第21話 裏切りの祈り ― 聖女離脱
戦いの夜が明け、北の砦はまだ煙の匂いを残していた。
勝利の余韻はあった。だが、それ以上に――静けさが重かった。
焦げた大地を踏みしめ、勇者パーティは王都へ向かう。
誰もが疲弊していた。けれど、その中で一人、最も静かだったのは――エリアスだった。
「……勝ったのに、胸が重いな」
アレンがそう呟いたのは、砦を離れて一刻ほど歩いた頃だった。
風は冷たく、焦げた草の匂いがまだ残っている。
「勝利ってのはな、いつだって誰かの犠牲の上に成り立つもんだ」
ガイアが大きな手で肩を叩く。
「だが、お前が指揮しなきゃ、もっと多くが死んでた。誇れよ、アレン」
「……そう言ってくれるのはありがたいけどな」
アレンは笑おうとしたが、その笑みは続かなかった。
戦いの終わりに見た――血に染まる光景が、脳裏を離れなかったのだ。
その後ろで、エリアスは小さく祈りを唱えていた。
だが、その手の中にあるのは“神への祈り”だけではない。
指先には、淡く光る小さな魔導石――通信のための秘石が握られている。
(……また報告しなきゃいけない。命令だから。王都に、知らせなきゃ)
夜になり、皆が眠りについたあと。
彼女はそっとテントの外に出て、手のひらの秘石を掲げた。
「……報告します。勇者アレン・ヴァルデン、健在。精神的疲労、軽度。僧侶トレヴァー・シルバーホーク、支援能力良好……」
その声は震えていた。
かつては冷たく、正確に伝えるだけの言葉だったのに。今はまるで――“懺悔”のように。
「……ごめんなさい」
最後の言葉は、通信の向こうには届かない。
――回想。
場所は王都・クレイモア公爵家の屋敷。
高窓から射し込む光の中で、エリアスはひざまずいていた。
目の前には、冷ややかな瞳をした壮年の貴族が立っている。
「エリアス。お前は聖職者として、そして我が家の“目”として勇者団に加わる。理解しているな?」
「はい。王国のために、尽くします」
「勇者は神の剣だ。しかし剣は、暴れれば人を傷つける。……そのとき、鞘に戻すのが我らの務めだ」
「……はい」
そのときの彼女に、迷いはなかった。
“任務”は“正義”だと信じていたからだ。
――だが、旅の中で知った。
勇者アレンの優しさ、リリィの笑顔、カミラの静かな信頼、ガイアの豪快な人柄。
それらが、エリアスの中の「命令」を少しずつ蝕んでいった。
だから彼女の報告は、次第に曖昧になっていく。
――“不利な情報”を、意図的に抜き取るようになって。
(だって、彼らは悪くない。誰も王家を脅かしてなんていない……)
その優しさこそが、ゆっくりと“裏切りの序章”を描き始めていた。
二日目の昼。
一行は崩れた街道を進んでいた。
カミラがふと足を止め、振り返る。
弓を背に負ったまま、静かに言う。
「……おかしい。エリアスの魔力、以前より波が不安定」
「疲れてるんだよ」
リリィが即座に庇った。
「砦での戦い、彼女が一番魔力を使ったんだから」
「……そうかもしれんが、あの揺らぎは“迷い”に似ている」
その言葉に、アレンが一瞬だけ視線を動かす。
けれど何も言わず、前を向いた。
一方エリアスは、後ろからそのやりとりを聞いていた。
胸の奥で小さな痛みが走る。
(……気づかれてる。隠しきれない)
その夜も、彼女は祈った。
だがもう神ではなく――“命令”に。
(もう、報告なんてしたくない……でも、止めたら“裏切り者”になる)
祈りと任務のあいだで、少女の心は軋み始めていた。
満月の夜。
いつものように通信石を取り出した瞬間――聞き慣れぬ声が届いた。
『報告を続けろ。次の命令を伝える』
「え……誰ですか? いつもの担当官では――」
『詳細は不要だ。次の任務は“勇者の判断力”を試すこと。』
「試す……?」
『戦場で、神聖魔法を“遅らせる”だけでいい。それで結果が見える』
「な、何を言ってるんですか……!? そんなことをしたら仲間が――!」
『任務を拒むのか? ならば君も、神の敵だ』
通信が途切れる。
彼女の手が震えた。秘石が小さくカランと音を立てて地面に落ちる。
「……違う……そんなの……できない」
その夜、彼女は眠れなかった。
涙で祈りが滲んだ。
翌朝。
一行が峡谷に差しかかったそのとき、魔獣の群れが咆哮を上げた。
「ガイア、前へ! リリィ、支援を! エリアス、結界を!」
「――っ、はい!」
エリアスは両手を掲げ、詠唱を始める。
だが脳裏であの声が蘇る。
『“遅らせる”だけでいい。』
一瞬、詠唱が止まる。
その刹那――ガイアが横から魔獣の爪を受け、血飛沫を上げた。
「ガイアっ!?」
リリィの叫び。
エリアスは慌てて光の結界を展開したが、もう遅かった。
「なにをしていたの、エリアス!?」
「……ごめんなさい、魔力が……乱れて……」
その言葉を聞いて、カミラが矢を収めながら冷たく言う。
「今のは“ためらい”だった。違う?」
「……!」
空気が張り詰める。
アレンだけが、間に入った。
「やめろ。今は戦いに集中だ。責めるのは後だ」
だがその声にも、いつもの優しさはなかった。
エリアスの胸に、鋭い痛みが走る。
(私が……私が傷つけたんだ)
夜、雨が降っていた。
冷たい雨の中、エリアスは一人、膝をつき祈っていた。
「神よ……教えてください。私は誰を救いたかったんですか……」
答えはない。
ただ雨の音だけが、静かに地を叩いていた。
「――エリアス」
振り返ると、リリィが立っていた。濡れた髪を払いながら、まっすぐな瞳で言う。
「あなた、なにを隠してるの?」
「な、何を言って……」
「あなたの魔力。祈りの波動が変なの。まるで……誰かに操られてるみたい」
「違う! 私は……皆のために!」
叫びは、雨にかき消された。
リリィの瞳が痛みに揺れる。
「じゃあ、どうして今日“遅れた”の? あなたの祈りなら、あんな傷は負わなかった!」
「……私は……」
エリアスの唇が震える。言葉にならない。
そして次の瞬間、彼女はリリィの手を振りほどき、闇へ駆け出した。
翌朝。
灰色の空の下、アレンは一人で彼女を探していた。
谷の向こう、祈るように座り込むエリアスの背中を見つける。
「……エリアス」
彼女は振り向かなかった。
それでもアレンは歩み寄る。
「答えてくれ。お前は――誰に報告していた?」
長い沈黙のあと、エリアスは微笑んだ。
それは悲しいほど穏やかな笑みだった。
「……王都のためです。あなたたちを“守るため”に」
「守る?」
リリィの声が震える。
「それが、仲間を傷つけることなの!?」
「違う……! でも、そうするしかなかったの!」
「命令されたのか?」
アレンの声は低く、静かだった。
「……ええ。でも、名前は……知らないの」
その瞬間、空気が歪む。
遠くで“声”が響いた。
『もう十分だ。君の役目は果たされた。』
「……っ!? この声……」
ルシアンの幻声が、風に紛れて響く。
誰にもその正体は分からない。だがエリアスだけが、その“命令”に従うように立ち上がった。
「ごめんなさい……私、もう一緒にいられません」
「待て、エリアス!」
アレンが手を伸ばす。
だがその瞬間、彼女の体が光に包まれた。
転移魔法――高位のものだ。
彼女の姿が消え、残されたのは一枚の祈りの羽。
風に舞い、静かに地へ落ちた。
雨上がりの荒野。
アレンたちはただ、彼女が消えた場所を見つめていた。
「……彼女、どこへ行ったの?」
リリィの声は、ほとんど涙に溶けていた。
「“敵”の懐よ」
カミラが低く言う。
「でも――たぶん、本人も分かってない」
「……エリアス……」
アレンは剣の柄を強く握り締める。
冷たい風の中、その瞳だけが燃えていた。
「彼女を奪った“者を、必ず見つけ出す」
遠く、丘の上。
黒衣の男――ルシアン=ヴァルグレイが月光の下でワインを傾ける。
「忠実な聖女。罪を背負うほど、美しい」
月が欠け、祈りが闇に沈む。




