氷上舞
最終公演が行われるのは、常に陽が沈んでからだ。月が昇り辺りが完全に闇に包まれ、灯りがなければ外を歩けず、気の早い者は眠り始めた頃から、舞台は開演する。通常であればそれほど多くの観客が入ることはない。人気公演は概ね、世間の多くの人々が夕餉を終えた頃くらいを狙って開演し、集客を図るのだ。最終公演は専ら、夜通し飲み歩こうというような酔漢を狙って開演することも多いため、どこの劇場でも猥褻的な演目になることが多く、公演ができる出演者も限られてくる。だからいつもなら、あのオーヴェリアの劇場といえど、閑散としたものになるはずの最終公演の時間帯も、今夜ばかりは様子が違っていた。
――あのカルヴェスのシェルフィアが、一年ぶりにオーヴェリアで氷上舞を演じるらしい。
その噂は瞬く間に劇場の周辺に知れ渡った。事前に公演が予告されたものでないにもかかわらず、噂が広まるのは早かった。シェルフィアを場内で目撃した観客たちから話を言葉伝えに聞いた者も、短時間とはいえ街路で宣伝を歌い上げた売り子たちの誘い文句を聞いた者もいたが、噂を聞いた者たちは誰もが、この突然の公演を期待をもって待ち望んでいた。最終公演の切符を売る帳場には客が殺到した。切符はすぐに完売し、立ち見客も入って観客席は超満員になった。それでもなお、客席に入れない者が数多く出て、それらの者たちの不満を和らげるために劇場の売り子たちは対応に追われていた。
ここでは誰もが、シェルフィアの復帰に期待をかけていた。
舞姫の控え小屋となる小さな建物のなかで、シェルフィアは一人、壁越しに聞こえてくる観客たちのざわめきに緊張を感じていた。
衣装への着替えに用いるこの建物には窓がない。それでシェルフィアには観客席の様子が窺えなかったが、壁越しに伝わってくる声で客席の人数は窺い知ることができた。客席は、満員とはいかないまでも、それに近いだけの人数が入っている。そのことに疑いの余地はないだろう。
野次は聞こえない。声の雰囲気は明るいものばかりだ。つまりそれは、この場にいる観客たちが皆、自分の演技に期待をかけていることの証でもある。もはや後戻りはできない。失敗することもまた、許されなかった。
シェルフィアは控え小屋に据えられた長椅子に腰かけたまま、静かに呼吸を整えていた。頭のなかで僅かな練習のあいだに確認した去年の振りつけの動きを反復する。去年の振りつけなら、それほど難しい動きはないし、僅かに演技に変更も入れた。変更を入れたから、去年と同じ演技だと、観客を落胆させることもないだろう。変更箇所の動きさえ上手くこなせれば、絶対に観客を満足さセラれる。できるはずだと、シェルフィアは自分に言い聞かせた。この期に及んで不安など抱いたら、極度の緊張と重圧のなかで、満足に滑ることすらできそうになかった。
氷上舞が披露される舞台は劇場の建物の中にはない。建物に囲まれた中庭の中央に掘られた池がその舞台だった。池は春から秋にかけては単なる池として庭の彩りの一つとなるが、冬になると日によってはこの池は凍りつく。池が凍れば、凍ったこの池の氷をそのまま舞台として用い、中庭に観客席を置いて氷上舞を披露するというのが、この劇場の毎年の伝統だった。
したがって、氷上舞は毎年、冬の極寒の時期でなければ行われることはない。寒い時期に屋外での公演となるから、観客は誰もが厚手の外套や毛皮で厚着してくるが、それでもひとたび公演となれば、客席は常に満員となった。中庭での公演となるから客間での公演と異なり、さほど客席が設けられないというのもあるだろうが、やはり滅多に開演されない公演ということで人気があるのだ。氷上舞は年によっては暖冬だったりして開けないこともあるし、氷の張った池などというものはどこにでもあるものではない。オーヴェリアのような都市では特にそうだ。思うように練習ができる舞ではないから、実力のある舞姫も少なく、舞姫の滑走が可能になるよう池の氷を綺麗に整える整氷技師の数も少ない。場合によって、劇場によっては本番前に舞姫が自力で氷を整えるところもあるほど、技師は少なかった。オーヴェリアではさすがにその心配はなかったが、舞姫の数が少ないのはここも同じで、オーヴェリアの専属舞姫で観客に披露できるほどの腕前を持つ氷上舞の舞姫はサリ一人しかいない。それで毎年、氷上舞が可能な時期になると、シェルフィアは招待出演者としてこの劇場に呼ばれていた。シェルフィアの所属劇場の近くには、大きな湖がある。そこで毎年シェルフィアが行っていた野外公演の話が、何かの機会にこの劇場の人間の耳に入って、それから声がかかるようになったのだ。
シェルフィアが最初にこの劇場で氷上舞を披露したのは十二歳の時だった。サリはその時はまだ見習いで、シェルフィアに影響されて氷上舞をはじめ、今やこの劇場の氷上舞の象徴的な舞姫となっている。しかし、そのサリは今夜は出演しない。本当なら今夜の公演はサリの演技を行うはずだったのだが、急に怪我して演技ができなくなったのだとルアンは話してくれた。
「サリは二、三日前、練習の時に転倒して脚を痛めていてね。しばらくは演技ができる状態じゃないんだ。無理に舞わせて完全に脚が故障するような事態になったら大事だから、今朝になって今夜の公演は休止が決定していたんだ」
それを聞いてシェルフィアは落胆した。ひょっとしたら彼女と共演できるかもしれないと思ったからだし、一人よりも二人のほうが華やかな演技が可能になるからだが、怪我ならば仕方がなかった。そもそもサリの代役として今夜の招待出演が決まったのだから、サリと共演できる見込みが低いことも分かっている。シェルフィアは一人で演技するしかない。一人きりで、大勢の観客を満足させる演技をしなければならないのだ。
ふいに壁越しに打楽器が打ち鳴らされる音が聞こえてきた。いかにも本番前に楽器の調整をしているというふうを装って鳴らされたその音は合図だ。開演の合図。シェルフィアに氷上に出るようにと報せるための音だ。
シェルフィアは羽織っていた厚手の上着を脱ぎ捨てた。むきだしの肩と腕を冷気が襲う。思わず震えたが、この寒さは我慢するしかない。氷上舞の衣装は跳躍や回転が多いために安全や動きやすさを考慮して布地を極力少なくしてあるのだ。室内で行う公演の衣装と比べると考えられないほど裾は短く、太股の辺りで色鮮やかな薄い絹の裾が幾重にも重なって揺れている。上半身の生地も薄くて身体に密着していた。袖もなければ襟も肩掛けもない。代わりに首元や耳元を首飾りや耳飾りで華やかに彩っているから、見た目には華やかに見えるのが、舞姫の立場としては極寒の季節に下着も同然の姿で舞わねばならないというのはとても辛いことだった。滑っていれば多少は気にならなくなってくるが、氷上舞の舞姫が少ないのはこのことがあるからだろうとも思えてくる。
長椅子から立ち上がって壁際の姿見に近づいた。衣装の着崩れの有無や装身具の位置を確認し、僅かな乱れも見逃さず入念に整える。化粧崩れの有無や髪型も確認した。衣装も装身具も劇場主の指示の下、この劇場の衣装係の管理する部屋で曲や振りつけに合うものを自分で選んで借り受けた。靴はサリが普段練習で使用しているものを拝借した。サリと自分では体型も得意とする技術も異なるため靴底の調整具合が異なるのだが、立っていられないほどではない。練習で何度か滑走し、軽く跳躍や回転をして自分が愛用している靴とどの程度に異なるかを感覚で確かめ、いつも氷上舞で滑っている湖とこの劇場の池の氷の状態の違いを確かめると、演技に多少なりとも自信が出てきた。たぶん、無事に完遂できる。できるはずだ。
シェルフィアは控え小屋の扉を開け放った。自分が外に足を踏み出すと、早くも客席から歓声が沸き起こる。シェルフィアは客席に向けて一礼し、一気に池の上を中央へ向けて滑っていった。控え小屋は池の畔ぎりぎりに設置されている。小屋の扉を開ければすぐに氷上だった。
池の中央、あらかじめ指示された辺りまで来ると、シェルフィアはそこで両腕を交差させて自分の肩を抱きこむようにし、右膝を氷上に突いて片膝を立てるような姿勢で俯いた。シェルフィアの背後の岸辺には劇場に所属の楽姫たちで構成された楽団が控えている。彼女たちが音楽を奏で始めるのをそのまま静かに待った。
シェルフィアが最初の体勢をとってから、楽団が弦楽器で最初の音を響かせるまで、ほとんど時はかからなかったはずだが、極度に緊張したシェルフィアにとってはその僅かな時間は永遠のように長く感じられた。最初の一音が弦楽器によって鳴らされるとシェルフィアは左手を勢いよく上に伸ばしながら立ち上がり、音楽に合わせて腕や上半身を複雑に動かしながらゆるやかに回転し、後ろ向きに滑った。全て去年、自分で考案した振りつけ通りの動きだ。このまま後ろ向きに滑っていって、着氷が可能になるぎりぎりまで池の端に近づいてから氷を踏み切って跳躍する。跳躍したら空中で三回の回転をしてから、踏み切った足とは逆の足で着氷し、そのままその足で再び踏み切って三回の回転をする。この振りつけの最初の難所であり最初の見せ場だった。跳躍は難しい。転倒の危険も大きいし、シェルフィアはどうしても二度目の跳躍で踏み切りが弱くなり、回転が足りなくなることが多かったのだが、単に滑るだけよりも難しい跳躍を披露したほうが観客をすぐに沸かセラれる。演技にも幅が広がり、シェルフィアはいつも演技の前半に多くの跳躍を取り入れていた。後半になると疲労が生じてくるから転倒や回転不足の危険が多くなる。回転数の多い跳躍を披露するためにはかなりの速度で氷上を滑走しなければならないから、その危険をできる限り回避しようと思えば、まだ疲れていない演技の前半に跳躍は集中させざるをえなかった。
最初の連続跳躍は無事にこなせた。着氷すると安堵する暇もなく再び中央へと戻るシェルフィアに、早くも客席から拍手や溜息、歓声が沸き起こる。中央に戻ったら次の見せ場は回転だった。右足を軸にして上半身を折り氷上と平行にし、身体と同じ高さまで左足を真っ直ぐに上げて勢いよく回転する。回転しながら片手で左足を摑んで足と上半身を同時に引き上げるようにしながら回転を続け、回転の勢いが衰える前に今度は逆に氷上にしゃがみこむような姿勢に体位を変える。そのあいだ、一度も回転を止めてはならない。止めればせっかくの動きが美しく見えなくなる。
回転も無事に終わった。次はシェルフィアにとってこの振りつけでいちばん気楽なところだ。例によって曲に合わせて複雑に動きながら池の端まで滑っていき、そこで足先を頭よりも高いところまで掲げた右足を右手で抱きこむようにしながら観客に向けて左手を振り、左足だけで平衡感覚を保って立っていられるぎりぎりまで滑るだけの箇所だ。シェルフィアにとってはほとんど技術を要しない、比較的楽な箇所だ。舞姫が近づいてくれば観客は喜んでくれるから、シェルフィアが演技を楽しいと感じられる、数少ない時間でもある。
だがその、僅かな楽しい時間が、今夜に限っては悪夢の時間に変わってしまった。シェルフィアが池の端まで近づいて、右足を右手で抱きこもうとするとふいに客席のほうからシェルフィアに向けて何かが投げつけられたのだ。
突然の事態にシェルフィアは体勢を崩した。左足に全ての体重を預けた状態でいちど体勢が崩れれば立っていることもできなくなる。一瞬の後にはシェルフィアの身体は氷上に叩きつけられた。
歓声に沸いていた客席は突然の出来事に静まりかえった。音楽も止んだ。しかしシェルフィアにはそうした状況の変化を受け止めることすらできなかった。左の肩から腕にかけて激痛があった。あまりの痛みに演技のことは勿論、立ち上がることすらできなかった。
氷上舞では転倒など日常のことだ。しかし今の自分に走る激痛はそんな転倒などで生じた痛みをはるかに凌駕していた。気がついたらシェルフィアは悲鳴を上げていた。とても耐えられる痛みではなかった。