第7話 【初冬】炎竜の洞窟と、パパのほんとうの勇気
初冬の朝。
リビエ村の空は白く霞み、遠くの山肌にはうっすらと雪が乗っていた。
吐く息は白くほどけ、土の匂いはどこか乾いている。
「さっぶ……腹に来る……」
ピッカルドはぶるりと肩をすくめ、腹巻きを三重に重ねてぎゅっと締め直した。
ふわふわの毛糸が、いつも通りの、けれど今日は少しだけ心強い温もりをくれる。
「これで防御力は……冬将軍にもギリ勝てる……はずや……」
腰を鳴らしながらぼやいた、そのときだった。
「だ、誰か──っ!!」
村の入口のほうから、切迫した叫び声が響いた。
「村の子どもが……洞窟に落ちたんじゃ!!」
モカナが、ぱちんと目を見開く。
「洞窟って……あの、“村のだれも近づいちゃいけない”っていう場所!?」
息を切らして駆けてきた村長が、震える声でうなずいた。
「そうじゃ……山の中腹にあるあの洞窟には、
“炎竜ファルガ”が棲んどる。
人が近づけば、まとめて焼かれてしまう……」
その名を聞いた瞬間、ピッカルドの胸の奥がざわりと揺れた。
かつて魔王軍と渡り合ったときに戦った、“七つの竜”のひとつ。
そして――ピッカルドが、ただ一体だけ「殺さなかった」竜。
村長が、おそるおそる顔を上げた。
「勇者殿……。
あんたなら……行けるのか?」
ピッカルドは、そっと腹巻きを押さえた。
冷たい空気とは別の、きゅっと締め付けるような緊張が、腹の底からせり上がる。
「助けなあかん子どもがおるなら……行くしかないやろ」
ゆっくりと、けれど迷いのない声で答える。
「……大丈夫や。ファルガは……話の分かる竜や」
モカナが、不安そうにピッカルドの袖をきゅっとつかんだ。
「パパ……こわくないの……?」
小さな手が、かすかに震えている。
ピッカルドはその手を包み込み、モカナの頭にぽんと手を置いた。
「……こわいに決まっとるやろ」
静かな笑みを浮かべながら言う。
「けどな、“こわい時でも進むんが、大人の勇気”や。
父ちゃんは、おまえに……その背中を見せたいんや」
モカナの瞳が、じわりと揺れた。
「……パパ……がんばって……!!
ちゃんと……帰ってきてね!」
「当たり前や。父ちゃんは、腹巻き三重やぞ。
そう簡単に倒れたら、お前が縫ってくれた腹巻きに顔向けできんわ」
ぎゅっと親指を立てるピッカルドに、モカナは涙をこらえて笑った。
* * *
◆炎竜の洞窟へ
山道を登るほどに、空気は冷たく鋭くなっていく。
だが、ピッカルドにとっての本当の敵は――寒さそのものではない。
「……くっ……この寒暖差が腹に来る……」
冷えた風と、今も鮮やかな緊張と、昔の記憶。
それらが混ざり合って、じわじわと胃腸を刺激する。
「今ここで倒れたら……笑い話にもならんからな……頼むで、オレの腸……」
小さく呟きながらも、歩みは止めなかった。
やがて、山肌を穿つようにぽっかり開いた洞窟が見えてくる。
入口からは、冬には不釣り合いな、じりじりとした熱風が吹き出していた。
真冬の山の中に、ひとつだけ真夏を閉じ込めたような場所。
「ここやな……久しぶりや、ファルガ」
洞窟の奥から、低く重い唸り声が響いた。
──ゴォォォォ……。
空気そのものが震えるような重低音。
やがて、闇の奥から、巨大な影がゆっくりと姿を現した。
真紅の鱗。溶岩のようにぎらつく双眸。
全身から陽炎のような熱が立ち上り、洞窟の空気を歪ませている。
「誰だ……この地に人間が踏み入るとは……」
炎竜は、ぐわりと首をもたげると、その声音を少しだけ変えた。
「……久しいな、勇者よ」
ピッカルドは、目を細めて見上げた。
「……やっぱり、気づいとったか。
オレの顔、まだ覚えとるんか?」
炎竜ファルガは、鼻を鳴らした。
「忘れるはずがない。
かつて我を討ち破りながら、殺さず背を向けた“奇妙な勇者”……。
勝ちながら、とどめを刺さなんだなど、聞いたことがない」
「……腹が冷えて、動けんかったんや」
ピッカルドは、ちょっとだけ目をそらす。
ファルガの瞼が、じとっと細くなった。
「……本音を言え。腹弱勇者め」
「半分は本音や。もう半分は……今でもよう覚えとる」
ピッカルドの声が、すこしだけ低くなる。
「おまえ……本当は、弱いもん狙う竜やなかった。
あの日も、魔王に操られとっただけや。
オレには……そう見えとった」
炎竜の瞳に、かすかな揺らぎが走った。
「……で?
その“腹弱の勇者”が、今さら何をしに来た」
「子どもが落ちた。
この洞窟に」
ピッカルドは、一歩、また一歩と踏み出した。
熱気が腹に重くのしかかる。それでも、足を止めない。
「助けに来たんや」
ファルガの眼が、じろりと細くなる。
「なぜ我が助けると思う……?
我は、人間を焼く存在だぞ」
ピッカルドは、炎竜の真っ赤な目をまっすぐ見返した。
「ファルガ。
おまえが、人間を焼きたいなら、それでもええ」
静かながら、決して揺れない声。
「その時は、オレが前に立つ。
勇者を焼けば、お前の名は上がる」
そう言って、どん、と自分の腹を叩いた。
「けどな。
落ちた子どもは、焼いたって強さも誇りも手に入らん。
ただの“弱いもん”や。
おまえは、そういう相手を好む竜やなかったはずや」
炎竜の喉奥から、低い唸り声が漏れる。
「……勝手なことを言うな」
「勝手なことやあらへん。せやろ?」
ピッカルドの額から、じわりと汗がにじむ。
腹も、熱のせいだけじゃなく、きりきりと痛んでいる。
「オレは、こわい。今もこわい。
おまえの炎も、この洞窟も、腹冷えも、全部こわい」
そこで一拍、静かに息をついだ。
「それでも――守りたいもんができたんや。
“父ちゃんってな、すごいんやで!”って笑ってくれる、ちっさい奴が、おる。
ちっさいのに、――デカいんや。
……せやから、オレは逃げん」
炎竜は長い沈黙ののち、ふぅと熱い息を吐いた。
熱風が、洞窟の壁を真紅に染め上げる。
「……変わらぬな、勇者よ」
炎のような瞳が、少しだけ和らいだ。
「弱き者の前に立つ、その背中。
その心こそ……魔王より恐ろしい」
ゴウッ、と炎が巻き起こり、
洞窟の奥が一気に照らし出された。
「ついてこい」
ファルガはくるりと巨体を翻す。
「人間の子は、溶岩の裂け目にしがみついておる。
人の手では届かぬ深さだ」
「助けてくれるんやな、ファルガ」
ピッカルドが言うと、炎竜はそっぽを向き、鼻を鳴らした。
「恩を返すつもりはない」
一拍おいて、
「ただ……“あの娘”の笑顔が、脳裏をよぎっただけだ」
「あの娘……?」
「お前の子だ、勇者」
ファルガは、少しだけ気恥ずかしそうに目をそらした。
「誰かのマネして、腹巻きをつけた小さな娘。
二年前になるが、洞窟の前で跳ね回っておった。
“パパはすごいんだよー!”と叫びながらな」
ピッカルドは、家族をほったらかしていた頃を思い出し、慌てて胸を押さえた。
「……あいつ、そんなこと……。
俺は王都を守ることしか頭になかったのに」
「……勇者よ」
ファルガが低く呟く。
「お前の背中を見て育つ子は……きっと、幸せだろうな」
喉の奥が、ぐっと熱くなる。
「……頼むで、ファルガ」
ピッカルドは、腹の痛みを押し込めるように拳を握った。
* * *
◆救出
炎竜ファルガは巨大な翼を広げ、洞窟の奥へと飛び込んだ。
灼熱の風が一気に逆流し、赤い光が闇を切り裂く。
裂け目の向こう、細い岩にしがみついた小さな影が見えた。
「た、助けて……!」
かすれた声に応じるように、ファルガは大きな爪をそっと伸ばした。
「しっかり掴まっていろ、人間の子よ」
少年は震える手で、竜の爪にぎゅっとしがみつく。
一陣の熱風。
ファルガはその巨体とは思えぬほど慎重に翼を動かし、
少年を抱えたまま、ゆっくりと地上へ戻ってきた。
洞窟前。
ピッカルドが、緊張した面持ちで待っている。
「……無事だ。受け取れ」
ファルガは、少年をそっと地面へ降ろした。
ピッカルドは少年を抱きとめ、その身体を素早く確かめる。
「怪我は……擦り傷ぐらいやな。よう頑張ったな」
涙目の少年が、しゃくりあげながら頷く。
「こ、こわかった……けど……竜さん、やさしかった……」
ピッカルドは少年の背中をぽんぽん叩くと、
炎竜のほうへ向き直り、深々と頭を下げた。
「ほんまに……ありがとう、ファルガ」
炎竜は、どこか照れくさそうに鼻を鳴らした。
「礼は要らぬ。
ただ……娘に伝えておけ」
ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「“父は今も勇者である”……とな」
ピッカルドの胸が、ぐっと熱くなる。
腹の痛みすら、遠くに感じるほどに。
「……伝えるわ」
心からの声が、自然と漏れた。
* * *
◆モカナの胸へ
村へ戻ると、モカナが涙目で飛び出してきた。
「パパぁぁ!! 無事!? 火傷してない!? 冷えてない!? 本当に!?」
走ってきた勢いのまま、ピッカルドの腹にダイブする。
「いってててて……腹は、別の意味でダメージ受けとるけどな……」
そう言いながらも、ピッカルドは娘をしっかり抱きとめた。
「父ちゃんは、大丈夫や。
今日はな……勇者よりも、“父ちゃん”のほうが強かった気がするわ」
モカナは、胸に顔を埋めたまま小さく呟いた。
「……うん。
だってパパは、だれよりも“優しい勇者”だもん……」
その言葉に――
洞窟の中で聞いた炎竜ファルガの声が、重なる。
――父は、今も勇者である。
ピッカルドは、無意識に腹巻きを撫でた。
(ほんまに大事なんは……剣の強さやない)
心の中で、静かに言葉が形を取っていく。
(守る力やのうて、“守りたいと思える誰か”なんやな……)
モカナがぎゅっと父の手を握る。
「パパ……今日もだいすきっ!」
初冬の冷たい風が吹き抜けても、
ふたりの手のぬくもりだけは――
炎竜の炎にも負けず、
ただ静かに、あたたかく残っていた。




