プロローグ ――勇者引退の日
黒雲が月を覆い、雷鳴が王都の上空を裂いた。
魔王ゼルザードが吠える。
「愚かなる人間よ、貴様の力など、この闇の前では――」
「だああああぁ、うるせぇっ! 説教より腹が痛ぇぇぇ!!」
黄金の甲冑を鳴らしながら、ピッカルドは魔王を斬り伏せた。
剣に宿る聖光が闇を貫く――が、その顔は勝利の凛々しさとはほど遠く、
眉間にしわを寄せ、腹を押さえている。
「ぐっ……今だ!
必殺――“ホーリー……ホーリー……トイレェェェェッ!!”」
――ギョエェェェェェ!!
魔王の最期の咆哮と、勇者の悲鳴が同時に響いた夜。
世界は救われた。
だが、勇者の腸は滅んだ。
◇
三百年にわたる魔法軍との戦いが、
ようやく終わりを告げた。
冷たい雨が石畳を叩く、勝利の夜。
王城の広間では祝賀の準備が進められていた。
「勇者ピッカルド様! 陛下が――」
「まっ、待て……! 腹、冷えてきやがった……っ!」
腹を押さえ、黄金の鎧のまま王城奥の廊下を疾走する勇者。
扉を蹴り開けた先は、王国最奥の黄金のトイレ。
ドガン!
扉が閉まると同時に響き渡る、勇者の咆哮。
「うおおおおおおおおっ!!」
──英雄の最後の戦いは、便座の上で幕を閉じた。
◇
翌朝。
祝賀の大広間は、煌びやかな装飾と喧噪に包まれていた。
だが――その主役の姿は、どこにもない。
「勇者殿が……欠席?」
「腹を壊して……動けないそうです」
「……腹弱勇者……ってやつか」
その一言は、瞬く間に王都中を駆け巡った。
「英雄? そんなもんより腹薬寄こせぇぇぇぇっ!!」
その断末魔の叫びは、今も王城衛兵たちの笑い話として残っている。
◇
「……もう腹を冷やすような戦いはゴメンだ……」
勇者ピッカルドは、その翌日、静かに王都を離れた。
目指すは、遠くの田舎――リビエ村。
そこには、彼を待つ小さな娘がいた。
「父ちゃん、おかえりー!」
――その声を聞いた瞬間、ピッカルドの腹痛がほんの少しだけやわらいだ気がした。
『腹弱勇者』は、ただの父になりたかった。
それが、新たな冒険のはじまりだった。




