第2話 冷血侯爵と沈黙の執事
朝の光が、分厚いカーテンの隙間から差し込んでいた。
ルシアン=ヴァルグレイ侯爵は、書類の山を机に叩きつけ、低く言い放つ。
「――商人どもに新しい税を課す。奢侈品を扱う者からは、倍額を徴収しろ」
その声には一片の迷いもなかった。冷たく、鋭く、まるで刃だ。
「……承知いたしました、ルシアン様」
白髪の老執事、セバスチャン・ノアールは一礼する。
だが、彼の瞳の奥には、一瞬だけ微かな揺らぎがあった。
忠誠を尽くす者の瞳にしては、あまりに深い――“疑念”の色。
「何か言いたげだな、セバスチャン?」
「いえ。ただ……奢侈品を扱う商人たちは王都と強く繋がっております。この税が王都の耳に届けば――」
「黙れ。俺の命令に口を挟むな」
ルシアンの言葉は氷のようだった。
グラスを机に置く音が、静寂の中で鈍く響く。
――冷酷な侯爵。
領民に恐れられ、商人に憎まれる悪名高き男。
だが、その仮面の裏に潜む思考は別だった。
(表では“搾取”。裏では“再配分”だ。奢侈品の流通を止め、代わりに穀物を流す。結果、飢えは減る――悪役としての顔を利用するまでのこと)
心の中でそう呟きながら、ルシアンはグラスを傾ける。
「……行け、セバスチャン。余計なことを考えるな」
「御意に」
老執事は深く頭を下げ、静かに部屋を出た。
去り際、わずかに目を伏せながら、心の奥で呟く。
(――旦那様。その瞳……嘘をつく者のそれではございませんな)
忠誠と疑念の狭間で、老執事の沈黙が長く伸びていった。
午後、侯爵の馬車が石畳の通りを進む。
市場の空気が、一瞬で凍りついた。
「ル、ルシアン侯……!」「冷血侯爵が……!」
商人たちは慌てて頭を下げ、客たちは逃げるように道の端へ寄る。
子どもでさえ、母親の影に隠れて震えていた。
その様子に、ルシアンは冷ややかに笑みを浮かべる。
(いい。恐れていれば、誰も俺の裏を読まない)
「税を払えぬ者は、商売をやめろ。俺の領地に“貧者の言い訳”は不要だ」
その一言で、空気が張り詰めた。
誰も声を上げない。だが、群衆の奥から小さな泣き声が聞こえた。
「お母さん……うちのお店、なくなっちゃうの……?」
その声に、ルシアンの心が一瞬だけ波打つ。
だが、表情は変えない。冷酷の仮面を被ったまま、淡々と命じた。
「セバスチャン、行くぞ」
「は。御随行を」
馬車に戻る途中、ルシアンは低く囁いた。
声は風に溶けるほどの小ささだった。
「……裏ルートで仕入れた日用品を、農村に優先して流せ。絶対に俺の名は出すな」
「承知いたしました」
一拍置いて、セバスチャンが答える。
その声には、わずかな“ためらい”が滲んでいた。
「……ルシアン様。なぜ、そのような――」
「質問か?」
「……いえ、何も」
老執事は深く頭を垂れる。
だがその胸中は、静かなざわめきに包まれていた。
(――なぜ、あの方は“悪”を演じながら、民を救われるのか?)
侯爵家の馬車が遠ざかるとき、市場の人々は恐れと共に頭を下げた。
誰一人、彼が裏で救済策を動かしているなど知る由もない。
冷血侯爵――。
そう呼ばれる名の下で、民を救う者がいることを。
夜。
執務室の灯りだけが、暗い屋敷の中でぼんやりと輝いていた。
ルシアンはワインを片手に、帳簿を見つめていた。
数字の列の奥に、彼の策略が隠されている。
「破滅フラグ回避……そして悪役ロール。どちらも必要不可欠、か」
グラスを傾けながら、彼は独り言を呟く。
壁際に控えるセバスチャンの影が、わずかに動いた。
「……ルシアン様。お休みになられませんか?」
「寝る暇があるか。俺が倒れれば、この領地は潰れる」
ルシアンは冷笑しながらも、どこか遠い目をしていた。
帳簿に記された裏会計――半分は民の救済基金へ流れている。
表では“強欲侯爵”、裏では“庶民の守護者”。
皮肉にも、その構図こそが彼の生存戦略だった。
「善を語る悪ほど、世界を壊すものはない」
ルシアンはワインを見つめながら呟く。
「だから俺は悪を演じて、世界を救う。……皮肉な話だろう?」
静かな沈黙。
やがて、セバスチャンが一歩だけ進み出た。
「――その覚悟を、どこまで貫かれるおつもりですか、旦那様。」
ルシアンは微笑を浮かべた。
冷たくも、確かな自信を宿した笑みだった。
「俺が死ぬまで、だ。……いや、たとえ死んでも演じきるさ。悪役として、な」
その背中を見つめながら、セバスチャンは拳を握った。
忠誠とは、主に尽くすことか。
それとも、主の嘘を“見抜かぬふり”をすることか。
答えは――まだ出ない。
翌日、侯爵邸に王都からの使者が訪れた。
白いマントを羽織った青年が、深く頭を下げる。
「ルシアン侯。勇者アレン殿がお言葉を賜りたいと。近日中に、王都での会談を――」
その名を聞いた瞬間、ルシアンの唇がゆるやかに歪んだ。
「……勇者アレン、か」
彼の脳裏に、未来の“断罪”の光景がよぎる。
この男――いや、この“勇者”が、やがて自分を滅ぼす存在。
だが、今のルシアンは別の生を歩んでいる。
(俺はもう、破滅の台本通りには動かない。今度は俺が舞台を仕切る)
「望むところだ。伝えろ――侯爵ルシアンは、いつでも勇者を迎え撃つ準備があるとな」
「……かしこまりました!」
使者が退出すると、室内に静寂が戻る。
セバスチャンは主の横顔を見つめながら、低く息を吐いた。
(あの笑み……まるで、死地へ向かう者のものだ)
「セバスチャン」
「は」
「俺が勇者に会う前に、領の財務をすべてまとめておけ。民の備蓄も確認しろ。……戦になる」
「承知いたしました」
老執事の声には、もはや迷いはなかった。
主が何を目指しているのか、その全てを理解してはいない。
だが、その“背中”を信じることだけは――できた。
夜明け。
屋敷の廊下には、鳥のさえずりと書類をめくる音が響く。
セバスチャンは、主の寝室の前に立ち尽くしていた。
扉の隙間から、明かりが漏れている。
ルシアンはまだ机に向かっているのだ。
(旦那様……いつまで、その仮面を被り続けるおつもりですか)
老執事は静かに目を閉じ、深く息を吐いた。
その胸には、ひとつの答えが浮かんでいた。
「――旦那様が悪を演じるなら、私はその悪を守る影となりましょう」
小さく呟くと、彼はそっと背を向けた。
朝の光が、廊下の端から差し込み、長い影を伸ばす。
ルシアン=ヴァルグレイ。
その名は“冷血侯爵”として語られる。
だが、その悪名の裏で、誰も知らぬ救済劇が進んでいた。
――悪を演じる者と、沈黙で支える者。
仮面劇は、まだ終わらない。




