第11話 侯爵、善良の仮面を創る
――夜更けの静寂。
ヴァルグレイ邸の書斎には、一本の蝋燭だけが灯っていた。
羊皮紙が山のように積まれ、赤と黒の印が散らばる地図が机を覆っている。
「……勇者アレン・ヴァルデン、剣士。正義感が強すぎるゆえに、陰謀に疎い」
ペン先が羊皮紙を滑る音が、静寂の中に吸い込まれていく。
侯爵ルシアン=ヴァルグレイは、薄暗い炎に照らされた横顔を動かさぬまま、淡々と敵を記録していた。
「リリィ・セントローズ。魔法使い。天才肌で人懐こい。……精神的支柱。
ガイア・ブライトハンド、聖騎士。誠実で愚直。貴族政治の毒には、耐性がない。
カミラ・ナイトウィンド。狙撃手。冷静で観察者的立場――無関心の皮を被った実利主義者。
トレヴァー・シルバーホーク。僧侶。平和主義で、争いを嫌う……最も“説得”に弱い男だな」
蝋燭の炎が小さく揺れる。
ルシアンの視線は地図の一点に落ち、唇が微かに動く。
「王国が反応する頃には、彼らはすでに事件を終えている。……後追いの情報など、意味はない」
ペンを置くと、椅子の背もたれに深く身を預けた。
天井の梁を見上げ、彼は静かに息を吐く。
「……観測者が必要だ」
その言葉は、運命の糸を張り巡らせる第一声だった。
書斎に満ちるのは蝋燭の煙と、侯爵の冷徹な思考だけ――。
「勇者アレン・ヴァルデン――民を救い、悪を断ち切る理想の象徴。
だが、あれほど扱いやすい“駒”もそうそういない」
ルシアンは指先で机を軽く叩く。
カチ、カチ……と規則的な音が、思考を整理するリズムになっていた。
「善人は、悪意を疑わない。信頼を裏切ることができない。
だからこそ、彼らには“悪を善として見せる者”が必要なんだ」
ペン先が再び動く。
“善良な悪意”という言葉が書き加えられる。
「……善人には悪意が見えない。ならば、“善良な悪意”を作ればいい」
その声には、どこか楽しげな響きすらあった。
それは冷血ではなく、まるで新しい物語を編む作家の口調だ。
ルシアンは椅子を回し、書棚から分厚い資料を取り出した。
アレンの功績記録、貴族派の報告書、王国通信――すべての情報を机に広げる。
「アレンが信じるもの、それは“信頼の輪”だ。仲間を信じ、民を信じ、王を信じる。
だが、信じる者が一人でも間違っていたら……?」
静かに笑う。
「彼は迷う。苦しむ。そして、必ず“誰かを信じたい”と願う」
その“誰か”を作るのだ。
それが、ルシアンの描く“舞台脚本の再設計”。
「脚本にいなかった登場人物を加える。それだけで、物語の筋は変わる。
――勇者アレン、貴様の物語は、私の掌の上で転がしてやる」
ルシアンは小さく笑い、ペンを回す。
羊皮紙には、次の言葉が記された。
『勇者観測者:教会系スパイ ― 検討開始』
蝋燭が、ポッと音を立ててはじけた。
時刻はすでに午前二時。
書斎の空気は蝋の香と、紙の乾いた匂いに満ちている。
ルシアンは新たな羊皮紙を広げ、静かに呟いた。
「さて……盤上に置く駒を、決めようか」
ペン先が音を刻む。
「一、巡回傭兵団所属の若手剣士――見栄えは悪くないが、勇者パーティーの中では凡庸だな。
二、地方の薬師見習い――治癒はできるが、戦場では役立たん。
三、教会所属の補助僧侶――“信仰の名”で同行を願い出ることができる。自然だ。
四、商人の護衛――金と物資を理由に接触は容易だが、勇者は金銭的依存を嫌う」
ルシアンは一度、ペンを止めた。
静寂が訪れる。蝋燭の炎が一瞬だけ弱まり、再び燃え上がる。
「……無理に潜り込ませれば、怪しまれる。だが“善良に見え”、かつ“必要不可欠に見える”者ならば――」
再びペンが走る。
「――“僧侶”だな。清廉なる仮面こそ、最も強固な盾だ」
僧侶。信仰。祈り。癒し。
そのどれもが、勇者アレンの心にとっては“拒絶できない要素”だ。
「アレンは愚直な正義の体現者だ。“信仰者”を疑うなど、神を疑うに等しい」
ルシアンは満足げに口角を上げた。
その笑みは、氷よりも冷たく、そして美しかった。
「善を信じる者ほど、善の仮面に弱い。
――ならば、私がその仮面を作ろう」
その瞬間、書斎の扉が小さくノックされた。
「……お呼びでしょうか、旦那様」
執事セバスチャンの低い声。
ルシアンは一瞬だけ思考を止め、表情を整えた。
「入れ」
重厚な扉が静かに開く。
老執事セバスチャンが一歩進み、恭しく頭を下げた。
「深夜までお仕事とは……お体をおいといくださいませ」
「問題ない。眠りよりも、思考の方が私を癒す」
ルシアンはペンを置かずに答える。
セバスチャンは慣れた様子で蝋燭を替え、机の上を整えた。
「……旦那様、また勇者殿下の資料を?」
「ああ。奴らは“希望の象徴”だ。だが希望ほど、崩すのが簡単なものもない」
その言葉に、セバスチャンの指が一瞬止まる。
彼はわずかに眉を動かしながらも、何も言わずに静かに頷いた。
「セバスチャン」
「はい、旦那様」
「教会筋に話を通せ。若く、物腰の柔らかい僧侶を一人選抜しろ。
条件は二つ――“頭が切れること”、そして“忠誠を誓えること”だ」
セバスチャンの表情に、わずかな疑念が浮かぶ。
「……教会の僧侶を、でございますか? そのような者を――どのような目的で?」
ルシアンは視線を上げない。
ペン先を紙に押し当てたまま、淡々と答える。
「善人の中に、真の悪意が一人紛れれば、群れは盲目になる。
私はその仕組みを試したいだけだ」
セバスチャンの呼吸が一瞬止まる。
だが、彼はすぐに平静を取り戻し、頭を下げた。
「承知いたしました」
「……セバスチャン」
「はい」
「お前は、私の命令に疑念を抱くか?」
沈黙。
蝋燭の火が、二人の影をゆらめかせる。
「――いえ。私はただ、旦那様の意図を理解したいだけでございます」
「ならば理解せずともよい。従うことが、お前の忠誠だ」
「……かしこまりました」
その瞬間、二人の間に冷たい空気が走る。
セバスチャンは頭を下げたまま、そっと扉を閉めて去っていった。
残されたルシアンは、誰もいない空間で微笑む。
「善人には悪意が見えない……愚かだが、美しい構造だ」
数日後。
ヴァルグレイ邸の地下室では、筆写官が次々と羊皮紙を運び込んでいた。
封蝋、印章――どれも完璧な偽造だ。
ルシアンは机の前で、書類を一枚ずつ確認していく。
「身分:教会第二派遣区・聖務僧。……エリアス・フェルン。
年齢十八、温和で礼儀正しく、神の教えを重んじる。……完璧だ」
傍らの副官が問う。
「旦那様、まさかこのエリアスを勇者パーティーに……?」
「そうだ。奴らの旅に“神の目”を加える。それが計画だ」
「ホワイト……カーテン?」
「白き幕だよ。善の光を反射し、影を覆い隠す。
誰もがその白を信じ、決してその裏を覗こうとはしない」
ルシアンは書類にサインをしながら、静かに言葉を続ける。
「信仰とは、時に最も扱いやすい“鎖”だ。
そして、人はその鎖を“救い”と呼ぶ」
副官は震えた。
だがルシアンの声には、確固たる信念があった。
「脚本にはいなかった登場人物を加えた時、物語は別の終幕を迎える。
神ではない、観測者としての私が、その筆を取る」
封蝋が押される音が響いた。
蝋が冷める前に、ルシアンは最後の一筆を記す。
『計画名:ホワイト・カーテン ――発動』
その筆跡は美しく、冷たい。
夜明け前。
東の窓から差し込む月光が、机の上の羊皮紙を銀に照らす。
ルシアンは椅子に深く腰を下ろし、封蝋を押された文書の束を見つめた。
その唇に、ゆるやかな笑みが浮かぶ。
「勇者アレン、リリィ、ガイア、カミラ、トレヴァー……お前たちの旅路は、私の掌の上だ」
蝋燭が尽き、炎が静かに消える。
残るのは、月光と紙の上の文字だけ。
外では夜明けの鳥が鳴く。
新しい朝が来る。
だが、それは“書き換えられた物語”の始まりだった。
ルシアンは窓の外を見上げる。
夜明けの空に滲む青。
それを見ながら、ゆっくりと呟いた。
「悪とは、何か。善とは、誰が決めるのか。
もし神が物語の作者だというのなら――私は“編集者”であるべきだ」
薄い笑みが、月光の中で静かに浮かぶ。
その笑みは悪役のものではなく、挑戦者のそれだった。
「――脚本を、書き換える時だ」
その瞬間、遠く王都の教会で、一通の書簡が届けられる。
宛名にはこう記されていた。
《勇者一行への支援派遣人員:聖務僧エリアス・フェルン》
物語が、静かに軌道を外れ始める――。




