第4話 ルシアン正義の剣を迎える
重厚な扉が軋みを上げて開く音が、謁見室の冷たい空気を震わせた。
赤い絨毯の先、玉座に座る俺――ルシアン=ヴァルグレイ。
正面には、光を纏うような青年が立っていた。
勇者アレン・ヴァルデン。
黄金の髪が燦然と輝き、青い瞳が真っ直ぐ俺を射抜く。
だが、その瞳の奥には“もう一つの炎”が見えた。
――断罪の光。
俺は冷ややかに笑みを浮かべ、ワイングラスを傾けた。
「ほう……噂の勇者殿が、わざわざ辺境の侯爵領へ。光栄なことですな」
アレンは一歩、床を踏みしめた。その足音だけで廷臣たちが息を呑む。
「侯爵ルシアン。あなたの領で――民が苦しんでいます」
声は静かだった。だが、剣よりも鋭い。
俺はゆっくりとグラスを回す。
「苦しみ? 日照りに枯れる草を憂う暇があるとは、随分とお優しい」
「民を草と呼ぶのですか!」
声を上げたのは、勇者の傍らに立つ王女――セリーヌ・アルヴェイン。
金糸の髪が揺れ、青い瞳に怒りの光。
「この国を支える民を踏みにじって何が貴族です!」
「ほう……王女殿下が辺境まで口を出されるとは。お暇なのですな」
「ルシアン侯!」
廷臣たちが青ざめる。だが俺は笑みを崩さない。
アレンは黙って二人の間に立ち、低く告げた。
「人は雑草ではない。命には尊厳がある。あなたのやり方は――人として許されない」
その瞳。
正義の光。
だが、俺にはわかる。あれは純粋すぎて壊れやすい“炎”だ。
「ならばどうする?」
俺は椅子の肘掛けを軽く叩いた。
「この場で俺を斬るか? 勇者殿」
空気が凍りついた。
だが、アレンは剣を抜かない。
ただ――その拳を、強く握りしめた。
「……あなたの真実を、必ず見つける」
低く、それでも確信に満ちた声。
(真実? ――いや、知られちゃ困るんだよ)
俺はあえて冷笑を浮かべ、グラスを床に叩きつけた。
砕け散る音が、場の緊張を切り裂く。
「二度と俺の領地に口を出すな。命が惜しければな」
アレンは何も言わず、背を向けた。
ただその背中から、“必ず討つ”という意志が滲み出ていた。
静寂。
その中で執事セバスチャンが恭しく頭を下げた。
「見事なお立ち回りにございます、侯爵様。勇者とて軽々に刃を抜くことはできませぬ」
セバスチャンは微笑した。
石造りの廊下を歩く勇者の足音だけが響く。
背後で閉ざされた扉の音が、アレンの胸に深く刺さった。
(……あれが、侯爵ルシアン。民を虐げ、笑う男。許せない)
彼は拳を見つめた。
爪が掌に食い込むほど握りしめながら、心の奥で呟く。
「剣はまだ鞘にある。だが、決意は抜いた。
――お前を断罪してやる、ルシアン」
セリーヌが不安げにアレンの腕を見上げる。
「アレン……顔色が」
「大丈夫です、王女殿下。ただ、決めました」
「……なにを?」
「この国のために――侯爵を裁く。それが、俺の使命です」
風が吹いた。
冷たい夜の風が、二人の決意を運んでいく。
「聞いたか? 辺境の侯爵ルシアンがまた商人を潰したらしい」
「塩を買い占めて倍値で売りつけたとか……まったく悪魔だな」
王都の市場。
昼下がりの喧噪の中、そんな声が飛び交っていた。
その噂の大半が虚偽であることを、誰も知らない。
実際には、侯爵は密かに備蓄を解放し、飢饉の村を救っている。
だが、善行は闇の中。悪名だけが光の下で広がっていく。
高台からその光景を見下ろしながら、俺はワインを一口。
「嫌われるのも仕事のうちだ。……だが、嫌われるほど手が動かしやすい」
セバスチャンが静かに頷く。
「侯爵様。正義とは時に、誰かが悪を演じねば成り立ちませぬ」
「わかってるさ。」
俺たちは笑った。
だが、その笑いはどこか乾いていた。
「父上、このままでは国が崩れます!」
王女セリーヌの声が会議室に響いた。
貴族たちはざわめき、王は重々しく眉を寄せる。
「セリーヌ、落ち着け。ルシアンは侯爵位を持つ大貴族だ。
軽々に手を出せば、戦になる」
「ですが、民が――!」
その叫びの裏で、貴族たちの囁きが聞こえる。
「勇者に任せればいい」
「そうだ、我々が動くより安全だ」
勇者の名が、政治の“便利な免罪符”として使われていく。
セリーヌは唇を噛んだ。
(正義が誰かの都合に利用される……?)
その夜、アレンは密かに決意を固めていた。
「誰が何を言おうと、俺は――自分の手で裁く」
夜更け。侯爵邸の執務室。
蝋燭の炎が静かに揺れ、帳簿の山が影を落とす。
「セバスチャン、食糧庫の在庫は?」
「すでに東部の飢えた村へ回しました。名義は……例の商会で」
「よし。ついでに帳簿は“私的な投機”として偽装しろ」
俺はペンを置き、息を吐いた。
「これで俺はまた悪党確定か」
「侯爵様、悪名もまた盾です。真実を隠すには最も有効な仮面でございます」
「わかってる。だが、たまに思うんだ――このまま“悪役”で死ぬのも悪くねぇかもな」
セバスチャンは一瞬だけ表情を曇らせた。
「……そのようなことをおっしゃらぬで」
「冗談だよ」
そう言いながら、俺は窓の外に目を向ける。
暗闇の中、倉庫街の方角に小さな灯が揺れていた。
それは――密かに運ばれる食料の荷馬車の灯。
(民が笑うなら、それでいい。俺は悪で構わん)
深夜。
侯爵邸の高窓から、王都の遠い灯が見える。
グラスの中で氷が小さく鳴った。
俺は呟く。
「悪を演じるのも、もう慣れたつもりだった。
だがな……時々思う。誰かが本気で俺を憎む顔を見るたびに、
“これでいいのか”ってな」
セバスチャンが答えようとしたが、俺は手を上げて制した。
「いいんだ。勇者が俺を討つ。それで、この国の均衡が保たれるなら」
夜風が吹き、帳簿の紙がめくれる。
俺は目を細め、ぽつりと呟いた。
「来い、勇者アレン。お前が望む“断罪”を、その手で下すがいい」
そして――ワインを一口。
血のように赤い液体が喉を焼く。
「だが忘れるな……その断罪の後、誰が笑うかを」
静寂の中、氷がまた一度、鈍く鳴った。




