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サリ


 基地を出ると、シェルフィアはまっすぐに再びオーヴェリアへと戻った。

 劇場には用はない。シェルフィアがこの街へ戻ってきたのはある女性の居場所を探すためだ。シェルフィアにはどうしても話を聞き出さねばならない人物が存在していた。

 その人物とは、重傷を負ったシェルフィアの世話をしてくれた、あの看護の女性だ。シェルフィアはもはや、あの女性こそがルアンを刺した犯人に違いないと、直感していた。そうでなければ辻褄の合わないことが多すぎるからだ。

 女性兵士と会話を交わした限りでは、あの女性はルアンが刺されたあの事件について、何の証言もしていない。それどころか、あの女性兵士は捜査の責任者にも関わらず、あの女性の存在を知らなかった。このことは重大な意味を持つはずだ、とシェルフィアは思う。

 ルアンが刺される直前、あの女性はリセが来たことでいったん救護室を出ている。その後、彼女が廊下を立ち去っていく足音を、シェルフィアは聞いていない。つまり彼女は、自分たちが救護室で話している間じゅう、ずっと廊下にいた可能性が高いのだ。もし彼女が犯人でないのなら、彼女はルアンが刺された時、確実に廊下にいたはずだし、そうでなければおかしい。そして、廊下にいたなら、ルアンを刺した犯人を、彼女が目撃していても何の不思議もないのだ。そうでない場合は、彼女もまた、ルアン同様に刺されていたはずだろう。

 しかしそんなことはなかった。彼女はあれ以降、どこへともなく姿を消した。軍の兵士すらそんな女性がいたことを把握していない。ならば彼女こそが犯人で、逃げたのだ。その考えても、誤ってはいないはずだろう。

 あの日、シェルフィアは救護室で話していて、突然廊下で響いた音を確かに聞いた。誰かがどこかへ駆け去っていく音だった。その物音を聞いて、ルアンは廊下に飛び出していった。そしてその直後に彼は何者かに刺されたのだ。彼女が犯人でないなら、彼女はいったい、あの短時間のあいだに、足音も立てずにいったいどこに消えたというのか。

 シェルフィアは自分の推測に疑いを持ってはいなかったが、なぜあの女性がわざわざあの時にルアンを刺さねばならなかったのかについては見当もつかなかった。彼女の名前も知らないシェルフィアには、彼女がルアンを襲撃しなければならない理由など分かるはずもないが、たとえどれほどに深い恨みが、彼に対してあったにしても、何もあの場で刺さなくても良かったのではないか。いくらあそこが客間ではないといっても、劇場のなかは常に人目がある。人を襲うのに適した場所のはずもなく、恨みを持って襲ったのなら、なぜ彼の急所を狙わなかったのかも気になった。単にリセが駆けつけてくるのがあまりにも早かったので、あれ以上の攻撃ができなかっただけだろうか。

 いや、そうではないだろう。シェルフィアは自分で自分の考えに首を振った。たぶん、違うはずだ。なぜならリセは犯人を庇っているからだ。彼女が犯人の顔を見られたはずはないが、彼女が犯人を庇って虚偽の自白までした事実を見れば、彼女は犯人を知っている、もしくはほぼ間違いがないと言えるほどに確かな見当がついているのだ。ならば犯人がルアンにどんな恨みがあったにしろ、リセはそこまで知っていた可能性が高い。そこまで知られている相手に目撃されて、犯人として何か躊躇わねばならない必要があるのだろうか。知った人間に見られて焦ったにしても、目撃者が旧知の間柄なら急いで逃げても同じだとは思わなかったのだろうか。それならばこの機会に止めを刺しておこうとしても、不思議はないように思うが。

 シェルフィアは自分の疑問を弄びながらオーヴェリアの街を徘徊し、さてどうすればあの女性の行き先を探せるだろうかと思いを巡らせた。いちおう、あの兵士に女性のことは伝えてきたが、すでに事件当日から日が経っている以上、たとえ軍でもそうそうすぐに見つけられるとは思えない。軍に警戒されていなければ逃げるのは容易い。一日もあれば馬車を何台も乗り継いで、けっこう遠くまで行けてしまう。

 とりあえず劇場の近くで道行く者にそれとなく訊いてはみたが、案の定というべきか、そんな安易な方法では巧くいかなかった。事件から日が経っているというのに、今さら劇場の近くで通行人を問い質しても、いい答えなど返ってくるはずがない。

 それどころか、シェルフィアのほうが逆に問い質されることすらあった。通りすがりの中年の婦人は、シェルフィアが声をかけると逆に目を輝かせてシェルフィアを問い質してくる。

「あら、あなたひょっとしてカルヴェスのシェルフィアじゃない?氷上舞の有名な」

「えー?そんなわけないでしょ。だってシェルフィアはこのところ舞台に出てないって聞いたよ。そんな人が今頃こんなところを歩いてるわけないって」

 単刀直入に身元を当てられて、冷やりとした。オーヴェリアの人間に、自分が彼女のことを探っていることを知られたら、警戒されてどうなるか分からないからだ。彼女がルアンを襲ったのが、もしも自分が推測した通りなら、このことが劇場の、万一にもあの老婦人に知られたら面倒になるどころでは済まなくなるかもしれない。

 だからシェルフィアは自分がシェルフィアであることに懐疑的な、婦人の娘らしい若い女性に、必死になって彼女の言葉のほうが正しいのだと訴えた。婦人に人違いだと必死に訴えると、その甲斐あってか婦人は残念そうな顔で去っていった。婦人もその娘も、あの女性のことは何も知らないと答えてきた。

 一気に疲れた気分でシェルフィアが再び街路をあてもなく歩き出すと、ほどなくして再度後ろから声をかけられた。シェルフィアはげんなりした。まさか、またあの婦人のような者が現れたのだろうか、と。

 しかしシェルフィアが振り返ってみると、その想像は外れた。シェルフィアの背後にあってシェルフィアに呼びかけていたのは、シェルフィアの顔見知りだったのだ。

「シェルフィア、久しぶり」

 彼女はシェルフィアに微笑みかけてきた。僅かに左足を引きずるようにして近づいてくる彼女に、シェルフィアは驚いて駆け寄った。

「サリ、どうしてこんなところにいるの?サリは動いても大丈夫なの?」

 サリは頷いてシェルフィアを見上げてきた。それから人差し指を自らの口に当て、自分のことは内緒にしてほしいと身振りで告げてくる。シェルフィアは慌てて口を閉じた。彼女も有名人だ。こんなところで身元が知られたら、騒ぎになるだろう。

 それにしてもなぜ、怪我をして療養中のはずのサリが、こんなところにいるのだろう。


「こんなところでシェルフィアに会えるなんて思わなかった。嬉しい。本当に久しぶりよね」

 劇場から少し離れたところにある喫茶店で、シェルフィアはサリと向き合っていた。そこで改めてシェルフィアはサリの様子を眺めてみる。

 サリはいたって健康そうだった。ここに来るまでの道中、シェルフィアが見た限りではサリは終始、左足を引きずるようにして歩いていて、怪我をしたのは事実のようだったが、それ以外ではとても元気そうだった。怪我で演技ができなくなるというのは舞姫として致命的なことであり、特に彼女が得意とする氷上舞のように演じられる期間がある程度に限られてくるような舞を主要演目としている舞姫は、ほんのわずかな期間だけでも演技が途絶えると大事になる。しかし彼女にそのことを気にした様子はなかった。シェルフィアがそのことを怪訝に思っていると、彼女のほうから笑って答えてくれる。自分は移籍するつもりだから、怪我で休演になったのはいい機会だった、と。

 シェルフィアは驚いた。

「移籍って、どこの劇場に移籍するの?まさか、何かオーヴェリアにはいられなくなるようなことでもあったの?」

 サリは首は振らなかったが非常に曖昧な表情を浮かべた。シェルフィアの推測は当たっているけれど少し外れている、そう答えているように見える。

「そういうわけじゃないかな。けど、シェルフィアの推測は少し当たってる。私、もうオーヴェリアにいるの、怖くなっちゃったから」

 サリはシェルフィアに顔を近づけて、内緒話をするように声を潜めてきた。

「噂、聞いたよ。大変だったね。公演中に大怪我したって」

 シェルフィアは得心した。

「私、その話を聞いて、決心したの。もうオーヴェリアは離れようって。だって怖いもの。氷上舞は普通の舞台と違う、全ての方向に観客席があるじゃない?楽姫席の後ろだけは、氷上から少し離れてるけど、それ以外は全部、舞台のすぐ傍が客席だから、どこから何を投げられてもおかしくないってことでしょ?もし刃物を投げられたのが私だったらって思うと生きた心地がしない。だったら今、怪我のせいで休演状態が続いているこの時に、自然消滅の形で劇場を離れて移籍しようと思ってるの。氷上舞を続けるのは難しくなるかもしれないけど、いちおう、続けられるところがないかどうか探してみるし、無理なら、いっそ完全に現役を離れてルアンさまみたいな振付師を目指してもいいかな。そしたらカルヴェスの劇場に行って、シェルフィアの振りつけを作れるかもしれないし」

 途中からサリの口調は夢を語るようなうっとりとしたものに変わっていた。そんなサリに、シェルフィアは冷静に声をかけてみる。

「劇場主に、もう移籍の許可は貰ってあるの?」

 劇場の専属舞姫は劇場主の許可なく勝手に他所に移籍することができない。そのことを指摘して許可はとっているのかと訊ねると、途端にサリは残念そうな表情をした。

「まだ。何度言っても慰留されて終わり。慰留されるのは有り難いけどさ。私から辞めたいって言ってるんだから辞めさせてくれたっていいとは思わない?だからこうしてずっと足を引きずってるのに」

 シェルフィアは怪訝に思った。

「――サリ、あなた、足はもう完治してるの?」

「治ってるよ。もともと転んだ拍子にちょっと捻っただけだもん。捻挫っていうほど大袈裟なものでもないし。けど最初、どうしても痛みがとれなかったから大事をとって休演にしてもらっただけ。けど私の足の痛みがいつまでもとれなくて、私がずっと舞姫として使い物にならない状態が続けば、劇場主も嫌気がさして私を慰留するの諦めるでしょ。そうなるの待ってるの」

 サリはけろりとした口調でそう言った。秘め事を語るようにシェルフィアの耳に口を寄せた彼女の言葉は、おそらくシェルフィアにしか届かなかっただろう。

「――オーヴェリアみたいな劇場って、きっとこの国のどこを探しても、他には絶対にないよね」

 サリの表情が、初めて深刻な出来事を語るように暗く沈んだ。

「変な事故は続くし、たいして巧くもない舞姫がいきなり主演とかするし、売り子でもないのに歌姫や舞姫が門前で呼び込みとかさセラれるしさ。それだけでも嫌なのに、いちばん最悪なのはあれよ、あの祭り。観客に買われた絵姿の数に応じて舞台の配役が決まるっていう、あの祭り。あれこそ最悪よ」

 サリは本当に嫌そうに顔を顰めた。シェルフィアもこれには同意して頷いた。彼女の批判はもっともだろう。

 オーヴェリアでは観客を飽きさせないようにするという名目のもと、毎月のように様々な祭事が催されているが、最も風変わりなのはこの催しだった。劇場の売り場の一隅に歌姫や舞姫の絵姿が売られた売店があるが、この売店で売られた絵姿の数は出演者ごとに公表される。最も多く売れた者が、最も人気のある者だとして、毎月行われる定期公演の主演を務めるのだ。そのため、歌も舞も未熟な見習いが突然主演を務めることも、毎回配役が変わることもあり、これは出演者にとって大きな負担になっていた。歌については名手でも、舞については素人の歌姫にいきなり今回は舞姫を務めろとされても、巧くできるはずがない。そして巧くできなければそれは出演者にとって人気の低下に繋がる。サリの不満は当然だった。

 しかし劇場主のほうはこの祭事でかなりの利益を上げているのではないかとシェルフィアは疑っている。観客のなかでも裕福な者は自分が贔屓している歌姫や舞姫を主演にした舞台が見たいと、一人でかなり大量に絵姿を購入する者もいるからだ。絵姿はそれなりによくできた美しいものではあるものの、印刷物であり手描きのものではない。よって一度にかなり大量に作れるため、この祭事があるのとないのとではおそらく、劇場の一月の収益に大きな差があるだろう。

「せめてあの祭りさえなくなってくれれば、私だってもうちょっとくらいオーヴェリアにいたっていいのにって思うのになあ。そしたらミレーシャだって、ひょっとしたら死なずに済んだかもしれないのに」

 意外な名前が急に出てきた。シェルフィアは首を傾げた。

「――どうしてあの祭りがあるかどうかが、ミレーシャの死に関係してくるの?」

 シェルフィアもサリに合わせて声を潜めた。ミレーシャに関することには、シェルフィアとて慎重にならざるをえない。

 するとサリは意外そうな顔でシェルフィアを見つめてきた。

「あれ?シェルフィアはひょっとして聞いてないの?ミレーシャがどうしてあの海岸に行ったのか?」

「それなら聞いてるわ。リセさんが、今度の公演で海に関する歌曲を歌うから、どうしても海鳴りの音が聞きたくて、海沿いまで案内しに行ったんだって」

 するとサリは、違うよお、と首を振った。

「ミレーシャはねえ、偽救出劇の英雄になろうとしてたのよ。地元の人に金を払って頼み込んでさ、海に落ちて溺れたふりをしてもらって、自分で助けて自作自演の英雄になる。そして人気を得ようと画策してたわけ。リセのことは劇場を、休暇をとって外出するための単なる口実よ。そしたら巧くいかなくて、その地元の人と一緒に本当に溺れてしまったのね」

 シェルフィアの全身に衝撃があった。気がついた時には立ち上がってサリに抗議していた。

「そんな!嘘よ!リュイフィアはそんなことしない!」

 辺りが沈黙に包まれた。サリはなんとなく気まずそうな表情で周囲を窺う。それから徐にシェルフィアの上着の裾を引いた。それでシェルフィアは我に返った。周囲の客や喫茶店の給仕たちがこちらを窺っている。突然に大声を上げた自分に驚いたのか、誰もがシェルフィアを咎めるような視線を向けていた。

 シェルフィアは彼らに目線で詫びながら静かに着席した。周囲に再び、喫茶店らしい喧騒が戻る。

 サリは再び声を潜めて話しかけてきた。

「――嘘だと思いたいシェルフィアの気持ちは私もよく分かるけど、けど、本当のことだよ。そのはず。だってリセのお母さんがそう言ったもの。リセに海鳴りを聞かせるためというのは事実だけど本当に単なる口実だったって。少なくともミレーシャは最初からそのつもりだったようだって」

「リセの、お母さん?」

 シェルフィアが訊ねると、サリは頷いた。

「そう。リセはお母さんも劇場で働いてるんだよ。救護室で看護をしてるの。怪我をした舞姫の、看病とかしてくれる人だから、シェルフィアも会ったことあるんじゃない?」

 シェルフィアは息を呑んだ。救護室の、看護係が、リセの母親。

「もっとも今は休職してるらしいけどね。ルアンさまが襲われた事件が自分のすぐ目の前で起こって、怖くなったからって。そのまま戻ってきてないらしいし、ひょっとしたらこのまま辞めるかも。たぶんそうなるんじゃないかなあ。だってリセなんでしょ?捕まったの」

 シェルフィアは肯定も否定もしなかった。

「娘があんなことして捕まったんじゃあ、母親はいられないよ。あそこ、身内の不祥事で降格されることもあるんだもん。看護は必需の仕事じゃないし、代わりはいくらでもいるしね」

 違う。逃げたのだ。その言葉を、シェルフィアはかろうじて呑み込んだ。あまり不用意に喋りまわらないほうがいい。彼女が犯人であることが広まれば広まるほど、彼女は警戒してより遠くまで逃げてしまうかもしれない。

 だがあの女性の正体を知ったことでシェルフィアには憤りが込み上げてきた。

 ――選りに選って母親が、娘を身代わりにして逃げ出すだなんて。


 リセは劇場からほど近い街なかに、母子で二人暮らしをしていた。

 自宅は平屋建ての借家だった。それほどに広くはないが、なかなかに洒落た外観をしている。築年数も新しそうだ。オーヴェリアは大きな街だから、この場所でこれくらいの規模の借家を借りようと思ったら、賃料は決して安くはないだろう。

 リセの自宅の場所はサリに教えてもらった。リセは歌姫でサリは舞姫だが、二人は割と親しく行き来していたらしい。サリはもともとこの近辺の生まれだが、リセのほうは彼女の母親が全盲の娘の負担にならないようにと彼女の所属する劇場の近所に、わざわざ越してきたらしい。自宅が近所だから、よく行き来していたのだと、彼女は言った。

 その自宅にシェルフィアはサリと二人で訪ねにきた。今頃、あの女性が自宅にいるなどとはシェルフィアも思っていなかったが、それでも家を訪ねれば何某かの手がかりが見つかるかもしれないと、わざわざ訪ねてきたのだ。彼女を見つけ、彼女を出頭させることこそが、リセが自由になるための最大の近道なのだから。

「留守かなあ・・」

 入口の扉をいくら叩いても何の応答もないことに、サリは首を傾げた。

「休職中なんだから、家にいるはずなのに。買い物にでも出てるのかな」

 一人呟くサリを後目に、シェルフィアは門から建物の入口に続く小道から逸れて、庭に足を踏み入れた。庭に面した窓から、中を覗いてみる。少なくとも外から見える範囲では、家のなかは無人だった。庭伝いに借家の様子をぐるりと見て回っても、そのことは変わらない。居間らしい部屋も、寝室らしい部屋も、浴室らしい部屋も、全てが生活感をそのまま残した状態で放置されている。

 それでシェルフィアとサリはいったん無人の借家を離れ、隣家を訪ねた。隣に住んでいる者を訪ねてきたのだが、行き先に心当たりはないか、と訪ねてみる。

 案の定、隣家の住人は知らないと答えてきた。しかしこの家の住人は実に親切な人間で、隣の人の行き先なら、斜向かいのお婆さんが何か知っているかもしれないと教えてくれる。

「隣の小母さん、名前はちょっと忘れたけど、娘さんがすごい美人でね」

 隣人はそう言って笑った。

「どっかの劇場で、主演をしてるぐらい有名な歌姫らしいんだよ。娘さん、目も見えてないのに、すごいなと思ってね。私は歌には興味ないけど、意外に思ったからよく覚えてる」

 その娘さんを、斜向かいのお婆さんはけっこう贔屓にしてるんだよ、と付け加えてきた。

「娘の固定客だからだと思うけど、隣の小母さんはけっこうあのお婆さんと頻繁に挨拶とかしていてね。だからひょっとしたら、あのお婆さんなら何か聞いてるかもしれないよ」

 シェルフィアもサリも、隣人に礼を言ってその家に向かった。幸運なことに当のお婆さんは在宅していた。しかも、お婆さんが言うには、彼女はメイヴェス基地に行ったかもしれないと。

「リセさんの義眼の調子が悪くなったとか言ってたからねえ。昨日だったかな。慌てた感じでこのへんを走ってるのを見たよ。何を焦ってるのさと訊いたら、そう答えてきたんだ」

 老女は何の疑問も持っていなさそうな表情でそう答えてきた。義眼や義足、義手などはだいたい軍事基地所属の技師が作るものだからだ。そもそもそれらを用いる機会が誰よりも多いのは戦に出なければならない兵士たちなのだから、それらに関する知識も技術も基地に集中している。専任の技師もたいていは基地におり、街なかで開業している普通の医者では概ね義眼も義手も作れない。だから兵士でなくてもそういった義眼や義手が必要な身体になった者は基地を頼ることが多かった。

 しかしシェルフィアにとっては違っていた。彼女がこの時期にメイヴェス基地に向かったことが単なる用事であるはずがなかった。ルアンを刺し、逃亡中のはずの彼女が、好き好んで軍事基地などに近づくはずがない。まさか今さらリセに面会しに行ったわけではないだろう。今の彼女が基地に近づくことは自らが捕まる危険を高めるだけのことだ。少なくとも本人はそう考えているはずで、そうでないのなら、最初から逃げたりはしないはずだ。

 シェルフィアには彼女がなぜメイヴェス基地などに向かったのか分からなかった。しかし、彼女がメイヴェス基地に向かった可能性があるのなら、シェルフィアとしてはそこに向かってみるしかない。彼女を捕まえるためには、彼女が行ったかもしれない場所は残らず行ってみる必要があるのだ。

 シェルフィアは、老女に礼を言って彼女の家を辞去すると、すぐに街路に出て馬車を探した。昨日までいた、メイヴェス基地まで行く馬車を探すために。

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