シスタ、ファウンダウト・ザ・トワイライト・ビュウ/十四
マラソン大会があった今日もバンドの練習に錦景市駅の音楽スタジオに向かうユウリと内藤君と鷹村君を校門の前で見送った後、私は体全体に纏わりつく疲労感を引き摺って中学一年のときから通っている鳳翼という名前の塾に向かった。鳳翼は春日中学校から歩いて十分くらいの場所にあって、みそラーメンが美味しいラーメン屋さんの駐車場の奥、プレハブ造りの二階建ての、一見して工事現場の仮設事務所みたいな建物がそれだった。鳳翼には小学四年生から中学三年生までの少年少女が通っていた。私以外にも当然、ここに通う春日中学校の生徒もいたり、中学校に進学して学区の関係で学校が変わってしまった友達もいたりして、鳳翼には勉強をしに行く、というよりもおしゃべりをしに行く、というフィーリングで週に三回か四回、通い続けていた。
私は階段をぎしぎしと軋ませて二階に上がり、左の教室に入った。右の教室では小学生が算数の授業を受けていた。左の教室では夕方の五時から中学生の授業が行われる予定だが、まだ中学生はまだ数人しか集まっていなかった。第五中学の男の子たちだった。滑りの悪い扉を手に力を入れて開けて「おはよーっ」と声を掛けた。彼らは挨拶を返してくれたがすぐに最近流行のアイドル談義に戻り莫迦笑いしていた。私はそれを横目に窓際の先頭の席に腰掛けた。窓からは片側一車線の道路とその向こうの背の高いマンションとその背後に広がる今は茶色ばかりの田んぼが見える。私は二秒間、無心で窓の外に広がる何の変哲もない風景を眺めてから、はあっと小さく息を吐き、机の上にノートとテキストを広げてシャーペンを手にして自習を開始した。自習なんてしているとすっごく真面目だと思われるかもしれないけれど、根が真面目ではない私がこうやって自習をしているのには当然ながら理由があって、その理由って言うのが前回十月にあった模試の結果がヤバかったからだった。錦景女子高校の判定はC評価で、それは九月の模試の判定よりも悪かった。九月はB評価だった。C評価でも大丈夫だよ、全然射程圏内だよ、と塾長の丸山先生は言ったけれど全然信用できなかった。模試ってそういうものなんだよって、そんなこと言われたって、そういうものってなんなのか理解不能意味不明だった。学校でやった模試のことになるけれど、ユウリはそれでA評価を貰っていた。私もA評価、せめてB評価は取らなくちゃいけないって、凄く焦っていた。絶対にユウリと錦景女子高校に行きたい。だから焦っていた。
しかし焦れば焦るほどに焦るばかりでテキストの内容は頭になかなか入って来なくなる。焦るたびにユウリのことを考えてしまって、それで脳ミソが一杯になって受験勉強モードではいられなくなるんだ。ユウリのことを頭から追い出そうと思っても難しかった。だって勉強している理由がユウリだし、勉強が大嫌いな私が勉強していられるエネルギアの源は紛れもなくユウリだから。
それに今日は、いつもよりも余計に、受験勉強モードを維持していられない理由があった。
それは……。
急に制服のスカートのポケットの中のスマートフォンが震えた。
ナオコからのメールだった。
件名に『プレゼント❤待ち受けにするがよし』とあって本分はなくその代わりに大量の画像ファイルが添えられていた。全てユウリの画像で、マラソンを終えた後、二階の渡り廊下でナオコが撮影していたものだった。
私は傍に誰もいないのを確認してから、ユウリの画像を一つ一つ、時折サイズを 大きくしながら見ていった。
そして最後まで見て。
私は溜息を吐く。
駄目だ。
決められない。
どのユウリも格好良過ぎて、どれを待ち受けにするかなんて決められない。
纏っているのは学校指定のダサい黒いジャージと黒いハーフパンツなのに、凄く前衛的な衣装を、ユウリは身に付けているように見える。
はあ……、格好いいなぁ。
私は頬に手を当てて心の中で言った。
ナオコが評価したみたいにショートへアのユウリは格好良かった。
もちろんいつも通り可愛いけれど、ショートヘアのユウリが例えば内藤君を睨み付けたりするときの顔は本当に格好良くて、本当にもう「私のことも睨んで!」って叫びたくなるほどだった。
美少年に変貌してしまったユウリを見て私は眩惑されてしまってこれまでに彼女に抱いたことのない気持ちになって苦しくなる。
受験勉強モードじゃいられない。
なんて変な気持ち。
抱いてはいけない気持ちだと思います。
こんな気持ちになるなんて思ってもみなかった。
思ってもいないし、望んでもいない気持ちに支配される。
私とユウリは最高の親友であるべきだ!
そうでしょ!?
でも。
今、多分、私は……。
ユウリに誘われたら断れないと思う。
何を?
なんで鳳翼の二階の左の教室の窓際の席で変な気持ちになっているのよ、私は!?
私は一つの画像を選ぶ。
そしてそれをスマートフォンの待ち受けに設定した。
その画像の中でユウリは、左目を瞑り親指で照準を合わせ人差し指と中指のダブルバレルで私に狙いを付けていた。
完全に心臓を撃ち抜かれてしまったみたい。
体が熱いの。
どうしようもないの。
どうしようもなく、私はユウリに恋をしているんだ。
でもやっぱりそれって変。
おかしい。
間違っていること。
だから私は天球儀を思い出す。
天球儀を思い出して。
フラッシュ・バックする、永遠の約束。
友情。
回転する天球儀。
ユウリの星座を見る眼差し。
そして、……炎。
炎?
炎って何?
その思い出に炎なんてないでしょ?
いや、しかし、完全に否定する証拠はないの。
全て曖昧だから。
思い出は果てしなく遠くにあって霞んでいる。
天球儀も一緒になって霞んでいる。
私も、ユウリも霞んでいる。
そして炎。
一体何の炎なの?
ああ、全てが分からなくなった。
ああ、迷い込んでしまった。
前後左右の感覚がなく、手も足も頭もどこかに消えてしまったように、私は私に、現実感がない。
ああ、なんて。
ああ、なんて役に立たないの!?
天球儀の役立たず!
そのときだった。
「ユウリは髪を切ったの?」
声に驚き咄嗟に振り返る。
芳槻アオが私の後ろに立っていた。
すぐに声が出なかった。
「久しぶりね、コナツ、」彼女は抑揚の一切ない声で言って笑顔を作る。「元気してた?」




