第6話 王女の視察 ― 黄金の瞳と青の誓い
侯爵邸に、その知らせが届いたのは朝食を終えた直後だった。
「……王女殿下が直々に視察にお越しになる、だと?」
ルシアン=ヴァルグレイは、手にしていた紅茶のカップを静かに戻した。
仕草は優雅、表情も冷静。だがその金色の瞳の奥には、一瞬だけ鋭い光が走る。
(王女セリーヌ。勇者ルート確定のヒロイン。最悪のイベント、来訪だな……)
心の中で舌打ちする。
破滅フラグという単語が脳裏をよぎるのを、彼は何度も経験していた。
「ルシアン様、いかがなさいまか?」
執事セバスチャンが恭しく一礼しながら問う。
白髪の老執事、その瞳は常に冷静で澄んでいる。
「決まっている。迎え入れるまでだ。……拒めば“謀反の兆し”と受け取られるだけだろう」
「承知しました。準備を整えます」
ルシアンはゆっくり立ち上がる。
漆黒の燕尾服に手を通しながら、鏡越しに自分を見据えた。
整った顔立ちの奥に、疲れたような微笑。
(嫌われすぎても破滅。好かれすぎてもルートが狂う。……まったく、悪役はつらい商売だ)
セバスチャンが去った後、部屋に残るのは時計の音だけ。
ルシアンは窓の外、晴れ渡る王都の空を見上げた。
そこへ――白銀の馬車が、音もなく近づいていた。
侯爵邸の正門前。
馬車の扉が開かれ、陽光が一人の少女を照らす。
金糸のような髪が風に舞い、透き通る青の瞳が光を返した。
王国第一王女――セリーヌ=アルヴァ=リグレイン。
その姿は、まるで聖女の化身のようだった。
その後ろに控えるのは、黒髪の青年――勇者アレン・ヴァルデン。
瞳に宿るのは、疑いと正義の光。
「侯爵ルシアン殿。王家の名において、視察をさせていただきますわ」 澄んだ声。
だがその奥には、わずかな警戒の色があった。
ルシアンは、優雅に片膝を折って答える。
「……歓迎いたしますよ、王女殿下。ただし――ここは貴族の屋敷です。礼儀を欠けば、容赦はいたしませんが」
「っ……! まあ、随分とご自分に自信がおありのようですわね」
セリーヌの眉がぴくりと動く。
アレンが半歩前に出かけるが、セリーヌが手を上げて制した。
「ご忠告、ありがたく受け止めますわ。侯爵殿」
「それは光栄に。……では、どうぞ中へ」
互いの笑みは、氷のように冷たい。
ルシアンは背を向け、彼らを屋敷へと案内した。
(勇者アレンまで同行とは……。お膳立てが過ぎる。まるで“断罪イベント”の予告だ)
応接間。
金の装飾が施されたティーセットと、甘い紅茶の香りが満ちる。
しかし、空気はそれとは正反対に張り詰めていた。
「……この茶葉、香りはよろしいですが。味わいはやや重いですわね 「王家のお口に合わぬのであれば、お戻りいただいても結構ですが?」
「なっ……! わ、私はただ、率直な感想を……!」
「率直さは美徳。だが無遠慮は悪徳。王女殿下ほどのお立場であれば、もう少しお言葉を選ばれてはいかがか」
ぴしり、と空気が裂ける音がした。
アレンの手が、思わず剣の柄に触れそうになる。
「……侯爵殿。お言葉には気をつけられたほうがよい。王家に対する不敬は――」
「勇者殿。ここは貴族の屋敷だ。剣よりも言葉が重んじられる場であることを、お忘れなきよう」
アレンの眉がわずかに動く。
セリーヌが彼を制し、ふたたびルシアンを見据えた。
「あなたが噂通りの“冷酷侯爵”であることは理解いたしました。けれど――民の声を、どれほど聞いておられるのです?」
「民の声? 必要があれば、耳に届く。だが、すべての声に応えようとすれば、国家は瓦解する」
「それでも、見捨てることは許されません!」
セリーヌの声が少し震えた。
ルシアンはカップを持ち上げ、冷ややかに笑う。
「理想を掲げるのは王女の務め。現実を処理するのが我々貴族の役目だ」
次の瞬間――カシャンッ!
ティーカップが揺れ、紅茶がセリーヌの白いドレスに跳ねた。
「きゃっ……!」
アレンが立ち上がりかけるが、セリーヌは慌てて制止。
震える指でハンカチを取り出し、裾を押さえる。
ルシアンは静かに息をつき、低く呟いた。
「やはり“お飾りの王女”という評は正しかったようだ」
「なっ……! そ、そんなことありませんわ!」
セリーヌの青い瞳が、燃えるように揺れた。
怒り、羞恥、そして――悔しさ。
ルシアンは一瞬だけ、その人間らしい反応に微笑みかけそうになったが、
それを押し殺し、冷たく告げた。
「では、その証明を――ご自分の行動でなさることです」
紅茶の香りの中に、かすかな毒気が漂った。
視察は、形だけで終わった。
王女一行が去る準備をする間も、空気は重く沈んでいた。
「……殿下、そろそろ」
「ええ。――侯爵殿、今日のこと、忘れませんわ」
「光栄です。記憶に残る出会いというのは、人生にそう多くはありませんから」
皮肉に返すルシアンに、セリーヌはぎゅっと唇を結んだ。
そのまま馬車に乗り込む。
ルシアンはカーテンの影から、その背中を見送った。
(俺を憎め。それでいい。お前が俺を悪と断じることで、未来の歯車は動く……)
だが、馬車が動き出したその瞬間。
セリーヌが、ふと振り返った。
彼女の瞳に浮かんだのは――一瞬のためらい。
言葉にならない疑問が、風に溶けて消える。
ルシアンはただ、静かに目を細めた。
王女一行が去った後の応接間。
冷めた紅茶の香りが、どこか哀しげに漂っていた。
セバスチャンは静かに片付けを進めながら、主の背中を見つめる。
ルシアンは窓辺に立ち、遠ざかる馬車を黙って見送っていた。
「……殿下は、侯爵様を“悪”と見た。だが本当にそうか?」
老執事は低く呟く。
その声は、誰にも届かない。
机の上に、一枚の手拭き布が残されていた。
それは、王女が紅茶をこぼしたとき――
ルシアンが、自分の袖で拭い、そっと置いたものだった。
「……演じておられるのでは、侯爵様」
セバスチャンの瞳に、一瞬の光が宿る。
忠誠と疑念。二つの想いが、静かに交錯していた。
王都の街道。
夕陽に照らされた馬車の中、沈黙が流れていた。
セリーヌは外を見つめ、アレンは険しい顔で腕を組んでいる。
「殿下……あの男、侯爵ルシアン。許せません。いつか必ず、あの傲慢な仮面を剥いでやる」
アレンの声には、抑えきれぬ怒りが滲む。
セリーヌは小さく息をつき、彼を見た。
「……裁く、だけでは足りませんわ」
「え?」
「彼の“本質”を見極める必要があります。あの人の目は――確かに冷たかった。けれど、どこか……哀しそうでもありました」
「殿下、危険です。あの男は――人を殺す目をしている」
「ええ。けれど、あの目が“誰かを救おうとした”ことがあるようにも思えるのです」
馬車の中に、沈黙が戻る。
外では、夕陽が王都の塔を朱に染めていた。
一方その頃、侯爵邸のバルコニー。
ルシアンはワインを傾け、遠くの空を見つめていた。
「俺を憎め。……それでいい。お前たちが笑える未来のために、俺は“悪”でいよう」
その声は、夕焼けに溶けていった。
夜。
侯爵邸の灯りが一つ、また一つと消えていく。
セバスチャンが静かに部屋へ戻ると、ルシアンはまだバルコニーにいた。
風が金の髪を揺らす。
「……本日は、お疲れ様でございました」
「ふむ。だが、まだ始まったばかりだ。運命の歯車は――止まらない」
その金の瞳が、夜空の星を映す。
忠実なる執事はただ一礼し、胸の奥で小さく呟いた。
「――侯爵様。どうか、あまりにも孤独な悪役にはならないでくださいませ」
そして夜は静かに、更けていった。




