第9話 侯爵、シナリオを改変
夜が、侯爵邸の屋根を静かに包み込んでいた。
風は止まり、蝋燭の炎だけが小さく揺れる。
ヴァルグレイ侯爵ルシアンは、書斎の机に肘をつき、無言で地図を見下ろしていた。
羊皮紙の上には王国全土を描いた地図、赤と黒の印が無数に散っている。
「……やはり、この物語は“私の死”を前提に進むようだな」
低く呟く声。
それは諦めではなく、まるで“俯瞰者の分析”のような冷静さを帯びていた。
羽ペンを握る指が止まる。
彼はゆっくりと椅子に背を預け、天井を見上げた。
そこには、過去の“アニメ”の光景が、記憶の断片として蘇る。
「勇者アレン・ヴァルデン……正義感が強く、民を守る姿は理想的だ。
――だが、それは演出だ。脚本上の“輝き”でしかない。」
口の端に冷笑を浮かべる。
アニメ『聖剣勇者アレン』――その物語の中で、彼・ルシアン=ヴァルグレイは悪役貴族として描かれていた。
民を搾取し、王を裏切り、勇者の正義の名の下に断罪される――。
そして最後に、壮麗な音楽と共に処刑される。
「まるで寓話だな。
正義が勝ち、悪が滅びる――そんな安直な筋書き。」
しかし、今の彼は“物語の中”にいる。
そして知っている。この物語の行き着く先も。
「……だが、それを避けるために私はここにいる。」
その瞳が、夜の闇の中でわずかに光った。
ペン先が、羊皮紙の上で再び動き出す。
彼は一枚の紙に“登場人物一覧”を書き出していく。
勇者アレン・ヴァルデン――民衆の希望。
魔法使いリリィ・セントローズ――理性と感情の橋渡し。
聖騎士ガイア・ブライトハンド――忠義の象徴。
狙撃手カミラ・ナイトウィンド――静寂の刃。
僧侶トレヴァー・シルバーホーク――癒しの声。
そして最後に――
“悪役”ルシアン・ヴァルグレイ。
彼はその名の上に、細い線を引く。
「民衆が熱狂し、正義が輝く時、必ず“影”が生まれる。
それがこの国ではヴァルグレイ家……つまり、私というわけだ。」
そう呟いた声は静かだったが、そこに宿るのは異様な決意だった。
「勇者が光であるなら、私は影だ。
だが――光が存在しなければ、影も生まれない。」
ルシアンは微笑んだ。
まるで自分の存在そのものを、物語の仕組みの一部として解体しているかのように。
「この舞台を壊すのは、観客ではなく――登場人物自身だ。」
地図の中央に描かれた王都を見つめながら、彼はペン先を走らせる。
赤く染められた印――それは“勇者派”。
黒く塗られた印――“反勇者派”。
その中で最も濃く、黒く塗りつぶされた場所こそ、ヴァルグレイ侯爵領だった。
「勇者が力を持てば、王と貴族は分裂する……それがこの国の脚本だ。」
ルシアンは苦笑を漏らした。
それは悲しみではなく、“自嘲に似た知略の笑み”だった。
「アニメでは、我が家が内乱の元凶とされた。
民衆に憎まれ、王に裏切られ、勇者に断罪される。――それで幕だ。」
ペンが地図を指し示す。
侯爵領の上に、“大きな×印”を描いた。
「だが私は悪役を演じきるつもりはない。
――脚本そのものを塗り替える。」
夜が更けていく。
蝋燭の炎が短くなり、静寂の中にルシアンの声が落ちる。
「さて、勇者パーティーの“駒”を整理しておこうか。」
紙の上に一つずつ名前を並べながら、彼は低く分析する。
「アレン・ヴァルデン――理想主義で直情的。
利用するのは容易い。彼は信じる者を疑わない。」
ペン先が止まる。
「リリィ・セントローズ――交渉に長け、情に厚い。
彼女を通せば、情報の出入りを制御できる。」
「ガイア・ブライトハンド――忠義の騎士。
だが忠義は時に盲信へ変わる。そこを突けば揺らぐ。」
「カミラ・ナイトウィンド――冷静沈着。
感情の隙を作るには……“共闘”が必要か。」
「そして、トレヴァー・シルバーホーク。
争いを止める存在。最も“危険”だ。中立は、時に秩序を破壊する。」
書き終えた紙の中央に、自らの名を記す。
“L. VARGREY”――その名を中心に、赤い線で全員の名を結ぶ。
「――利用するのではない。観察するのだ。
私はもはや登場人物ではなく、観測者となる。」
扉が静かにノックされた。
入室したのは黒髪の男――執事、セバスチャン・ノアールだった。
「お呼びでしょうか、旦那様。」
「来たか、セバスチャン。……例の件、どうなっている?」
「勇者一行、北方へ向かう模様です。討伐と称して民を鼓舞し、人気は上昇。
王都でも“救世主”と称える声が多数。」
「ふむ……やはり脚本通りだな。
では、我々も“観客席”を選び直さねばな。」
セバスチャンの眉がわずかに動く。
この主は、常に“舞台”という比喩で語る。
「観客席、でございますか?」
「そうだ。舞台の上で踊る者は、筋書きに縛られる。
だが観客席からなら、脚本を読める。」
ルシアンは紙束をセバスチャンへ渡した。
それは王国内の商人・宿場・情報屋のリストだった。
「商人を通じて、勇者の行動を逐一報告させろ。
街道沿いには密偵を配置。宿場には耳を置け。
……そして――補助役を装い、パーティーに潜り込める者を探せ。」
「承知しました。」
セバスチャンが深く一礼する。
その目には忠誠と、わずかな不安が同居していた。
「旦那様……この計画、危険では?」
「危険こそ愉快だ。
なにせ、アニメには“スパイ”など存在しなかったからな。」
ルシアンは微笑んだ。
それは氷のように冷たく、美しい笑みだった。
セバスチャンが去った後、書斎には再び静寂が戻る。
羽ペンの音だけが、夜に淡く響く。
ルシアンは紙に一行、黒い文字を記した。
『計画名:リ・スクリプト(再脚本)』
「結末を知る者は、運命の支配者でもある。
――ならば私は、物語の神をも出し抜いてやろう。」
窓から差し込む月光が、机の上の地図を照らした。
その光の中心に、赤と黒が混ざり合い、奇妙な陰影を描く。
「アレン・ヴァルデン。
君の“正義”が燃え上がる時――
私は、君の影として微笑もう。」
ルシアンは静かにペンを置いた。
その瞬間、夜が深まり、蝋燭の炎が消える。
――書斎に残るのは、ひとりの侯爵と、まだ見ぬ未来の音。
それは、脚本の“書き換え”が始まる合図だった。




