第35話 燃ゆる砦
風が、焦げた匂いを運んできた。
日の光が照らされる前の冷たい空気の中、黒い煙がゆっくりと天へ昇っていく。
その先――
東の空が、紅く燃えていた。
「……見て、あれ」
馬上のリリィが、小さく息を呑みながら指を伸ばす。
夜明け前の風に、彼女の銀髪がさらりと揺れ、緑の瞳に炎の色が映り込んだ。
「……王都の方角か?」
アレンは手綱を引き、目を細める。
それはただの火事ではない。
空そのものが裂け、血を流しているような――そんな不吉な輝きだった。
「嫌な燃え方ね……魔力が混じってる。それも、かなり歪んだ種類」
カミラが低く呟く。
「歪んでるってぇと……正規軍の仕事じゃねぇな?」
ガイアが鼻を鳴らす。
その瞬間だった。
アレンの腰袋の中で、魔導石が淡く脈動するように光り出す。
「通信だ」
アレンが取り出すと、空中に光の陣が展開され、切迫した声が響いた。
『報告! クレイモアの砦、炎上中! 王国軍、すでに包囲完了!』 『勇者隊に命ずる――ただちにクレイモア邸へ向かえ!』
『――炎の中の裏切りを、断て!!』
通信はそれだけを告げ、唐突に途切れた。
沈黙。
風の音だけが、やけに大きく耳に残る。
「……ルシアン」
アレンは、ゆっくりと剣の柄に手を置いた。
「お前が、導いたんだな」
その声に迷いはない。
ただ、静かな確信だけが宿っていた。
「……アレン。彼が関わっていると、思うの?」
エリアスが不安げに彼を見る。
「間違いない。
――意思のある炎だ」
アレンは東の炎から目を離さずに答えた。
「……彼らしいわね」
リリィが、そっと息を吐く。
誰も、否定しなかった。
その瞳には、迷いのない光。
炎の揺らぎが映り込み、決意の色を深く染めていた。
夜明け前の平原は、容赦なく冷え込んでいた。
草をなぎ倒す風が唸り、遠くで何かが爆ぜる音が響く。
視界の先には、燃え上がる要塞――クレイモア邸。
赤と黒の炎が絡み合い、空に不気味な影を落としている。
「この炎……神聖でも、穢れでもない」
エリアスが胸元で手を組み、祈るように呟いた。
「ええ……誰かの“決意”よ。罪を焼き尽くすための、導き」
リリィが静かに頷く。
「導き、ねぇ。こりゃ随分と乱暴な道案内だぜ」
ガイアが歯を剥く。
「なら――その決意ごと、俺たちが斬り拓く」
その声音は、戦場に立つ勇者そのものだった。
「言うじゃない」
カミラが口角を上げ、弓を構える。
「敵の数、ざっと見て……千は下らないわよ?」
「はっ! また派手な戦場になりそうだな!」
ガイアが肩に担いだ大剣を鳴らす。
「油断はしません。朝日までに終わらせましょう――長引けば、こちらが削られる」
トレヴァーが淡々と聖槍を握り直す。
「……ふふ、いつものことね」
リリィが小さく笑う。
その笑顔は、不思議と恐れを感じさせなかった。
仲間を信じ切った者だけが浮かべられる、静かな微笑。
「よし、行くぞ!」
アレンが号令をかける。
六人の影が、紅い炎を背に――駆け出した。
外郭は、すでに戦場だった。
瓦礫、灰、倒れた兵士。
そして――人間と魔族の混成部隊。
「……正気じゃないわね。
信仰と狂気がごちゃ混ぜ」
カミラが吐き捨てる。
「来たぞ! 勇者たちだ!」
怒号とともに、炎の矢が空を覆った。
「リリィ!」
「任せて!」
彼女の詠唱が、鋭く夜を裂く。
「……《凍結魔槍雨》!」
氷の槍が降り注ぎ、炎の矢を撃ち落とし、霧へと変える。
その霧を割るように、ガイアが突進した。
「退けぇぇぇぇっっ!!」
大剣の一撃で十人を吹き飛ばし、地面が震える。
カミラが冷静に狙いを定める。
「左翼、三体。私が抜く」
放たれた三矢は、寸分違わず急所を射抜いた。
「《聖天守護円》展開!」
トレヴァーの結界が光り、仲間の傷を瞬時に癒し身を守る。
「行くぞ――」
アレンが前線を切り裂くように走る。
『“蒼天裂斬”――ッ!!』
青い閃光が夜空を貫き、敵陣が真っ二つに裂いた。
「突破だ!」
叫ぶ声と共に、六人は要塞門を突き抜けた。
要塞内部は、崩れかけの広間。
天井から落ちる瓦礫の合間に、黒焦げの机と書物が散らばっていた。
「……これは?」
リリィが拾い上げた羊皮紙に、黒く光る紋章が刻まれている。
「契約の……魔法陣?」
トレヴァーがそれを読み取る。
「“王国と帝国の戦争を導く贄”――」
その血文字は、王族の印章で書かれていた。
「王族の血……まさか……!」
エリアスが息を呑む。
その声が震えた。
「……第一王女、セリーヌ様を……“贄”に……?」
アレンの剣先が僅かに震えた。
「クレイモアは……人をやめた。自ら、魔に膝をついたんだ」
「だからルシアンは――炎を放ったのね。すべてを、暴くために」
リリィの瞳に映る炎が、涙に揺れる。
「だが、まだ終わっちゃいねえ。
クレイモア公爵の姿が見当たらねぇ」
ガイアが言う。
全員の視線が、地下階段へ集まる。
そこから、かすかに“祈り”のような声が聞こえてくる。
爆発音が遠くで響き、要塞が軋む。
崩壊はすぐそこに迫っていた。
「――クレイモア公爵がいる。ここで終わらせる」
アレンが階段の奥を睨む。
「気をつけて。……この魔力、嫌な予感がする」
エリアスが彼の背に手を添える。
「ありがとう」
アレンは一度だけ振り返り、微笑んだ。
「行くぞ!」
アレンの声に、六人が続く。
炎の中、彼らの影が光に溶けて消えていった。
その先には、闇と真実が待っている――。
その頃。
クレイモア邸の塔の上。
燃え盛る砦を、ひとりの男が見下ろしていた。
黒衣の裾が夜風に揺れる。
ルシアン=ヴァルグレイ。
彼の瞳には、燃え盛る邸が映っていた。
「――始まったな、アレン」
その呟きには、懺悔でも、憎しみでもない。
ただ、“計算し尽くされた覚悟”の音色だけがあった。
導きの炎は、もう止まらない。
それは罪を焼くための光であり、同時に希望を灯すための焔。
紅蓮の空の下。
静かに、しかし確実に――物語は次の局面へ進んでいた。




