第37話 上級魔族
儀式場の中心で、それは――裂けた。
最初は、髪の毛一本ほどの細い黒線だった。
だが次の瞬間、その線は不自然なほどの速度で拡張を始める。
ビリ……ビリビリビリッ!!
裂け目は生き物のように脈動し、空間そのものを喰い破る。
黒が広がり、光が逃げ、音が潰れる。
「……っ」
アレンは、思わず息を呑んだ。
喉の奥が、ひくりと鳴る。
空気が――重い。
ただ濃いのではない。
吸い込むたび、肺の内側から押し潰されるような圧迫感。
音が沈み、光が歪み、床に立っているはずなのに、足元の感覚すら曖昧になる。
視界が、わずかに暗転する。
色彩が一段、落ちる。
これまで相手にしてきた魔族とは、明確に違う。
「……うん。覚悟決めるしかないわね」
声は落ち着いている。だが、その音程は明らかに低い。
「ええ。魔力密度が異常です」
トレヴァーの視線は、裂け目から一瞬たりとも逸れていない。
指先が、わずかに震えている。
「中級……いえ」
一拍、息を吸う。
「上級です」
「チッ」
ガイアが舌打ちした。
だが、その口元は――歪んだ笑みを浮かべている。
「やっと骨のある連中かよ」
ギギギ……ッ
耳障りな軋み音。
「……っ!?」
エリアスが張っていた《多重防護結界》の表面に、目に見えるほどの歪みが走った。
(まずい……完全には、抑えきれない)
結界はまだ維持できている。
だが、“圧”そのものが削ってくる。
魔力干渉でも、衝撃でもない。
存在するだけで結界を摩耗させる、異質な圧力。
「……来るわ」
カミラが弓を構え、低く呟いた。
そして――
黒い裂け目の奥から、影が三つ、ゆっくりと姿を現した。
最初に現れたのは――翼。
人の背丈を優に超える、巨大な黒翼。
羽ばたくでもなく、ただ広げられただけで、空気が切り裂かれる。
漆黒の羽根は一枚一枚が刃のように鋭く、光を拒絶するように艶を失っている。
「――ほう。人間の結界か」
低く、よく通る声。
男は、宙に浮かんだまま、悠然と腕を組んだ。
「我は黒翼の将」
翼が、わずかに震える。
「空を支配し、速度に誇りを持つ者」
その言葉通り、周囲の空気が歪む。
次の瞬間には、どこへでも消えそうな――そんな気配。
「……速さ特化か」
アレンが小さく呟く。
次いで。
ドン……ッ
地面を踏み砕く、重低音。
全身を炎の甲冑に包んだ、巨躯の騎士が一歩前に出る。
踏み出しただけで、床の石材が蜘蛛の巣状に砕け散った。
「ハハッ……いい匂いだ」
甲冑の隙間から、赤熱した炎が漏れ出す。
空気が一気に熱を帯び、呼吸が焼けつく。
獄炎の騎士
「戦いを楽しみに来た。存分に殴り合おうじゃねえか、人間ども」
男は拳を打ち鳴らし、豪快に笑った。
「望むところだ!」
ガイアが大剣を肩に担ぎ、獰猛に笑った。
そして――最後。
ふわり、と。
音もなく現れたのは、紫髪の女だった。
まるで最初からそこにいたかのように、自然に。
紫の瞳が、静かに一同を見渡す。
「……」
名乗らない。
ただ、見る。
装備。立ち位置。呼吸。視線の癖。
誰と誰が信頼し合い、誰が軸なのか。
まるで盤上の駒を吟味するように。
(この女……)
アレンは、本能的に理解した。
――一番、危険だ。
その視線が、ふとアレンに留まる。
ほんの一瞬。
だが、確かに“興味”の色が宿った。
「ふふ……」
小さく、楽しげな笑み。
「私は幻惑の魔女よ」
それだけ告げると、再び口を閉ざす。
「来るぞ!」
アレンの声と同時だった。
バルゼドの姿が、消えた。
「――速ッ!?」
気づいた時には、黒い影が目前に迫っていた。
《黒翼閃・シャドウスラスト》
ギィン!!
剣と翼が激突し、火花が散る。
衝撃が腕を痺れさせる。
「ほう、反応するか」
バルゼドは楽しげに笑った。
「勇者とやら、悪くない」
「っ、軽口叩いてる暇があるなら……!」
アレンが踏み込む。
《閃光剣・ブレイヴスラッシュ》
だが次の瞬間、距離は一気に引き離されていた。
(速い……!)
一方――。
ドンッ!!
ガルマが床を踏み抜く。
《獄炎踏破》
衝撃が地下全体を揺らし、天井から炎の粉塵が滝のように降り注ぐ。
「くっ……!」
リリィは即座に杖を構える。
水氷障壁》
炎と水蒸気が爆ぜる。
「ガイア、正面は任せた!」
「言われなくてもな!!」
《剛断斬・クラッシュブレイカー》
大剣と炎が激突し、轟音が響き渡る。
――そして。
パチン
小さな音。
メレナが、指を鳴らした。
「……?」
カミラが眉をひそめる。
視界に、ほんのわずかなノイズ。
壁が歪み、床が揺れた――ように、見えた。
「今の……?」
「……っ、待って」
トレヴァーが低く言う。
視線を巡らせ、歯を噛み締める。
「これは……」
一拍。
「“準備段階”です」
メレナが、楽しそうに口元を押さえた。
「ふふ……優秀な目」
次の瞬間。
世界が、割れた。
光が反転し、音が遅れて届く。
足場感覚が消え、上下左右の概念が崩壊する。
「なっ――!?」
アレンの声が、遠ざかる。
仲間の姿が、引き裂かれていく。
幻惑の魔女――
彼女の声だけが、はっきりと響いた。
「《夢幻分界・ミラージュ・ラビリンス》」
世界は、三つに分断された。
黒翼の将が羽ばたく。
「さて、続きといこうか」
そこに立つのは、アレンとエリアス。
エリアスは静かに《多層結界・聖環陣》を再構築する。
「アレン、速度に注意して」
「わかってる!」
「いいぜぇ……力比べだ、来い!」
獄炎の騎士が笑う。
「上等だ!!」
ガイアが真正面からぶつかる。
リリィは一歩下がり、静かに息を整える。
(この戦場……私が崩せる)
「……嫌な感じね」
カミラが低く言う。
「ええ。最も危険な場所です」
トレヴァーが周囲を警戒する。
「さあ……勇者様」
その先で、メレナが微笑んだ。
「分断されたくらいで……負けるかよ」
遠くで、アレンが剣を構える。




