三
「じゃじゃーん。押入れの奥底から、なんと! 浴衣を引っぱり出してきちゃったぞー!」
まだ夕方というには明るい午後のこと。
淡いピンクの浴衣を小脇にかかえ、ジュンは蔵六に笑顔をむけた。
「はいっ、蔵六ちゃん! これ着なよ! サイズ合うー?」
「何故着替える必要がある?」
ピンとこない様子で蔵六が首をかしげる。
ウェーブのかかった髪がさらりと流れた。
「これから神社のお祭りにいくぜー! ってわけだから、やっぱ美少女は浴衣を着なくちゃでしょ」
蔵六の体が、こわばるのがわかった。
「俺はいかない」
「んぇ? だって、さっき……」
「いかぬといったらいかぬ! バカ騒ぎがしたくば、お前一人でいくことだ!」
ジュンは戸惑う。あの言葉は聞き違いだったのか。
もしそうだとしても、こんなに強く拒絶されるなんて思ってもいなかった。
「あー、ちょっとその言葉はキツイッス。ヘコみますんで……。ねー。そ、そんなに怒らなくたっていーじゃ……」
ジュンはすっと腕を伸ばして、蔵六の手に触れる。
バチッと容赦なく指に走る、あの痛み。
結界に弾かれた。
「蔵六……って、本当わけわかんねーよね」
手を放さないまま、ジュンは低い声でつぶやく。
「難しい言葉をいっぱい使うし、怪しい縄とか持ってるし、正体は陰険オバケ野郎だし」
一言ごとに、増していく結界の抵抗。
「同じ制服着てたって、やっぱり違う世界の人なんだなって、思いしらされる」
結界の反発が強い。
少しでも気を抜けば、痛みにひるんで腕を放してしまいそうだ。
「そばにいるのに遠くて、わからなくて。でも、せっかく会えたアンタのこと、しりたいと思う。理解できないままで、放り投げたくない」
蔵六の瞳が、ふっとジュンからそれた。
視線をはずされたと同時に、結界の反撃による痛みが消える。
腕をつかんでいたはずの手応えも。
「ッテメ! そんなのずりぃぞ! こるぁ!」
実体を持つ少女は消え去って、代わりに霊体の古風な青年がいた。術を解除したようだ。
こうなってしまえば、もはやジュンの手では、触れることさえもできない。
『これが本来の俺の姿だ。まあ、これも人間用に合わせた容姿だがな』
「人間用に合わせた? って、それじゃ……。ん? アンタ、人間ですらなかったわけ?」
『どうした? 魂があるのは、人間だけの特権だと思っていたか?』
「はぁ? そ、そんなこと、しってるし! 小さい時から、ちゃんと日本昔話とか読んでたし! ああ、うん。たしかツルがお嫁さんになって、恩返しとかしてたよね。そ、そう」
高くなった視点が、ジュンを見下ろす。
他者を拒絶する、ひねくれた目。
『俺を理解したいか。過去にも、似たようなことをいわれた覚えがある。そいつはてんでイカレた奴で、殺し合いこそが魂の至高の交流などとのたまわっていた』
蔵六の武骨な右手に鬼火がつどう。
『すぐにこの手で殺してやったがな。そうしたところで、奴の魂を理解できたとは、少しも思えん。しる価値もない』
青白い炎が燃え尽きた後には、一振りの太刀があった。
「……誰かを殺したの?」
蔵六は口の端をゆがめた。
笑っているようにも、怒っているようにも見える。
『何百というほど。人も。獣も。神と呼ばれる者すらも。かくいう俺も、かつてそう呼ばれていた時期があった。淵の主だと祀られ……』
「あーっ! わかったぁー!」
唐突にジュンが発した緊張感のない大声に、蔵六は顔をしかめた。
「ははーん。だからにぎやかなお神輿見て、ついすねちゃったというわけかー! 昔は自分も神さまだったから!」
『すね……っ。違う! うかつに他の神の領域にふみ入り、面倒を起こしたくなかっただけだ!』
「でも、なんで元神さまが、そんな殺すの殺さないのだの、ブッソー的なことしてんの?」
ジュンはちらりと蔵六の刀を見る。
お飾りの美術品ではないことは、女子高生でもわかる。
「んと……。天罰? 悪い奴らをやっつけたとか?」
『そんなご立派な大儀などあるものか』
失笑。
『俺は数多の呪いを背負った、醜くおぞましい怨霊でしかないのだからな』
それに続くように、自嘲。
『蠱毒、という呪法に聞き覚えはあるか? あるわけもないか……。無知なお前に』
「ありますけど?」
蔵六が片眉を上げた。
『一人きりでいることではないぞ』
「えっと……。虫とかの生き物を集めて、閉じこめて、殺し合わせる。最後まで残った奴が最強! ……でしょ?」
『……』
「そういう危なくて怖い知識がのってる本をこの間、読んだし。まー、図書館のオカルトコーナーにあるような安っぽい本だけど」
『そうか、そうか。偉い、偉い。ほめてやる。お前が自発的に知識を得ようとは。思いがけぬことだ』
「少しは本を読んだ方が良いって、アンタがいった。そうかもな、って私も思った。アンタが使う言葉の意味とかがちゃんとわからないことが多くて、それがなんか……嫌だったから」
『自分の愚かさに嫌気がさしたか』
「しりたかったからに決まってる。私の身近にいる、危なくて怖い奴のことを少しでも」
『ほう。それは。厄介者を追い払う算段でも……』
「あーっ! くどっ! まわりくどっ! 過剰防衛なのは考えものだって、前にもいっただろうが! もっと素直に言葉を受け取りなよ」
互いに、視線をぶつけ合う。
「難題とトラップふっかけて、挑戦者を試す殺戮古代遺跡みたいなマネは、もうやめようよー。本当に人を寄せつけたくないならともかく、アンタの場合はそうじゃないじゃん」
『触媒風情が、ずいぶんとしった口をきく』
「呪いを背負った醜くおぞましい怨霊だって、アンタは自分でいった。暴露した。そういうマイナスの情報はフツー隠す。口調の感じからして、ビビらせて私を脅そうってわけでもなさそう」
船越ジュンは平凡で目立たない女子高生。
クラスで平穏に生きるには、それなりの洞察力が必要なのだ。
「だったら、可能性としては一つじゃん? 悪いところをふくめて、自分を受け入れる人を求めてる、とか」
『笑わせる』
「アンタは……。スカートから、見えそうで見えないパンツ!」
ジュンの唐突な発言に、蔵六は反射的に行動した。
『くっ! 屈辱だ……。お、思わず太ももを押さえてしまったじゃないか。この、俺が……。サカキの蔵六とあろうものが……。なんだこれ、恥ずかしい……』
「そうだよ。アンタは、ミニスカ女子高生の見えそうで見えないパンツみたいな奴だよ! 超恥ずかしいよ! 心の奥底まで触れてほしいのかほしくないのか、人の目の前でスカートをチラッチラさせて、ドキドキびくびくしながら、相手の反応を待ってる、女子高生のパンツみたいな奴だ! えっ、なんかそれ超エロい光景じゃね!? これは目を離せませんなー」
『やめろ、バカ! 今すぐ口を閉じろ! 恥ずかしいから!』
「そんな風に、目の前でチラチラさせられたら、どうしたって見たくなるじゃん!」
蔵六の制止はむなしく、ジュンの言葉はとまらない。
「無愛想で偉そうでひねくれ者で。そんな奴が、部屋のホコリに触ってくしゃみしてさー、本当に穏やかに笑ったりしてさー。太陽の光をあびたいなんて、無邪気すぎる願望を持ってたり。かき氷食べただけで、涙が出るぐらい喜んだりとか……」
稚拙だった。
「ここのところずっと考えてた。どうしてそう気難しいのか、とか。なんでここでそう反応をするのか、とか。アンタが笑ったり怒ったりするのは、なぜなんだろう、とか……」
バカみたいなぐらいに、わかりやすい言葉だった。
「目の前で……そんな顔見せられたら……、もっとよくしりたいと思っちゃうじゃんか……」
蔵六がぽつりぽつりと語り出す。
『俺は蠱毒の生き残りだ。お前がいった通り、集められ、閉じこめられて、さあ今から殺し合え、というわけだ』
「はい。大事な質問。蔵六の正体って、人じゃなくて虫なの?」
『……爬虫類……の一種』
「えっ。じゃあ虫を食べるの!?」
『……お前が本気でしりたかったのは、生前の俺の食生活か?』
「ごめんなさいっ、ごめんなさいっ。ちゃんと聞きます」
『……かつての俺は、深山の淵に宿る水神だった。といっても、別にたいした力があるでなし。閉ざされた小さな世界で、良い気になっていた半端者だ』
深山の淵になんてジュンは一度もいったことがないが、最大限の想像力で思い描いてみる。
青い着物姿でただ一人、そこにいる蔵六の姿も。
『神獣の霊魂を使役し傀儡とする、忌わしい一族がいた。あの時の俺はまだ未熟で、奴らは老獪だった。……まあ、それは無様につかまったさ。放りこまれたのは、特殊な結界がはられた空間の中。脱出は不可能。俺と同じようにとらえられた雑多な小神どもが、ひしめき合っている』
ジュンには、想像するのも難しい世界。
『それからは地獄のはじまりだ。ロクデナシが互いに邪悪さを切磋琢磨する。一年だろうか。十年だろうか。それとももっとか……。時間の感覚はとうにマヒしている。そこで自分以外のクズをとにかく潰していったら、最後に俺が残った。最も浅ましく、残虐で、臆病だったクズが』
暴力に満ちた世界。
悪意は凝縮されていき、膨大な数の敗者をふみつけて、一人の強者が生き残る。
だが、その勝利は実りあるものではない。
『檜扇の一族は、蟲毒作りを生業とする呪術師の集団だ。奴らは、この新しく作り上げた完成品を利用しようとしたが……、失敗した』
口の端をゆがめ、さも愉快そうに蔵六は歯をチラつかける。
『奴らが軟弱だったのか。ためこんだ諸々の呪いが強大になりすぎたのか。まあ、どちらにせよ、自分より強い蠱毒を作ってしまい、制御不可能に陥るような術師は三流だな。呪術の壺から解き放たれた俺は、術者の制御を受けつけなかった。奴らがお膳立てした修羅の世界で身につけた力。とくと披露してやった』
鬼火が禍々しくゆらぐ。
『あの時はなんと清々したことか。気が晴れた』
「それじゃアンタが倒したのって、悪の一族だったんじゃん。……そんなら、蔵六は悪くないよ」
『さあ……。お前の中では、悪人を殺した者は悪ではないという道理なのか? ふむ、新鮮だ。そういう考え方もあるのか。ならばもし俺を滅する者がいれば、ずいぶんな罪滅ぼしになるのだろうな』
皮肉。ではなく、本当に意外だったらしい。
自分のうすっぺらい善悪観をつきつけられたようで、ジュンは口を閉ざした。
『俺のつかの間の自由は、そう長くは続かなかった。檜扇には、術者の命令をきかぬ失敗作を処分するための緊急策があったらしい。無の壺、とかいったか。俺はまた別の結界空間に封じられた。今度は他に誰もいない。何もない闇の中に、一人きりだった』
「それで……」
『それで、死んだ』
「いやー。そんなまたあっさりと一言で片づけちゃって……」
『外界からへだてられ、一条の光もささぬ無人の牢獄で、俺がじわじわと弱り苦しみ、凋落していく様を、たっぷりの比喩と感嘆詞を用いて、延々と語ってほしいのか』
「遠慮します」
『そうだな。お前はそんなもの、しらなくて良い』
しばしの沈黙。
『俺は生きたい』
「うん」
『暴虐も謀略もなく、飢えや乾きもない。なんの不安もなく、穏やかな気持ちで太陽の光をあびる。そんな平凡な日常が、俺はほしくてほしくてたまらない』
「すごせば良いよ」
ジュンには異能の才も特別な境遇もないが、のどかな生活だけは持っていた。
「えーと。私が触媒? だと、女の子の体になっちゃうから、嫌かもしれないけど。それでも気にしないならさ」
非日常のかたまりのような亡霊に、わけ与えられるだけの日常はあった。
街路樹の緑を感じ、早朝の市街地の空気を肺に取りこみ、太陽の光をあびる。
そんなありふれた毎日を二人で思い切り堪能する。
女子高生の姿の亡霊と友だちでいるのが、だんだんとジュンの生活の一部になっていき。
学校帰りの寄り道なんていう、ありきたりな行為の中にも幸せはあって。
「こういう純和風な甘味処って、今まで入ったことなかったけどさ。きて良かったねー」
「ああ。なかなか落ち着く」
こういうちょっとしたお出かけが、楽しくてたまらない。
和風の出で立ちに身を包んだ黒髪の女店員が、くるくると小気味良く働いている。
「うひゃぁー。ここのお店の制服可愛いよっ!」
「騒々しいぞ。行儀良くしろ」
「はーい」
ジュンは出されたお茶に口をつける。
「あ。このお茶、美味しいね。ほほーう。コーヒー党の私をうならせるなんて、こりゃ只者のお茶じゃねぇ。なかなかやるぜ」
「お前がいつも飲んでいるのは、半分以上が牛の乳で薄まっている珈琲だろうに」
そうこうしている内に、注文の品がテーブルに運ばれてきた。
あんみつなんてスーパーやコンビニにだって置いてあるが、こういう甘味処で風情のある器に品良く盛られると、特別な気持ちになる。
「ずっと不思議に思ってたんだけど。あんみつに入ってるこの緑とピンクのお餅みたいなのって、なんなんだろうね? 世界七不思議の一つだわー」
「求肥」
「おー、さすがに蔵六ちゃんはものしりだね。しかし、これが牛から作られてるとは……。とても信じられないや。和菓子の世界って、奥深いんだね」
「勝手に奥深くするんじゃないの」
ジュンは少し驚いて、蔵六の顔をしげしげと見つめた。
「……何?」
「や。さっきのいい方がね。言葉がやーらかかったというか。お姉さんぽかったっていうか。すんごく可愛らしかったのですが……」
そう指摘すると、蔵六はあっという間に耳まで赤くなった。
「そ、んなことはない! ……と思うのだが。あまりバカなことをいって、からかうな」
「ううん。すごく可愛かった。優しいお姉さんって感じでさ。ところで面倒見が良くて優しい美人のお姉ちゃーん。ジュンちゃんに、そのサクランボくれないかなー?」
「は? なんだその図々しく一方的な要求は。望みがあるのなら、それなりの対価を用意するべきだ。これがほしくば、そっちの白玉か求肥を一つ寄こせ」
かくて交換は無事に成立した。
「いやー、毎日楽しいねー。こんなに満ち足りてて良いのかと思うぐらい、楽しいよ」
店を出て帰り道。
二人で交わすのは、とりとめのない会話。
「来週。数学の小テストがあると嘆いていなかったか」
「ぎゃーっ! 忘れたいことを思い出させないでよ! はー、またテスト前日に徹夜でコーヒー飲むはめになるのかなー。私ねー、普段はカフェオレなんだけど、ビシッと気合入れたい時だけはブラック飲むんだ。大人じゃない?」
少し堅苦しいような、マジメな着こなしのセーラー服。
ふわりとウェーブのかかった、神秘的な灰緑の髪。
スタスタとよどみなく進む細い脚。
当たり前の光景の中、ジュンの目の前で、突如その姿が消えた。
ジュンが何が起きたのかも理解できないでいるうちに、しらない少女の声がした。
「よもや若い娘の姿に化けているとは……。なんと狡猾な」
何も考えないまま、ジュンはふりむく。
アスファルト道路の真っ直ぐな白い線の上にたたずむ、現実離れした和装の少女。
オカッパ頭に着物姿のシルエット。
何よりも異彩を放つのは、彼女がまとう色だった。
衣服も、毛髪も、その瞳さえ、左右の半身で漆黒と純白にきっちりとわかれている。
いまだに呆然とするジュンに、その少女は明るい調子で話しかけてきた。
「いやはや! 危ないところでございましたね!」
異質な見た目に似合わない、気さくで柔和な態度で。
「申し遅れました。私は、檜扇の天曽木という者です」
まじり気のない、善意100%の爽快な笑顔で。
「私、世にあだなす悪霊を払い、行脚の旅をしております。あ、いや、怪しい者ではありません。本当です。あなたさまが、性質の悪い物の怪につかれておいでのようでしたので……。いえいえ! お礼にはおよびませんとも!」
無邪気で朗々とした声が、ジュンの脳髄を引き裂いて。
「ああっ、そんな目で見ないでください! 私、危ない人じゃないですよう! あ、壺は持ってますけど。誓って、誓って! 善良な一般人の方に、壺を高額で売りつけたりなどはいたしませんので!」
元から無気力な頭は、もはや思考することを放棄した。
「? あの、おケガはございませんか? 何やら、顔色がすぐれないご様子ですが……」
ふつりと意識がとぎれる。
ジュンが目覚めた場所は、見なれた自分の部屋だった。
「う……」
おぼつかない頭で、現状を把握していく。
いつの間にやら、パジャマ代わりにしているスポーツウェアに着せかえられていた。
着ていたはずの夏もののセーラー服は、丁寧にハンガーにかけられている。
「……母さんが、着替えさせてくれたのかな」
周囲の雑音がやけに大きく聞こえる。
自分一人しかいない部屋が、これほど静かだなんて、ずっと忘れていた。
玄関の方から、聞きなれない声がした。
「とんでもない! お礼など結構です! 私は単なる通りすがりですから」
「っ!」
反射的に立ち上がる。
上手く動かない体を叱咤して、転びそうになりながら玄関へ突進した。
玄関にいたのは、母と例の少女。
同じようにびっくりした顔で、騒々しく現れたジュンを見る。
「あ。良かった。気がつきましたね。もう起きて大丈夫なんですか?」
「まだ寝てなきゃダメでしょ。後で麦茶でも持っていくから、部屋にいなさい」
肩でぜいぜいと息をしながらも、ジュンは休む気などなかった。
「急に倒れたので心配したんですよ。あんな事態でしたので、身元確認のために生徒手帳を見させていただきました。救急車を呼ぼうかとも思ったのですが、ご自宅の近くでしたので、担いでお運びいたしました。あ。お礼とか感謝の言葉とか全然いりませんから! こう見えても、体力には自信があるのです」
一向にゆるがないジュンの敵意に満ちた視線に、檜扇の名を語った少女は、おどおどとこう尋ねた。
「あの、えーと……。私めが、何かまずいことでも、しでかしたでしょうか?」
「問題大ありだ! アホガッパ!」