セラの代わり
「――足に力が入りすぎてる。もっと力を抜いて」
シェルフィアが告げると、見習い舞姫の一人が当惑した表情で振り返ってきた。
「それだと、うまく回れません」
「軸足のことじゃないわよ。宙に浮いているほうの足。右足のほう。右脚にあまり力を入れすぎると引き攣って美しく見えない。もっと力を抜いて、軸足を信用して」
「でも、転倒したら怖いし・・」
なおも言い募る見習い舞姫にシェルフィアは首を振ってみせた。
「この振りつけでそんなこと心配してたら、あなたはいつまで経っても見習いのままでいなきゃいけなくなるわよ。演技中に怪我しても構わないといえるほどの覚悟を決めておかないと、この劇場ではとても主演なんて任せてもらえないから」
見習い舞姫は黙った。不承不承という感じでシェルフィアの言うとおりに脚に力を入れずに回転の練習を始めている。すると今度は宙に浮かせる右足に気を配りすぎているらしい。軸足に力が全然入っておらず、先ほどと比べて明らかに一回で回れる回転数が少なくなっているし、安定が悪くなっている。
シェルフィアは思わず内心で溜息をついた。見習い舞姫の様子からは、かつて子供の頃、ここで指導を受けていた頃の自分が思い出される。シェルフィアを指導したのは、この劇場主の、今は亡き夫人だったが、彼女は今のシェルフィアほど穏やかに指導する人ではなかった。シェルフィアが今の見習い舞姫のように指導者に意見などしていたら、彼女は必ずや口より先に手を出してきたことだろう。夫人は面倒見のいい女性で、早くに父母を亡くして孤児になった自分と妹を引き取って、両親の代わりにあれこれと世話をしてくれたが、かなり短気な人物でもあったのだ。妹の舞踊の能力が伸びなかった時も、見切りをつけるのは早かったし、問題があれば言葉で教え諭すよりも、すぐに体罰で懲らしめることのほうを選んできた。そのせいか妹は夫人を嫌っていて、生前は、よほどのことがない限り彼女に会おうとはしなかった。
――お姉ちゃんはすっごく人気があるんだから、さっさとあんな劇場、辞めちゃいなよ。他の、もっと大きな劇場に移籍しよう。お姉ちゃんならどこの劇場だって、喜んで受け入れてくれるはずなんだから。
妹はよくそう言っていた。シェルフィアは妹のその言葉にはいつも苦笑して頷いていたが、実際にシェルフィアが移籍のために具体的に行動したことはなかった。シェルフィアの所属劇場は決して規模の大きなところではないから、シェルフィアとてそれを考えたことがなかったわけでは勿論、ないが、移籍というのはそう簡単に実現する話ではないのだ。見習いのあいだならまだしも、いちど主演を任されるほどに重用されるようになると、劇場にとってシェルフィアは大事な商品になる。どこであっても自分の劇場に利益をもたらしてくれる出演者は簡単には手放さない。よって、劇場主を移籍に同意させるためには、高額の移籍金を支払う必要があるのだ。移籍が、出演者個人の希望でなく他の劇場の強い要請に基づく場合は、その劇場が移籍金を肩代わりしてくれるから事実上、出演者に負担はないのだが、残念ながらシェルフィアは、他所の劇場が高額の移籍金を支払ってでも、わざわざ引き抜きに来るような舞姫ではない。少なくとも、そういう話が来たことはなかった。
――けどそれで、良かったんだわ。
移籍なんかしなくて良かった。もしも移籍なんかして、どこか遠くの、他所の劇場に移ってしまっていたら、今頃自分は、指導者として劇場に残ることもできなかったかもしれない。そうなっていたら自分はいったいどうなっていたか。考えるのも恐ろしかった。シェルフィアは舞踊以外、ほとんど教育らしい教育を受けたことがない。かろうじて読み書きはできるものの、家事も全くできなかった。シェルフィアは育ての親でもある劇場主の夫人に、炊事や裁縫を行うことを厳しく禁じられてきたからだ。炊事も裁縫も刃物を使う。舞姫が怪我をしたら大事になるというのが彼女の言い分だった。
――シェルフィアは舞のお稽古にだけ専念していればいいの。貴女には才能があるんだから、そうしていれば必ず一流の舞姫になれるわ。人気のある舞姫になれれば、高い報酬が出るんだから、そのお金で使用人を雇って身の回りの世話をさせればいいの。家事なんか覚えなくていい。とにかく人気を得て有名になることだけを考えなさい。有名な舞姫なら、引退後も振付師や指導者としてやっていけるから。生活の心配なんか、生涯しなくてもよくなるのよ。
彼女はよくそう言っていた。それが正しい言い分だったのかどうかは今もシェルフィアには分からない。けど、おそらく間違っていたのだと、シェルフィアは思っている。彼女はシェルフィアがこういう理由で引退することになるとは想像もしてなかったはずだからだ。いまシェルフィアは確かに指導者として劇場にいるが、これはシェルフィアの実力による処遇というより劇場主の温情だろう。幼い頃から面倒を見てきたシェルフィアを放り出すほどに冷徹な人物ではなかったというだけのことに違いない。もしも移籍していて、他所の劇場に移った後だったら、これほど容易く指導者に立場を変えて、劇場に残っていくことはできなかったはずだ。そして劇場にいられなくなれば、家事もできないシェルフィアにできる仕事なんて、ほとんどない。
シェルフィアは稽古場の見習い舞姫たちに順に視線を向けていった。この稽古場は劇場の舞台裏にある。小さな劇場だから稽古場の数はそう幾つもない。見習い舞姫が練習している横で、主演の舞姫が新しい振りつけの調整を行うこともある。今はまだ見習い舞姫たちしかいないが、あともう少しすれば、夕方から始まる宵公演で、前座を務める奇術師と、彼の助手をすることになっている舞姫たちが、本番前の直前練習のために稽古場に入ってくるだろう。奇術師は練習を他人に見られることを嫌うから、それまでに退出できるように全員の稽古を終わらせなければならない。
見習い舞姫たちは誰もが皆、年端もいかない少女ばかりだ。幼女といったほうが正しいような年齢の子供たちも多い。いまシェルフィアが回転の仕方を指導した見習い舞姫も、まだ十歳にしかならなかった。舞姫たちが最も活躍できるのは十代の半ばから後半までなのだから、どうしても幼いうちから訓練を始めなければ使いものにはならないのだ。シェルフィアも、ここで練習を始めた時はまだ五歳だった。舞は体力を使うし、伸びやかで溌剌とした演技をしようと思えば、成長期にある十代のあいだに全てを出しきるしかない。シェルフィアももう十八で、何もなかったとしてもあと五年もすれば進退を決めなければならなくなっていただろう。引退した後の舞姫が辿る道は二つしかない。力のあるところを劇場主に見せつけて、振付師か指導者として劇場に残るか、どこかに夫を見つけて嫁入りするか、そのどちらかしかなかった。
「――失礼。稽古中に少し邪魔をするよ」
声と同時に稽古場の扉が開いて、見習い舞姫たちが少し騒いだ。しかしそれも束の間のことで、すぐに彼女たちも声の主が誰であるかを悟るときちんとした立礼をする。小さい子供たちまでもが、理想的な美しい姿勢で挨拶をした。この劇場は見習い舞姫に対しての躾が厳しい。不意の入室とはいえ劇場主に対していい加減な応対などすれば後でどんな罰を受けることになるか分かったものではないからだ。
シェルフィアも見習い舞姫たちに交じって、かつて彼の妻に徹底的に仕込まれた完璧な所作で劇場主に一礼した。
「このようなお見苦しいところにまで主人御自らのご足労、誠に申し訳なく存じます。劇場主ともあろう御方が、わざわざ私どものような卑しき舞姫の稽古場に、いったいどのようなご用事でございましょうか?」
「今宵の公演のことだ」
劇場主はかなり焦った感じで口を開いてきた。
「シェルフィア、急のことで悪いが、ここにいる見習い舞姫たちでも踊れるような、短い振りつけをすぐに考えてくれないか。そしてその振りつけで、見習い舞姫たちを今宵の公演の前座で舞わせてほしい。内容は全て君に任せる。自由にしてくれていい」
見習い舞姫たちがざわめいた。
「今宵の公演の前座とは、ずいぶん急なお話でございますね。今宵ならば、もうそれほど時間もございません。今から考えた振りつけとなると、いくら前座でもたいしたものはお披露目できませんが、それで宜しいのでしょうか?」
劇場主は頷いた。
「それでよい。前座の時間がなくなるよりはましだ。文句なら、直前になって来れないなどという連絡を寄越したセラに言うしかない」
「セラが?彼が前座に出られなくなったのですか?何かあったのですか?」
セラはメイヴェスという街の劇場に所属している奇術師だ。炎を使った奇術に定評がある。他所の劇場の人間だから、特別にお招きした招待出演者という形で定期的に来てもらっているのだ。かなり実力のある奇術師で、人気も高く、彼の演技だけが目当てで来る観客もいるほどなのだが、彼の見世物は非常に準備に時間がかかるため、どうしてもこの劇場では前座の扱いになってしまうのだ。
「オーヴェリアの劇場で、公演中に事故があって大怪我を負ったそうだ。今はあの街の病院にいるらしい。当分演技は無理だから今日は休演させてくれなどと、今頃になって報せを寄越して来おった」
劇場主は顔を顰めた。
「そういうわけだから、今夜の前座に彼は来ない。明日の公演は道化師が前座だから心配いらんだろうが、その道化師が今日じゅうにここに来るのは無理だ。あの男はディーダの劇場に所属しているからな」
ディーダはこの街から少し離れたところにある大きな都市だ。確かに、あそこにいるのならば今から出発したとしても今宵の公演に間に合うようにここに到着するのは不可能だろう。明日の宵公演だって、彼としては相当に無理な日程を組んだに違いないのだから。
「済まないが、宜しく頼むよ。シェルフィアなら、短時間でも見事な振りつけを思いつけるだろう。期待しているから」
言葉とは裏腹に劇場主はそれが当然だという顔をして稽古場を退出していった。シェルフィアはそんな彼を丁寧に一礼して見送った。口先だけでは期待に対する感謝を述べたが、内心では劇場主を罵倒していた。
――無茶苦茶なことを言わないでよ。今から宵公演まで、どれだけ時間が迫っていると思ってるのよ。