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プロローグ ――勇者引退の日

黒雲が月を覆い、雷鳴が王都の上空を裂いた。


魔王ゼルザードが吠える。

「愚かなる人間よ、貴様の力など、この闇の前では――」


「だああああぁ、うるせぇっ! 説教より腹が痛ぇぇぇ!!」


黄金の甲冑を鳴らしながら、ピッカルドは魔王を斬り伏せた。

剣に宿る聖光が闇を貫く――が、その顔は勝利の凛々しさとはほど遠く、

眉間にしわを寄せ、腹を押さえている。


「ぐっ……今だ! 

 必殺――“ホーリー……ホーリー……トイレェェェェッ!!”」


――ギョエェェェェェ!!


魔王の最期の咆哮と、勇者の悲鳴が同時に響いた夜。

世界は救われた。

だが、勇者の腸は滅んだ。



三百年にわたる魔法軍との戦いが、

ようやく終わりを告げた。


冷たい雨が石畳を叩く、勝利の夜。

王城の広間では祝賀の準備が進められていた。


「勇者ピッカルド様! 陛下が――」


「まっ、待て……! 腹、冷えてきやがった……っ!」


腹を押さえ、黄金の鎧のまま王城奥の廊下を疾走する勇者。

扉を蹴り開けた先は、王国最奥の黄金のトイレ。


ドガン!


扉が閉まると同時に響き渡る、勇者の咆哮。


「うおおおおおおおおっ!!」


──英雄の最後の戦いは、便座の上で幕を閉じた。



翌朝。

祝賀の大広間は、煌びやかな装飾と喧噪に包まれていた。

だが――その主役の姿は、どこにもない。


「勇者殿が……欠席?」

「腹を壊して……動けないそうです」

「……腹弱勇者……ってやつか」


その一言は、瞬く間に王都中を駆け巡った。


「英雄? そんなもんより腹薬寄こせぇぇぇぇっ!!」


その断末魔の叫びは、今も王城衛兵たちの笑い話として残っている。



「……もう腹を冷やすような戦いはゴメンだ……」


勇者ピッカルドは、その翌日、静かに王都を離れた。

目指すは、遠くの田舎――リビエ村。


そこには、彼を待つ小さな娘がいた。


「父ちゃん、おかえりー!」


――その声を聞いた瞬間、ピッカルドの腹痛がほんの少しだけやわらいだ気がした。


『腹弱勇者』は、ただの父になりたかった。

それが、新たな冒険のはじまりだった。

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