公演
意外と小さな劇場なのだな。
男は辿り着いた劇場の正面に佇むと、まずじっくりと建物を見上げた。とても国内屈指の舞姫が所属している劇場とは思えなかった。
劇場の大きさは一般の住宅よりは多少ましという程度だった。高さも二階建ての住宅ほどしかない。両隣が他の建物に挟まれて、一見しただけでは奥行きが分からないため正確な広さは不明であるものの、正面がこれくらいの大きさであるならば客席の数は知れているだろう。立ち見を入れても観客数は数十人が限界。百人はおそらく入らないはずだ。
しかし彼が危惧していたような行列などは劇場前にはできていなかった。それどころか閑散としている。通り過ぎる人々も、特にこの劇場に関心を持った様子もなく街路を歩いていた。
この状況なら楽に入場できるかもしれないなと、彼は僅かに期待を込めて入口に進んだ。彼女の所属劇場なら、さんざん並ばされた挙句に満員で追い返されるという事態もありうると覚悟していたからだ。行列ができないというのは劇場にとっては憂鬱の種でも、観客にとっては有り難いことだ。
案の定、入場切符は簡単に買えた。切符には番号が書かれている。番号を見て、自分が買った切符が特別座席の切符であることに気づくと、さすがに彼は目を瞠った。
特別座席とは、舞台が最も見えやすい場所に設けられた座席のことだ。席ごとに番号が割り振られ、その番号が記された切符を買った客しか座ることができない。通常、観客が自由に席を選べる切符よりも高額で売られていて、数が限られていることからどこの劇場でも常連にしか売らない席だった。実際、彼の所属劇場ではそうしている。
その特別座席の切符が、初めてこの劇場を訪れた彼にも簡単に買うことができた、その事実が彼には驚きを誘った。しかも座席番号は三番。王立劇場なら劇場側が自ら招待した来賓でなければ座ることができないような特等席だ。特等席の切符など、常連でもそう簡単には手に入れられない。信じられなかった。
ふいに彼は、まさか彼女は公演に出ないのだろうかと不安になった。彼女が出ないのなら、劇場が閑散としていても不思議はないし、開演時刻が迫っても客の入りが悪ければ劇場の売り子は特等席の切符でも躊躇いなく売るだろう。しかしそれでは彼にとっては意味がなかった。彼が見たいのは無名の舞姫ではない。彼女の舞なのだから。
彼は劇場の売り子に声をかけた。まだ若い女性だった。片目に眼帯をしているが、そうでなければ舞姫でもやっていけそうなほど、可愛い顔立ちをしている。体型もいい。隻眼なら踊りはできないだろうが、彼女ならどういう振りつけが似合うかと、ついいつもの癖で考えてしまった。
「――ちょっと訊いてもいいかな。シェルフィアという舞姫は今日の公演には出ないのかな?」
女性の顔が引き攣った。勢いよく首を横に振る。
「お出になられません。彼女は最近、ずっと裏方のほうにおられますから。今日の主演も、リオラという舞姫が舞われるんです」
知らない名前だった。彼は正直落胆した。リオラという舞姫がどの程度の腕前かは分からないが、主演にもかかわらずこれだけ不人気で無名ならば、たいした舞姫ではないだろう。今日は舞姫の引き抜きに来たのではないのだ。彼女に会えないのなら、彼女の舞が見れないのなら意味がない。
しかし彼は前向きに考えてみることにした。今の彼女が舞姫でなく裏方作業に従事しているのなら、公演終了後に楽屋を訪ねることも可能になるはずだからだ。舞姫や歌姫ならそう簡単に観客は会えないし、自分が会いに行けば面倒なことになりかねないが、裏方なら訪ねるのは容易いだろう。
「――あの、シェルフィアでしたら、今日の前座の振りつけの担当をしておりますよ」
女性が遠慮がちに、しかし慌てて言葉を添えるように彼に語りかけてきた。落胆が意図しないままに彼の顔に出ていたのかもしれない。それを見て取って哀れんだのか、返金を懼れたのか、女性が言葉を紡いできた。
彼は驚いて、思わず訊き返した。
「前座の?彼女、振付師に転向したのか?」
女性は首を傾げた。
「ええと、今日だけ、ということなのだと思います。今朝になって、本来演技するはずだった奇術師が、事故で出演できなくなったという連絡をしてこられまして、急遽、見習いの舞姫だけで前座を演じることになったんです。それで彼女が急いで振りつけを考えて見習いを指導したのだそうですよ。見習いですが、彼女が他の舞姫の振りつけを担われるのは、今日が初めてのことですから、もしもお客様が彼女を御贔屓でしたら、前座の振りつけのほうが、お客様にはお楽しみいただけるかもしれません」
彼は女性の傍らの壁に貼られた、公演を広告するための紙に視線をやった。主演のリオラとかいう舞姫の絵の下のほうに小さく、前座として奇術師の名前がある。セラという名前には彼も覚えがあった。メイヴェスの劇場に所属している者で、所属劇場の定期公演以外は常に各地の劇場を回って演技をしているらしい。前座となっているが、それはおそらくこの劇場が舞踊のほうに力を入れているからなのだろう。奇術師としてはそれなりに有名な人物だった。炎を使った派手な奇術に定評のある人物で、各地に固定客も数多く抱えていると聞いたことがある。そういえば先日、彼はオーヴェリアで事故を起こしていたのだったなと男は思い出していた。男も彼の、華やかだが派手で激しい演技は見たことがあるから、彼の事故の報はそれほど奇妙に思ってはいなかったが、シェルフィアに続いて、あの彼が出ないとなれば、集客への影響は大きなものとなるだろう。なるほど、この閑散とした様子には納得がいった。
彼は女性に礼を言って客席のほうに向かった。女性は返金がなかったことで安堵したように、ごゆっくりお楽しみください、と告げて彼に一礼してくる。
客席も空席が目立った。先客が二名、いずれも特等席に腰かけて開演を待っている。彼も自分の番号の席に着席した。すると隣の男が彼のほうに視線を送ってくる。
「――あんたは誰が贔屓かい?」
前座ですよ、彼は応じた。すると男は哀れなものを見るような表情をしてくる。
「セラかい?そりゃあ残念だったな。セラは今日は事故で休演だそうだよ。まだ開演してないから、今なら金も返してもらえるんじゃないかい?」
彼は首を振ってみせた。
「そこまでするほどでもないですよ。どうせ時間は余ってますしね。それに、私の目当ては彼ではありませんから」
彼が断言すると、男は何かに得心したような顔になった。
「ならあんたも、やっぱりシェルフィアの振りつけが目当てかい?」
「そうですよ。あなたもそれが目当てでいらしたのですか?」
男は顔全体に肯定の笑みを湛えた。
「そうだよ、あのシェルフィアが初めて振付師として舞を構成したっていうんだ。これはもう見ておかないと損するってもんだろ」
彼も男に笑い返した。
「あなたはシェルフィアが贔屓なのですね」
「当たり前だろ。あれほどの舞姫、この辺で他にいるか?――ったく、くだらねえことしてくれた輩がいたもんだよ。ミレーシャは確かに可哀想だと俺も思うよ。けど、シェルフィアはそれとは何の関係もねえだろうが。それどころか、シェルフィアだって妹を喪って悲しんでるんじゃねえのかい?なのに、妙な野次なんか飛ばす連中のせいで、シェルフィアは表に出てこなくなっちまった。まだまだ若いのに、これからなのに、引退しちゃったらどうしてくれるんだよ・・」
なおも不平を口にしている男を見ていると、彼の心には安堵が芽生えてきた。なるほど、彼女もまだ、こうして応援してくれる観客を抱えているのだ。数は少なくても、この男のような存在が舞姫にとってどれほど有り難いものなのかは彼もよく分かる。
――自分もそうだったからな。
男もかつてはとして舞台で舞うことで生きていたのだ。しかし自宅の火災に巻き込まれて負った怪我のために引退を迫られ、振付師に転向することを余儀なくされた。男もそれで、一時は全てに絶望したことがあった。けど、今はかえってそれでよかったとすら思っている。彼には振付師として己の才能を発揮する機会があったからだ。そして、そんなことが可能になったのは、全ては彼にも、この男のような観客がいたからだった。ならば彼女も、やっていけるはずだ。
――なにも死に急ぐことなんて、ないじゃないか。
彼はそう思いながら静かに開演の時を待った。彼が着席してしばらくしてから、周囲や背後に僅かだが観客が入ってくる気配があった。いちいち振り返ることはしなかったが、数が少ないことは手に取るように分かった。開演時刻が来て、舞台袖で先ほどの売り子の女性が明瞭な発声で開演を告げてもなお、客席は空席のほうが多い。宣伝が行き渡らなかったのかもしれない、と彼は思った。セラの休演のことは早い段階で観客に告知することができても、シェルフィアが初めて振りつけを任されたことは充分に行き渡らなかったのではないか。だからこれほどに観客が少ないのだろう。多くの者は、シェルフィアもセラも出ないのならば劇場に行く意味がないと、考えているのかもしれない。
いよいよだな、と彼は舞台を注視した。
――さて、あなたの最初の振りつけ、楽しませてもらいますよ、シェルフィア。
前座に出てきた見習い舞姫たちの舞は、実に見事な出来だった。
見習い舞姫たちは、数えてみると二十人ほどはいた。三、四歳と思しき幼女から、十歳前後らしい少女まで、年端もいかない子供たちばかりが舞台で舞っている。衣装が揃っておらず、一人として同じ衣装は着ていなかった。いかにも急拵えの舞踏集団という感じがするが、舞の統一は見事にとれていた。全員の衣装が異なっていることも、かえってそれが華やかな彩りとなるよう計算されて舞姫が配置されているのが分かる。さほど高い技術を必要とする動きはなかったが、伸びやかな動きは実に生き生きとしていて、見ているほうまでもが思わず踊り出したくなるような楽しい振りつけだった。一日足らずで完成された振りつけだとは、言われていなければとても信じられなかっただろう。
そう思ったのは彼一人だけではなかったようだった。シェルフィアを贔屓にしているというあの男も、周りの他の観客たちも皆、実に楽しそうな顔で食い入るように舞台を眺めている。短い演技が終わると、無名の見習い舞姫しか出演していない舞台では異例ともいえる、観客が総立ちになっての拍手があった。再演を呼びかける声さえあり、求めに応じて見習い舞姫たちが再び同じ演技を繰り返すと、観客の満足とともに彼女たちは主演に舞台を明け渡した。
観客から拍手と歓声をもたらした見習い舞姫の前座とは対照的に、主演の舞台は実に退屈な代物だった。
決して演技が下手というわけではない。むしろ逆で、彼の目には、リオラという主演の舞姫の演技はなかなか見応えがあるものとして映っていた。主演を任されるだけのことはあると納得できる。それでも演技が退屈なものと感じられるのは、リオラの演技があからさまにオーヴェリアの公演を意識したものだからだろう。人気のある劇場の、人気のある舞姫の公演を模倣したものなら、自分も人気が出ると思ったのだろうか。それは無理だと彼は思った。そんな思惑はそう簡単には成功しない。まして手本にするのがオーヴェリアの公演なら。
――オーヴェリアの公演の真似をする気なら、追求するべきは舞姫の技能ではなくて劇場の広報戦略なんだけどな。
彼は舞台の主演に向けて心のなかでそう語りかけた。オーヴェリアの公演を自分の公演の参考にするなら、舞台の出演者の演技を模倣することには意味がない。むしろ出演者の演技は無視して劇場主の広報戦略や宣伝手法にこそ目を向け、それらを徹底的に研究するのが良かった。肝心なのはそこで、それを無視して出演者の演技だけを重点的に研究して模倣したのでは、観客が集まらないのは当然といえる。
――君に舞姫として成功したい思いがあるなら、オーヴェリアの真似事はやめて、君自身の思いを演技にしなさい。
彼はそう思いながら静かに舞台を鑑賞していた。鑑賞と呼べるほどに真剣に舞台を見ていたのはもはや彼しかいなかった。隣の男は主演が始まると座席で眠りだしたし、中にはつまらなかったのかそれとも最初からシェルフィアの振りつけだけが目当てだったのか、途中退席して帰る客の姿まで見られた。彼は主演の舞台も最後まで見たが、舞台が終わって彼が礼儀として拍手した頃には、起きて同じように拍手している観客は片手でも数えられるほどしかいなかった。しかもその全員の拍手に、明らかに儀礼的な響きが感じられた。
彼は主演が挨拶をして舞台袖に退くと、席を立った。舞台の下では、あの眼帯をした売り子の女性が、まばらにしかいない観客に向けて、今日の公演の終了と、来場してくれたことへの感謝を述べている。どの客も売り子の言葉など聞きもせず真っ先に出口へと向かっていたが、彼だけは一人、彼女の許へと歩み寄っていった。彼の用があるのは今からだ。まだ帰るわけにはいかない。




