一
白い線から、はみ出してはいけない。
学校の最寄り駅からの朝の通学路。道の端の白い部分だけをたどって、船越ジュンは学校にいく。
いつも通り、遅刻すれすれの時間帯。道を歩く制服姿はジュンだけだ。
昇降口の下駄箱にくたびれたローファーを放りこむ。
ラベルに印刷された自分の名前。
ジュンの場所は棚の下から二番目で、出し入れがとても不便だ。
自分で選んだわけではないのに、この場所を使うように決められている。
だからといって、決まりをおかして別の場所にクツを放りこもうとは、これっぽっちも思わない。
教室のドアを開ければ、決まりきった顔ぶれで。今日もクラスは平常運転。
パズルのピースをぱちりとはめこむように、ジュンは自分の席に座った。
いてもいなくても同じな船越としての一日が、今日も始まる。
船越ジュンは多くを望まない。
クラス一の人気者になろうとも思わないし、勉強やスポーツで注目されたいとも感じない。
ジュンの望みはただ一つ。失敗したくない。それだけだ。
そんなささやかな思春期の願いさえ、世界はそう簡単には許してはくれない。
数学の宿題の答えは?
苦手な親戚が家にきた際、どうするべきか?
この文章を英訳すると?
こっそりタバコを吸ってる不良男子と目が合ってしまった時の、もっとも適切な反応は?
塩分濃度が5%の食塩水を2L作りたい場合、何gの塩を入れるのか?
問題は山積みで、次から次へとやってきて、ジュンを困らせる。
拘束時間がすぎたら、すみやかに帰宅するのが船越スタイル。
「つかれたー」
ジュンはこの言葉と親密だ。
ジュンに日直日誌を書かせると、今日はつかれたとか、つかれる一日だったとか、そんなやる気のない文字が「今日の一言」欄に残される。
ふとうつむくと、ジュンの足は白線の上にあった。無意識にいつもの遊びをしていたようだ。
白線から、はみ出してはいけない。ふみはずせば地獄が待ち受けている。
空想遊びの中では、黒い部分は魔物がいる底なし沼ということになっていた。真夏には溶岩の海にもなる。白いライン以外は危険地帯なのだ。
「本当、つかれる」
ジュンはぽんと自分から白線を蹴って、沼の中へ、溶岩の中へ、軽やかにダイブした。
なんとなく、今日は地獄に落ちたい気分だったから。
部屋着にしているのは、薄手のスポーツウェアだった。帰宅したら即座に着替える。別に運動好きなわけではなく、通気性が良くて快適だからだ。
寝転がりながらすする紙パックのコーヒー牛乳は、至福の味がする。
『まったく。怠惰な奴だ』
夏のにわか雨よりも突然に。
シンプルで現代的なジュンの領域に、異様な何かが侵食した。古風な貫禄をただよわせる気配。空気がどろりと重くなる。
無数の小さな影が、天井を、壁を、家具の上を、なめるように移動する。
それはまるで動くシミ。シミが集まり、人の形を作っていく。
この上なく濃く暗く深いシミの一滴を取りこんで、ついにその姿が完成した。周囲には、おどろおどろしい鬼火が盛大に燃えている。
既存の言葉で表現するなら、幽霊、といったところだろうか。
それもずいぶん悪そうな感じの。
『貴重な生命力を浪費している。自分の愚かさに気づくのは、いつのことやら』
着ているものは和服だろうか。青系統の色彩で統一されている。
クセの強い髪は波打って、ところどころうねっている。緑がかった灰色だった。男にしてはけっこう長い。
鋭い目は、刀の切っ先に青白い月を映した冷たさで。人相はめちゃくちゃ悪い。時代劇なら、絶対に悪役側だ。
『いや、もはや自分がいかに恵まれていたかをしることもなかろう。光栄に思うが良い。お前は俺に選ばれた。ようやく見つけた逸材だ。お前が秘めたその力、存分に使わせてもらおうか』
「んぁっ、選ばれた? 逸材? 秘めたる力?」
ジュンは、突如部屋に現れた幽霊の言葉をくり返す。
無気力な魂が、少しだけ熱くなるのを感じた。
「あー、なるほど、りょーかい! つまりぃ、この船越ジュンには特別な能力があって、それを頼ってアンタが現れたってことかー!」
『それはない』
ばっさり否定。
『俺が求めているのは余剰な生命力だ』
人間は脳でも筋肉でも、本来発揮できる力の少ししか使っていない。
それは有名な話だが、船越ジュンはその上やる気も本気も半分だって使わずに生きてきた。実に低燃費でエコロジーな人生である。
『そのムダな力を有効活用してやろうといっているのだ。お前の力を触媒として、俺の仮そめの実体を現世に顕在させる』
「へー。……! んだとぉ、こるぁ! 体を乗っ取るつもりか、この時代劇幽霊男!」
『お前の体を? 冗談じゃない。安心しろ。それには多大な労力がいる』
「あ、そうなんだー」
『生きている人間の体を乗っ取るのは難しい。抵抗が大きすぎるのだ。まともに体を動かそうと思えば、互いの魂を受け入れる必要があるからな。俺はそんな手間はかけん。お前の意志などしったことか。もっと別の方法を使う』
「はぁあ? なんだそりゃ! 横暴、最悪! ちょっとタイム……! んっ? むぐ……、ぐぐ!」
『耳障りだ。甲高い声で騒ぐな』
奇妙な呪符を編みこんだ縄が、意志を持った生き物のように部屋の四隅をはう。
ジュンの体は一切縛られていないのに、どういうわけか身動きができない。声も出ない。
『縄を用いた結界術だ。一時的にこの空間を支配させてもらった』
古代の亡霊は和服の懐に手を入れた。取り出したのは鏡だ。円形で、表面が水のようにゆらめいている。
『古来より、鏡は呪物として珍重されてきた』
青年が鏡でジュンの姿をとらえた。ふわっとしたショートヘアに、気の抜けた顔の十六歳が映っている。
『鏡の魔力はその性質にある。鏡の性質とは反射、投影、そして……吸魂』
不気味な風が吹き荒れる。亡霊の灰髪がバサバサと暴れた。
邪悪な気配を放つ帯状の何かが、ギチギチとその体躯に巻きつく。よくよく見れば、それは奇怪な文字がびっしり書かれた細長い和紙である。
男の体をおおった呪符は、青い炎に焼かれて燃え尽きていった。
不気味な炎をまといながら、一つの肉体が完成していく。
「ククク……。血肉をまとうのは久方ぶり……、ッ?」
自らが発した声に戸惑ったのか。実体化した亡霊は、あわてふためき口に手を当てた。
その手さえも、白く繊細な指だった。
「な……、なぜだ! ありえぬ! この俺が、術を仕損じるなど……」
だぶついた着物が、細い肩からすべり落ちていく。
唖然とした表情で、亡霊は自身の変化を観察した。
その姿は、どこから見ても、クールではかなげでミステリアスな美少女だった。
「失敗、した? いや、術式に間違いはなかったはず……。問題があるならば、それは触媒!」
美少女は振り返り、キッとジュンを睨みつけた。
今やうら若き乙女となった亡霊が、怨讐の叫びをあげる。
「お前ぇええッ! 女だったのか!」
「はぁ? そうですけどぉ? 現役女子高生なんですけどぉ?」
船越ジュンは十六歳。
自堕落な日々を送る無気力系女子高生だ。
「最悪だ」
不機嫌な顔で、ぼやく亡霊。
呆然とした表情で、細い腕を見ている。
「なんという非力な……。こんな脆弱な肉体では、自分の身も満足に守れないではないか」
「気に入らないなら、さっさと元に戻ればいーじゃん。戻れないの?」
「そうするのは、たやすい。だが……」
亡霊は実体化した我が身を見た。
デザインは気に入らないけれど、内容的には必要なものを見るような目で。
「どーせ、せっかくゲットした体を手放すのは惜しいとか考えてるんだべ?」
ジュンが少女であることぐらい、しばらく観察していればわかることだ。
見た目はボーイッシュで、とても女の子らしいとはいえないが、別に男装しているわけでもない。制服だって、ごく普通のセーラー服だ。
もっとも、部屋着でだらけている姿だけ見たら、男子だと誤解するかもしれないが。
以上のことをふまえて、ジュンなりに推測してみる。
つまり、この亡霊は部屋にいるジュンを発見して、すぐに実体化の儀式をとりおこなった。
「んー。逸材? とかいってたっけ?」
思いついたことをなんでもポンポン口に出す。
「ひょっとして私って、超レア存在だったり? うわ、それって地味にすごくね?」
「自慢できるものでもなかろう。……希少という点は認めるがな」
そういって、灰髪の少女は苦々しく顔をしかめる。
「わかんないなー。そんなに必死になってまで体を得てさー、アンタ何がしたいの? 私なんかは毎日適当に学校いって、寝てるだけだよ」
亡霊のとった、慎重さに欠ける早急な行動。そこには余裕が感じられない。あるのは焦燥と飢え。体を持つことへの、強烈な願望。
「体を手に入れてやりたいこと……、世界征服とか?」
ため息が返ってきた。
「……生き直すため。息づく大地を感じ、清浄な空気を肺に取りこみ、今一度太陽の光をあびる。ただそのために」
悪人じみた本来の姿には似合わない、ずいぶん無欲な願いだった。
生きてる者なら誰だって、当たり前にしていること。
「なら、その姿でもOKじゃん」
「心得ておけ。これはあくまで他に適した触媒が見つかるまでの、暫定的な処置でしかない」
「あー。はいはい。不本意アピールはもうわかったって」
セーラー服姿でいくらそんなことをいっても、まったく威厳がない。
元亡霊だった少女は、ジュンの制服を参考に呪符縄を変化させて服を作った。
「そうだ、まだアンタの名前聞いてない。私はねー、船越ジュンってーの」
「……俺は淵を統べる者」
「縁ですべる者?」
ジュンのボケはスルーされた。
「人間は、俺をサカキの蔵六と呼んでいた」
ブッフワァーッ、とジュンが盛大に噴いた。
「にゅふっ! 蔵六ちゃんだって! やだー、もー、こんなキレイなお顔して、蔵六ちゃんだってー! 受けるんですけど!」
「バカが。一人で笑っていれば良い」
蔵六はセーラー服のリボンをきゅっと結んだ。
「へー。案外似合うね」
「似合わぬ。それに……、脚がじかにさらされるのが……気に入らない」
そういって、不満げにスカートを軽くつまむ。
白い太ももが、ほんの一瞬だけあらわになった。
「蔵六ちゃんは文句が多いなぁー。それじゃ、これでもはいとく? ほれ」
ジュンは衣装箪笥をごそごそあさり、新品の黒タイツを見つけ出す。
パッケージのまま、ぽいっと投げる。
「これを俺にどうしろというのだ」
「あー。女子高生になった古代のオバケは、一人でタイツをはくこともできない」
ジュンはあきれと優越感の混ざった顔で、ピリッとビニールの封を切る。
匂い立つ真新しい化学繊維の香り。柔らかですべすべした手触り。
爪先部分だけ残して、長いタイツをたぐり寄せ手の中にまとめていく。
「これ夏用のじゃないから、ちょっと暑いかもよ? 平気?」
返事はなかった。蔵六は真剣にジュンの手元を見つめている。
「んじゃ、そこのイスに座って」
蔵六が腰を下ろす。スカートをどう扱って良いのかわからないようで、何度も座り直していた。
落ち着いたところで、ジュンがそのそばにしゃがむ。
「まず爪先からはいていくんだよー。ちゃんと生地が脚にフィットするよう、気ぃつけるよーに」
「ん」
白い足が、くるぶしまで黒い人工繊維に包まれた。
「で、生地を破かないよう気をつけながら、少しずつ持ち上げてく。両脚で交互にね」
「そうもたやすくに破れるものなのか。それでは身を守る効果は、期待できそうにないな」
「まー、足の冷えとパンチラからは守ってくれるし」
タイツはまだ脚の途中で止まっている。
黒い生地から、本当にごくうっすらと、色白の肌がすけて見える。
「後は、その……引き上げれば完成!」
蔵六は脚甲を装備する武者のように淡々と、黒タイツをはいた。
「おい。これで良いのか」
声をかけられて、ジュンは改めて蔵六を見た。
タイツはちゃんとはけたらしい。すらりとした脚だ。
形の良い唇は、少しだけ不機嫌そうにツンととがっている。
刃の鋭さを宿していた目は、繊細なまつ毛で飾られた。井戸よりも底しれない瞳は、キレイな青灰色をしているけれど、ずっとのぞきこんでいると心を吸われそうな怖さがある。
近づきがたいほどに神秘的な少女だ。
素材と過程と名前からは、とても想像できない。
ジュンにまじまじと凝視され、セーラー服を着た亡霊は落ち着かない様子で再度尋ねる。
「どう……、なんだ?」
「うん。まあ、フツーに? カワイイんじゃないでしょーかー」
フツーにカワイイなどという次元ではなかった。
妖艶。それも、どこか青い危うさを残した魅力。白い柔肌は、見ているだけで体の奥がぞくぞくしてくる。
この震えは、すぐ近くにオバケがいるせいだ、とジュンは自分にいい聞かせた。
「……これは本格的につかれることになったかもなー」
「ふむ」
蔵六は、昼ドラに出てくる性格の悪い姑のように、本棚をつうと指でなぞった。
細い指を汚したホコリを感慨深げに見つめている。あまりにも熱心なものだから、ホコリを吸ってしまったのだろう。くしゅん、と小さなくしゃみ。
「この手で再び世界に触れられる。そのことを俺は本当に嬉しく思う」
くしゃみをごまかすような軽い咳払いをした後、蔵六は心から穏やかな顔でそういった。
意外だ。
蔵六がこんな風に笑えるとは、ジュンは少しも思っていなかった。
なんとなくだが、この世の全てを恨んでいる不機嫌で気難しい怨霊、というイメージだった。
蔵六はドアの木目を丹念に観賞し、ゆれるカーテンの動きに心奪われている。この世の何もかもが目新しくて仕方がない、といった様子で。
大人びた少女の姿をしているくせに、この無垢さはまるで童女だ。
その無防備な様子に、ジュンのイタズラ心がくすぐられた。
後ろからこっそり回りこんで、ほっぺをむにゅっと引っぱってやろうか。
気配を殺して忍び寄る。
ほっぺをちょっとつまもうと思っただけなのだ。
無邪気に伸ばした手に、あびせられたのは苛烈な拒絶。不可知の結界にはじかれる。
「んぎゃっ!? ったーい、あたー……」
予期せぬ痛みに、ジュンはぶんぶん手を振り回す。
「なんなんだよう、もー。ほほ笑ましースキンシップをしようとしただけなのにー」
手痛い仕打ちに涙目で抗議する。
「う、後ろからいきなり近寄るからだ!」
結界に守られた当人は、どこぞの凄腕スナイパーみたいないいわけをして、謝ろうともしない。
おろおろした挙動を見れば、本心では気まずく思っているのは一目瞭然なのだが。
ジュンはもうほとんど痛みの引いた指をそっと隠して、演技じみた悲鳴をあげた。
「ひいぃっ、大変だ! 指がとれかけてるー!」
「ッ!」
こんな猿芝居に、蔵六は本気で狼狽した。
……もしかして、そうなってもおかしくはない威力だったのだろうか。なんてことを一瞬考えて、ジュンは冷や汗を流す。
「はいはい、ウッソー」
定番の親指がとれる手品をしてみせる。手品というより、小ネタの域だが。
「へい、旦那。あんまり過剰防衛なのも考えものですぜ」
そういってジュンは五本の指で、唖然としている蔵六の頬を正面からふにゅっとつまんだ。