第26話 秘密の保護者
――光が、途切れた。
転移魔法の光が消えると同時に、エリアスは膝をついた。
冷たい床の感触が、戦場とは違う現実を告げていた。
そこは、地下の部屋だった。
壁は磨かれた黒曜石のように滑らかで、天井から吊られた魔導灯が淡く光を放っている。
家具はどれも上質。寝台、書棚、暖炉まで備わっている。
――だが、外の風はない。
ここが完全に“隔絶された場所”だと、肌が悟っていた。
(……どこ、なの……?)
鼓動がまだ速い。
さっきまで、雨の荒野でアレンたちが叫んでいた。
リリィの涙も、アレンの声も――全部、耳に焼き付いている。
手の中で光を失った秘石を見つめながら、彼女は呟いた。
「私は……どうすればいいの……?」
仲間を裏切った罪悪感と、命令に従った自分への嫌悪。
どちらも正しくて、どちらも間違っていた。
答えのない問いが胸を締めつける。
そのときだった。
空気が、わずかに揺れた。
「落ち着いたようだな、エリアス・フェルン嬢。」
低く、穏やかな声。
振り向くと、闇の奥から黒衣の男が現れた。
長身。金の刺繍が施されたマント。
鋭い眼光が、まるで人の心を見透かすように彼女を射抜く。
「――ルシアン……=ヴァルグレイ?」
勇者パーティが追っていた“影の使者”。
その名を聞くだけで、王都の貴族たちが顔を曇らせる存在。
「そうだ。私の名を知っているのなら、話は早い。」
彼はゆっくりと近づく。
だが、敵意はなかった。むしろ――奇妙な安堵がその声に混じっていた。
「ここは安全だ。誰も君を探し当てられない。」
「……どうして、私を?」
「君を匿うために、王命を破った。」
「――え?」
息を呑む。
その言葉の意味が、理解できなかった。
「なぜ……あなたが……?」
「理由は一つだ。君が“利用されていた”からだ。」
ルシアンの声は、淡々としていた。
けれどその奥には、確かな怒りの熱があった。
「王都は君に“監視者”の役を与えた。勇者を測り、制御するための。
だがな――君は途中で、“人”を見てしまった。」
「……!」
「報告が曖昧になり始めた時点で、王都は君を“処分対象”に切り替えた。」
処分。
その言葉に、エリアスの手が震える。
「……嘘よ。私は、命令に従って……」
「命令は君を救わない。」
ルシアンは静かに言った。
「君が信じていた王国は、君の“忠義”を切り捨てる。」
胸が痛む。
それでも、言葉が出ない。
(……そう、だったんだ。)
思い返せば、確かにおかしかった。
任務の通信は急に別の担当に変わり、声の主は名乗らなかった。
勇者パーティを“試せ”と言われたあの夜――胸の奥が凍った。
「……どうしてあなたが、それを知っているの?」
「私は“影の監察官”だ。王命を監視する影。
君の報告は、私の監視網の中にあった。」
「私の……報告……?」
「ああ。最初の報告から、最後の懺悔の声まで。全部だ。」
ルシアンの目は、痛いほど真っすぐだった。
嘘をつく気配がない。
エリアスは息を止めたまま、声を失う。
しばしの沈黙。
やがて彼が、わずかに表情を緩めた。
「安心しろ。私は君を咎めに来たわけじゃない。」
「じゃあ……なぜ助けるの?」
「君が“誰かのために涙を流せた”からだ。」
ルシアンの声が、かすかに柔らいだ。
エリアスはその言葉の意味が分からず、ただ目を瞬いた。
「……そんな理由で?」
「そんな理由で十分だ。」
彼は微笑む。
それは、冷徹な策略家の顔ではなく――どこか、悲しげな人間の表情だった。
数時間後。
エリアスは隠れ家の寝台に腰掛け、ぼんやりと手の中の秘石を見つめていた。
(王命……勇者パーティ……ルシアン……)
全てが遠い世界の出来事みたいだった。
目を閉じれば、アレンの笑顔が浮かぶ。
――「お前がいてくれて助かる。」
それだけの言葉が、彼女を何度も支えてくれた。
(……どうしてあの人たちを、裏切れたの?)
罪悪感が胸を焼く。
それでも、あの夜――彼らを守るために嘘をついた自分を、否定できなかった。
「君は、優しすぎる。」
声に顔を上げると、ルシアンが紅茶を差し出していた。
その仕草は意外なほど自然で、どこか優雅だった。
「私が優しい……? 違います。私は、臆病なだけです。」
「臆病な人間が、命を賭けて仲間を守るか?」
「……それは……」
「君はただ、“選びたくなかった”だけだ。
命令も、信念も、誰かを傷つけることも。」
彼の言葉が、胸に刺さった。
否定したかったが、否定できなかった。
「……あなたは、全部分かってるんですね。」
「当然だ。人の弱さを知らねば、民は守れない。」
ルシアンの声は、冷たくも温かかった。
不思議と、エリアスの心のざわめきが少しだけ静まる。
日が経った。
隠れ家での生活は静かで、穏やかだった。
ルシアンは日中、どこかへ出ては情報を集め、夜になると本を読んでいた。
エリアスは料理を作り、部屋を整え、祈りを続ける。
けれど、その祈りの言葉は日に日に変わっていった。
「……神よ、私は誰を守ればよいのでしょうか。」
「誰でもない。まずは自分を守れ。」
「……あなたは本当に、人の心が分かるのね。」
「職業柄な。」
その軽口に、エリアスは初めて笑った。
笑ってはいけないと思っていた心が、少しだけ解けていく。
ある夜。
ルシアンは暖炉の火を見つめながら、ふと呟いた。
「君はまだ、王都に報告していないな。」
エリアスは手の中の秘石を見つめ、黙り込む。
青い光が、弱々しく瞬いた。
「報告すれば、“処刑”が早まる。
だが報告しなければ、“反逆”の罪を負う。」
「……どちらにしても、私は……」
「どちらも選ばなくていい。」
「……え?」
「君が守りたいのは“誰か”だろう? なら――そのために嘘を選べ。」
ルシアンの声には確信があった。
エリアスの胸に、何かが灯る。
「……あなたは、罪を勧めるの?」
「人が人を守るためにつく嘘を、罪とは呼ばない。」
「……あなたは、優しいのね。」
「いや、計算高いだけだ。」
そう言って、ルシアンはわずかに笑った。
だがその笑みの奥に、ほんの一瞬――孤独が見えた。
翌朝。
エリアスは机に座り、秘石を掌に乗せた。
淡い光が、部屋の空気を震わせる。
「……報告します。」
唇が震えた。
だが言葉は続かなかった。
目を閉じて――彼女は、そっと呟いた。
「報告、終了。全員……無事。勇者、希望を失わず。」
虚空に向けた言葉は、誰にも届かない。
それでも、心の底で何かがほどけた気がした。
「終わったか?」
ルシアンの声が背後から届く。
エリアスは振り返り、静かに微笑んだ。
「はい。これで、私はもう……命令には縛られません。」
「そうだ。君はようやく“自分で選んだ”。」
「怖いです。これからどうすればいいのか、分からなくて。」
「なら、私が導こう。」
ルシアンは片膝をつき、彼女の手に触れた。
その手は冷たくも、確かだった。
「君が誰にも知られずに生きる道を――私が守る。」
エリアスの瞳が揺れ、やがて涙が零れた。
それは悲しみでもあり、解放の涙でもあった。
夜。
地下の部屋に、二人の影が揺れていた。
外の世界では、勇者アレンたちが彼女を探している。
王都では、クレイモア公爵家が“裏切り者”の処分を議論している。
だがこの地下だけは、時間が止まっていた。
「……ルシアンさん。」
「なんだ?」
「ありがとう。」
「礼はいらない。これは、私の“裏切り”でもある。」
「あなたも……迷っているの?」
「ああ。だが――正しいかどうかなんて、どうでもいい。」
ルシアンは静かに紅を傾けた。
炎の明かりが、彼の横顔を照らす。
「守りたいと思った。それだけだ。」
その言葉に、エリアスの胸が温かくなる。
彼の言葉は不器用で、けれど真っすぐだった。
(……この人は、私と同じだ。)
命令と正義の狭間で、誰かを救おうとしている。
こうして――影と祈りは交わった。
誰にも知られぬ地下で、二つの“反逆”が始まる。
それは、後に王都を揺るがす大きな渦の――静かな幕開けだった。




