第3話 【夏下旬】泥んこレース、娘の一歩と父の誇り
雨が明けたその朝、リビエ村の空は抜けるように青かった。
田んぼ一面に広がる緑は太陽を受けて輝き、そよ風に合わせてゆらゆらと揺れている。
「パパっ! 今年の泥んこレース、出てみたいのーっ!!」
モカナが、眩しいくらいキラキラした目でパンフレットを差し出してきた。
村の夏祭り名物――田んぼを駆け抜ける泥んこレースだ。
ピッカルドはパンフレットを見て、そっと腹を押さえた。
「……田んぼ……泥……冷える……胃腸に響くんや……っ」
モカナはぷっと可愛く笑った。
「パパは応援係でいーの! わたし、ひとりで出たいんだよっ!」
「でもパパが見ててくれたら、わたし、ぜーったい安心だから!」
その言葉に、ピッカルドの胸に温度のようなものが広がった。
娘の成長を感じて、少しだけ胸がきゅっとなる。
「……そっか。ほんなら父ちゃんは全力で応援団長や!
おまえの晴れ舞台、しっかり見届けるで!」
* * *
――大会当日。
村の広場は色とりどりの旗と提灯で彩られ、
人々の声と風鈴の音が重なり合っていた。
さらに会場近くの田んぼからは、夏の熱気と泥の土の匂いがふわりと漂う。
八百屋のおっちゃんが元気いっぱいに叫んでいた。
「毎度おなじみ泥んこレースやでぇーっ! 特別賞は【腹巻きキャベツ】やーっ!」
ピッカルドは眉をひそめる。
「……腹巻きキャベツ……? なんやそれ……防具か……?」
モカナはくすっと笑い、父の手を引いた。
「パパ、今日は応援係だから、キャベツを考えるのはあとでいーのっ!」
応援席の一番前に陣取ったピッカルドは、
腹巻き二重巻き+薄手マフラーで“完全応援装備”に仕上げた。
「……モカナの雄姿、ぜったい見逃さん……」
泥んこ用の服に身を包んだモカナが、
ちっちゃな手袋をはめてスタートラインに並ぶ。
顔には緊張よりもワクワクが勝っている。
「パパーっ! 暑かったら日陰ですわっててねっ!」
「うむ。父ちゃんの務めは、おまえを見届けることやからな」
パンッ!
スタートの音が響き、子どもたちが一斉に泥へ飛び込んだ。
「モカナーっ!! がんばれーーーっ!! 父ちゃんはここやーーっ!!」
泥が跳ね、笑い声と歓声が混じり合う。
モカナは泥に足を取られながらも、一歩ずつ前へ進む。
「パパが見ててくれるから……がんばれる……!」
その姿に、ピッカルドの胸は熱くなる。
途中、モカナがバランスを崩しそうになった瞬間――
「モカナーーっ!! 大丈夫や!! おまえならできる!!」
父の声が田んぼに響いた。
その声に押されるように、モカナはぐっと踏ん張った。
泥まみれになりながら前に進む小さな背中が、
ピッカルドには勇者のどんな戦場より尊く見えた。
やがて――ゴール!
モカナが泥だらけの笑顔でゴールテープを切る。
「パパーっ!! 最後まで走れたよーっ!!」
ピッカルドは駆け寄り、躊躇なく泥まみれの娘をギュッと抱きしめた。
「……よーがんばったな、モカナ。
父ちゃんは、おまえの一歩一歩が……ほんまに誇らしい……」
モカナはにっこり笑って言った。
「パパの声ね、ずっと聞こえてたの!
だから最後までがんばれたっ!」
ピッカルドはその頭をそっと撫でる。
「……おまえの勇気と努力……父ちゃんの宝もんや」
そこへ八百屋のおっちゃんが陽気に手を振った。
「おめでとうさーん! で、腹巻きキャベツ、どうするーっ!?」
ピッカルドはふっと笑い、
「……ふむ……腹への導入は、前向きに検討するわ……」
モカナは笑いながら、父の手をぎゅっと握った。
「パパ、これからもいーっぱい応援してねっ!」
「もちろんや! 父ちゃんは、おまえの応援団長やからな!」
泥の匂いが混じる風の中、
ふたりの影は、夏の日差しに並んでのびていった。
父の胸には、泥よりも濃い“誇り”だけが、あたたかく残っていた。




