第16話 カミラの迷いと勇者アレンの衝突
夜明け前の空気は、冷たく澄んでいた。
宿場町の外れ、草原に立つ一本の大樹。その根元で、カミラ・ナイトウィンドは黙々と矢羽根を整えていた。
弓の弦にかかる指は静かに震え、表情には昨夜の疲労が滲んでいる。
「……あれは、夢、だったの?」
小さく漏れた声は、風にかき消された。
胸の奥に残る“薔薇の香り”の残像が、現実か幻かも曖昧なまま、彼女の心をざわつかせていた。
そこへ、軽やかな足音。
「カミラ。こんな朝早くから訓練か?」
勇者アレン・フェンリルが笑顔で近づいてくる。
陽光を受けた彼の金髪が眩しいほどに光り、まるで“希望”そのもののようだった。
「昨日の戦い、君がいなかったら全滅してた。ありがとう」
その言葉に、カミラはわずかに顔を向けた。
だが――その瞳は、どこか遠くを見ていた。
「……当然のことをしたまでです。勇者殿」
「殿、って……そんな他人行儀な」
アレンは苦笑するが、カミラは矢を磨く手を止めなかった。
その動作は、まるで心を閉ざすように機械的だ。
沈黙。
鳥の声が聞こえるほどの静けさ。
アレンは、何かを言いかけて――結局やめた。
「……無理に笑う必要はない」
そう心の中で呟いたが、声にはしなかった。
その様子を少し離れた場所から見ていたリリィが、そっとアレンに近づく。
「……カミラさん、最近ちょっと変ですよね」
「変?」
「はい。なんか、冷たいというか……前みたいに、みんなと一緒に笑わないんです」
アレンは返す言葉を失った。
心のどこかで、自分がその原因だと感じていたから。
カミラの背中が、遠く見えた。
まるで、陽の当たらない森の中へと歩いていくように。
昼。
草原の一角では、次の作戦会議が始まっていた。
木の板に地図を広げ、アレンが指先で北方を示す。
「この丘を越えた先、魔狼の群れがもう一度集結している。明日には討伐に向かう」
「待ってください、アレン」
カミラの低い声が遮る。
「ここから敵陣まで半日。補給もなしに突入は無謀です。」
「でも、時間をかければ街の方が被害を――」
「犠牲を減らすために無茶をするのは、矛盾です」
ピシッ、と空気が張り詰めた。
アレンの表情が一瞬固まり、やがて苦い笑みを浮かべた。
「……君はいつも慎重すぎる。戦いに“絶対の安全”なんてないんだ」
「私は、慎重なのではありません。現実を見ているだけです」
言葉が刺さる。
アレンの拳が小さく震える。
「最近の君は……冷たいな。俺たちを信用してないのか?」
その言葉に、カミラの瞳がわずかに揺れた。
けれど、それも一瞬――すぐに冷めた色に戻る。
「信用? そんなもの、戦場では幻想です」
「カミラ!」
怒鳴ったアレンの声に、リリィが息を呑む。
その場の空気が一気に冷えた。
「……失礼します」
カミラはそれだけを言い残し、背を向けて去った。
アレンは追えなかった。ただ拳を握りしめ、地図の上に影を落とす。
「……どうして、伝わらないんだ……」
リリィが小さく首を振る。
「お互い、優しすぎるんですよ」
夜。
宿場町の外れ、丘の上。
カミラはひとり、弓を膝に置いて月を見上げていた。
風が頬を撫で、草が揺れる。
静かな夜だった。けれど――心の中は騒がしい。
「……誰かを守るために、私は矢を放つ。
けど――私を守ってくれる人なんて、どこにもいない」
彼女の指が弓弦をなぞる。
震える唇から、ため息がこぼれた。
「孤独は、強さの証だ」
「信頼など、裏切りの前触れにすぎない」
あの声が、耳の奥で蘇る。
――ルシアン・ヴァルグレイの囁き。
姿を見ていないのに、まるで傍にいるような錯覚。
胸の奥に、淡い痛み。
ふと、風の中に薔薇の香りが混ざる。
「……また、あなたなの?」
誰もいない闇に問いかける。
返事はない。ただ、月が静かに照らすだけ。
遠く、丘の影にひとつの黒い影がいた。
密偵の男だ。夜目に光る片眼鏡が、月光を反射している。
「……侯爵様。あの弓手、順調に“崩れ”つつあります」
風が返事の代わりに吹き抜けた。
その夜、カミラの部屋の扉が静かにノックされた。
「……誰?」
「俺だ。アレンだ。話がしたい」
カミラは一瞬、迷った。
けれど結局、扉を開いた。
月明かりが差し込む。
二人の影が床に伸びる。
「今日のこと、謝りたい」
アレンはまっすぐに言った。
その声に、嘘はなかった。だが――それが、逆に痛かった。
「謝る必要はありません。私は……自分の判断をしただけです」
「でも、それで君が俺たちから離れていくなら、俺は……」
「離れる?」
カミラの声が微かに震えた。
「私は誰とも“繋がって”なんていないわ」
アレンは目を見開く。
「違う! 俺たちは仲間だろ! 一緒に笑って、一緒に戦って――!」
「それが、怖いのよ!」
カミラの叫びが夜を裂いた。
アレンの言葉が、喉で止まる。
「……怖い?」
「信じたら、失う。守られたら、弱くなる。
……そんなの、もう嫌なの!」
沈黙。
アレンは拳を握ったまま、動けなかった。
ただ、彼女の震える肩を見つめることしかできなかった。
「……それでも俺は、君を守りたい」
「守られるほど、私は弱くない」
カミラの声はかすれ、涙が一粒、頬を伝った。
アレンはそれを見て、静かに背を向けた。
「……わかった。けど、俺は諦めない」
扉が閉まる音が、重く響く。
カミラはその音に、胸を押さえた。
「どうして……こんなに痛いの……」
窓の外。
赤い光が一瞬、森の奥で瞬いた。
深夜。
森の奥の屋敷で、ルシアン・ヴァルグレイは赤ワインを傾けていた。
セバスチャンが跪き、魔術通信の符を捧げる。
「密偵より報告が。勇者と弓手の間、確実に亀裂が生じたとのことです」
「そうか」
ルシアンはワインを軽く揺らす。
赤い液面が光を受け、まるで血のように輝いた。
「……完璧だ。心の亀裂こそ、最も美しい戦場だ」
グラスの縁を指で弾く。
澄んだ音が、静寂を裂いた。
まるで――運命の弦が、またひとつ鳴ったように。
「さあ、カミラ・ナイトウィンド。
君の矢は、もう光ではなく――闇を射抜く」
ルシアンの唇が冷たく笑う。
背後で、赤い薔薇の花弁がひとひら舞った。




