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謎の男

 ――リュイフィア、もうすぐ、私もそっちに行くから。

 シェルフィアは崖下を見下ろした。足下の遥か下の岩場に白波が打ち寄せているのが見える。波打ち際まではかなりの高さがあった。ここから飛び降りたら確実に死ぬだろう。

 恐怖心は欠片もなかった。怖いなどとは思えない。死ぬかもしれないという状況に際して恐怖心を抱くのは、現世にまだ未練を残しているからだろう。まだ生きたい、まだ死にたくないという思いこそが、死を恐ろしいものとするのだ。自分はもう生きたいとは思っていない。だから恐怖心など浮かんでくる道理もない。

 にもかかわらず、竦んだように足が地面から離れてくれないのはなぜだろうか。

 シェルフィアがこの場所に佇んでからすでに少し時が経っていた。飛び下りる覚悟はとうにできているのに、足がなかなか思うように地面を離れてくれないからだ。これが生存への本能かと思う。生命を失いかねない行為に対しては無意識のうちに抵抗するよう、身体ができているのかと。

 シェルフィアはそんな自分に苛立った。こんなことなら酒でも飲んでくるんだと思った。酒を飲み、酩酊すれば理性が低下する。そうなっていればきっと、その場の勢いだけで飛べただろう。

「そんなに死にたいのだったら、背を押してやろうか?」

 ふいに声が聞こえた。シェルフィアはなんとなくぎくりとして、思わず振り返ってしまった。

 自分の背後に、いつの間にか一人の男が佇んでいる。

 見知らぬ顔だった。むろんシェルフィアの知り合いではない。おおかた、この付近に住んでいる者か、偶然に通りかかった者だろう。シェルフィアを見かけて、からかってみただけに違いない。

 シェルフィアはなんとなく憤慨した。これから自分が本当に死のうとしているなど、この男が知るはずもないが、死にたいのなら自分が死なせてやるなどという発言は、なんとなく、自分の生命を玩具のように弄ばれたみたいで、面白くなかった。

 シェルフィアは口先だけで嘲笑してみせた。

「――できるんだったらお願いしたいわね。いっとくけど、ここ、いつ誰が来るか分からないわよ。私を突き落としたところを誰かに見られたら、あなたの人生は終わりよね」

 男はシェルフィアの意識的な挑発にも眉を顰めた様子は見せなかった。無表情にこちらを見つめている。

 シェルフィアがいるのは断崖の縁だった。男がいる場所との間には、いちおう転落防止用の柵が築かれている。柵は旅人が誤って海に落ちるのを防止するために設けられているものだ。この断崖は見事な眺望で、絵描きなどがよく写生に訪れる。眺望を楽しみにわざわざ迂回する旅人も決して少なくはなく、だから彼らが不用意に断崖に近づいても安全が保たれるようにこの辺りを管轄とする役所が設置したのだろう。もう二度と、あんな事故は起きてほしくないだろうから。しかし身投げを決意した人間には意味のない柵だ。柵の高さは低い。乗り越えるのは容易い。

 今はシェルフィアの身近には、この名も知れぬ男以外に人影がない。しかしこの場所は元々人通りが多いのだ。たとえ今は人影が絶えていても、いつ誰が来てもおかしくはなく、もしもこの男が本当に自分を突き落として、その瞬間を偶然来ていた旅人か誰かが目撃していたら、この男は一瞬で殺人犯になる。自分にとっては良くても、彼にとっては最悪だ。そんなことができるはずはない。やれるものならやってみればいい。どうせこういって嘲笑ってやれば、すぐに男は逃げ去っていくだろう。ひょっとしたら巡視の兵士でも呼んでくるつもりかもしれないが、その頃には自分はこの世の者ではなくなっている。構いはしなかった。

 ところが、意外なことに男はシェルフィアのほうに手を伸ばしてきた。シェルフィアは驚いた。咄嗟に身を強張らせてしまう。まさかこいつ、本当に自分を突き落とす気か――。

 本当に殺されてしまうかもしれない。ふいに走った恐怖に、声も出せずにいると、男の手が自分の肩に触れた。シェルフィアは反射的に悲鳴を発しようとしたが、それより早く、別の場所から大きな声が聞こえてくる。

「あんたたち、そんなところで何やってんだ!あんまし縁まで寄ると、危ないぞ!」

 シェルフィアは思わずそちらを振り返った。男もそちらに視線を向けた。

 シェルフィアの視線の先には、中年というよりも初老に近づいた、年嵩の男がいた。片手に画材らしきものを携えて、こちらに歩み寄ってきている。写生に来た絵描きか何かだろう。

 シェルフィアの肩に触れていた男は、その絵描きに微笑んでみせた。

「承知していますよ。今もそう言い聞かせていたところです。妹がどうしても崖下を見たいといって柵を乗り越えてしまってね、止めていたところなんですよ」

 誰が妹だ。シェルフィアは思わず内心で毒づいたが、それと同時にふわりと自分の身体が抱え上げられる感触がして、息を呑んだ。

 一瞬は冷やりとしたが、すぐに足が地面について、思わずシェルフィアは安堵の息を吐いてしまった。男が自分を抱えて、柵の内側にまで戻したのだとはすぐに分かった。それから男は、いかにも兄が悪戯をした妹を叱るような仕草で軽くシェルフィアの額を小突いてくる。

「――君一人が死んでもこの世は何も変わらないよ」

 男はシェルフィアの耳元でそう囁いてきた。シェルフィアにしか聞こえないほどの小声に、思わずシェルフィアは男を見上げてしまう。男の表情は本当にシェルフィアを窘めているように見えた。シェルフィアに兄はいないが、もしも本当にいたらこんな表情を向けてくるかもしれない、という、そんな表情に見える。男がシェルフィアの素性を知らず、シェルフィアの体面を守るために咄嗟についた嘘だというのに、シェルフィアはなんとなくそう思ってしまった。あの絵描きは、男の言動から男の言葉を信じたのか、今ではシェルフィアらに興味をなくしたかのように写生の準備を始めている。

「――死ぬのは、やめなさい」

 男が穏やかな口調でそう諭してきて、シェルフィアは彼の本心を悟った。なるほど、彼は最初からそのつもりでいたのだろう。シェルフィアを挑発したのも、彼の本意ではなかったのかもしれない。自分という目撃者がいることを教え、シェルフィアを思い留まらせるつもりで、わざと挑発してみせたのだろうか。

 男はシェルフィアの耳元に口を寄せてきた。先ほどまでよりもさらに男の口が近づいて、男の息が自分の耳に入ってくるのではないかという錯覚さえ感じられる。シェルフィアは思わず震えた。

 男の声が、シェルフィアの耳朶を震わせる。

「君が死んだら、レーヴェラーダが喜ぶだけだよ」

 え、シェルフィアは首を傾げた。しかし男は構わず言葉を続けてくる。

「妹さんの無念は、君が晴らしてあげなさい」

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