プロローグ『希望』
暗く、暗く、とにかく暗い湖に『わたし』は現在進行形で沈んでいる最中だった。
辺り一面は当たり前といえば当たり前だが、一筋の光すら見えなかった。何故、このようなことになったのだろうか。
頭に浮かぶのは落とし物を渡され喜ぶ、愛おしい少女の笑顔――まさか、落とし物を取りに潜っただけで身体に『鱗』が生えてくるとは思いもよらなかった。
これを迂闊な出来事だったと言えるのは、余程の超人でない限り不可能だろう。それはそれとして、超人だとしても、そんなこと言われたら腹が立つだけだが。
とはいえ、そんな下らないことを考えられる脳がまだ残ってるとは思いにもよらなかった。
――今更、後悔などしてはいない。彼女との思い出を捨てるくらいなら、こんな目にあった方がマシだ。
‥‥‥人魚になっているなら、水中を自由自在に動けるのでは? とそう考えれば、悪いことばかりではないと思えてくる。その分、陸上で生活できないかもしれないが。
まあ、あんなクズの集団のような村に住む必要が無くなったのはいいかもしれない。――ただ一人の少女を除いて。
美しい黒髪が特徴の『わたし』にいつも優しくしてくる世話焼き。そして最期の最期までまともに会話することができなかった‥‥‥そんな少女だ。
彼女には今まで悪いことばかりしてきたかもしれない。夜が明け、彼女が目覚めて『わたし』がいないことに気がついたら彼女はどんな行動を取るのだろうか。特に最近など、あの珍しい格好の人とばかり話し、シカトを貫き通していた。彼女はそんな素っ気ない態度を見て、どう思っただろうか。
普段、いつも仲良くしていた相手が急に取られて、お気に入りの玩具を取り上げられた子供のような気持ちだったに違いない‥‥‥そう思うのは自意識過剰だろうか。
その時に取っていた態度を思い返してみれば、彼女は『わたし』のことを大切に考えていたのだろうと今更ながらに自覚してしまった――後悔しても、どうにもならないというのに。
‥‥‥もし、だ。普段であれば、馬鹿馬鹿しいの一言で笑い飛ばすことだろうが、もし、仮に一つだけ願いが叶うのならば‥‥‥だなんて、考えてしまう。
――普段は神頼みなんてしない、こんな『わたし』にも。
――神様、私は‥‥‥。
――音が聞こえた。
続けて、人影が『わたし』と同じように無抵抗で落ちてくるのが見えた。
正直、鬱陶しかった。何故、こんな仕打ちまで食らった自分が静寂な余生を送る権利すらないのか。
所詮、自分は矮小な存在だ。
そこら辺にいる一個人には運命を変える手段すら持てない。結局は成す術もなく強者に狩られるか、強者に頼り、奴隷として生きていくかのどちらかなのだろう。
無論、わたしは完全に後者だ。何もかも諦めて、勝手に他人に期待するだけの薄汚い生き様を見せているような人間である――いや、もう人間ではなかったか。
‥‥‥頬から、違和感を感じた気がした。辛うじて受け止めたくなかった現実を直視しようとすると上手く目を開くことができなかった。見ることが怖いわけではない。
かといって、筋肉が痙攣しているわけでもない。つまり、このことが何を表すのかというと――。
「‥‥‥わたし、今、泣いてるの?」
普段、一度として真面目に泣いたことがなかったというのに。初めて、そう、初めて涙が零れ落ちてきた。それこそ、水中でも熱く、感覚を感じるほどには。
‥‥‥なんだ。わたし、悲しかったんだ。
それを理解してしまえば、留まることはない。悲しい、虚しい、寂しい。寂しい、寂しい寂しい寂しい寂しい寂しい寂しい寂しい寂しい。受け止めてくれるものがないこの感情は止まることを知らない。空虚な感情が無意識に溢れ出す。決して抑えることはできない。そう、それでこそ『理解者』がいなければ。
わたしは‥‥‥。
「また、黒糖ちゃんたちに会いたい」
「ぼ、ぼぼ、ぼぼぼぼ‥‥‥」
そんな悲愴な空気を壊すように人影がついに眼下まで迫っていた。気が触れる人間だ。
そんな空気の読めない言動をしている『人間』はどんな顔をしている奴なのか。確かめようとして、最後の抵抗に『わたし』は目をかっぴらく。
――嘘、だと思った。というより、自らが都合のいい頭をしていることを真っ先に疑った。
そんなことは有り得ないのだから。
――まさか、ずっと助けて欲しいと願っていた人物が降ってくるとは思いにもよらなかったのだから。
彼女を直視した瞬間、脳が完璧に理解した。
この人はとてつもなく、優しくてお人好しで。――そして何より、後先を考えずに自分のことを顧みない大馬鹿者だと。
だとすれば、取れる行動など一つだけだった。想いに応えなければいけない。そう想い、少女は彼女とともに浮上していくのだった。
「で、なんでこんなことしたんですか?」
自分のことを顧みないで他者を助けようとする大馬鹿者に対してその言葉は向けられた。が、肝心の大馬鹿者は危うく溺水しそうになりかけたのに、直ぐにヘラヘラしてわたしのことを必ず救いたかった、と愛の告白みたいな馬鹿げた発言を清々しく一切の邪念なく言い切った。
そんなことを言われたら、こちらに言い返すなんてことができるわけないだろう。
全くもって卑怯だ。さらに彼女は全てを救いたいというのだから実に強欲である。
そして何より――憎めない、素敵な女性であった。
「ありがとう、本当に。これだけは絶対に噓じゃないから」
その言葉は噓つきが初めて素直に述べた告白だった。その瞬間、凍り付いた世界は宝石のように眩しく感じられた気がした。
きっと、明日も目が覚めたらいい日になる。そんな無責任な考え方になれる、素敵な贈り物を貰った。『わたし』はこの精一杯の感謝を忘れないで欲しかった。だから、金色の『それ』を託した。これを『わたし』だと思って、この時のことを思い出して頑張って欲しい。『わたし』を救った彼女ならば、何だってできる、そう思って欲しかった。
これがいつか彼女にとっての救いになって欲しい。そう願い、『わたし』は大馬鹿者と別れを告げた。
「絶対、絶対、絶対の絶対、また会おうね」
そして『英雄』は霧とともに霧散していった。




