神病院になったんだ?」
はっと恐縮し肩を竦めるも、結局部下は終始無言で平身低頭した侭だった。自然、澱の様な暗鬱とした沈黙が一同へと垂れ込める。刑事と対峙した容疑者は、真摯な調子でこう主張し続けていた。
「……だから何度も言ってる様にね、刑事さん。僕が犯人なんですよ。僕が世間を騒がせているエスなんです……」
そして事情聴取室の前で順番待ちをする人間達は、長蛇の列をなして通路を満杯にしていた。最早椅子の個数が間に合わず立錐の余地も無い中、床で立ち尽くす者を始め扉から溢れ階段で後尾に加わる者達迄が見受けられる。その行列をなす一人一人が、各様の態度を呈しながらも一貫して同様の台詞を反復しているのだ。
或る者は警備する者へ訴え掛けるように哀求し、或る者は誰にも聞き取れない程の囁きで自身へと言い聞かせる様に繰言を呟き、叉或る者は棟内全体へ誇示する様に、半ば狂乱し喚き散らす。
その台詞は混沌の渦となって、永遠に終止符の無い呪詛の様な歌に聴こえた。
『自分がやりました。自分がやってしまったんです、自分のやった事なんです……』
『僕が、僕がエスなんです、御免なさい、御免なさい……!!』
『俺だ、俺がやったんだ、やってやったんだ、クフフフフ……、ハハハハハ……!!』
『本当のエスは私です。皆は何か集団催眠の様な暗示に掛かってるんです。私こそが本当のエスなんです……』
『違う、皆嘘を付いてるの、エスって本当はアタシ、アタシなのよ……?』
『何で信じてくれないんだ、エスはこの儂、儂なんじゃあ……』
『僕です、僕が犯人なんです……!』
『僕です、僕がエスなんです……!』
『僕です、僕が犯人なんです……!』
『僕です、僕がエスなんです……!』
『僕です、僕が犯人なんです……!』
『僕です、僕がエスなんです……!』
*
浅い浴槽の中で眼が覚めた。僕は入浴中、束の間の仮寝に浸っていたらしい。
……適度な温度の浴槽で揺蕩う。
眩い照明とシャワーの水流と、床を撥ねる微細な水滴の水音と……。時間の感覚が曖昧な夢見心地のまどろみの中で、意識は段々と覚醒する。起き掛けで鈍重になった体躯を追い立てる様に這い上がり、朦々と湯気が立ち込める浴室からよろよろと這い出た。
そして薄闇に包まれた一室の中で、浴室と隣接した脱衣所の鏡台へ徐に自身の顔を覗かせてみる。鏡と真正面から対峙させた、自身の素顔……。顔色も日々の調子に由って左右されるものなのだろうが、人相迄がここ数日で変化したと想うのは自分だけだろうか? 以前はどこか虚ろだった表情が、心無しか引き締まった気がする。尤も、自分の顔を指し示して誰かの同意を仰ぐ事が出来る状況でも社会でも無いのだが……。
風化されて久しい言い回しだが、人生経験が人相へと反映し段々と自分の外貌を形作る為に、『大人は自分の顔に責任を持たなければならない』と云った格言も過去には存在していたらしい。
―鏡の自分へ問い掛ける。
<僕は僕の顔を形作る事が出来ているだろうか……?>
<僕は僕と言う実証を掴もうとしているだろうか……?>
<僕は僕と言う存在を世界へ証明出来るだろうか……?>
……兎も角僕は現在、シドから手渡されたVIP会員証を用いてクラブ『サイバー・ベルファーレ』の地下室で潜伏していた。本来なら、地下はヘッドギア内の個人情報データとVIP会員証に記録されたIDデータを照合させられた者のみ入室可能らしい。シドは事前に機転を利かせ、関連するVIP用ゲート機構をフリーパス仕様に変造させてくれていたのだった。
そして僕は、ここ数日間の逃亡生活から来る疲労を泥や垢と共に湯船で落とし、鋭気を養いつつ今後の戦略を練ろうとしていた。このクラブの地下階層では、一部電波遮断加工の認可された防壁区域が存在する。電波の混線から雑音が混入し業務上の演奏や音響が妨害されてしまう、と云った事態の予防を名目に政府から許可を受けているのだ。
その防音防壁処理が施され、最低限生活可能な様に流用された暗室で僕は過ごしていた。特別会員専用の地下室なので、何者かの不用意な侵入も心配無い。本来は音響設備室として設計された一室の為に聊か殺風景ではあるが、当分の間隠棲するには充分な環境だった。
勿論、安全圏だとしてもいずれは警察の手入れがここへも及ぶかも知れない……。しかし実際の所、僕はどちらでも構なかった。以前自身へ賭した誓いに懸けて、例え安住の地が存在した所でそこへ永遠の逃避を図る事は無いのだ。この潜伏先で構想と下準備が完了すれば長居する事も無い。近日中にでも、僕は外界へ何等かのテロを決行するだろう。
―ここ数日、手狭な一室で僕は独り忙しなく動き回っている。居ても立ってもいられない意馬心猿の心境で、四六時中逸る鼓動に突き動かされているのだ。クラブ側も体面上では禁止しているのだが、ここには合法非合法を問わずドラッグの在庫が山積している。警察の視察から逃れられる格好の場所だからなのだろう、僕自身も手を伸ばそうと思えば、台所の蛇口を捻って湯水を飲む様な気軽さで嗜む事は出来た。しかし深遠な快楽の世界で耽溺する事にすら、今の僕には眼中に入らない。
……煙草も酒も、ドラッグも何一つ必要としない。薬物に依存せずとも、今の僕の脳内麻薬の分泌量は常軌を逸している。反社会分子として世界へと蜂起する日が差し迫るに連れ、好戦的血気は滾り沸点の上限が無い。時折衝動的に、手狭な室内で不慣れな腕立て伏せ等を反復する事もある。元来は文弱な学生だった僕の事だ、極く短期間しか猶予が無い状況で体力や腕力を増強させられる筈も無い事は重々承知していた。しかしどうしても有り余った熱量に身体が突き動かされ、何かしらの行動をせずには居られないのだ。決戦を目前にしたこの昂揚は燃え盛る業火の様だった。
そんな興奮状態に捉われている要因は幾つも挙げられる。まずは、シドと言う盟友との邂逅。絶対的窮地の中で救助に駆け付け、尚且つ一時的な塒迄も用意してくれた、そんな彼の一連の助力に。
……そして、何より強硬手段を取ってでも社会への革命を為そうとする自身の決意に、身震いを感じている……。
……僕はヒロイズムと言う悪酒に陶酔しているのだろうか? いや、だとしても構わない。僕に取っての初犯は、自己存在の獲得と社会への抗議行為と言う意味合いを内包していた。そしてその声明と行為は萌芽から野太い幹が育まれる様に、今後の蜂起決行に由って更なる価値の形成を強化する事だろう。
社会への非難は自身が社会から乖離する事で完了するのではなく、参画する事でこそ意義を持つ。諸々の危険を代償として覚悟し、提唱する理念を実践で提示してこそ初めて真の説得力は発現して行くのだ。自己存在の獲得には、自己表現的手段が必要な場合も在る。そしてその自己表現を徹底しようとする程に、犠牲や危険は表裏一体となって付随する。
僕は今迄、これ程単純な真理にも無自覚だった。即ち、生きる事とは戦いなのだ……。悪平等な馴合いの中で不可視になっていた、幕間の裏側を見た思いだった。しかし幸いにも僕は既に強力な自己表現手段の一つを我が物としている。その事実を、宝物の様にひしひしと抱き続けよう……。
……。間借りした部屋には、シド専用のPCが鎮座していた。
初対面の際から既に聞き齧っていた事だが、彼は突出した能力を持つハッカーらしい。例えば何重もの防壁が張り巡らされた政府の管理システムすら偽造IDで侵入し、機密情報を入手する事もお手の物としている様なのだ。
僕は室内運動の傍らでシドが収集した政府の極秘事項等を綿密に精読し、あらゆる角度からの計略も練り続けていた。
―そして現在、飴玉を嘗め回す様に熟読玩味しているファイルが有る。シドが収集した膨大な情報の中でも秘中の秘と迄云える枢密事項の一つ、規制された世界中の画像だ―。その画像内容の大半は、処分された顔……。そう、前時代に抹消された人間達の顔写真だった。
人間の顔面と認識される画像や情報は、政策化の一環で全て回収され処分されている。市販書籍、映像、写真、絵画等から個人記録迄、ありと有らゆる情報や文化が厳重規制され、一枚の顔写真を入手する事すら困難を極めている程だ。現代に於いて素顔を対象とした画像や情報は、死体画像や殺人動画の様な違法性の高いアングラ情報と同列視すらされる。関連画像を所持しているだけでも逮捕の対象と見做され厳罰が科せられる為、他者の顔写真一枚すら拝めた者は居なかった。
例えば名画を取り揃えたと謳う有名美術館と云えど、その大半は風景画ばかりだ。唯一罰則が適用されない抜け道があるとすれば、精々医療従事者になるのみではないだろうか? 医学書の中では無修正の局部写真等も掲載されており閲覧が許可されているらしいが、世間の医学生や医者達もこんな特権の愉悦に感じ入っていたのだろうか……。
―そんな素朴な疑問や想像の間隙を突き刺す様に、突如眼前の画面が展開し始めた。何気無く一個のアイコンをクリックした際、次のメニューが開いたのだ。
視覚に突き刺さる、物々しい調子のトップサイト。一見した時点で、一般的分野を取り扱うページで無い事は明白だ。中央のタイトルロゴは、重厚なデザインで『クラブ・ユング』と設えてある。
展開されたページは、自動更新機能に由って表示された最新情報通知だった。簡便には取得出来ない裏情報ばかりを凝縮してくれたシドのデータベースだが、その中でも一般人では先ず御目に掛かれないシークレットサイトが現前している……。
シドの偽造IDと暗号認証は、会員制サイトを運営するホストコンピュータや管理者達迄をも完全に欺いているらしかった。ここは恐らく、政府関係者達のみがアクセス許可されている極秘サイトなのだろう……。シドはここの情報を読み解き、警察に追跡されていた僕の居場所を突き止め救助へ懸け付けてくれたに違いない。
そんな雑感が脳裏を掠めていた瞬間、画面上の中央に更なるユーザー認証画面が表示された。この認証を通過せずとも、現在表示されている内容は全般的に閲覧可能な様だが……? 一瞬気色ばんだが、僕はふと思い当る。
これは、会員制サイトの中でもより重要機密を扱う者達だけがアクセス許可された、限定的な裏サイトへの入り口ではないだろうか……? 極秘サイトに辿り着いただけでも情報価値は充分な物だったが、この裏サイトへ侵入出来るとすれば今後の計略に於いて更なる有益な情報を取得出来るかも知れない……。
表サイトと言えど、ここは本来一般人に対して存在を秘匿されたアクセス不可能なコミュニティだ。政府関係者以外には訪問経路が無いと言う性質上、この裏サイトへの入口が攻撃者やワーム等を誘引し、侵入後にどんな行動を取るか監視、観察する為のハニーポットで在る可能性は希薄だろう。但しハニーポット環境で無くとも、当然侵入した際の足跡から個人情報や現在地迄を特定される危険性は十分想定出来る……。僕自身は何れこの地下室から外界へ浮上しテロを決行するのみなので、身元の判明等に不都合は無いのだが……。しかし警察に現在地を探知されれば、アジトを提供し匿ってくれているシド及びクラブ関係者に嫌疑の手は波及して行くだろう。彼等に迄火の粉を降らせるのは本意では無い。
―危ない橋を渡るべきか? 試して見るだけの価値は有るが……。そんな逡巡の中、誘惑に駆られたのかパスワード解析を試行しようと両指だけが別の生物の様に鍵盤を這い始めた。
不正アクセスを働く際、基本的な手口は『識別符号窃用型』だとシドのデータベースでは解説されている。俗に言うパスワード破りだ。僕は湧き上がって来る好奇心の熱味に浮かされ、裏サイトへの工作を謀ろうと衝き動かされていた。
法的機関の中でも高位に立つ者達でしかこのサイトへの通過は承認されないのだろうが、どんな情報を流用し侵入を試みるか? 別ブラウザから、迅速に法的機関の重役名簿を検索して見る……。通常では一般市民に姓名は与えられず、国籍番号を自身の名前代わりとさせられる事が慣例だった。但し要人へは役職上、政府から便宜的に付与される仮称も存在するのだ。
その制度に着目し調査して見ると、案の定データベースからは錚々たる面子が検出された。政治に無関心な若者達でもテレビ等で見知った名前ばかりが列挙されているその名簿の中、不意に一人の名前が視界の片隅に留まる。
『カーマ警察庁長官ロイトフ』……。
警察庁長官か……。僕はこんな些細な発見に、段々と思索の糸口を紡ぎ出していた。社会へ蜂起しようと画策している現状、法政の象徴たる警察内部の人間、特にその機関内で頭目を張る男は最も相応しい標的と言えるかも知れない。
『ロイトフ』。ふと、手始めに彼の個人情報を流用して見てはどうかと思い立つ……。彼の個人記録に基づいた情報から、認証時のパスワードを推測しアクセスを試みるのだ。
カーマ警察庁長官の通名は、『ジギムスント・ロシュー・ロイトフ』。
「error。ユーザー名及びパスワードが違います」
彼の生年月日。5月6日。
「error。ユーザー名及びパスワードが違います」
彼の国籍番号。1939923。
「error。ユーザー名及びパスワードが違います」
……矢張りここ迄安易な設定ではないか? 一旦思案しPC内のフォルダを参照し直すと、シド特製のハックツールが即座に見当たった。
彼の裏情報網や解説を基に、次は辞書攻撃で試みる事にする。パスワード入力時に於ける使用頻度の高い文字列を収めた、パスワード破り専用辞書を適用してみるのだ。この辞書には、一般名詞の他に人名や地名等の固有名詞も含まれている。この膨大な語彙を文字列へと引用させ、機械的に総当りで入力して行く様に仕組んでみた。
彼の個人辞書には、5500種類のアカウントと1万4000種類のパスワードと言う大量の単語数が登録されているのみならず、ランダムな数字入力にも対応している様だが……。何とかこのツールで認証を突破出来ないものだろうか? 手汗が自覚出来る程に増す中で、僕は指を震わせながら決定ボタンを押した。
瞬間、膨大な単語の羅列が呪文の様に画面上を自動展開し始める……。高性能の機械端末が、寧ろどこか魔術的な様相で生命感を孕み駆動し続ける様を僕は固唾を呑んで見守っていた。
I、my、me、myself、who……
「error。ユーザー名及びパスワードが違います」
11235 78741165 48478 4561 84564 54k@dg o-t5^2pk gkbn^238
7756^ulcb].;lmbo 246jo47j@okb; lmnl;/¥]s[
qpr5 787^¥1¥4 0-5390yobm df,g^ot0i5 7po4-678 89¥^1¥k p@nbl[
「error。ユーザー名及びパスワードが違います」
Psychopath
「error。ユーザー名及びパスワードが違います」
copy
「error。ユーザー名及びパスワードが違います」
Persona
「error。ユーザー名及びパスワードが違います」
ego
「error。ユーザー名及びパスワードが違います」
Es
「error。ユーザー名及びパスワードが違います」
ID
「error。ユーザー名及びパスワードが違います」
Personality
「error。ユーザー名及びパスワードが違います」
narcissism
「error。ユーザー名及びパスワードが違います」
ハックツールは延々と暗号入力を繰り返す。
……………………………………。
…………………………。
………………。
complex / faith
『認証されました。次の画面が表示される迄暫くお待ち下さい』
やった! 遂に正解の暗号へ突き当たった! これで仮面の様な二重構造のサイトを見破ったぞ!! ―そんな快哉を挙げた次の瞬間だった。僕は政府の要人だけへ向けられた電文に、思わず息を呑みその目を見張った……!! その機密情報の一部を一見した時点で、脳裏に火花が散った様な衝撃を受け暫し呆然とする……。口渇が強まるものの、咽喉の渇きを潤す水を用意する動作の手間さえ惜しい。そして食い入る様に読み解く内、更にその衝撃的な内容の把握は進んで行く。
―そうか、そう言う事だったのか……! 何某かの噂や都市伝説は流布されていたが、実際に政府の目論見はここ迄波及し始めていたのか……!! だとしたら、僕の決起は最早個人的事情の範疇で収まるものではない。
当初、僕は自身の葛藤や模索から通り魔を敢行しただけだった。しかし、もし事前にこの一連の枢密へ触れていたとしたら、動機に義憤も入り混じるとは云え起こす行動と結果は現在と同様だったかも知れない。僕はどちらにせよ、いつかは重大犯罪者として世界と対峙せざるを得なかったのか……?
僕は背凭れに身を預け、暫しの間放心していた。最早、無骨な椅子の堅い感触すら気取られる事は無い。重厚で閉塞感漂うそんな防音防壁の地下室にも、時折大音響の余韻として微細な震動が降りて来た。真夜中のダンスホールで踊り明かす若者達の狂騒や笑い声も、さざめきとなって微かに耳朶を打つ……。
眠らない電脳都市の終わらない夜。地上に座する不夜城が夢幻の夜の中で最高潮を迎える頃合い。地下に潜伏する僕は只一人、仮面舞踏会の舞台裏を覗き見る様に、世界の真実へ触れてしまっていた……。