マン・イーター
生ぬるい風が吹く夜の公園で二つの光条が徘徊している。
光条の源は懐中電灯を持った二人の人間。青い制服を着てそれぞれホルダーにピストルと手錠を帯びた彼らはこの自然公園を所轄とする警察署の警官だった。
「だぁ~~あっつい~~!!」
「コラッ桃原! いくら暑いからって巡回の最中に胸元まで晒す奴があるか! だらしない姿を市民に見られたらどうするんだ!」
桜木は暑さに負けてこっそりボタンを外そうとする後輩を叱り付けた。この小太りで童顔の青年は桜木の5つ下の後輩なのだが、気を抜くとこうしてダラしなくしたり仕事をサボったりする困った部下でもあった。
「でも桜木先輩~。例の"噛み付き魔"は独りになった若い女の子を襲ってるんでしょう? そんなご時勢にこんな暗い公園を歩いてる人なんていやしませんよ。回るだけ無駄無駄っ! 犯人は絶対こんな蒸し暑い公園じゃなくてクーラーの効いた涼しい所に隠れてますよ」
「お前、そんな根性でどうやって県警の面接を通ったんだ……」
「面接ですか? 山ほど嘘をついたんですよ」
ゲンナリした様子の桜木に対して悪びれた風も無く桃原は言った。
二人は最近この地区で頻発している連続通り魔事件――遭遇した若い女性の腕や腹などを歯で食いちぎることから犯人は通称噛み付き魔とよばれる――の警戒のためにこの公園をパトロールしている。
現代っ子の悪い部分を体現した桃原と違い、桜木は正義感が強くて根っからの体育会系という警官の鑑のような人間だ。普段一緒に仕事することが多いだけにこういったすれ違いはしょっちゅうだったが桃原の生来の気質のおかげで不思議と険悪なムードになることはなかった。
その後も二人は雑談をしながらやたらと広くて木が多い公園を一通り巡回する。この自然公園は夜になるとその生い茂った木々のせいで酷く視界が悪い。
「むむ、僕の妖怪アンテナが反応している。すごい妖気ですよ、父さん!」
「誰が目玉のオヤジだ。普通に人の気配がするって言え」
なんとか桜木にもわかるネタだった。桃原は普段からこんな風にアニメや漫画の引用を使うことがあるが大抵の場合最近の物なので桜木がついていけない事の方が多い。
電灯を構えて足音のする方に向けると、公園の出口――駅の方向から千鳥足の女性が歩いてきた。
「訂正します。すごい美人です、父さん!」
妙な興奮を示す桃原を放って桜木は女性に近づいた。女性は顔を赤らめてかなり泥酔した様子だったが確かに美人といえる顔立ちだった。
「もしもし、大丈夫ですか?」
「あ~~! ヒック……お巡りさんだぁ。い、ぬ、の~! おまわりしゃん!」
「大丈夫じゃなさそうッスね」
頷きあうと桃原と桜木は彼女を傍のベンチに座らせる。通り魔の捜査はともかく酔っ払いの介抱には慣れている。
「もしもし、あなたのお名前は?」
「山吹未来でぇ~す! 21歳、特技はお酒の一気飲みです! ……ヒック!」
「へぇ~、みくちゃんって言うんだ。僕は桃原将太。奇遇だね、僕もお酒が大好きなんだ。みくちゃん、今日はどんなお酒飲んだの?」
「えっと、最初にビールを一気して、カシスオレンジとロックを二杯飲んだ後マッコリとバクハイを頼んだらノノちゃんに怒られて……」
桃原が聞き出す隣で桜木はこの女性についての情報をメモに取った。
「最近の女の子にしてはよく飲むなぁ。気に入ったよ、今度僕と思いっきり飲みにいかない?」
「ええ~? おじさん太ってるから嫌だぁ。そっちのムキムキのおじさんがいい~」
「……僕はまだ24だ」
「お前、太ってる方は気にしないのか」
その後も二人は山吹にあれやこれやと質問しようとしたが住所と家族の有無を聞いた所で彼女の返事は眠気のためか段々と尻すぼみになっていく。
一人で帰れるようには見えずしかしこのままここで寝かせてやるわけにもいかないので、とりあえず交番まで連れて行く事になった。
「とりあえず一時間見て駄目だったら保護室に入れておこう」
「僕、この仕事に就職するまで泥酔して入れられるのは留置所だと思っていました」
二人は交互に山吹に肩を貸しながら、かならず片方が後ろから懐中電灯を照らしながら歩いた。通り魔対策というのもあるが、彼女が嘔吐しようとした時にしがみつかれてもすぐに引き剥がせるようにというのが主な理由だった。
公園は相変わらず暗く、時折彼女が足をもつれさせるためやたらと時間がかかったがそれでも20分も歩けば終わりは見えてくる。
ようやく木々の遊歩道を抜けて街の灯りが見えてきた辺りで突如、三人の前に矮躯の男が林から飛び出して桜木を突き飛ばした。
「そ、そそ、その女を置いてけ! 置いて出て行ケェーー!!」
「うわぁ!」
矮躯の男が奇声を上げると桃原が悲鳴を上げて、桜木はすぐさま立ち上がって山吹を下げて警棒を抜いた。
「警察だ! そこの男、動くな!」
警棒を振って牽制するが男は全く動じた様子が無い。あくまで山吹にのみ意識を集中している。
男の顔は暗くてよく見えなかったが、黄ばんだ乱杭歯と唇の端からこぼれた涎がまるで妖怪のような恐ろしい印象を与えていた。
「ににに、肉だぁ! 肉だ肉だ肉だ肉だ! あ、ああ! うああああああアアアアアアアア!!」
「せ、先輩! こいつおかしいです! 絶対ジャンキーですよ!」
「桃原、威嚇射撃だ!」
桃原は指示通りピストルを抜いて上空に発砲する。普通の人間ならこれで怯むか戦意を失うはずだが、矮躯の男の反応は桜木の予想より遥かに激しかった。
なんと男はピストルの音がした瞬間地面に顔をこすり付けるように低く伏せるとそのまま猟犬のように桃原に襲い掛かったのだ。
「ヒィッ!! コイツ、腕に……ぐ、ぎゃああああああああ!」
右腕に噛み付かれた桃原が悲鳴をあげて男を引き剥がそうとするが、男の顎は尋常ではない強靭さを発揮して桃原の腕の肉を制服ごと食い破った。
血しぶきがあがる中、桜木は桃原の腕を咀嚼する男を突き飛ばす。
「ににに……肉ぅ。お、おとこの肉……マズイ、ゲェェェェ」
「貴様ぁ!」
倒れた男にのしかかって警棒で滅多打ちにする
男は両手で必死で頭を庇うが、桜木は持ち前の筋力でガードごと男の急所を叩いた。何十発と叩きようやく矮躯の男が崩れ落ちると、桜木はすかさず手錠を取り出して男の両手を拘束した。
「午前2時30分、公務執行妨害と傷害で男を逮……ほ……」
そこで初めて懐中電灯を男の顔に向ける。そしてライトに照らされた男の顔を見た瞬間、桜木は思わずよろめいた。
黄ばんだ乱杭歯に夏だというのに寒そうに震えるガリガリの肩、シューシューと漏れる息も気味が悪いものだが桜木にとって男の目はそれより遥かに印象的だった。
黒く、まるで万華鏡どこまでも澄み切った瞳。ただ二つしかないはずなのにまるで昆虫の複眼を見ているように錯覚させられるその眼。そこから漏れ出るのは人肉を求める狂気の光だ。
――ニク、ヒトノニク。
ライトを向けねば見ることすらできなかったはずの両眼はいまや爛々と輝き、逆にその眼光を持って桜木の眼と精神を焼いているようだった。
頭が痛い。
男の中にあった何かが人間として、いや、生物として最も強固であるはずの倫理を崩すために蛇のようにスルスルと自分の中に侵入してくる。
――ヒトノ……ヤワラカイオンナノニク。
桜木は圧倒されていた。滅多打ちにして手錠まで嵌めた相手に脂汗を流しながら足はセメントで固まったように動けなくなってしまったのだ。
唯一自由に動く両手でピストルのホルダーを探る。
コイツは危険だ。もしこんな狂気が世に広まってしまえば社会の秩序は崩壊してしまう。
せめてその前に、自分の手で今すぐ撃ち殺してしまえば――
「……桜木先輩。駄目ですよ。ソイツを殺しちゃあ」
ホルダーからピストルを取り出したところで桜木の腕は突然に万力のように締め付けられた。
ギョッとして振り返るとそこには右腕から血を流した桃原が無事なほうの腕で桜木の手首を押さえている。その握力は普段の彼からは考えられないほど強く、桜木の手首が骨ごと砕けそうなほどだった。
「……桃原。お前……腕は?」
「あははは、ちょっと皮を噛み切られただけでした……あーでも大丈夫かな。これがホラー映画だったら僕もこの後『うーあー』って言いながらゾンビになったりして」
血を流した右腕を平気そうに振る桃原を桜木はほとんど恐怖の眼差しで見た。まるで痛覚が麻痺しているかのようだ。
「生きて逮捕するのが僕達の仕事です。さ、未来ちゃんと一緒にとっとと署にしょっぴきましょう。僕らお手柄ですよ」
桃原が警縄を取り出して男の手錠に繋ぐ。
山吹は男と一緒にいることを怖がったが署に戻るまで道中、男は恐ろしいほど従順に桃原に従っていた。まるで憑き物が落ちたかのようだった。
***
仮眠室で桜木は震えていた。
「眼が……あいつの眼が俺を見ている……」
いつまでもあの男に見られている気がする。噛み付き魔の目が脳裏に焼き付いて離れない。
あの男は狂気に取り付かれていた。彼の人間らしい理性は人肉への欲求によって完全に壊されていて自分はその暗黒の精神をあの二つの孔から垣間見てしまったのだ。あの両目を思い出す度に自分の眼底から脳までもが冷たい物に犯されるのを感じて桜木はますます震えが止まらなくなった。
ただ目を見ただけで自分の正気はこんなにも揺さぶられている。これがもしもっと直接的な……例えば直に噛まれて感染するような事があれば……。
「いや、有り得ない。あいつはただの狂人だ。そうだ、桃原の言うゾンビ映画じゃあるまいし…」
そう言って勇気を振り絞ると、桜木は急に喉の渇きを覚えた。給水所は近くにあるが、ナーバスになっていたせいか今はなにか暖かくて甘いものが飲みたい。
桜木は財布を探って立ち上がる。時刻はすでに朝になっていた。
「この真夏にお汁粉を売ってる自販機なんてあるかな……」
「あ、桜木先輩! もう未来ちゃん送ってきましたよ!」
自販機を探してうろついていると調書を取り終え山吹を送っていった桃原が帰ってきていた。
右腕に包帯を巻いた桃原を見た瞬間、桜木は一瞬怯んだが首を振ってその考えを振り払った。
「それから先輩、お上が言うことにはやっぱりあいつがこの辺で女性を襲っていた噛み付き魔だったそうです。お手柄もお手柄、大手柄ですよ! 僕ら、県警のお偉いさんから表彰されることになりました!」
桃原は明るく言っているが、桜木はあの男を思い出したせいでまた憂鬱な気分に捕らわれた。
「……警官として職務を果たしただけだ」
「そんな事言わないでください。それだと僕、噛まれ損じゃないですか。それよりお土産持って来たんですよ! 肉食いましょう、肉! 先輩の部屋で焼肉です!」
肉、という単語に反応した桜木はビクっと震えた。
「あ……、ひょっとしてさっきの男の件、結構引き摺ってますか?」
桃原の問いかけに桜木はかぶりを振った。
考えすぎだ。桃原は以前から肉好きだったじゃないか。
桃原は牛肉を主食、豚肉をおかずにして最後の口直しに鶏肉を食べるという、ベジタリアンどころかヒンドゥー教徒やムスリムにも喧嘩を売るような食生活をしている。無論毎日そんなことをしているわけではないだろうが、少なくとも桜木が食事に呼ばれる時は肉以外の物は白米すら出た事が無い。
「……いや、大丈夫。ちょっと寝不足なだけだ」
「そうだったんですか。さっきいい肉が手に入ったんですよ。怪我を治すのにもスタミナをつけるのにも焼肉が一番ですよ!」
桜木も夜勤明けで腹が減っていたので桃原が持っている肉に段々と興味が沸いてきた。気付けば先程まであった甘い飲み物への欲求は消え、後輩と一緒に焼肉を食べるというのも悪くない気がしてくる。
確か近くに早朝でもやっているスーパーがあったはずだ。
「後輩にそこまで言われちゃ仕方ないな。よし、肉はお前にご馳走になるなら野菜は俺が買ってやる。スーパーに寄っていこう」
「ははぁ! さすがは先輩!」桃原は大げさに頷いた後こう言った「……でも、何故野菜なんて買うんですか?」
***
二人は署の裏手に止めていた自転車に乗るとスーパーに寄っていくつかの野菜を買ってから桜木の部屋へ向かった。
桃原は既に何度か来て同じように食事していたことがあったので迷わずホームプレート取り出すと、桜木が食器を並べるより早く油を敷いて電源を入れた。
「先輩~、早く早く! 真夏に持ち歩いてたから早く焼かないと肉が痛んじゃいますよ!」
「……そういえばお前、ずっと肉としか言わなかったけど結局それは何の肉なんだ?」
「それは食べたらわかりますよ。ホラ」
もったいつけた桃原が袋からタッパーを取り出して開いた瞬間、異様な匂いが広がり部屋の温度が一気に下がったような気がした。
肉は桜木が見たことの無い種類のものだった。牛でも豚でも鶏肉でも無い。異様な臭気と妙な親近感を覚える赤黒い物体。見た瞬間、これは人間の食べ物ではないと分かる。肉から滴る血が昨日の桃原の傷口を思い出させて桜木は反射的に吐きそうになった。
「……僕、桜木先輩ならこの味を分かってくれると思うんですよね」
桃原が押し殺したような声で言った。
弾かれたように桃原を見る。桃原の顔にはこの肉に怯む桜木を嘲るような、だが幾分かの期待も混じった気味の悪い薄笑いが張り付いている。更に部屋が寒くなったような気がした。今の桃原はおかしい、何かが。
桜木も自身の理性に罅が入るのを感じた。
「あ、タッパーが可愛いのは僕の趣味じゃないですよ。いいから早く食べましょう」
桜木が黙っているといよいよ肉が鉄板の上に載せられる。肉がジュウというおいしそうな音を立てるが、桜木は煙に乗った獣臭い脂がベタベタと喉や鼻腔に張り付くようでますます目の前の物体に恐怖した。
何も無いはずだ。今自分が感じている恐怖はただ妄想のはずだ。しかし、この肉を見るたびに昨夜の女性――山吹を思い出すのは何故だろう。
異常な雰囲気の中で肉が焼けるのを待ちながら、いつまでも焼けないままでいればいいという思いと早く終わって欲しいという思いが両方あった。
「……そろそろいいッスね」
そう言って桃原は箸を操ると赤から薄茶色に変わった"肉"を桜木の皿に載せる。少し半生で焼かれた肉はすでにさっきまでの不気味な色彩を失っていたが、間近で見るとその強烈な臭いと硬そうな筋肉の断面がよく分かる。
桃原は既に自分の分を確保していたが、鉄板から肉がなくなるとタッパーから今度は大きな骨付きの肉を取り出して載せた。骨はほっそりとしていて異常に白い。
――ニク、ヒトノニク。ヤワラカイオンナノニク。
「……先輩、食べないんですか?」
「あっ、たた、食べる。食べるさ……」
寒気を感じる桜木に桃原はさらに感情の無い冷たい声音を投げかけた。
彼の周囲だけ光が淀んだように薄暗くなり小太りの輪郭だけを浮かび上がらせる。桜木にとって桃原はすでに人間以外の別の生き物に変貌してしまっていた。
もう逃れられない。意を決して"肉"を自分の口に運ぶ。噛み切った肉から流れた脂が喉へと滑り込んだ瞬間、あまりの不味さに桜木の体は拒否反応を示してその場に吐き出した。
脳裏に浮かんだ単語は"共食い"。
桜木は今度こそ自分の直感を確信した。これは人間の食べ物では無かったのだ。
「おっかしいなぁ。まだ"早かった"のかなぁ……?」
桃原は自分の皿の肉と吐き出してえずく桜木を見比べながら不思議そうに言った。
早かった、とは狂気の侵食具合を指しているに違いない。眼を見ただけの自分に対して、桃原はあまりにも深くあの男に接触していた。
「も、もも、桃原……おお、お前、これ……」
「すんません、先輩。僕も今日が初めてなもんで……」
凍りつくような寒さで舌がもつれさせた桜木は後輩を見て更に後ずさる。
桃原の眼は黒く、不気味なほど澄み切っていてあの噛み付き魔そっくりの狂おしいほどの飢えを表している。もはや疑う余地無く、桃原は自分とは違う生き物に成り果てていた。
桜木はさらにもう一つの嫌な予感を口にして桃原に問うた。
「おお、お前、もしかしてこれは山吹さんの肉なんじゃ……」
山吹、という単語に桃原がさも嬉しそうに口元を吊り上げた。桜木は一瞬、今度は自分が食われるのではないかと思って思わず手で頭を庇った。
「あれ? わかりましたか? 鋭いなぁ……やっぱりタッパーがまずかったのかな。未来ちゃんを家まで送ったまでは良かったんですけど……ほら、彼女って手とか腰つきとか綺麗じゃないですか。だから我慢できなくなって思い切って襲ったんですけど、彼女酔ってたから全然抵抗しなかったんでそのまま食べちゃいました。で、そのまま帰っても先輩に悪いんで彼女ん家のお土産で機嫌取ろうかな、なんて」
「う、嘘だ! 嘘だ嘘だ嘘だ!」
――あれが、あの女性の肉!
人間が、自分達が守るべき市民があんなに不味い肉片に変わるなんて!
罅だらけだった桜木の理性は今度こそ砕けた。
「先輩? 本当に駄目ですか、この肉? せっかく持って帰ってきたのに……」
「嘘だああああああああああああ!!う、うわあああああああああああああああああ!!」
「せん……ぎゃっ! があっ!」
焼けたホームプレートの鉄板を素手で掴むと桃原に殴りかかる。桃原は激しく抵抗したが焼けた鉄板を押し付け何度か頭を殴ると動かなくなった。
「……し、しし死んだのか」
足でつつくが反応は無い。
何年も付き合っていた後輩を自分の手で殺したという恐怖と混乱で呼吸が乱れ、桜木の喉からはシューシューという奇妙な呼吸音が漏れていた。
だがここで止まるわけにはいかない。この街にはまだ脅威が残っている。
――俺があの噛み付き魔を殺さなくては。
桜木は桃原の死体を脇にどけてベルトに包丁を挟むと家を出て自転車に跨った。
本来ならこのまま署に向かうべきなのだが桜木は少し考えて昨夜本人から聞きだした山吹のマンションへ向かう。今までの噛み付き魔の被害者は一人も死んでいない。一応、彼女の自宅まで確認しに行くべきだと思ったのだ。
彼女の自宅は警察署からすぐ近くだった。
「はい……あら、昨日のムキムキの方のおまわりさん?」
インターフォンで確認しドアを開けて出てきたのは紛れも無く桜木が昨夜会った山吹未来その人だった。彼女はバスローブ姿で首筋や胸元に紅い情事の跡をつけている。
桜木は心の底から安堵した。
「あ、ああ……! よかった! よかったよかった!」
「おまわりさん、クマ肉のお礼ですか? あんなの気にしなくても……」
思わずフラフラと歩いて彼女を抱きしめる。
山吹は吃驚したようだった。
「おまわりさん……? なんか寒そうですけど大丈夫ですか? しかもその眼……なんだか、昨日の怖い人と同じ……」
「よかった……本当によかった――――あの不味い肉があなたではなくて!」
「え……?」
山吹がその言葉を理解する間もなく桜木は細い首筋を食いちぎった。
血は暖かく果汁のように甘い。薄い皮膚と肉の味わいはただの食べ物では味わえない電撃にも似た凄まじい恍惚を舌から脳に届ける。
その性的興奮にも似た甘美な初体験に桜木は歓喜の声を上げた。
――――――美味い!