5 A61 サチコ
幸子が物心ついた頃には、母親は父親に殴られていた。
幸子もよく殴られたが、別に母親は庇ってもくれなかった。
父親は——あとで知ったのだが——幸子の実父と離婚した後の母親の恋人だったらしい。
そんな父親を怖いと思っていたのも小学校の2年生くらいまでで、3年生になって父親の性的おもちゃにされる頃には、「父親」という名の生き物が何なのか、自分は何なのかもわからなくなっていた。
保護されたのは13歳の時で、その年齢もあとから施設の大人に聞いて知っただけだった。
それまで、自分が何歳かなんて気にしたこともなかった。
施設には18までいた。
それ以後は法律で自立しなければいけないことになっていたが、そもそも自立するための基本的感覚を持ち合わせていない。
社会の仕組み——というものは教えられたから頭ではわかっていたが、自分が何を求めていいのかがわからない。
自立とは、経済的に自分の食い扶持を稼ぐこと——としか理解できなかった。
自分の体が金になる、ということはすぐにわかった。
別に抵抗はない。
父親にされていたことと同じことを他の男にさせてやれば、殴られることもなくいい金を払ってくれた。
手にした金でホストクラブに通い、チヤホヤされると自分の内部のどこかが気持ちよかった。
そんな暮らしを続けるうち、1人のあまり売れていないホストが店の外で幸子に声をかけてきた。
「ねえ、幸子さん。オレ、本気で君のこと好きになった。」
は?
「オレももうこんな仕事やめるから‥‥。2人で家族にならないか?」
家族って、ナニ? あたし、そういうの知らないんだけど?
初めは何か名前も知らない鳥がさえずっているようにしか聞こえなかったそいつの言葉も、何度も聞かされるうちにだんだん、本気かも、と思えるようになった。
そいつは幸子の部屋に同居するようになると、本当にホストをやめて、就職した。
営業職——ということだった。
すぐに子どもができた。
愛——と名づけた。
男って、こんな顔するんだ‥‥。
そう思うほど、そいつは愛を見てデレデレになっていた。
そいつは幸子と愛の2人を一緒に抱きしめて言った。
「オレ、いっぱい稼ぐぞぉ!」
あ‥‥
幸せって、こういうことかもしれない。
思えば幸子の人生の中で、もしかしたら「幸せ」と言える時間はあの3年間だけだったかもしれない。
もともと飽きっぽい男だったんだろう。
そいつは愛が3歳の誕生日を迎える前に、他に女を作って出ていった。
幸子と愛だけが残された。
幸子は再び夜の仕事に戻った。
他に稼ぎ方を知らない。
学歴もなければ雇ってくれるところもない。
それでも、もう自分一人じゃないんだ。
愛を育てなければならない。
でも、どう育てていいかわからない‥‥。育て方なんて知らない。
愛のことを愛している。
まわりを見ながら、見よう見まねで子育てをやった。
必死だった。
「ママぁ、行っちゃやだぁ!」
「ママ、お仕事だからね。ちゃんとここで待ってなさいね?」
夜間保育所で泣き叫ぶ愛をなだめながら、早く行かないと遅刻しちゃう!——と焦る。
「待ってなさいって言ってんの!」
ギャン泣きする愛を保育士に押し付けて、職場に向かう。男どもに媚びる職場に‥‥。
家族や家庭というものを知らない幸子にとって、愛をひとりで育てる苦労は並大抵のことではなかった。
「そんなもんよ。子どもが泣くのは普通のこと。」
ママ友とやらはそんなふうに言うが、普通ってナニ?
愛を愛している。
なのに、愛がいとおしくなればなるほどつらかった。
愛のためにと思って昼間の保育園にも入れてみたが、どこかがおかしいのだろう。
愛には友達が少なかった。
育て方が‥‥わからない‥‥。
それでも保育園でできた数少ない友達の栞ちゃんがうちに遊びにきてくれた。
幸子はそんな愛の貴重な友達を大事にしたいと、栞ちゃんを精一杯もてなした。
それだからか、栞ちゃんはよくうちに来て愛とよく遊んでくれた。幸子はその都度、美味しいお菓子をいっぱい用意した。
愛が5歳の誕生日を迎える頃、愛の顔つきが変わってきた。
わがままを言い出したら聞かなくなったり、ひどく鬱した顔つきになったり‥‥。
真夜中に突然、公園に行きたいと言い出してギャン泣きしたり。
子どもって、こんなにかわいくないもの?
他の子たちはもっとかわいいよね?
そして、愛の表情やしぐさが幼い頃の自分とそっくりになってきたことに気づいてしまったとき、幸子の中で何かが音を立てて切れた。
この子はあたしと同じ‥‥。
不幸にしかなれない。
愛を愛している。
でも‥‥
どうやったらこの子に幸せな人生をあげられるのか、わからない‥‥
この子はこの先、絶対幸せになんかなれない。
あたしの子だもの‥‥。
「お魚、見たい!」
真夜中にそう言って駄々をこねだした愛を連れて、幸子は近くの川に出かけた。
真っ暗な川では、魚の姿なんか見えない。
「お魚、見えないっ!」
愛が眉間にきつく皺を寄せる。4歳の子どもの顔ではない。
幸子は懐中電灯で川面を照らしてやった。
魚影が見えた。
「あ! お魚!」
愛が眉を開いて目を輝かせた。
その刹那‥‥‥
いちばん幸せな時に、終わらせてあげる。
栞ちゃんをどうして殺したのか、今もよくわからない。
美味しいお菓子を食べてるときだったし、痛くはなかったと思う。
愛がひとりじゃ寂しい‥‥って思ったのかもしれない。
そのあと、襲いかかってきた大人の男の喉を反射的に切った。
逮捕されてから、それが栞ちゃんのパパだったと知った。
「被告人を人権剥奪刑に処す。」




