シスタ、ファウンダウト・ザ・トワイライト・ビュウ/二十
ユウリが自宅マンションに帰えると鍵は開いていてキッチンとリビングの明かりが点いていた。ステレオの中で回転しているのはコレクターズのミッシング・トラックス。ユウリはまだユキコがいるんだろうって思って「ただいまぁ」と気の抜けた声を出しながらキッチンに入った。喉が凄く渇いていた。コーラを飲み過ぎたんだと思う。ユウリは烏龍茶が飲みたいと思って冷蔵庫の扉に触れた。
そのタイミングだった。
「……おかえりぃ」
ユウリはピタッと手を止めて声がしたリビングの方に視線をやる。「わっ」とびっくりする。リビングにいたのはユキコじゃなくってコナツだったからだ。心臓が掴まれて揺らされたみたいに動き脈拍が数えてもいないのに確実に増えたと分かった。要するに平和状態の危機をユウリは感じている。自分でも信じられないけれど、この反応が本当なのだと思う。ユウリはやっぱり、コナツのことを警戒しているんです。でも、どうして?
「コナツじゃないの、どうしたの?」
コナツはソファに座っていて寝起きという感じの顔をこちらに向けていた。目を擦り大きく欠伸をして壁の時計を見て言った。「え、もう九時?」
「錦景市は夜の九時だよ、」ユウリは冷蔵庫から烏龍茶のペットボトルを取り出して冷蔵庫を閉めた。バタンと大きな音が出て自分で少し驚く。力が入ってしまっている。いけない。警戒していることをコナツには悟られちゃいけない。悟られたくない。悟られてしまったら、変わって欲しくない状況が変わってしまいそうだから。ユウリは二つのコップを指で挟んで片手で持ち微笑みをしっかり作ってからリビングに足を踏み入れる。「烏龍茶飲む?」
「うん、」コナツはお昼寝の後の幼稚園児みたいにカクンと首を動かし頷きまた大きく欠伸をした。「ありがと」
ユウリはコナツの隣に腰掛け二つのコップに烏龍茶を注いだ。
二人は黙って烏龍茶を飲む。
BGMはみんな気をつけろ。
ボクらを騙そうとしている、ボクらに微笑みかけている、みんな気をつけろ。
そんな警告を聞きながら、二人は烏龍茶を飲み干した。
ユウリはコップをテーブルの上に置く。
コナツは空っぽのコップを両手で包み膝の上に置いている。目を瞑り、瞑ったまま、そのまま、また、コナツは眠ってしまいそうだった。
けれどユウリがそう思った瞬間にコナツはパッと目を開けて、その大きくて、どこか妖艶さを放つ瞳をユウリに向けて、首を傾けて軽く乱れた髪の中に指を入れていた。
「ユキコさんとおしゃべりしていたんだけどずっと、」コナツはそこで口角を上げて笑顔を見せた。「いつの間にか寝ちゃってたみたい、そう言えば、ユキコさんは?」
「もう帰ったよ、」言ってユウリは意味もないのに周りを見回す。「どこかに隠れていない限り、多分帰ったよ」
「そっか」
「何か用があったの?」
「え?」
「ユキコに用事でもあったの?」
「ううん、何も、ただユウリに会いに来ただけよ」
「連絡してくれたらよかったのに、うちに来るって」
「別に用があったわけでもないし、ユウリに会いに来ただけだし、そしたらユウリの代わりにユキコさんがいたの、だからユキコさんとおしゃべりした、それだけの話」
「ユキコと何を話をしたの?」
「さあ、何を話したかな、あんまり覚えてないや」
「そう」
「うん」
コナツはどこかこの世に疲れ切ったという風に頷き、体をユウリの方に倒して、コナツは頭をユウリの肩に乗せた。
急に体が密着して彼女の生ぬるい体温とだらしない重さを感じてユウリはビクッと驚いた。
そして動けなくなる。
別にコナツの存在を恐がっているわけじゃない。
恐がっているわけじゃないけど。
本当にそう?
そうだよ、だってコナツだよ。
そう。
ただ警戒しているだけ。
警戒しているから大したことがない衝撃にこんなにも揺れてしまう。
緊張に筋肉が硬直したまま緩まない。
喉が渇く。
喉を潤したばかりなのに。
信じられない。
不可解だ。
だってこの生ぬるい体温とだらしない重さはコナツだよ。
コナツなんだから、自分の今まさにこのときの、彼女を警戒する状況というのが信じられないの。
頭上では真っ赤なパトランプがクルクル回っている。
ステレオから響くギター・ソロが無数のサイレンとクラクションのオーケストラに聞こえたりする。
要するにユウリはコナツに対して厳戒態勢を敷いていて、コナツの一挙手一投足に神経を張り巡らせていて、精神を疲弊させながら虚構の平和の保持に努めている。
それが今。
だから嫌な汗を搔く。
べとべとした臭い汗を搔く。
臭い少女は嫌いだし、もちろん、それが自分なら許せないこと。
許せないな。
臭い。
でもだからといってどんな風にすればいいのか分からない。
手足をどんな風に動かしたらいい?
正解は何?
目的は何?
途方に暮れてしまいます。
生まれてきたはいいんだけれど、生きる理由がやっぱり見つからない。
死ねない理由。
見つけたと思ったら消えている。
もうどこにもないの。
生きているとか、死んでいるとか、そのどちらでもない存在になりたいと思う。
植物になりたい。
その圧倒的な緑色に染まりたい。
「綺麗な手をしていますね」
いつの間にかコナツはユウリの手を触り、指を絡めたり握ったりして弄んでいる。自分の手とユウリの手を比べている。コナツの手は丸っこくって可愛い。ユウリの手は流線型だ。全然違う。コナツの全然違う手がユウリは好きだった。今はそうは思わない。嫌いとも思わない。何とも思わない。どうしてコナツは急にユウリの手を褒めたのか、と困惑している。
「この手が好き」
コナツがそう言った。
コナツが言ったのだ。「ユウリの右手は私のものよね」
「え?」
違うでしょ。
この右手はコナツのじゃなくて私のものよ。
ユウリはそう続けようとした。
けれどそう動こうとした唇をコナツの唇が塞いだ。
強く触れ合った。
コナツの膝の上に置いたままになった空のコップがフローリングの床の上に敷いた絨毯に落ちてゴトリと音を立てて転がる。
その絨毯はオーストラリア製で、蛇と人間と森と夜が表現したアボリジナル・アートが描かれていた。シンプルに見えて斑が複雑に入り組んだ構図。迷って飛散する無数の蛇、それから逃げ出して世界にさらわれそうになる人間、炭酸の泡になって空に溶けるような圧倒的な緑色、全てを受け止める四角形の夜。
喰らいつかれた。
ユウリはそういう感想を抱く。
「今日はユウリがしたいこと、」唇を僅かに話し、コナツは薄目を開けて言う。「してもいいよ」
息の根を止められるとはこういうことなのだと思う。
とどめを刺された。
体が瞬間的に熱くなって。
とても長い眠りから覚めた気分になった。
ユウリはまたとないこのときを必死でぎゅっと抱き締めたんだ。




