第7話 笑う悪役、揺れる王女
王女セリーヌが侯爵邸を後にして、まだ半日も経たぬうちに――。
王都の空気は、まるで火のついた油のようにざわめいていた。
「聞いたか? 侯爵が王女殿下を泣かせたって!」
「“お飾りの王女”って言ったらしい!」
「うわぁ……命知らずだな。さすが“冷酷侯爵”!」
酒場でも市場でも、噂は瞬く間に広がった。
事実は誰も知らない。だが、尾ひれは羽ばたくように増え続ける。
“侯爵ルシアン=ヴァルグレイ、王女侮辱事件”――その見出しが人々の口に踊っていた。
その報告を受け、侯爵邸の執務室。
重厚なカーテンの隙間から光が差し込み、机上の文書を照らす。
「……ふむ。」
ルシアンは報告書をめくり、口元にわずかな笑みを浮かべた。
「面白い。民の口は実に軽い。だが、悪評も使いようだ。」
「侯爵様……よろしいのですか? 王女殿下の怒りを買えば、やがて勇者様にも――」
「望むところだ。敵意が深まるほど、筋書きは自然になる。」
紅茶の香りが静かに漂う。
だがその瞳の奥に宿る光は、鋭く、何かを見据えていた。
「……この国の“正義”は、感情で動く。ならば俺は、感情を操る悪として生きよう。」
「……」
セバスチャンは黙して頭を下げた。
その表情の奥に、わずかな影が差す。
――主はどこまで“悪”を演じ続けるのか。
忠誠の心に、ほんの一滴の疑念が落ちた。
数日後、午前。
王都中心区を抜ける石畳の道を、黒塗りの馬車が進んでいた。
その中で、ルシアンは書簡を読みながらぼそりと呟く。
「議事堂での面会、か。……面倒だな。」
外ではセバスチャンが御者を務める。
王都の喧騒の中、突然――
ガタン、と馬車が大きく揺れた。
「……何だ?」
前方の角を曲がった瞬間、眩い白銀の馬車が現れた。
王家の紋章――リグレインの双翼が刻まれている。
「……王女殿下、か。」
目と目が、わずかな隙間からぶつかる。
互いに一瞬、時が止まったようだった。
「……っ!」
セリーヌの表情がこわばる。だがその直後――
ゴトンッ!
王女の馬車が石畳の段差で大きく揺れた。
セリーヌの身体がふわりと浮き、窓際に傾く。
「きゃあっ――!」
咄嗟に馬車を飛び降り、駆け寄ったのはルシアンだった。
黒い外套が翻り、伸ばされた腕が彼女の腰を確かに掴む。
「……殿下。」
金糸のような髪が風に舞い、二人の間をかすめた。
一瞬、世界の音が消える。
青と黒――二つの瞳が、間近で交わった。
「~~~~っ!」
セリーヌの顔が、瞬時に真っ赤に染まる。
まるで煮え立つ紅茶のように、頬まで熱くなった。
「王女殿下ともあろうお方が、この程度で転びかけるとは……やはり“お飾り”か?」
「な、な……! だ、誰が助けてくれと頼みましたの!? 放しなさいっ!」
「……では、落ちますよ?」
「~~っ! お、お放しなさいってばぁ!」
周囲には、通りの人々がぽかんと見つめていた。
護衛たちが慌てて駆け寄るが、セリーヌはルシアンの腕を乱暴に払い、ふらつきながらも立ち上がる。
「もう結構ですわ! 二度と関わらないで!」
「ええ、願ってもない。」
皮肉げに微笑むルシアン。
その目の奥には、冷たい計算が宿っていた。
(敵意も評判も、すべて計算通りだ。俺は“悪役”で構わない。だが――見られている。民衆は、“侯爵が王女を助けた”という光景を。)
通りの噂はまたひとつ、尾ひれを得る。
『侯爵は冷酷だが、義理は通す』と。
それが、ルシアンの狙いだった。
王宮の一室。
夜の帳が下り、窓辺に月光が差し込む。
セリーヌはベッドの上で転がっていた。
金の髪を乱し、顔を真っ赤にして枕を抱きしめている。
「~~~~~っっ!」
「お、お嬢様……お体の具合でも?」
「な、なんでもありませんっ! 誰も入らないでっ!」
侍女が慌てて退室し、部屋にはセリーヌ一人。
彼女は枕に顔を埋めながら、ぐるぐると唸る。
「冷たくて、意地悪で、最低で……! でも――」
脳裏に蘇る、あの瞬間。
自分を支えたルシアンの腕の強さ。
わずかに香った紅茶と黒檀の匂い。
そして――ほんの一瞬、彼の瞳に映った“柔らかい何か”。
「……あれは、錯覚よね?」
心臓が、ドクンと鳴る。
「どうして……どうしてこんなに気になるの……?」
怒りとも恥とも違う、もどかしい熱が胸を締め付ける。
「……嫌い。大っ嫌い。……なのに、なぜ……」
枕に顔を埋め、声にならない叫びをあげた。
その瞳の奥で、小さな“興味”が芽生える。
彼の冷たい仮面の下にあるものを、知りたい――
危うい想いが、彼女の心に根を張り始めた。
夜。侯爵邸。
ランプの灯りが執務机を照らし、書類が整然と並ぶ。
「王女殿下は、たいそうお怒りのようで。」
セバスチャンの声に、ルシアンは視線も上げず答えた。
「予定通りだ。」
さらりと紙をめくる音。
だが、指先がわずかに止まった。
(……あの顔。頬の赤みは怒りか、羞恥か……それとも。)
「……くだらん。」
椅子にもたれ、低く呟く。
「俺が気にすべきは“破滅回避”だけだ。」
ペンを走らせながらも、胸の奥に妙な引っかかりが残る。
セバスチャンは静かにそれを見つめた。
「……侯爵様。」
「なんだ。」
「……あなたは、本当に“悪”を演じ切れるおつもりですか。」
「演じる? 違うな。これは選択だ。俺が生き残るための。」
静寂。
ランプの炎が、二人の影を揺らした。
セバスチャンは深く頭を下げ、ただ一言、心の中で祈る。
――願わくば、この仮面の裏に、まだ人の心が残っていますように。
その頃、王都南区の訓練場。
勇者アレンは剣を握りしめていた。
風を切る剣閃。額を流れる汗。
だが、その瞳は穏やかではなかった。
「……ルシアン=ヴァルグレイが、王女殿下を侮辱した?」
仲間の騎士が息を呑む。
アレンは剣を鞘に戻し、静かに言った。
「王女殿下は、俺たちの希望だ。彼女を貶めることは、この国を侮辱することと同じだ。」
握りしめた拳が、震えている。
それは怒りだけではない。
ほんのわずかに混じる“嫉妬”が、彼の胸を焦がしていた。
(侯爵……次に会う時は、必ずお前を裁く。
光の名の下に――お前の“偽りの正義”を、俺が終わらせる。)
その瞳に宿った蒼き炎が、次の悲劇を呼ぶことを、彼はまだ知らなかった。
夜風が吹く。
侯爵邸のバルコニーに、黒衣の男が立っていた。
月光を浴び、静かに目を閉じる。
「……俺を憎め。お前たちが笑える未来のために。」
彼の瞳に映るのは、遠く光る王城の灯り。
その下で、王女もまた、窓辺で同じ光を見つめていた。
セバスチャンが静かに背後で言う。
「……もしも“悪”を演じる理由があるのなら。どうか、その道の果てで救われますように。」
風が二人の間を通り抜け、夜空に溶けていった。
まるで誰かの祈りを運ぶように――。




