33 絡みつくもの
「一応檻に入れなくちゃいけない規定になってるから、嫌だろうけど我慢してね。」
野中さんはそう言って眉を下げた。
「いえ‥‥。部屋に上げてもらえるだけでも‥‥」
恐縮。
という言葉が意味する感情というものを、A65は初めて実感している。自然に肩が前にすぼまり、背中が丸くなる。
野中さんは独り暮らしらしかった。
女性だけの家というのは、こんなふうに甘い匂いのするものなのだろうか‥‥。とA65は思う。
肩をすぼめたまま目だけをキョロキョロさせていると、野中さんがまた声をかけてきた。
「A65さん? ‥‥呼びにくいから、以前の名前教えてくれる?」
「え‥‥?」
「番号じゃなくて、名前があったでしょ?」
「あ‥‥あの‥‥、聖です。」
「ああ、それで。茂さんは『サトやん』と呼んでたのね。わたしも聖さんと呼んでもいいかな?」
「あ‥‥、はい‥‥」
久しぶりにその名前を聞いた。
くすぐったいような感じがすると同時に、何かどうしようもなく重苦しい嫌な感じがあとから湧き上がってくる。
<聖! この点数は何?>
<被告人は加藤聖、25歳。間違いありませんね?>
その名前にまつわる記憶に、いいものがない。
「あの‥‥、すみません‥‥。サトやんの方で‥‥。それか、A65の方がいいです。」
野中さんはちょっと目を丸くしたが、すぐに口の端を上げて微笑んだ。
「わかったわ。じゃあ、サトやんの方で。わたしのことは仁美さんでいいよ。とりあえず、その椅子に座って。今お茶入れるから。」
檻に入らなくてもいいのかな? と思ったが、仁美さんはその目の動きを読んだらしく
「監察官が来るときだけでいいわよ。ほら椅子に座って。」
と言って、A65にダイニングチェアを勧めた。
A65はおずおずと椅子に座る。
逮捕されてから初めて、人のような扱いを受けて少し戸惑う。
ハーブティーは爽やかな香りとまろやかな渋みが絶妙のバランスで、長くまともなものに触れなかったA65の舌の味覚を蘇らせた。
俺がこんな思いをしていいのだろうか?
取り調べ室で、自分が殺した人の人生を話され、「おまえが死ねばよかったんだ」と言われ続けた。
聞けば苦しくなるから、極力ただの雑音として耳から先へ入っていかないように努力していた。
だから内容は何も覚えていない。
ただ、自分が大勢の人生を破壊したのだということだけは、否応なく理解させられた。
ふと、A65の内に敗北感のようなものが浮かび上がってきた。
なんだろう、これは?
A65はその感情の意味を測りかねた。
今、こんなにも快適な環境が与えられたというのに‥‥。それを与えてくれた目の前の女性は、何も俺を責めたりはしていないのに‥‥。
「どうかしたの? お茶、合わなかった?」
「いえ‥‥。」
慌ててそれだけを言ってから、A65は自分が暗い顔をしていたんだと気がつく。
「美味しいです‥‥。」
無理に笑おうとするが、どこか引きつっているのがわかる。
「すみません‥‥」
仁美さんに申し訳ない。
こんなに親切にしてもらっているのに‥‥。
仁美さんの家で飼われるようになって1週間が過ぎた。
仁美さんは弁護士事務所の嘱託事務員(平たく言えばアルバイトだ)として働くかたわら、休日は福祉ボランティアとしても活躍していた。
そのおっとりしたような雰囲気とは裏腹に、エネルギッシュな人だとA65は舌を巻く。
仁美さんは朝早い。
A65はソファベッドの上で仁美さんが作る朝食の匂いで目を覚ます。
スクランブルエッグにパン。ちぎっただけのレタスにセロリとミニトマトを添えたサラダなんかも付く。
2人テーブルで向き合ってそんな朝食を食べた後、仁美さんは慌ただしく出勤してゆく。
仁美さんが出かけた後は、A65は檻に入って扉を閉め、鍵をかける。誰がいつ窓から覗いたとしても大丈夫なように。
ただし鍵はA65に預けられたままだ。
「いいんですか?」
「万が一、火事とかになったら逃げられないでしょ。」
それはそうだけれど‥‥。
「でもわたしがいない間は、家の外に出るのはダメよ。」
もちろんそんなことはしない。仁美さんに迷惑をかけるわけにはいかないし、第一外なんかに出たらどんな人間に出くわすかもわからない。
仁美さんは何冊もお勧めの小説を置いていってくれるから、A65は日がなそれを読んで過ごすのが日課のようになった。
仕事から帰ってきて一緒に夕食をとっている時なんかに、仁美さんは小説の感想などをA65に聞いてくることがある。
A65も仁美さんの親切に応えたくて、夕方近くになると一生懸命感想を考えたりしていた。
そんなふうに感想を言葉にするのが楽しいこともあったが、ときに言葉が出なくなってしまうこともあった。
主人公の何気ない気持ちが書かれている部分や、誰かを大切に思っている描写などに触れたとき、不意に胸が苦しくなってしまう。
自分が、そういう世界の外側にいる加害者である——ということを意識せざるを得なくなってしまうのだ。
A65が感想を言えなくて黙ってしまうとき、仁美さんはいつもこう言った。
「うん。無理しなくていいよ。ほら、食べて。」




