36 背負うもの
父親と名乗ったその男の人は顔を真っ赤にしたまま、泣き出しそうでもあり、怒りと憎悪に埋め尽くされたようでもある目でA65を睨み据えた。
「おまえは、法廷で被害者の名前を一人も言えなかったな? これが‥‥」
そう言って男の人は首にかけた紐で胸に下げていた遺影を左手で前に突き出して見せた。
「お前が殺した私の娘だ! 下山結衣だ!」
そこには、にこやかに笑ったかわいい少女が写っていた。
A65は目を逸らすことができない。
なんの悪意も感じられない、茂さんの笑顔とよく似た笑顔だった。
「あんた、そこを退きなさい。危ないから後ろに下がっていろ!」
そう言われても、仁美さんは下がらなかった。
しかしA65がふらりと前に出た。
そのまま両膝をつき、さらに両手をついて頭を差し出す。ここを叩いてくださいと言わんばかりに。
「サトやん!」
仁美さんの声に、A65はかろうじてというか細い声で反論しようとした。
「こ‥‥この人には‥‥」
俺を殺す権利がある‥‥。
そう言おうとしたのに、声がかすれて言葉にならなかった。
身体が、全身が、生を求めてA65の意思に抗おうとする。
震えがきた。
それでも、A65は意思の力でそれをねじ伏せようとした。
この人には、俺を殺す権利がある——!
「そんなことをしても‥‥」
頭上で凛とした仁美さんの声が聞こえた。
「あなたがさらに傷つくだけです。」
が、すぐに下山さんの怒りに満ちた声がそれをさえぎる。
「きれいごとを言うな、女! すっこんでろ! そんなものペットにして、慈善家みたいな面ァしてるお花畑に子どもを殺された親の気持ちなんかわかってたまるか!」
「わかります。わたしは夫と6歳の息子を暴走車の交通事故で失った。」
仁美さんの意外な言葉に、一瞬沈黙が流れた。
「暴走してきた車に、青信号で横断歩道を渡っていた夫と息子は、わたしと8歳の娘の目の前で跳ね飛ばされました。」
仁美さんの声が少し震えた。
下山さんは黙っている。うつむいているA65からは、その表情は見えない。
仁美さんは話を続けた。
「運転していたのは80代の高齢者で、中央省庁で出世したエリートでした。はじめそいつは車の性能のせいにしていましたが、裁判では認められず、懲役7年の判決を受けました。夫と息子の命が、たったの7年ですよ?
わたしがそのとき何を考えたと思います? そいつの家族を殺してやろうかと思ったんですよ。」
A65は戦慄した。
このいつも穏やかな仁美さんが、そんなことを言うなんて‥‥。
「でも、娘に止められました。お母さんまで刑務所に行ったら、わたしはひとりぼっちだ——って。」
A65に向けられていた殺気の圧力が消えた。
「復讐も憎悪も、何も生みません。夫と息子をはねた男は、収監されて半年でドアノブにシャツを掛けて首を吊って自殺しました。その時のわたしの気持ちがわかりますか? ざまあみろ、なんかじゃありませんよ? 逃げんな、バカやろー! でしたよ。」
少しの沈黙があった。
「罪と向き合うこともせずに、安易に死に逃げられてしまったわたしは‥‥怒りも憎しみも、ぶつける場所を失ってしまいました。 まして、もし自分で怒りに任せて手を下してしまっていたら‥‥。
それからわたしは、更生ということを考えるようになったのです。きれいごとでしょうか?」
なんという経験をしているんだ、この人‥‥。
ただの優しい人ではなかった。
A65の想像もできないような人生を歩んできた人だったんだ。
俺は‥‥なんて、甘ちゃんだったんだ。
A65は少しだけ顔を上げる。
遺影の少女が笑っていた。
俺が‥‥この子を‥‥。
こんなクソやろうの俺が‥‥
「あ‥‥あんたに免じて、今日は一旦引き下がる。だが覚えておけ、加藤聖! お前が殺した娘の名前は、下山結衣だ! 小さい頃に‥‥」
泣き声になっている。
「小さい頃に高熱で脳をやられて‥‥、左上半身が自由に動かせなくなって‥‥、それでも頑張って頑張って、あいつは‥‥結衣は大学に合格したんだ! そのお祝いに、左手が不自由でもひとりで着られる服を買ってやる予定だった!
その日だ! なぜ娘を巻き添えにした! おまえが1人で死ねばよかったんだ!」
A65は今度こそ居場所を失った。
自分自身が存在すること自体を、自分で許せなくなった。
帰らないでください。
叩き殺してください。
こんなやつ、生きてる資格なんてない‥‥。
「自殺は許しませんよ。」
突然、頭の上から仁美さんの声が降ってきた。
それは明らかにA65に向けられた言葉だった。
「この人の怒りも憎しみも、全て引き受けなさい。人権があろうとなかろうと、背負いなさい。それがあなたの責任です、サトシさん。」




