第12話 影は観察する ― 侯爵と孤高の矢
王都の夜。
ヴァルグレイ侯爵邸の書斎には、静寂が張りつめていた。
机上には古びた羊皮紙の地図。
燭台の火が揺らぎ、線で描かれた山脈や砦が、まるで生きているかのように影を落とす。
赤い葡萄酒をグラスで回しながら、ルシアン=ヴァルグレイは低く呟いた。
「……北の砦、か」
その名を口にした瞬間、記憶がざらつく。
かつてアニメ『聖剣勇者アレン』で描かれた、“運命の戦場”。
勇者が初めて仲間と絆を深め、真の“英雄”となる場所。
そして彼――ヴァルグレイ侯爵が、“敗北する運命”を背負う舞台でもあった。
「ふ……愚かだな、原作の私は」
グラスを傾ける。
赤い液体が燭火を反射して、血のように揺れた。
「己の立場を理解せず、ただ悪として散る……。
だが、今は違う。私は“観察者”だ。盤上の駒ではない。――盤面そのものだ」
背後で控えるセバスチャンが、眼鏡を押し上げる。
「旦那様……観察、でございますか」
「そうだ。勝利は、観察から始まる。
敵の行動、心の揺らぎ、仲間の亀裂……それを“見る”者が、最も早く勝利へ辿り着く」
ワインを飲み干すと、ルシアンは薄く笑った。
その横顔には、美しさと冷徹さが同居していた。
「英雄アレン。
お前が輝けば輝くほど――影は濃くなる。
その影を、私は観察し、形を与えよう」
蝋燭の灯が小さく爆ぜた。
まるで、運命の火花が飛び散るように。
王都北区の宿舎。
石造りの窓から月光が差し込み、室内を銀色に照らしていた。
「明日からは長い一日になる」
アレンが広げた地図の上に、指を置いた。
「北の砦には魔物が潜み、王国の補給路を脅かしている。……俺たちの任務は、それを討つことだ」
仲間たちの表情が引き締まる。
「了解、リーダー」
剣士トレヴァーが笑みを浮かべた。
「やっと“戦いらしい戦い”だな。退屈してたんだ」
「怪我、まだ完治してないくせに」
リリィが呆れたように言う。
「まったく……勇者パーティのムードメーカーが一番危なっかしいんだから」
「俺が倒れたら、きっとアレンが光魔法で癒してくれるだろ?」
「癒すけど説教もセットだな」
アレンの苦笑に、場が少し和んだ。
その少し離れた場所で――カミラは、静かに矢を磨いていた。
光を吸うような漆黒の髪、細い指が矢羽を撫でる。
(……彼の声はまっすぐで、眩しすぎる。)
リリィが気づいて声をかけた。
「カミラ、あまり無理しないでね?」
「無理なんてしない。私は……私の矢で戦うだけよ」
「ふふ、カミラらしい」
月明かりが差し込む中、彼女は微かに微笑んだ。
だがその笑みの奥に、どこか“孤独”が滲んでいた。
「出発は夜明けとともに」
アレンの声が響く。
皆が頷く中、カミラは弓を握りしめた。
侯爵邸の地下室。
魔法陣の光が床を照らし出す。
「マルコス、来たか」
ルシアンの声が響く。
闇から現れた黒衣の男が片膝をつく。
「お呼びにより、参上いたしました。侯爵様」
「勇者一行を観察せよ」
ルシアンは短く命じた。
「だが、手は出すな。血を流すのはまだ早い。
ただ“真実”を記録しろ――誰が信じ、誰が揺らぐのか」
「承知しました」
マルコスが顔を上げると、その瞳がかすかに揺れた。
「旦那様は……まるで、神のように世界を見ておられる」
「神? 違うな」
ルシアンは微笑んだ。
「私は“語り手”だ。物語を見て、書き換える者。」
セバスチャンが控えめに一礼する。
「観察こそが支配。――見抜く者が、創る者となるのですな」
「そういうことだ」
ルシアンの指が、グラスを軽く弾いた。
カラン、と音が響き、夜が深く沈む。
その頃、王都の屋上。
夜風が冷たく、月が冴え冴えと輝いていた。
カミラは一人、弓を手に空を見上げていた。
街の喧騒は遠く、聞こえるのは風と心臓の鼓動だけ。
「矢は……放てば戻らない。だからこそ、迷わず射つ」
呟きながら、彼女は指先を見つめる。
あの時の師匠の声がよみがえる。
『カミラ。矢は心を映す鏡だ。迷えば逸れる。だが、信じれば必ず届く』
「師匠……私は、まだ迷ってるのかな」
胸の奥に浮かぶのは、勇者アレンの姿。
真っ直ぐな瞳。揺るがぬ声。
その“光”が、彼女の心を焦がす。
――その時、背後から声がした。
「眠れないのか、カミラ」
アレン。
月光に照らされた横顔は、どこまでも穏やかだった。
「……あなたこそ」
「明日が心配でな。みんなを無事に連れて帰りたい」
カミラは視線を外した。
「……リーダーは大変ね」
「お前もだろ。仲間の背を支える弓手なんて、俺より頼もしい」
ふ、と彼女の口元が緩む。
「お世辞は苦手ね」
「本心だ。……けど、無理はするな」
その言葉に、カミラの指が微かに震えた。
「……あなたは、光だから。誰かを守ることに、迷いがない」
「それが俺の役目だ。――お前の矢も、同じだろ?」
「違う。私は……誰も守れなかった矢よ」
そう言って、彼女は屋上から立ち去った。
残されたアレンは、月を見上げる。
(……あの瞳。孤独を抱えてる。放っておけないな)
朝焼けが空を染める。
勇者一行は出発の支度を整え、北門へと歩み出した。
「さぁ行こう、仲間たち」
アレンの声が響く。
トレヴァーが剣を背負い、リリィが微笑む。
カミラは黙って弓を背に、矢筒を確かめた。
同じ時刻。
侯爵邸の高塔で、ルシアンがワインを傾けた。
「英雄の輝きの中に、最も暗い影が生まれる。
さて――“誰の物語”を塗り替えようか」
セバスチャンが一礼する。
「舞台は整いました、旦那様」
「ならば始めよう。
“観察”という名の戦いを」
グラスがカランと鳴り、朝日が差し込む。
“その夜、運命の盤上に、最初の駒が置かれた。




