リセ
公演は急遽中止となった。
氷上で負傷したシェルフィアはそのまま劇場の使用人によって場内の救護室へと運ばれることになった。オーヴェリアの劇場には出演者が突然の事故で負傷した場合に備えて、治療のための救護室があり医者も常駐している。本格的な病院にも負けないだけの設備が揃っていた。事故があれば近くの医院まで誰かが走っていかねばならなかったシェルフィアの所属劇場との、いちばんの違いでもある。
救護室でシェルフィアは医者の手によって麻酔がなされ、腕が縫われることになった。それほどに大きな怪我だったのだ。処置が済むとシェルフィアは絶対に腕を動かさないよう医者に命じられた。救護室の寝台に寝かされたまま、シェルフィアは自由に動かすこともできない身体と、何が起きたのかも分からない不安と戦っていた。これで自分が舞姫として現役に戻れる機会は永遠に失われたなとも思っていた。腕を縫うような事態になれば、腕に傷跡が残るかもしれない。見た目が命の舞姫にとってそれは致命傷に等しかったし、それほど大きな怪我なら、たとえ痕もなく完治したとしても再び腕を動かせるようになる保証はないだろう。
シェルフィアが不安と絶望とともに寝台に横になっていると、しばらくしてルアンと、そもそも今夜の公演をシェルフィアに要請した劇場主が、揃って訪ねてきた。劇場主は心底申し訳なさそうな顔をしていた。
「――申し訳ありません。私が無理を申して、今宵の公演を実現させたばかりに、貴女には大変な災難を与えてしまいました」
いえ、シェルフィアは力なく口を開いた。
「劇場主の、せいではないと、思います。それにしても、いったい何が起きたのですか?」
短刀だ、短くそう告げてきたのは劇場主ではなくルアンだった。
「氷上に向かって花ではなく短刀を投げ入れた輩がいた。それも客席の中にな。軍に連絡したから今夜の観客は徹底的に調べられるだろうが、ひょっとしたら犯人は分からないままになるかもしれない。犯人は武器を持って襲ったのではなく、武器を投げたのだからな。今は凶器を持っている人間なんかいないわけだから」
どうして、シェルフィアはあまりの事実に呆然としてしまった。咄嗟に、何を考えていいのかすら分からない。
「どうして、短刀、なんか・・?」
分かるはずがありません、と憤ったように吐き捨てたのは劇場主だった。
「演技中の舞姫を傷つけ、演技を中断に追い込もうとするような下劣な輩の考えなど、知りたいとも思いません。犯人が明らかとなれば劇場としては生涯の出入り禁止を通告することしかできませんが、こんな事態となってしまったからには、私は全力で貴女をお守り申し上げます。そもそも私があなたに今夜の公演を依頼したりなどしなければ、こんな事態は起きなかったのですからな。全力で支援させてください。貴女の所属劇場には、必ず私のほうから謝罪に伺います」
そうですか。シェルフィアは呟いた。
「では、宜しくお願いいたします。劇場主のほうからご説明していただければ、所属劇場の理解も得られやすいでしょうから。私だけで説明したのでは、なぜ所属劇場に無断でオーヴェリアで公演したのかと、問題にされるかもしれませんし」
「そうならないよう私どもが責任をもって取り計らいます。貴女はどうぞ、ここでゆっくりと養生なさってください。しばらくして容態が落ち着いてきたら、もっと設備の行き届いたところに移れるよう、手配させましょう。貴女が舞姫としての才を失うことがないよう、私は最善を尽くします」
「大変な災難だったが、どうか気を落とさないでくれよな。こう言ってはなんだが、顔を傷つけられなくて幸いだったと言えるかもしれない。腕なら万一痕が残っても、動かせるようにさえなれば舞姫としての復帰は可能になるからな」
劇場主の老婦人が今後の対策を話し合うために退室した後も、ルアンは救護室に残っていた。看護係の女性を手伝いながらあれこれとシェルフィアの世話をしてくれ、穏やかに言葉もかけてきてくれる。
シェルフィアはルアンの口先だけの浅い励ましを、思わず鼻で笑ってしまった。
「復帰できると思いますか?客席から花ではなく短刀を投げられる舞姫なんて、他に誰もいませんでしょう?私はそれほどに観客から恨まれているんです。ミレーシャを死なせた、リュイフィアの姉ですから。理不尽ですけど、仕方のないことでしょう。たとえ全員が私を恨んでいるわけではなくても、私の舞を楽しみにしてくれているお客さんがまだいるのだとしても、ここまで激しく恨まれているような舞姫を、使ってくれる劇場なんてあるわけがありません。ひょっとしたら私ではない、共演の誰かが致命的な大怪我をするかもしれないんですから」
「絶望するのはまだ早いだろう。君に非は全くないんだから」
なおも慰めるようにルアンが口を開き、宥めるように彼がシェルフィアの額を撫でると、ふいに救護室の扉が外から叩かれる音がした。かなり密やかな叩き方だ。まるで人目を憚っているような気さえする。
看護係の女性が扉に歩み寄って小さく開けた。小声で外の誰かと何事かを話している。彼女はその誰かに小さく頷いてからルアンとシェルフィアのほうを振り返った。
「シェルフィアさん、うちの歌姫のリセがあなたに会いたいと言って来ています。お会いになりますか?」
シェルフィアは看護の女性の口にした名前に驚いたが、頷いた。そもそも自分は彼女に会うためにこの劇場を訪ねたのだから、リセのほうからシェルフィアの許に来てくれたのなら歓迎だった。
女性はシェルフィアに続いてルアンにも許諾の意思を問う視線を向けたが、ルアンも特にリセの入室を拒むような言葉は発しなかった。それで女性はリセを救護室に招き入れる。扉を大きく開け、リセの手を握ってまるで自分が先導するようにして入室させた。
リセは一見しただけで舞台用の衣装と分かる、華やかで煌びやかな衣装を着ていた。自分の公演が終わって、そのまま着替えもせずに走ってきたのかもしれない。
看護の女性がリセを室内に入れると、それを合図にしていたようにルアンが彼女にしばし退室しているように告げた。少し三人で話したいことがあるからとの言葉を添える。女性はリセと寝台に寝たままのシェルフィアを見やって不安そうな表情をしたが、シェルフィアが頷くと、では何かあったらすぐに呼んでくださいと告げて室外に出、扉を閉めた。足音は聞こえない。廊下で待機しているつもりなのだろう。
「――リセ、こんなところまで来て大丈夫だったのか?まだ、君の公演の時間は終わっていなかったはずだが?」
リセは首を振った。
「私たちの公演も、中止になったんです。前半だけ終わって、後半に入る前にシェルフィアさんの事件のことが伝わってきて、急いで中止が決まりました。今日の公演は後日改めて、ということになって。お客さんたちも今日の切符を見せれば、再公演は無償で入場できるとお伝えして、すでに帰してあります」
へえ、意外だな。ルアンは思わず、といった感じで言葉を漏らした。
「あの人が招待公演の出演者が負傷したくらいのことで、リセの公演をも途中で止めるとはな。メイヴェスのセラが事故を起こした時だって関係のない客間の公演は続行していたのに。やっぱり今回は気したのかね。シェルフィアの負傷は事故ではなかったから」
「さあ、劇場主のお考えは、私などにはとても分かりません。けど、私、もう怖くて・・。次は私にも、何かが起こるのじゃないかと思うと・・」
リセは、シェルフィアが傍で見ていても分かるほど蒼白になっていた。今夜の事件に、被害を受けたシェルフィア自身よりも怯えているように見える。全身が震えていた。
「大丈夫か?」
ルアンが慰めるようにリセを抱き寄せた。
「あまり怖いなら無理はしなくていいぞ。いよいよとなったら移籍という手もあるからな。リセの実力なら、外国に出たってやっていけるだろう。外国なら、さすがにここの力が及ぶことはないはずだ」
い、いえ。リセは首を振った。
「こ、ここに残ります。ミレーシャが、あんなことになったのに、私だけ、国外に逃げるわけにはいきませんから」
「――あの、貴女が、リセさん、ですよね?」
シェルフィアは躊躇いがちに口を挟んだ。自分も、彼女に訊きたいことがある。それで彼女の注意をルアンから自分のほうに向けたかっただけだったのだが、それでリセは、自分がこの部屋を訪ねたそもそもの目的を思い出したような顔をして、慌ててシェルフィアを振り返った。
「し、シェルフィアさん、あの、私・・」
「私は貴女にどうしても聞きたいことがあるんです」
シェルフィアは起き上がろうとしたが、身動ぎしたところをルアンに止められた。
「動くな。傷が開く」
命じられ、仕方なくシェルフィアは寝たままでリセに問いかけた。
「私は、こちらの彼に、あなたが妹が転落した場所にいたのだと伺いました。貴女はミレーシャと妹が殺されるのを見たのだと。二人が死んだのは事故などではなく殺人で、貴女はその様子を見ていたけど、軍に告発したら証言を無効なものにされたとも伺いました。そうなのですか?その言葉は本当のことなのですか?いったい、どうしてそんなことになってしまったのですか?」
シェルフィアの問いに、リセの表情はみるみるうちに変化した。当時のその瞬間を思い出したのかもしれない。しかし彼女は己の証言が無視されたことに対しての憤慨や悔しさなどを感じていないように見えた。ひょっとしたら感じているのかもしれないが、そうなったとしても仕方がないと、彼女自身が諦めているように見える。無念だけど、軍の言い分のほうが正当なものなのだと、彼女自身がそう認識しているように見えた。
シェルフィアは意外に思った。軍が、殺人のような重大な事件の現場を目撃した者の証言を無効にする、つまり、最初からなかったことにしてしまうなど尋常のことではない、いったい何があってそんなことになったのかは分からないが、せっかくした証言をそんなふうに扱われたら、彼女はもっと激怒してもいいはずだ。にもかかわらず、彼女は軍がそうした対応を行ったことを、自分でも仕方のない扱いだと認めているように思える。なぜ彼女は軍の対応を、そこまで是として受け入れることができたのだろうか。
「――シェルフィア、リセの目をよく見てみてくれ。それでたぶん、シェルフィアにもすぐに分かってもらえるだろう」
ルアンはリセが何かを答えるより前に、シェルフィアに向かって言葉を添えてきた。
シェルフィアは彼のその言葉に従って、リセの双眸を凝視した。だが一見したところでは特に普通と異なるようなところなどなく、シェルフィアには彼が何を言いたいのか分からなかった。ルアンにそのことを伝えると、ならもっと近くで見てくれと、ルアンはリセにその場でしゃがんでほしいと告げる。リセは彼の言葉に頷いて従い、ルアンの手を借りるようにしてその場にしゃがみ込んだ。リセの顔がシェルフィアの顔に、いっそう近づいてくる。彼女の双眸も、前よりもはっきりと見ることができた。
それでやっと、シェルフィアはルアンの言いたいことが分かった。
「――リセさん、あなた、ひょっとして義眼なのですか?」
リセは頷いた。シェルフィアは信じられない思いがした。再度凝視してみたものの、やはりどう見ても義眼だった。双眸から視線が感じられないし、近くで見れば明らかにすぐにそれと分かる。リセの瞳は、まるで人形の瞳だった。暗い色の硝子玉か宝石が、双眸のなかに埋め込まれているようにしか見えないのだ。
――信じられない。双眸が義眼の人間が、オーヴェリアのような大劇場の、専属の歌姫を務めているだなんて。
シェルフィアは心の底から感嘆した。しかしそれでシェルフィアにも、軍がなぜ彼女の証言を無効にしたのかは理解できた。信憑性にどうしても疑問が残ってしまうからだ。両目がどちらも義眼であるならば、彼女が何かを目撃できたはずがない。たとえ現場にいて、周囲の物音や声から、殺人だと彼女には理解できたとしても、それが音だけで判断したものであるならば、彼女には事実でも周囲には疑惑が残る。彼女が目撃したとされる瞬間が、本当にミレーシャとリュイフィアが殺された瞬間なのかどうか、判断のしようがないからだ。
「リセは子供の頃に罹った病が原因で、手術で両目を失ったんだそうだ」
ルアンが簡単に、シェルフィアに対してリセが義眼になった経緯を説明してくれた。
「しかし幸いにも、彼女はいい義眼を作ってくれる技師や盲人の教育を引き受けてくれる教師と巡り合えたらしくてね。身の回りのこともある程度は独力でできる。自宅と、この劇場のなかくらいは、彼女でも誰かの介助を受けずとも自由に動き回れるんだ。音楽は盲人の彼女にとって、身につけられるかもしれない数少ないもののうちの一つだから、彼女は将来に備えるためにうちに来た。才能があったから今は主演まで任されているが、そうなっても彼女は他所の劇場に招待公演で出向いたりはしていない。見知らぬ土地を歩かせるのは、たとえ介助があっても彼女の場合は危険が伴うからと、劇場主が彼女への招待公演の要請は全て断っているんだ」
リセは普段、自宅と劇場を往復するのみの生活をしている。買い物などの雑事は、概ね彼女の母親や、劇場が彼女につけた、彼女の世話係のような役目の使用人たちが行っているらしい。旅行のように遠出をすることなど、彼女にはまずなかったが、ごく稀にミレーシャと近郊の劇場まで評判の歌姫の公演を聴きに行くことはあった。リセはミレーシャとは親しく、だからあの日も、彼女がミレーシャとカルヴェスまで赴いたことに、疑問に思った者は誰もいなかっただろうとルアンは言う。
「――シェルフィアには悪いが、カルヴェスの劇場には特に評判のいい歌姫がいるわけではないから、リセはそれまでは一度もカルヴェスまで行ったことはなかったのだそうだ。それでもあの日は赴いた。どうしても海鳴りというものが聞きたかったらしくてね。今度歌う歌曲が海を題材にした作品だから、それまでに海というものがどういうものなのかを、彼女自身が実感として感じたかったらしい。オーヴェリアには海はないから、海の音を聞きたいと思えばカルヴェスまで行かないといけない。私は最初、馬車で三日もかかる旅なんて彼女にできるのかと思ったが、母親とミレーシャが同行するから大丈夫だと、他ならぬ彼女が言ったので安心していたんだ。ミレーシャが、カルヴェスの劇場には知り合いの舞姫がいるから、到着したら彼女に海辺を案内してもらえるだろうしいっそう心配はないとも言っていたからね。この知り合いの舞姫というのは多分、君のことだろう?」
ルアンはそういってシェルフィアを見てきたが、シェルフィアは首を振って、それはそうかもしれないけど、案内したのは妹だと答えた。シェルフィアはカルヴェスでミレーシャに会っていない。おそらくミレーシャは劇場ではなくシェルフィアの自宅のほうを直接、訪ねてきたのだろう。前にミレーシャがカルヴェスを訪ねてきた時に、シェルフィアは彼女と自宅で話したから、それを彼女が覚えていたとすれば、彼女が要らぬ注目を受けることを避けて劇場ではなく自宅を訪れたとしても不思議なことはなかった。そのとき自宅にリュイフィアがいたとすれば、リュイフィアの性格からして率先してリセの案内をしてくれたとしても、妙なことは何もない。リュイフィアはけっこう、人の世話をするのが好きなところがあるし、ミレーシャとは彼女も知らぬ仲ではない。ミレーシャとリセの用件を知れば、リュイフィアは気軽に海辺まで行っただろう。まさかそこで殺されることになるなど、夢にも思わずに。
いったいあの日、あの海岸で何が起きていたのだろう。シェルフィアは思った。あの日、ミレーシャとリセは、確かにシェルフィアの自宅に来たのだろう。だからリュイフィアが二人に海沿いを案内することになった。そしてそこで何かが起きて、リュイフィアとミレーシャはあの海岸から海に落ちて死ぬことになった。リセはその時、二人の傍にいた。少なくとも目撃したと、本人が感じることができるほどには近くにいたのだ。リセが無事だったのは、彼女が義眼であること、視力がないことに、二人を突き落とした誰かが気づいたからだろうかと思う。見えないのだから何も見ていない。見ていないのだから放置しておいて支障はないと、判断したのだろうか。それで、二人を突き落とした誰かは、リセは放置して逃げた?では、それをなした誰かとはいったい、どこの誰だったのだろう?
どうすれば、その誰かを特定できるだろうか。シェルフィアは思いを巡らした。いったいどうすれば、自分はリュイフィアを殺した誰かを見つけられるのだろう。しばしそのことを熟考していたが、ふいに救護室の外で響いた大きな物音に、その思考はすぐに断ち切られることになった。
誰かが廊下を駆け去っていくような足音がした。ルアンが慌てて救護室の扉を開け放つ。リセも彼の後を追おうとしたが、ルアンが扉から廊下のほうを見て、リセに何事かを耳打ちすると、リセは頷いてその場に残った。ルアンは一人で廊下を駆けていく。リセはしばらく遠ざかっていく彼の足音に心配そうな表情を向けていたが、すぐにシェルフィアのほうに向き直った。
「――シェルフィアさんの看護をしてくれた方が、突然どこかに走り出していったので、様子がおかしいとルアンさまが後を追われました」
リセはシェルフィアにそう伝えてくれたが、シェルフィアにはあの女性の突然の行動の意味が分からなかった。自分とリセを救護室に残しておくことに不安を抱いていたはずの彼女が、突然救護室を離れてまで、いったいどこに行く必要があったのか。
そしてそう思った直後、シェルフィアの耳に凄まじいまでの男の悲鳴が聞こえてきた。咄嗟に起き上がろうとして、瞬間的に走った激痛にシェルフィアは思わず呻く。リセがシェルフィアに動かないよう命じて、救護室を出て行った。だが、すぐに廊下の先のほうでその彼女の歩みは止まったようだった。足音が聞こえない。代わりにルアンに呼びかける、彼女の不安を極めたような声が聞こえてきた。
シェルフィアは居ても立ってもいられなくなった。ルアンとリセ、そして医者の言いつけを無視して寝台に起き上がる。まだ痛みを発している左腕を右手で庇うようにしながら、救護室を歩み出て廊下の先を覗き見た。
深夜の廊下は暗かった。一応、壁際に据え付けられた燭台に灯りは灯されていたが、その灯りだけでは心許ないほど薄暗い。しかし、廊下の先でリセが佇んでいるのは視界に入ってきた。
彼女は無事なのだろうか。そう思ってシェルフィアが駆け寄ろうとすると、何事かと背後から人の駆けてくる足音がした。振り返ると、シェルフィアの治療をしてくれた医者をはじめ、明らかにこの劇場の人間と分かる、見覚えのある顔ぶれが幾人か並んでいる。
医者は廊下に出てきたシェルフィアに一瞬、眉を顰めたが、何も言わずにシェルフィアに訊ねてきた。
「何があった?凄まじい悲鳴がしたが」
シェルフィアは首を振った。
「分かりません。私も、いま部屋を出たところで」
ふむ、と医者は頷いて、劇場の者と廊下の先のほうへ歩き出した。シェルフィアも彼らの後をついていった。そして目を瞠った。リセに続いてシェルフィアが、その場で悲鳴を上げてしまった。
リセの視線の先の廊下で、ルアンが血まみれで倒れていたからだ。
急いで駆け寄ろうとするシェルフィアを制して、医者はルアンに駆け寄った。その場で手早くルアンを診て、医者はまだ彼が息をしていることを知ると、周囲の者たちの手を借りて彼を、たった今までシェルフィアが寝かされていた救護室まで運ばさせた。急いで怪我の状態を診、治療のための処置に取りかかり始める。
シェルフィアはその様子を間近でずっと見ていたが、ルアンはずっと昏睡したように意識がなかった。先ほどまで元気だった彼のあまりにも急激な変わりように、シェルフィアは言葉がなかった。どうしてこんなことになってしまったのだ。
ルアンは腹部に、明らかに誰かに刺されたと分かる傷を負っていた。あの悲鳴といい、彼があの廊下で、何者かに刃物をもって襲われたことは明白だった。いったい誰が、彼に対してこんな惨いことをしたというのだろう。自分に続いて起きたまさかの惨事に、シェルフィアは言葉がなかった。
シェルフィアは何となく目線を彷徨わせてリセの姿を探した。リセの姿はすぐに見つかった。救護室の壁際、他の劇場の者とは少し離れた辺りで祈るように両手を組み合わせている。シェルフィアは静かに彼女に歩み寄っていった。
「――リセさん、少し、いいかしら?」
リセは顔を上げた。シェルフィアを見つめてくる。義眼であっても、彼女が呆然としているのはその双眸から窺い知れた。衝撃的な事件が立て続けに起きて、彼女もまた、何をどう考えていいのか分からないのかもしれない。
シェルフィアはリセの耳もとで囁いた。
「あなた、今度は何も見ていない?ルアンさんを刺した人」
ぴくりとリセが肩を震わせた。囁くように告げる言葉も声音も、震えている。
「・・わ、私には、分かりません。何も感じ取ることはできませんでしたから」
そう、シェルフィアは思わず落胆の息を吐いていた。彼女が犯人に気づいてくれていたら、いちばん良かったのにと、どうしても思ってしまう。口には出さなかったが、それがやはり本音だった。
リセは済まなそうにすると、シェルフィアの身体を抱き寄せるようにしてきた。
「――それより、シェルフィアさんはまだ安静になさっていてください。本来であれば、まだ動くべきではないのではないのですか?横になられてください」
少し声色を強めて、リセはシェルフィアを寝台に寝かせようとした。救護室の寝台は一台だけではない。彼女がシェルフィアを自分が今まで寝かされていた寝台に寝かしつけようとすると、周囲にいた他の劇場の者も何人か、リセに手を貸してシェルフィアを寝台に運んでくれた。シェルフィアとしては、横になったからといってとてもゆっくりと休めるような気分ではないのだが、リセの言葉にはおとなしく従うことにした。シェルフィアは意識こそあるものの、正直まだ立っているのも辛かったのだ。ひどい目眩がしていた。
シェルフィアの寝台はルアンが医者の治療を受けている寝台のすぐ隣だった。首を横にすると、横たわったルアンの顔が間近に見える。未だ意識の戻らない彼に向けて、シェルフィアは祈った。
――ルアンさん、どうか、無事に目を覚ましてください。この国の者は誰も、あなたの才能が失われることを望んではおりませんよ。
シェルフィアの祈りは通じた。
ルアンは一命をとりとめた。腹部の傷は、彼の身体の生命に関わるような重要な部分を傷つけてはいなかったのだ。それが医者の診立てだった。しばらくはシェルフィア以上に絶対的な安静が必要になるが、すぐに元通りに動けるようになるだろうとの判断も下った。
寝台に寝かされてはいても、結局一睡もできなかったシェルフィアは、夜明けが近くなってもたらされたその報せに、心の底から安堵した。安堵すると、自然に身体に宿った緊張感は解れてくる。緊張が解けたことで、夜通し起きていたシェルフィアの意識は急速に眠気と疲労を訴え出した。それで明け方にシェルフィアは、意識もしないままに少し眠り、次に目が覚めた時にはすでに陽は中天を超えていた。
目が覚めた時、室内で自分たちを見ていたのは医者の男だけだった。
「お目覚めですかな?」
医者はシェルフィアが目覚めたことに気づくと、ルアンに向き直っていた身体をこちらに向けた。手早くシェルフィアの怪我の状態を確認し、満足そうに、あるいは安堵したように頷く。悪化したりはしていなかったのかもしれない。それならば喜ばしかった。今後、舞姫としてやっていくことができなくても、シェルフィアとしてはやはり、身体に痕だけは残ってほしくない。
「・・治るまで、どれくらいかかりますか?」
シェルフィアが問うと、医者は少しも考えた様子なく即答した。
「そうですね。一月もあれば完治するでしょう。抜糸が済めば、もう普段どおりに動かれて大丈夫ですよ。そうなったらご自宅へお帰りになられても構いませんが、劇場主があなたの所属劇場へ連絡と謝罪に赴かれるそうですから、お迎えがあるかもしれませんので、劇場主からの連絡があるまでは、ここで休まれるのが賢明と思います」
シェルフィアの心に、育ての親でもある劇場主や、親友のリオラ、ミュレイラらの顔が浮かんだ。では皆、自分が帰る前に自分に起きた禍のことを知るのか、と思った。リオラや見習い舞姫の子供たちは、今回の事件のことをどんなふうに感じるのだろうか。観客席から短刀を投げられるなど、舞姫には予測しようもないことだ。予想できないという恐怖が、彼女たちの演技に障りをもたらすことはないだろうか。特に見習い舞姫たちは小さい子ばかりなのだ。今後に与える影響は大きい。そのことがシェルフィアはなにより気がかりだった。
「・・誰が、いったいなぜ、客席から私へ向けて短刀を投げたりしたのでしょう?そのことについては、まだ分かってはいませんか?」
医者は申し訳なさそうに首を振った。
「それについては私は何も聞いておりませんな。誰があなたをこのような目に遭わせたのか、それが判明したのでしたら、誰かがここへ報せに来ると思いますので、まだ分かってはいないのかもしれません」
そうだろう。シェルフィアは内心で頷いた。元より誰が投げたか分かるなど、期待していない。劇場の売り子は観客の持ち物を検査したりはしないのだ。客の誰かが荷物の中に密かに短刀を入れていたとしても分からないし、それが分からなければ、投げられた短刀が誰の持ち物であるかなど分かるはずもない。いまさら名乗り出る者がいるとも思えず、投げられた方向からある程度の見当はつけられても、疑惑を追及することはできないだろう。相手は必ず否定するはずだし、それ以上のことをすれば逆に劇場のほうが観客から軍に告訴されることもありえる。劇場の運営も芸能も、所詮は商売だ。観客との揉め事は絶対に避ける。自分の身に起きた事件はおそらく、有耶無耶のうちに終わってしまうことだろう。
「――けれど、ルアンを負傷させた犯人なら、すでに捕まりましたよ」
遣る瀬無い思いを感じていたシェルフィアは、ふいに医者が発した言葉に驚愕した。いったい誰が、あんな惨い真似をしたのだ。そう問いかけるのももどかしい。勢いこんで訊ねた。
「誰です?誰が捕まったのですか?どうしてルアンさんが、劇場内でこのような惨いことになったのです?」
医者は首を傾げた。
「理由までは私は聞いていません。けど、いろいろと揉め事があったのではないですか?振付師と出演者とのあいだには、揉め事が絶えないらしいですからね。何か深刻な問題があったのでしょう。意識が戻られたら、彼は劇場からも軍からも、いろいろと事情を聞かれるでしょうね」
医者は未だ意識は戻らないらしいルアンの様子を見ながらそう言った。淡々とした口調だったが、シェルフィアは医者の言葉によりいっそうの衝撃を受けた。衝撃的すぎて、咄嗟に舌が巧く回らない。
「・・振付師と、出演者のあいだには、揉め事が、絶えない、って?まさか、逮捕されたのは、出演者の誰かなのですか?」
信じられなかった。出演者ということは彼を襲ったのはこの劇場の歌姫か舞姫なのだ。どうしてそんなことが起きてしまったというのだろう。ルアンはこの国の、全ての舞姫たちの憧れだったはずだ。彼に振りつけをしてもらえるかどうかで、舞姫の人気に差が出るとまで言われている。シェルフィアも、彼の名は会う前から知っていたし、憧れていた。初めて振りつけをしたあの日も、彼のことを意識しなかったわけではない。これから自分は振付師として生きていくのかもしれないと思ったから、そうなったら彼のような振付師になりたいと思ったのだ。どうして出演者が彼を襲うというのだ。振付師を襲っていったいその者にどんな利があるというのだろう。そんなことをすれば絶対に困るのは出演者のほうだ。軍に捕まるだけではない。所属劇場内で振付師を襲えば、芸能で暮らしていく道は絶たれてしまう。どれほど華やかに見えても出演者は所詮、劇場の単なる雇われ者にすぎないのだから。一時の感情に身を任せて劇場内で振付師を襲って、軍に捕まり所属劇場を解雇されれば、すぐさま舞台に立つことはできなくなる。そうなればもう二度と、芸能で生きていくことはできなくなるというのに。
しかし医者はシェルフィアの言葉にあっサリと頷いた。医者はシェルフィアほどの衝撃を感じていないようだ。ひょっとしたら感じているのかもしれないが、おそらく他にも大勢の人々が同じように衝撃を表したはずだから、すでに慣れているのかもしれない。
「ええ、そうですよ。私も何度か公演を見たことがありましたし、名前を聞かされてすぐに分かりました。私は彼女の歌声を素晴らしいものと感じていましたからね。惜しいことをしてくれましたよ。彼女が軍に捕まれば、もうこの劇場で歌うことはないでしょう。せっかく全盲でありながら、あれほどに成功できたというのに、とても残念な気がしてなりません」
「では、捕まった出演者は、歌姫、なのですか?」
シェルフィアは呆然と訊き返した。衝撃的な話を立て続けに聞かされて、感覚がどこか麻痺してしまったのかもしれない。言葉の意味がすぐに理解できず、なかなか意識に滲み込んでくれなかった。
「ええ。捕まったのはこの劇場に所属する、リセという歌姫ですよ。彼女が今朝方、調査に訪れた軍人に、そう自白したんです。自分が刺した、とね」