3 人権剥奪者
車の窓が開いて、どう見てもカタギではない顔がA65の顔を覗き込んだ。
「違う。リュウジさんじゃねぇ。」
助手席の男がスマホで誰かと話している。
「こっちじゃなかった。」
後部座席の窓が開いて、銃口が突き出した。
「駆除していこうぜ。バレても罰金だけなんだろ?」
銃口の向こうで若い男がニヤついている。
A65は後退ろうとするが、足に力が入らない。
「やめんか、バカ。」
運転席の男が後部座席の若い男を叱った。
「回収された時に銃弾が見つかってみろ。捜査を受けたらリュウジさんにマイナスだってわからねぇのか。窓閉めろ。向こうに合流するぞ。」
車は激しくタイヤで砂利を弾き飛ばしながら、狭い道で半ば藪に頭を突っ込むようにして方向転換して走り去った。
安堵した途端、A65の足から力が抜けた。
そのまま藪の中にへたり込む。
尻と縮み上がったキンタマに当たる枯れ葉がこそばゆい。
これを「腰が抜ける」というんだな‥‥。とA65は痺れた頭で思った。
どのくらいそうしてへたり込んでいただろう。
A65はようやくのろのろと立ち上がった。
いつまでもこうしていては、蚊だけでなくもっとタチの悪い虫に喰われるかもしれない。
虫除けスプレーなんて、ここにはないのだ。
迷ったあげく、A65は拘置所の方に向かって歩き出した。
すでに陽が西に傾いているのであろう。
太陽そのものは樹木の葉に隠れて見えないが、あたりに暗さが漂い始めている。
中に入れないことはわかっているが、文明の匂いのする場所に行きたかった。
人のいない場所にも‥‥。
歩きながら、乾いた枯れ草を集めてゆく。
幸いにも今年の暑さのせいか、少しひらけた日の当たる場所には暑さで枯れた草の葉がけっこうあった。
それを拘置所の壁際に集めて積む。
潜り込んで寝るにはとても足りないが、それでも何もないよりはマシだろうと思った。
コンクリートの壁にもたれて座り、腹の上に枯れ草を乗せてみたが、とてもじゃないがこれで寝られるとは思えなかった。
夜間に怖い動物でも来たらどうするんだ?
そうだ。
火を焚かなければ‥‥。
そう思ったが、ライターもチャッカマンもない。
そういえば、昔教科書で原始人が火を起こしているイラストを見たな‥‥。
たしか‥‥木の棒をもうひとつの木の上で回していた。
A65もやってみようと思ったが、適当な小枝もない。
そうだ、石と石をぶつけて火花を出すってやり方もあったはずだ。
枯れ草の上で石をぶつけてみたが、火花なんて出ず、ましてや枯れ草に火なんてつかなかった。
空にオレンジ色が混ざり始め、あたりの樹木が黒っぽいシルエットに変わり始める。
この季節、寒くはないが‥‥やはり山の中は危険だろう。
A65はそう判断した。
自然に対する知識など、何も持ってはいない。
人里に下りてみよう。
夜なら、見つかる可能性は少ないに違いない。
上手くすれば、実のなる木なんかもあるかもしれない。
放置された布切れでもなんでもあれば‥‥‥
A65はまた道を下り始めた。
初めはゆっくりだったが、あたりが暗くなるにつれ、言いようのない怯えが背中に襲いかかってきて、やがて小走りに走り始めた。
木々の間から眼下に人家の明かりが見えたとき、A65は泣きそうになった。
しかし‥‥‥
あの明かりは決して彼を受け入れてはくれないだろう。
A65は背後をふり返った。
今来た道の先が真っ暗な闇に包まれている。
その闇の中に何かが潜んでいるような気がした。
A65は人家の明かりの方を眺めた。
あそこに行ったら‥‥‥
叩き殺されるかもしれない‥‥‥。
人殺しのくせに。
自分の命は惜しいか?
そんな声が聞こえた気がした。
たぶんそれは、自分の意識が生み出した幻聴だろう。
腹の虫が鳴いて、胃がきりきりと痛む。
放逐されてから何も口にしていない。
水さえ飲めていない。
口の中が奇妙な感じに粘ついていた。
A65は恐る恐る、明かりに向かって道を進む。
虫が灯に惹かれるように‥‥。
あそこに行けば、水くらい飲めるかもしれない‥‥。
飛んで火に入る夏の虫
そんな言葉がふいに浮かぶ。
水が飲めるなら‥‥
何か食えるなら‥‥
こんな目にあうなら‥‥こんな恐ろしくて惨めな思いをするなら‥‥ひと思いに死刑になった方が、どれほど良かったか‥‥。
どのみち長くは生きられないのだろうから。
こっちの方が、ずっと残酷じゃねーかよ。
住民に叩き殺されるかもしれない‥‥というリスクは、頭ではわかっていてもA65の中ではすでに実感のない概念になってしまっていた。
自然界——という過酷な環境の中に、隔てる布1枚さえない状況で放り出された身体が飢えと渇きからの解放を求めて勝手に足を動かす。
たしかに、その身体はただの動物だった。




