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オーヴェリア


 いったいあの男は何者だったのか。

 シェルフィアは大いなる疑問と不審を抱きながら、オーヴェリアへと向かう馬車に揺られていた。

 自分が今日、劇場を訪ねることを事前にルアンには伝えていない。伝えないほうがいいとシェルフィアが判断したからだ。予告なく訪ねたほうが真実が分かる。ルアンが実際のところ、どういう人物なのか。リセという人物は、いったい何者なのか。

 シェルフィアはあの日、木陰の下でルアンと別れてから一度も会っていない。彼がどういう目的でシェルフィアに接触してきたのか、その目的が分からない以上、迂闊に近寄ることは避けねばならないからだ。たとえ彼が、リュイフィアは実は殺されたのだと告げてきたとしても、軽はずみに心を許したりしてはならない。彼の言葉が信じられないのではない、当たり前に考えるならば、彼がそんな事実をシェルフィアに伝えなければならない道理がないからだ。

 それでもシェルフィアにとって、彼の言葉は容易く無視できるものではなかった。それでわざわざ、休暇を利用してオーヴェリアの劇場を密かに訪ねてみようと思ったのだ。もしも本当にリュイフィアとミレーシャが、誰かに殺されたのだとしたら、劇場を訪ねれば何か分かることがあるかもしれないからだ。

 シェルフィアはそう決意して、窓の外を見やった。窓から見える範囲だけで判断するならば、街路の様子はシェルフィアの所属劇場の周辺よりも賑やかだ。オーヴェリアは遠い。王都の中枢近く、最も華やかな辺りに広がっている。シェルフィアはこれまで何度もオーヴェリアへは足を運んできたが、いつ行っても圧倒されてきた。シェルフィアの住んでいる辺りもそれなりに賑やかだが、オーヴェリアと比べれば寂れた田舎も同然だった。

 そう思った時、ふいに穏やかに馬車が停止した。しばらく待っていると、外から扉が開かれ御者が車内に顔を覗かせてきた。

「お客さん、メアテリスの街に着きましたよ」

 その言葉を受けてシェルフィアは馬車を降りた。シェルフィアの住んでいる街からオーヴェリアの街までは遠い。馬車を乗り継いで三日はかかる。むろん途中で宿泊も必要になり、簡単に往復できる距離ではなかった。シェルフィアはそれを最初から承知していたから、特に苦には思わず御者に代金を払って街路を歩く。今夜はこの、メアテリスの街で安宿を探そう。まだ宿を探すには少し早いが、ここで一泊して明日の早朝に出発すれば、昼前には劇場に到着できるはずだ。

 そう思ってシェルフィアが近くの宿屋に入ると、その声は耳に届いてきた。宿屋の帳場で、噂話に興じている男たちがいる。思わずそちらを振り返った。

「――そんじゃ今夜からの夢魔の祝福、これからずっとリセが主演すんのか?」

 若い男が人待ち用の長椅子で、隣に座った中年の男に話しかけている。中年の男は若者の言葉に大きく頷いていた。

「そうらしいな。ミレーシャがああいうことになっちまったんで、最初は急遽代役ってことで演じてたらしいが、思った以上に評判が良かったんでこれからはずっとリセが主演をするんだそうだ」

「ひでぇ。まだミレーシャが死んでから全然時が経ってねえじゃねえか。それが所属劇場のやることか?」

「劇場だって商売だからなあ。ミレーシャが欠けたからって、いつまでも人気公演を休ませたり、終わらせたりするわけにはいかないんだろ。それにお前、全然ったって、もうミレーシャが死んでから半年は経ってるんだぞ。お前は未だにミレーシャが好きみたいだが、世間の連中はもうみんなミレーシャなんか忘れかかってる。これからのオーヴェリアはリセが流行ると俺は見たね。あの娘はけっこう、歌が巧い。評判になるのも当然だな。あれぐらいの歌でなきゃ、わざわざ金を払ってまで鑑賞しようって気にならん」

 若者は首を振った。

「俺は嫌だな、リセの公演なんて、見たくねえ。それじゃまるで、リセがミレーシャの公演を盗っちまったみたいじゃねえか。気に食わねえ」

「そういうなよ。芸能はそういうもんだ。死んだ歌姫が人気者だったからといって、いつまでも死人に縋っていては客はすぐに他所の劇場に流れちまうだろ。なら残った歌姫と舞姫ですぐに集客できるような演目の作成を急がないといけないんだ。劇場だって所詮は商人なんだよ」

「――お客さん、お部屋までご案内しましょうか?」

 男たちの噂話に気を取られていたシェルフィアは、ふいに呼びかけられて視線を帳場台のほうに戻した。宿の者がシェルフィアを怪訝そうに見つめている。

「あの、お部屋に入られないのですか?もしも、行き方が分からないのでしたら、お連れしますけど」

 口調は丁寧だったが、宿の者の視線には不審のいろが映っていた。こんな狭くて小さな安宿で、何を迷うのかという顔をしている。シェルフィアは首を振って、それには及ばない旨を伝えた。

「大丈夫ですよ、一人で行けます。少し、考えごとをしていただけですから」


 ミレーシャが殺された現場を目撃したという歌姫が、ミレーシャの代役という形で劇場の公演を任され、そのまま人気者になっている――。

 男たちの噂話が、思いがけず重要な事実のようにシェルフィアには思えた。

 シェルフィアは安宿の客室で、男たちの噂話を繰り返し思い起こしていた。寝台の他には机と椅子しかない客室は狭い。掃除もあまり行き届いてはいなかった。隅々に小さく埃が溜まっている。かつて招待出演者として公演するために劇場主の夫人とオーヴェリアに向かった時はもっと上質な宿に泊まれたのだが、シェルフィア一人で旅費を全て負担せねばならないとなるとこの程度の宿が最上級だった。見知らぬ旅人と雑居せねばならない宿よりは、まだましなのだから我慢するしかない。雑居の宿に女が一人で泊まると、貞操に致命的な被害に遭うことがある。それを考えれば、客一人に一室が与えられ、いちおうは鍵もかかる宿のほうがよかった。宿代は雑居の場合の数倍は必要になるが、安全面を思えば安い。

 夢魔の祝福がどういう演目なのかはシェルフィアもよく分かっている。歌と舞と音楽だけで構成された劇だ。演劇の体裁をとってはいるが、台詞は全て歌、動きは全て舞で表されているのが大きな特徴の作品で、三百年ほど前の楽姫が作り上げたものだと聞いている。古典の名作で、各地の劇場で頻繁に演じられていた。舞だけでなく歌も重んじられるから、舞にしか才能のないシェルフィアは端役しか演じたことがないものの、それでもあの作品がどれほどに難しいものなのかはよく知っている。夢魔の祝福には人間が一人も出てこないからだ。あの作品は天上の神々や悪魔、精霊たちの壮絶極まりない覇権争いを描いたもので、人間が出てこないから全ての役柄は歌姫や舞姫が想像で作り上げるしかなく、出演者の技量の違い、表現力の違いが最もよくでてくる作品だと言われていた。あの作品で主演を務められるとは、それだけでリセという歌姫がどれほどに優れているかが分かろうというものだろう。

 リセが才気あふれる歌姫なのだということは、シェルフィアも最初から察している。シェルフィアはまだオーヴェリアの公演は見たことがないのだが、あのオーヴェリアの劇場の専属と聞けば、それだけで並の技量の歌姫ではありえないことは想像できた。あの大作の、主演を務められるだけの技量も当然、持っているだろう。だからリセが主演を務めることは変ではないのだろうが、しかしこの時期に彼女が主演というのはひっかかった。なぜ、彼女だったのか。

 夢魔の祝福の主演を務めていたのは、もともとミレーシャだった。そのミレーシャが不慮の死を遂げ、それを殺人だといった歌姫が彼女の代役として舞台に立っている。これが果たして偶然だろうか。リセが最も優れた歌姫だったら、偶然に主演に選ばれたにすぎないのだろうか。

 シェルフィアは考えたが、この疑問に対する答えは出そうになかった。偶然でなければなんだというのだ。必然か。リセが現場を目撃したことで、彼女に証言されることを恐れた真犯人が、彼女の口を封じるために彼女を厚遇しているのか。

 シェルフィアは首を振ってその考えを追い払った。今日の自分はどうかしていると思った。それならミレーシャを殺したのはオーヴェリアの劇場主ということになるではないか。そんなことがあるはずはない。劇場主が、自らの劇場の稼ぎ頭である主演の歌姫を、殺害するはずがないではないか。そんなことをしたら自分の商売は破滅してしまう。

 学のない自分がこんなところで下らぬ想像に耽っていても仕方がないか。シェルフィアは溜息をついた。自分の思考を追い払う。

 とにかく劇場へ行けば、分かるだろう。ルアンの言葉が真実を語ったものであるのかどうか、あの日、リセがどうして自分の許に来ることができなかったのかどうかも、全て分かるはずだ。

 ――リセに会えば、どうして彼女の証言が有効なものにならなかったのか、すぐに分かると言っていたものね。


 三日をかけて辿り着いたオーヴェリアの劇場は、以前と変わらずこの世の華やかさを全て凝縮したような、壮麗かつ華麗な建物だった。

 シェルフィアは招待出演者として何度もここで舞ったことがあるのだから、足を踏み入れずとも内部の様子が手に取るように分かっている。観客を入れて公演を行うための舞台のある客間だけでも十以上、そのどれもがシェルフィアの所属する劇場の三倍以上の広さがある。出演舞姫や歌姫たちの楽屋も広い。楽屋が稽古場も兼ねていて、主演のような重大な役を任された者であれば専属の指導者や世話役もつくほどだ。出演者たちの稽古場と見習いたちの稽古場は別れていて、それぞれが自分の練習だけに集中できる環境が整っている。

 あまりにも充実した環境、広すぎる場内にシェルフィアはここを訪れる度に、いつも羨んだし、迷ったものだ。観客の数もシェルフィアの所属劇場とは比較にならないほど多い。シェルフィアの所属劇場なら満員で立ち見が出るほどの人数が入場しても、この劇場ではそれだけの人数しか入らなければ空席ばかりが目立つ不人気の極みの公演とみなされてしまうだろう。主演はすぐさま見習いに戻されるか、さもなければ解雇されるのではないか。

 ちょうど公演が始まる頃合いを見計らって訪れたため、劇場の入口は混み合っていた。今日は招待出演者ではなく観客として、ルアンの口から出たリセの公演を、まず見てみようと訪れたのだから公演の時刻に合わせなければ意味がない。それで止むを得ずこの時間帯に来たのだが、慣れぬ人混みに揉まれたせいでシェルフィアは劇場に近づくことすら苦労した。それでもどうにか帳場台まで辿り着き、求めていたリセの公演の切符が買えた頃には、すでに開演時間が目前にまで迫っていた。

 慌てて客席まで向かおうとシェルフィアはやや駆け足ぎみになった。だがそのとき、急にシェルフィアの周囲が騒ぎ始めた。付近の人々が次々にシェルフィアを目指して駆け寄ってくる。シェルフィアは足を止めた。止めざるをえなかった。とても動けるような状況ではなかった。

「あなた、シェルフィアでしょ?カルヴェスの劇場の?――嘘みたい!今日があなたの公演で、しかもこんなところで会えるだなんて!」

「告知板になかったんだけど、公演で来たんでしょ?舞台はどこ?何時から舞うの?切符買い直すから、教えてくれない?」

「あ、あの、握手してください!私、シェルフィアさんの舞がすごく好きなんです!いつかシェルフィアさんみたいな舞姫になりたいって、ずっと思ってました!」

 言葉は人々の口から溢れるように押し寄せてきた。あまりにも大勢の人々がいっせいに発言してくるせいで、シェルフィアにはもはや誰が何と言っているのかを正確に聞き取ることができない。それでも集った人々が自分を非難しているわけではないことだけは分かったが、それがよりいっそうシェルフィアの混乱に拍車をかける結果となった。なぜ、ここにいる人々は自分を歓迎しているのだろう?自分は、ここの劇場の歌姫だったミレーシャの死の原因を作った少女の、姉だ。ここの劇場の客に歓迎される道理はなく、無論ここで公演する予定もシェルフィアにはない。今日は本当に客として訪れただけなのだから。

 混乱の極みのなかでシェルフィアが大勢の人に押しかけられて困惑していると、どこからか朗々とした声が聞こえてきた。

「そんなところで何をしている?舞姫は濫りに帳場まで出てはならぬと伝えたはずだ」

 聞き覚えのある声にシェルフィアが声の主を探ろうとすると、周囲の群衆から黄色い歓声が沸いた。ルアンさま、と呼びかける若い女性の声も、どこからか聞こえてくる。

 その言葉に応えるように、群衆に愛想よく挨拶しながら、人混みを縫うようにして若い男が姿を現した。案の定というべきか、現れたのはルアンだった。

「早く来なさい」

 ルアンは命じるようにそう言うと、シェルフィアの腕を摑んで歩きだした。


「なんで君がこんなところにいる?訪ねるなどという報せは受けていないが」

「観客として舞台を鑑賞するために劇場に行くことを、あなたにわざわざ報せないといけない義務が私にあるとは思えませんが?」

 今日は誰も使う予定がないという楽屋に入って、シェルフィアはルアンと言い合っていた。シェルフィアにとっては彼の言葉は憤慨ものだった。人混みから無事に抜け出れたことには感謝しているが、シェルフィアには彼に非難されねばならない謂れはない。

「それでも一言報せてくれてもいいだろう?君は招待出演者として何度もこの劇場で舞っている。毎年、君の公演を楽しみにしているという客も多い。君はうちでは有名人なんだよ。もっと自覚を持ってくれないか?私が君の来訪に気づいたから良かったようなものの、もしも気づかずにあのまま混乱して客が集団転倒でもしたらどうする?怪我人が出るだけでは済まない事態になることもあるんだぞ」

 それは申し訳ありませんでした、シェルフィアは口だけは謝罪の言葉を述べた。

「それは悪かったと思っています。けどまさか、私があれほどに歓迎されるほどの人物だとは思っていませんでしたからね。正直、意外でした」

 ルアンは眉を顰めた。

「意外なのか?君は国でも数少ない氷上舞が舞える舞姫だろう?君以上の技量の舞姫は、この国には誰もいない。まさか君、そのことを自覚していなかったのか?」

 シェルフィアは苦笑した。

「それは買い被りというものですよ。氷上舞なら、この劇場にも見事に舞える舞姫がいらっしゃるでしょう?サリという舞姫です。まさか、もう現役を退かれたのですか?」

 言外にそんなはずはないだろうという意味を込めて訊ねると、ルアンは首を振った。

「サリなら勿論、まだ現役だ。しかしサリよりも君のほうが演技は良い出来だからね。観客のほとんどは君の演技のほうを好んでいるんだ」

 それは有り難いことです。シェルフィアは今度は心から素直に礼の言葉を述べた。

「それが本当ならとても残念なことです。私はもう舞えませんから」

 ルアンが驚いた顔をした。

「なぜだ?君はまだ引退を考えるような年ではないだろう」

 シェルフィアは憤った。この男に八つ当たりしても仕方ないとは思ったが、それでも言わずにはいられなかった。

「引退するべきでしょう?あなたは私がミレーシャの死に際してどんな言葉を投げかけられたかご存じないから、そんなことが仰られるんです。所属劇場ですら支持されない舞姫が、現役を続けられるはずがありません」

 シェルフィアは感情のままに妹の死から今までに起きた諸々をルアンに向けて洗いざらいぶちまけた。ルアンは黙ってシェルフィアの言葉を聞いていたが、シェルフィアの言葉が途切れると、ふいにシェルフィアの頭を撫で、静かに告げてきた。

「所属劇場の舞台ではもう舞えないというのなら、移籍したらいい。君ほど力のある舞姫なら、欲しがる劇場はいくらでもあるだろう」

 シェルフィアは首を振った。

「できませんよ、そんなの。たしかに外国とか、カルヴェスからもオーヴェリアからも遠く離れているような、地方の劇場なら、私でもまだ現役の舞姫でいられるのかもしれません。今の私なら、それほど移籍金も必要にはならないでしょうから、後は私の意思ひとつのことなのだと思います。けれど私は、そうまでして自分の所属劇場を離れたいとは思いません。あそこは私を育ててくれた、恩義のある場所ですから。私は今後もずっとあそこにいます」

 シェルフィアが言い切ると、ルアンがシェルフィアの言葉に対して何事かを言いかけた。しかしその言葉を発する前に顔を上げて楽屋の外に出る扉に向き直る。

「誰か来た。少し待ってくれ」

 言われて初めてシェルフィアも扉の外で物音がしていることに気づいた。何か硬いもので軽く床を叩くような音だ。ルアンが扉を開けると、扉のすぐ外に、杖を突いた白髪の目立つ初老の婦人が佇んでいた。

 扉の外にいたのが彼女であったことはルアンにとって驚きだったらしい。彼は目を見開くと、慌てたように一礼した。

「劇場主ともあろう御方が、御自らこのようなところまでご足労になられるとは、思ってもみませんでした。御用がおありなのでしたら、こちらから伺いましたのに。私にどのような御用事でございましょう?」

 シェルフィアも驚いた。劇場主、ではこの穏やかそうに見える老婦人が、この名高いオーヴェリアの劇場の主人なのか。

 老婦人は穏やかに微笑んで首を振った。

「いいえ、用というほどのことはないの。ただ、ここを通りかかったら、お若いあなた方のお話が聞こえてきてね。声をおかけしようかとも思ったのだけど、お話をお邪魔しては申し訳ないし、迷っていたのよ。決して立ち聞きするつもりではなかったの。許してちょうだいね」

 いえ、ルアンは首を振った。

「とんでもございません。こちらこそ、お待たせするようなことをして申し訳ありませんでした」

「――そちらのお嬢さんは、カルヴェスの劇場の方かしら?シェルフィアさん?」

 老婦人はシェルフィアのほうを窺い見た。シェルフィアは頷いた。

「そうです。よく、お分かりになられましたね。私など、他所の劇場の舞姫の一人にすぎませんのに」

「あら、貴女の顔を知らない者なんて、王都ではほとんどいないでしょう?」

 老婦人はくすりと笑った。

「カルヴェスのシェルフィアといえば、王都では知らぬ者はいないほど有名な舞姫。貴女のような方にこんなところで会えるなんて私も運がいいわ。その幸運を神に感謝して、私から貴女に、この場で一つお願い事をしても宜しいかしら?」

「なんでしょうか?」

「貴女に、今日の最終公演で氷上舞を舞ってほしいのよ。サリの代わりとしてね。勿論、謝礼はきちんとお支払いするわ。お引き受けしてもらえないかしら?」

 あまりにも予期しない申し出だった。頼まれて、これ以上に嬉しいことはない。しかし、シェルフィアとしては老婦人の要請は辞退せざるをえなかった。

「有り難いお言葉でございますが、それはできかねます。私は本日、純粋に鑑賞を楽しむために参りました。舞の準備などしてきておりません。今すぐ舞えなどと仰られましても、ご希望には添えかねます」

「衣装や装身具はこちらでご用意いたします。シェルフィアさんのお好きなものをお好きなだけ使えるようにいたしますよ。靴も勿論、お貸しいたします。技師もおつけいたしますから、それで本番までになんとか調整ができないでしょうか?振りつけも、前と同じもので構いません。お客様がたはシェルフィアさんの舞が見られるというだけでお喜びになられますよ。なにしろほぼ一年ぶりの公演になるのですからね。とにかく舞ってさえいただけるのでしたら、満足なさらない方はいらっしゃらないはずです」

 できかねます、シェルフィアは声が震えるのが分かった。とても無理だ、今から最終公演までの時間で、氷上舞を完璧にこなせるだけの練習時間などとれるわけがない。靴だってない。他人の靴を付け焼刃で調整したのでは危険すぎて難しい跳躍など行えないだろう。跳躍や回転を全て排除すれば、あるいは可能になるかもしれなかったが、そんな単純な舞で、目の肥えたオーヴェリアの観客が満足できるわけがない。振りつけだって、そんなに急には思いつかないし思いついたところで練習できない。頭で考えただけで一度も試したことのない振りつけで公演を行うなど、自分にはできなかった。

「本当にどうにもならないの?」

 老婦人の口調は懇願するような響きをしていた。

「貴女も私の劇場のお客様がたの様子は拝見してくれたのでしょう?あれだけの方々が貴女の公演を楽しみにしてくださっていらっしゃるのよ。もしも貴女が、実は出演しないなどということになったら、あの方々はいったいどれほどに落胆するでしょうか」

 それは、とシェルフィアは反論しそうになったが、思わず言葉を呑み込んでいた。確かにシェルフィアとて、あの反応を一度見てしまえば無下には断りにくい。妹が死んで以来、あれほど大勢の観客に公演を望まれたことなどなかったのだから。舞えるものなら舞いたかった。

「ねえ、お願い。できる限り公演時間は遅らせますから、どうにか調整をつけてください」

「――分かりました。では、できる限りの努力はしてみます・・」

 シェルフィアは不承不承ながら頷いた。すると途端に老婦人は喜色を顔いっぱいに浮かべる。

「有り難う。では早速、練習ができるよう、必要な準備を手配してくるわね」

 老婦人は年齢に似合わぬ軽やかな足取りで廊下を立ち去っていった。それを見送ると、傍らのルアンが心配そうな表情でシェルフィアを見下ろしてくる。

「本当に大丈夫なのか?」

 シェルフィアは溜息をついた。

「無理でもあそこまで言われたらやるしかない。オーヴェリアのような大劇場の不興を買ったら、私のところみたいな小さな劇場はすぐにやっていけなくなる。そうなったら私は、今度こそ舞の世界にはいられなくなるから」

 シェルフィアは廊下の奥を見やった。すでに老婦人の姿はない。

「調整や練習に、どれだけの時間を使えるか分からないけど、やれるだけやるわ。去年と同じ振りつけでいいなら、動きは頭に入ってるし、たぶん、大丈夫だと思う」

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