セラ
ルアンの許には、入れ替わり立ち替わり誰かが見舞いに訪れていた。
抜糸が済むまでは安静にという医者の言葉に従い、今日も一日じゅう救護室に留まっていたシェルフィアは、その様子をずっと見ることになった。ルアンの許には劇場主は勿論、所属の舞姫や歌姫、裏方の者までが途切れることなく訪れていた。そのうちの何人かはシェルフィアに対しても慰めや見舞いの言葉をかけていったが、見舞いの者たちはリセのことに関してはいっさい語ってこなかった。早く忘れたいのだろう、とは夕方近くになってようやく目を覚ましたルアンの言い分だ。
「彼女一人を罪人に仕立てて、早く忘れようとしているだけだ」
ルアンは夕方に目を覚ますと、すぐに医者に自分を刺した犯人について証言したいと告げた。その際に医者が、犯人は歌姫のリセで、すでに自白していると告げると、彼は首を振った。
「私を刺したのは彼女じゃない。彼女がいったいどうして私を刺すことができる?場所によってはただ歩くのにも介助が必要になる人間が、どうしてそんなことができると思うんだ?第一、彼女がどこに短刀なんか隠し持てたんだ?彼女は舞台用の衣装のままここに来たんだぞ?袖もなければ襟も懐もない衣装だ。どこに隠す?上半身は身体に布地が密着しているし、下半身も薄い絹地が幾重にも重なっているだけだ。そんなもの隠してたらすぐに分かる」
すぐに軍人をここに呼べ。軍人に直接、証言する。そして彼女をすぐに釈放してもらう。
ルアンはその言葉を繰り返したが、医者も見舞客も、なぜかその言葉をいっさい受け入れようとはしなかった。それどころか、彼は自分が親しくしている歌姫に逆上されたのを受け入れたくないのだろうと、誰もが半ば憐憫のような同情のような視線を浮かべていた。
シェルフィアはその様子をずっと傍で見ていて気になっていた。刺された当人が犯人は違う人物だと明言しているにもかかわらず、なぜ誰もルアンの言葉を聞こうとしないのだろう。冗談で自白するはずなどないと考えているのだろうか。そうかもしれないが、刺されて死にかけた当人の言葉なら、もっと真剣に聞こうとは思わないのだろうか。虚偽で自白する者は少ないが、いないわけではないことぐらい世間の常識のはずだ。身内を庇ったり、脅されたり、罪によっては大金を積まれて虚偽の自白を引き受ける者もいる。リセもそうだと、なぜ、誰も考えてみないのだ。特にリセは全盲なのだ。普通ならそう考えるほうが、はるかに自然なことではないのか。
シェルフィアはルアンが軍への証言を要求するたびに言葉を添えて彼を援護してきたが、シェルフィアの言葉は彼の言葉以上に聞き入れてもらえなかった。露骨なほど、部外者は口出しするなという態度をとられてしまう。ルアンの見舞いに訪れた年嵩の楽姫に至っては、はっきりとこう言ってきた。
「シェルフィアさんに起きた災難のことは、私も本当に酷いと思います。全く予定になかった招待公演を無理にしてもらったのですからね。シェルフィアさんの災難に関しては全部、この劇場に責任があるでしょう。けど、あなたの災難はルアンさまが襲われたこととは全く別です。ルアンさまが襲われたのはこの劇場の問題で、貴女には関係がありません。ですから口出ししてこないでください」
シェルフィアは彼女の言葉に反論したかったが、それができる立場にないことを思い出して口を噤んだ。それでルアンに助言してみた。あなたが犯人の顔を見たなら、見舞いに来るこの劇場の関係者全員に、大々的にその名前を教えたほうがいいと。そうなれば誰も無視できないはずだからと。
しかしルアンはシェルフィアの言葉に首を振った。
「それはしない。私の証言は軍に直接しなければ意味がない。劇場の人間にしたって無視されるか揉み消されるか、さもなければ気が狂った扱いをされるだけだ。もっと悪いことも考えられる。私は怪我しても死んでないからな。下手なことを言えば私がリセと手を組んで特定の誰かを陥れ、観客の同情を買うために偽の襲撃事件をでっちあげたのではないかと、そんなふうに思われてしまうかもしれない」
そんな、とシェルフィアは思わず声を上げてしまった。
「あなたは被害者でしょ。犯人の顔を見てる。いちばん信頼できる証言じゃない。その証言が揉み消されるなんて・・」
「ありえるんだよ。何でもありえる。なにしろここは、レーヴェラーダが支配している劇場だからね」
ルアンは断言した。今の言葉はどういう意味かと、シェルフィアは訊こうとしたが、口を噤んだ。扉が叩かれる音がしたからだ。
たぶんまた見舞いだろう。用足しのために席を外している医者が戻ってきたのならば、いちいち扉を叩いたりはしない。シェルフィアは扉に向かって声をかけた。
「入ってきていいですよ。扉、鍵はかかっていませんから」
扉が静かに外から開かれた。恐る恐るという感じで扉越しにこちらを覗き込むようにしてくる顔がある。見覚えのある顔だった。シェルフィアは驚いた。
「セラ、どうしてここに?セラも怪我をしたんじゃないの?公演中に事故に遭ったって」
セラは苦笑した。
「怪我はしたよ。舞台の奈落に落ちてしまってね。完治までには、少しかかるかな。けど、動けないってことはないから。――入ったら駄目かな?」
そんなことない、シェルフィアは首を振った。
「私も、もう大丈夫なの。抜糸が済んだら、家に帰ってもいいって言われてるし」
「そうか。それなら良かった」
セラは救護室に入ってきた。静かにシェルフィアのほうに歩み寄ってくる。怪我はやはり、決して軽くはなさそうだった。右足を僅かに引きずるようにして歩いているし、上着の右袖の下には包帯も見える。扉を開け閉めするのも、左手だけで行っていた。右腕も右足も、極力使わないよう、動かさないようにしているのが見て取れる。シェルフィアのように動かさないように言われているのか、そうでなくても動かせばまだ痛みがあるのかもしれない。彼は奇術師だ。利き腕である右腕が使えないのは致命的かもしれない。奇術師は、演技にもよるが何よりも指先の器用さが求められる。
「シェルフィアが怪我をしたことは、たったいまこの劇場で関係者の噂を聞きかじって知ったから、見舞いの品とかは何も用意してないけど」
そんなの気にしないでよ、シェルフィアは笑った。
「むしろここで花なんかもらっても困るから。飾ることもできないし、すぐに枯らしてしまうもの」
セラも笑いを返した。
「それなら却って良かったかな。――私は実は、今日は次の招待公演を無期限延期にさせてもらおうと思って、その交渉のために来たんだ。こういう事態になると、ここで公演するのは怖くてね。それで来たらシェルフィアの怪我のことを聞くことになって。劇場の者に聞いたらまだここにいるというから、見舞いに来させてもらった。ひょっとして、まだ迷惑だったかな?」
とんでもない、シェルフィアは笑って首を振った。
「迷惑なんてあるわけないじゃない。歓迎するわよ。セラが怪我したって聞いて、すごく心配したんだから。元気そうでよかった」
セラは苦笑した。
「私の怪我は本当に私の不注意が招いた事故だから。怪我も自業自得だよ。心配してもらうようなことじゃない。けど、シェルフィアの怪我はそうじゃないだろ。私はシェルフィアのほうがよほど心配だよ。本当に大丈夫なんだな?この劇場の人に何かされたりしてないよな?」
シェルフィアは首を傾げた。セラの懸念の意味がよく分からない。
「どういう意味?私が劇場の人に何をされることをセラは心配してるの?」
するとセラのほうが意外そうな表情をして逆に訊ねてきた。
「あれ?ひょっとしてシェルフィアはまだ知らないのか?てっきりもう聞いていると思ったんだけどな。なにしろ毎年のようにこの劇場で氷上舞の招待出演者として演技してきたんだから。知らないなら、この機会に教えてあげるよ。実はこの劇場では――」
言いかけた言葉をセラは慌てて呑み込んだ。扉が開く音がしたからだ。なぜか妙にびくついた表情でセラは扉を振り返る。シェルフィアもそちらを窺い見た。医者が救護室に入ってくるところだった。
医者はセラのほうに視線をやると、怪訝そうな表情をした。見慣れない顔だと思ったのかもしれない。
「お見舞いの方ですか?あまりお見かけしない方のような気もいたしますが」
「ああ。済みません。勝手に入ってしまいました。いちおう、劇場の方とシェルフィアには見舞いの許可はいただいたのですがね。私はメイヴェスの劇場に所属しております、奇術師のセラと申します。もう何度もここで招待公演をさせていただいておりますが、見慣れませんか?まあ、仕方がないのでしょうね。私はいつも演技中はかなりの厚化粧をしますし」
「ああ。メイヴェスの奇術師か。君の名前なら私も知っているよ。公演も一度だけは見た。なかなかに迫力のある、衝撃的な演技だったよ。火事になりはしないかと心配になったな」
セラは苦笑した。
「有り難うございます。ご覧いただけていたのですか。そのことは私も公演のたびに言われるんですよ。演技のたびに私が死ぬんじゃないかとか、舞台に火が燃え移るんじゃないかとね。ご心配には及びません。奇術には全て仕掛けがございます。演者が公演中に死ぬようなことはございませんし、舞台に延焼したりしないよう仕掛けも工夫しております」
セラは右腕の袖を少し引っ張って、右腕の包帯が医者に見えないようにしながら自信を見せて言った。
「まあ、それはそうだろうがな・・」
医者のほうも苦笑を浮かべた。
「それにしても芸能を生業にしている人間というのは声が大きいものだな。扉の外にいてもよく聞こえてくる。やはり発声についてもきちんと訓練しているのかね?秘密の話なら少し声を潜めないと、秘密にならないのではないか?」
セラがぎくりとした顔をした。
「私の声、それほどよく聞こえてましたか?」
「聞こえていたね。何かをこのお嬢さんが知らないのなら、この機会に教えてあげるとかなんとか話していただろう?私はいま戻ってきたところだから、何を知らなくて何を教えようとしていたのかはよく分からないのだが、噂話ならもう少し声を潜めたほうがいい。人によってはそうした話を快く思わない者もいるからね」
医者はセラの話に特に関心を持ってはいないようだった。本当に純粋に忠告しているように聞こえる。セラもそれは分かったのかもしれない。冷や汗をかきながら、心得ました、と答えていた。心なしか小声になっていた。
医者はもうそれ以上、セラに関わろうとはしなかった。ルアンの診察と、シェルフィアの診察を順に行い、今のところ容態は落ち着いているが、痛みや異変があるようならすぐに伝えるようにと指示して、救護室の椅子に座り、机に向かって何やら書き物を始めた。セラはそんな医者の様子を注意深く窺いながら、シェルフィアに近づいて耳に口を寄せ、囁くように話しかけてくる。
「――私はもう帰るよ。見舞客があまり長居しているのも不自然だしね。自宅に戻れるようになったら一度、私のところにおいで。メイヴェスの劇場を訪ねてくれれば、すぐに会えるようにしておくから。その時にまた、今の話の続きをしよう」
シェルフィアは頷いた。それを確認すると、セラは救護室を出ていった。
シェルフィアが抜糸を終え、自由に動けるようになり、明日にも自宅に帰ろうとしていたところに、劇場主がシェルフィアを訪ねてきた。あの忌まわしい事件から、七日が経っていた。
オーヴェリアの劇場の主である老婦人は、二人の客人を連れてきていた。シェルフィアの所属劇場であるカルヴェスの劇場の主人と、舞姫のリオラだ。リオラは救護室に入ってくるなり、シェルフィアに飛びついてきた。
「シェルフィア!元気で良かったあ。シェルフィアがオーヴェリアで殺されかけたって聞いて、私のほうが死んじゃうかと思ったわよ。それぐらい驚いたんだから」
大袈裟な、シェルフィアは内心で苦笑したが、リオラの言葉は純粋に嬉しかった。自分の無事を心から案じてくれる他人がいるというのは、それだけで嬉しいことだ。
カルヴェスの劇場主もリオラの言葉には同意したように頷いた。彼も心底安堵したような顔でシェルフィアに歩み寄り、抱き寄せて、慰めるような言葉をかけてくる。
「私もオーヴェリアからの報せには本当に驚いた。シェルフィアに最悪のことがなくて、本当に良かったと思っているよ。シェルフィアにはこれからも我が劇場で活躍してもらわねばならないんだからな。あの日のシェルフィアの、振付師としての初舞台、とても好評だったんだよ。是非これからも、振付師として活動してほしい。舞姫だけではない、振付師としてのシェルフィアも、求めている人は大勢いるんだからな」
はい、シェルフィアは頷いた。振付師として、という言葉には皮肉なものしか感じなかったが、あの舞台がそれほどに好評だったのなら喜ばしいことだ。なにしろあの舞台は、見習い舞姫たちにとって初舞台だったのだから。
シェルフィアはそのままカルヴェスの劇場主とリオラに守られるようにして、オーヴェリアの劇場を後にした。休暇を利用してカルヴェスを発った時には、まさかこれほどに長い間、この地に滞在することになろうとは思わなかった。なにしろ最初は休暇ついでの小旅行のような感覚で出て来たのだから。ルアンの言葉が気になって、リセに会ってみようというだけの目的しかなかったのだから。
リセの顔を思い出すとシェルフィアの胸は痛む。あの義眼の歌姫は今、どうしているのだろう。ルアンの言葉を信じるなら、彼女は冤罪なのだ。冤罪の人間が軍に拘束されているのである。そんなことはあってはならない。ルアンも同感のようだった。彼は早くも具体的な行動に出るつもりでいる。今日にもリセの捕らえられている軍の基地に赴くつもりらしい。シェルフィアよりも遥かに大きな怪我を負ったルアンは、本来ならまだ動かないほうがよいはずだから、かなり無理をすることになるはずだし、医者は確実に止めるだろうが、彼は密かに抜け出すから気にするなと言っていた。
「どうせ堂々と行けば止められるだけだからな」
しかし同室のシェルフィアに思わぬ迷惑がかかっては大変なことになるので、シェルフィアが帰るまでは動くのを避けるつもりらしい。それでシェルフィアはリオラらが来るとほとんど同時に劇場を去ることにした。帰り際にオーヴェリアの劇場主は、次は確実な安全策を講じるからまた招待出演者として氷上舞を演じてほしいと頼んできたが、シェルフィアは検討しておきますと答えるに止めておいた。今はとても、今後の招待公演のことなんか考える気になれない。
それに、これからもここで招待公演を続けてもいいのかという疑問があった。
舞えるのなら勿論、シェルフィアは舞いたい。現役を退いて振付師に転向することに、シェルフィアとしてはまだ未練があるのだ。ここでならまだ舞えるかもしれないと思えば、シェルフィアは勿論、応じたい。しかし今はその決断をすることに抵抗があった。短刀の件を経験して、怖いのではない。セラの懸念が、気になっていたからだ。
この劇場の人に何かされたりしてないよなという彼の言葉はいったいどういう意味だったのか。彼はあの時、いったい何を伝えようとしていたのか、さらにルアンが口にしたこの劇場はレーヴェラーダが支配しているとはどういう意味なのか。
ルアンの言葉のほうは、本人に聞いても意味を教えてくれなかった。たぶん彼には何か考えなり警戒なりがあって、容易くその言葉が意味するところを言えないのだ。彼はオーヴェリアの劇場の人気振付師でありながら、劇場の人間を信用していないように見える。するとなおさら、劇場のなかでは何も言えないのかもしれない。
しかしルアンから話を聞けないとなれば、シェルフィアとしてはオーヴェリアのことを聞くためにはセラのところに行くしかないことになる。それでシェルフィアは劇場を出た後、馬車を探そうとするカルヴェスの劇場主に申し出た。自分はこれからメイヴェスの劇場までセラを訪ねに行くから、リオラたちは先に帰ってほしい、自分は後から一人で帰ると告げると、劇場主は眉を顰めた。リオラも難色を示してくる。
「どうして?セラのところなら、帰ってから後で行けばいいでしょ?一緒に帰ろうよ。ミュレイラも見習いの子たちも、みんな心配してるんだよ」
シェルフィアは首を振った。
「私が倒れた直後、彼が一番に私のお見舞いに来てくれたの。彼が劇場にいたのは偶然で、だから私のことを知ったのも偶然だったんだけど、一番にお見舞いに来てくれたんだから、一番に報告に行きたいの。ちゃんと元気になれたよって。痕もほとんど残ってないからって」
シェルフィアは左腕を示してみせた。今は腕は服の袖で隠れているが、事実傷痕は日を追うごとに薄くなっていた。このぶんだと、傷痕が残ることなく完治するかもしれない。残ったとしても、遠目にはそれと分からないぐらいに薄くなっているだろう。そう信じたかった。
けど、リオラはシェルフィアがそう言ってもなお、好ましい顔はしなかった。しかし、劇場主のほうが構わないだろう、と許可を出してくれる。
「メイヴェスならここからそう遠くない。行ってきなさい。セラも怪我をしていたんだったな。ついでに彼の様子も見てきてくれ。彼の舞台復帰がいつ頃になるのかも確認してほしい。帰りは報せのを寄越してくれれば、私が馬車で迎えに行こう」
有り難うございます、シェルフィアは自らの主人に礼を述べた。
「セラの復帰でしたら、私では何とも申せません。彼次第だとしか申し上げられません。彼は少なくとも、右腕と右足を負傷しているんです。利き腕です。私が会った時は、まだ動かすのを辛そうにしていました。私を見舞ってくれた日も、本当はオーヴェリアでの公演は無期限延期にしてほしいと劇場主に伝えるために来たのだそうです。あの様子では、彼が本格的に復帰できるのはいつになるか分かりません」
そうか、劇場主は落胆した様子だった。長い溜息を吐く。
「それだとまだ当分は、うちの前座はディーダの道化師と見習いたちに任せることになるのかな」