第8話 勇者、宣戦 ― 王女の涙、侯爵の微笑
王城の謁見室には、静寂が満ちていた。
天井のステンドグラスを通して差し込む光が、白い床に淡く揺れている。
その中央で、王女セリーヌ=アルヴァ=リグレインは報告書を握りしめ、震える声を押し殺していた。
「……また、ですか。侯爵ルシアンが民への徴税を厳しく命じたと?」
侍女が小さく頷く。
そして、王都に流れる噂を恐る恐る口にした。
「――殿下を侮辱なさった、と。『お飾りの王女』だと……」
「っ……!」
胸の奥が痛む。
違う――あの言葉は侮辱ではないの。
だが、誰も信じようとしない。噂は刃よりも鋭く、王女の心を傷つけていく。
そのとき、扉が激しく開かれた。
「セリーヌ殿下!」
勇者アレン・ヴァルデンが駆け込んできた。
漆黒の髪が乱れ、瞳には怒りと正義の炎が燃えている。
「もう耐える必要はありません。貴女を泣かせる者を……俺が許さない。」
「だ、だめ……アレン、お願い、あの方は――!」
「殿下。貴女が庇うからこそ、あの男は増長するのです。
俺が、この手で正義を証明してみせる。」
アレンの拳が震えていた。
その背を見つめるセリーヌの頬を、ひとすじの涙が伝う。
扉が閉じる音は、まるで運命の鐘のように響いた。
勇者は歩み出す――王女の涙を、正義の剣で断つために。
侯爵邸の午後。
薄暗い応接室に、紅茶の香りが漂う。
ルシアン=ヴァルグレイ侯爵は優雅にカップを傾け、灰色の瞳に薄い光を宿していた。
「来るぞ、セバスチャン。勇者アレンだ。」
老執事が小さく息を呑む。
「……予定より早いですな。殿下が止められなかったようで。」
「涙には力がある。正義を燃やすには、十分すぎるほどにな。」
コン、コン――。
扉を叩く音が、静けさを破る。
やがて、憤怒の炎を宿した青年が入ってきた。
「侯爵ルシアン。貴殿が王女殿下を侮辱したという噂――否定はできまいな!」
「侮辱? 事実を述べただけだ。“お飾り”と呼ばれたのが、それほど痛かったか?」
「黙れ!」
アレンの手が、剣の柄を掴む。
金属がわずかに擦れ、冷たい音を立てた。
「ここは貴族の館だ。血で床を汚す趣味はない。」
ルシアンの声は静かで、それでいて刃のように冷たい。
「貴様……!」
「怒りで剣を抜く者は、正義ではなく――ただの愚者だ。」
その言葉に、アレンの瞳が燃え上がる。
しかし、彼の理性もまた、冷静な男の言葉にわずかに揺れていた。
重い空気の中、ふたりの視線がぶつかる。
「俺は、誰かを泣かせる“正義”など認めない!」
「だが、泣くことで守られる者もいる。」
「詭弁だ!」
「詭弁を嫌う者ほど、他人の真実を見ない。」
アレンは前へと踏み出す。
床が鳴り、壁に飾られた肖像画がわずかに揺れた。
「貴様がどれだけ理屈を並べようと、王女殿下を苦しめた事実は変わらない!」
「殿下を苦しめているのは、俺ではなく……この国そのものだ。」
「何を言って――」
「この国は崩れる。誰かが汚れ役を引き受けねば、理想は守れん。」
「……ならば俺は、貴様を討ってでも理想を守る!」
ルシアンは、ふっと微笑んだ。
「それでいい。お前がそうである限り、この国の光は消えん。」
「……!」
アレンの胸の奥に、熱く重い感情が渦巻いた。
次の瞬間――
「言葉はもう要らん!」
アレンが踏み込み、剣が閃光を放つ。
その一撃は怒りと悲しみを込めた烈火の斬撃。
だが、ルシアンはわずかに首を傾けるだけでかわした。
金属が空を裂く音。
続く回転斬りを、侯爵は片腕で弾き飛ばす。
「……っ、速い!」
「剣の速さは、心の焦りの速さに等しい。」
「何だと!」
アレンの二撃目。突き、袈裟、逆袈裟――。
鋭く、正確で、怒りが研ぎ澄まされていた。
だが、ルシアンは避けるたび、まるで舞うように笑みを浮かべる。
「なぜ避ける! 戦え!」
「貴様の怒りに価値を見いだせるほど、私は暇ではない。」
「ふざけるな!」
「ふざけているのはお前だ。剣は怒りで振るうものではない。」
激しい剣風が絨毯を切り裂き、壁に刃痕を刻む。
その中で、ルシアンは一歩、静かに踏み出す。
――そして指先で、アレンの胸元を突いた。
「お前の正義は、まだ甘い。……だが嫌いではない。」
その瞬間、全身の力が抜けたようにアレンの膝が落ちた。
冷たい瞳が彼を見下ろす。
「なぜ……戦わなかった……」
「戦う価値がある時にしか、剣は抜かん。」
「次は本気でいく。その時、貴様を討つ!」
「歓迎しよう。英雄にふさわしい“敵役”としてな。」
ふたりの影が交差する。
その刹那、互いの中に芽生えたのは――憎しみではなく、奇妙な尊敬だった。
夜明け前。
侯爵邸のバルコニーで、ルシアンは紅茶を傾けていた。
東の空が淡く明るむ。
「勇者が俺を敵と認識した。それでいい。筋書きは進む。」
「ですが、殿下は――」
「構わん。」
セバスチャンは一礼し、背を向ける。
残されたルシアンは、ふっと笑った。
それは勝利の笑みではない。
己の運命を嘲るような、哀しみを含んだ笑みだった。
(――すまないな、王女殿下。お前を泣かせる役目が、俺の運命らしい。)
マントが夜風に揺れ、遠くで鐘が鳴る。




