2 人権剥奪者
背後から近づいてくる車の音が聞こえ、A65は道の真ん中から端の草地へと慌てて身を避けた。
小さな小枝がむき出しの肌をひっかいて痛い。
程なく護送車が砂利を弾き飛ばしながらA65のすぐ前を走り抜けて、道を下っていった。施設に残っていた最後の刑務官が退去したのだろう。
そこにA65がいることになど、何の興味もない——といった感じで通り過ぎていった。
A65は改めて思い知るしかない。
自分は人間社会からは完全にはじかれてしまったのだ——と。
「更生の可能性を認めない」と言った裁判長の声が、脳裏によみがえった。
どうする?
車が行った方に道を下ってみるか‥‥。
そっちにはたぶん、人が住んでいるところがある。
そこへ行けば、何がしかの食べ物か捨てられた靴や服が手に入るかもしれない‥‥。
しかし‥‥‥
もし、誰かに出くわしたら‥‥。どんな反応をされるのだろう?
顔に大きく「X」と刺青されたA65を見たら、そいつはどんな反応をするのだろう。
警察を呼ぶ?
いや‥‥、それはない。
なぜなら、すでに判決が出てしまっている「人権剥奪者」なのだから——。
逃げるだろうか?
駆除しようとするだろうか?
A65はGPSのことを思い出した。
かつて「聖」だった頃、ワルのグループが教室の一角で面白半分に「人権剥奪者」のことを話題にしていた。
「GPSが近づくと、スマホに警戒情報が出るんだろ?」
「殺しても罰金刑だけなんだろ?」
「サイコーじゃん。殺りに行きてーな。人殺して罰金だけなんてよ。」
「『人』じゃねーよ。w」
「でも警戒情報なんて見たことあるか?」
「放逐なんて言ってても、案外どこかにまとめて収容してんじゃねーの?」
「人権剥奪者」なんて、ほぼ都市伝説だった。
見かけた——という投稿が、法が施行された当時はNETに出回っていたが、それらはフェイクだとすぐにわかった。
実際、「人権剥奪者」を町中で見た——という真性の情報は、ほぼなかった。
あるいは‥‥‥
とA65は、むき出しの肌にたかる蚊を追い払いながら思う。
「人権剥奪者」は、1週間も経たないうちに死んでしまうのかもしれない。
現代人は文明の中で生きている。
丸裸で自然の中で生きていけるようなスキルなど、何も持っていない。
生きていけるはずがない‥‥。
3人も殺しておいて、自分だけは生きたいか?
と言われそうだが、そういう倫理や観念の話ではなく、布一枚隔てるものさえなく自然という決してヒトに優しいわけではない環境の中に放り出されたA65の身体が、身体感覚として生命の危機を覚えているのだ。
今、この場所で、A65は間違いなく最も弱い生物だった。
拘置所の方に戻ろうか‥‥。とも考えた。
そこには「文明」としての建物がある。
だが、戻ったところで中に入れるわけではない。
高い塀に囲まれ、鉄の扉が1つあるだけの建物‥‥。
窓は、何の手がかりもない垂直の壁の5mも上の方に鉄格子のはまった小さな窓があるだけだ。
そもそも、中に食料だってあるはずがない。使用時以外、人が居ることもない建物なのだ。
A65は道の真ん中で、逡巡のため立ち止まってしまった。
体のあちこちが痒い。
蚊に喰われたからだ。
こいつらはこんなに小さいくせに、人を喰いにくる。
A65は苛立たしげに体のあちこちをぱちぱちと叩くが、襲ってくる蚊の数にはとても追いつかない。
性器の先まで喰われて、むしょうに腹が立った。
これだけ喰われると、悪い病気に感染するかもしれないな‥‥。
そう思ってから、自嘲的な笑いが漏れた。
そんな病気が発症する前に、このままじゃ俺は死んじまうんじゃねぇか?
そのとき、今度は前方から近づく車の音が聞こえた。
A65は道の脇の藪の陰に隠れるように身を避けた。
近づいてくる車は何だろう?
新しい人権剥奪者を乗せてくる護送車だろうか?
車の姿がカーブの先から現れた。
ピカピカの黒塗りのランドローバーだ。
少なくともカタギの人間が乗っている感じの車じゃない。
それがA65の真ん前で、急ブレーキをかけて止まった。
タイヤと砂利の擦れる音が聞こえる。
A65の頭に最悪の可能性が浮かんだ。
GPSを頼りに、人権剥奪者を狩りにきた?
さらに身を隠そうとするが、藪の小枝が邪魔して後ろに下がれない。




