第10話 夜会の仮面 ― 王女と冷酷侯爵
煌々と輝くシャンデリアの光が、王都の大広間を昼のように照らしていた。
金糸のカーテン、宝石を散りばめたテーブル、香水と笑い声が混ざり合う空気。
その中を、一人の男がゆったりと歩いていた。
――侯爵、ルシアン・ヴァルグレイ。
深紅のマントを肩にかけ、白手袋の指先でワイングラスを弄ぶ。
冷たい微笑一つで、貴族たちは道を空ける。
その佇まいは、まさに「悪役侯爵」の絵そのものだった。
「……ふん。良い演出だ」
ルシアンは心の中でそう呟き、赤ワインを一口。
周囲の視線を感じながらも、その瞳はどこか遠くを見ている。
その時――別の入り口から、王女セリーヌ=アルヴァ=リグレイン(セリーヌ・アルヴェイン)が姿を現した。
白銀のドレスが光を受けて輝き、金糸の髪が柔らかく揺れる。
王都の誰もが知る「聖なる光」の象徴、その姿に場の空気が変わる。
「……殿下……お美しい……」
「まるで月の化身だ……」
貴族たちの囁きの中、セリーヌはゆったりと歩みを進める。
けれど、彼女の視線がある一点で止まった。
赤のマント、冷たい瞳――ルシアン。
(……なぜ、彼が……ここに?)
目が合う。
ほんの数秒だった。
しかしその一瞬、会場全体のざわめきが消えたように感じられた。
――光と闇、正義と悪。
まるで運命に導かれるように、二人の視線が絡み合う。
セバスチャンが小声で囁いた。
「侯爵様、王女殿下……少々動揺されているようですな」
「思惑通りだ。始めよう、仮面の舞台を」
ルシアンは冷たく微笑み、ゆっくりと歩み出した。
運命の夜が、静かに幕を開けた。
会場の中央、音楽が緩やかに流れる中。
偶然を装い、二人の距離が近づく。
「侯爵ルシアン……夜会でお会いするとは、意外ですわね」
セリーヌの声には、わずかに警戒が混ざっていた。
彼女にとってルシアンは“民を脅かす存在”として知られている。
冷酷で、非情で、誰よりも得体の知れぬ男。
ルシアンは軽く頭を下げ、唇に冷笑を浮かべた。
「王女殿下。お目にかかれて光栄です――いや、迷惑か?」
「っ……!」
セリーヌが思わず一歩退く。
その様子に貴族たちの視線が集中する。
ルシアンはまるでそれを楽しむように、ワインを一口飲んだ。
「先日の……お茶会でのことですが」
セリーヌが切り出す。
しかしルシアンはその言葉を冷たく切り捨てた。
「――ああ、あの時か。殿下が取り乱された件だな」
「そ、それは……っ! あの状況では仕方なく――!」
「ふむ、王家の威厳も随分と軽くなったものだ」
「っ……!」
顔を真っ赤にして睨みつけるセリーヌ。
それを見て、ルシアンは内心で微かに笑った。
(……いい反応だ。怒り、羞恥、そして戸惑い。すべてが“仮面”を揺らす)
貴族たちは囁き合い、噂が広がる。
「やはり侯爵と王女は仲が悪いのか?」
「不穏な空気ですわ……」
それこそ、ルシアンの狙い通りだった。
社交の輪の外、セリーヌはグラスを握りしめていた。
胸の鼓動が速い。怒りではなく、別の何かが混ざっている。
(なぜ……私はこんなにも心を乱しているの?)
セリーヌは思わず、彼の背中を見つめていた。
(あの瞳……本当に、悪に染まっているの?)
音楽が変わり、ゆるやかなダンスが始まる。
人々が楽しげに踊る中、セリーヌは一人グラスを傾けていた。
その手が微かに震えている。
「……どうしてあの人が、私のことを挑発するの?」
その声に答えるように、背後から聞こえた。
「手が震えているぞ、殿下」
「っ――あなたのせいです!」
振り返ると、そこにはルシアン。
黒い燕尾服に深紅のマント。まるで闇が人の形を取ったようだった。
「そう思ってくれて構わない。怒りは人を強くする」
「……皮肉ですのね」
「本心だ」
彼の低い声が、なぜか耳に心地よい。
セリーヌは唇を噛み、問いかけた。
「あなたは本当に、“悪”なのですか?」
「それを決めるのは――貴女だ」
その言葉に、彼女の心が小さく揺れた。
仮面の下の本音が、一瞬だけ覗いた気がした。
夜会が終わりに近づく。
セリーヌは侍女たちを振り切り、早足で出口へ向かう。
頬はまだ熱く、胸の鼓動は落ち着かない。
一方その頃、ルシアンも退場の準備をしていた。
セバスチャンが進言する。
「殿下と同じ時間に退場なさるのは危険ですぞ」
「偶然を装うには、絶好の機会だ」
馬車前――月光の下。
扉の前で、二人は“偶然”再会した。
「……殿下」
「……侯爵」
言葉はない。夜風が二人の間を通り抜ける。
その瞬間、セリーヌが裾を踏み、よろめいた。
「っ!」
咄嗟にルシアンの腕が伸び、彼女を抱きとめた。
距離はわずか数センチ。
互いの呼吸が、肌に触れる。
「ご無事か、殿下」
「……は、離して……」
セリーヌの顔は真っ赤に染まっていた。
ルシアンは冷静を装うが、指先が僅かに震えている。
(……この距離感、想定外だ)
沈黙の数秒。
セバスチャンの咳払いが、現実に引き戻す。
「侯爵、民衆の目がございます」
「わかっている」
ルシアンはゆっくりと手を離し、微笑んだ。
「また次の“演目”でお会いしましょう、殿下」
「え……?」
セリーヌは何も言えず、その背を見送るしかなかった。
胸の奥が、なぜか苦しい。
侯爵邸の書斎。
月光が机の上の報告書を照らす。
ルシアンはワインを片手に、窓の外を見つめていた。
「表向きは冷酷、裏では民を守る……だが、女の心まで操るのは、まだ先の話だな」
セバスチャンが静かに紅茶を差し出す。
「殿下、随分と動揺されていたようで」
「ならば成功だ。……ただ――」
ルシアンは小さく笑い、窓の向こうの月を見上げる。
「……あの瞳を見た時、ほんの少しだけ、演技が崩れそうだった」
それは、冷酷な侯爵の中に芽生えた初めての“人間的な揺らぎ”だった。
王宮。セリーヌの寝室。
鏡の前で、彼女は自分の頬に触れる。
まだ熱が残っていた。
「……あの人の言葉が、まだ耳に残ってる……」
胸に手を当てると、鼓動が速くなる。
彼女は小さく呟いた。
「冷酷なはずなのに……どうして、あの瞳が、あんなに――」
窓の外には、同じ月。
その下で、侯爵もまた呟いていた。
「王女殿下……お前の光は、俺の闇の上でしか輝けない」
夜風が二人の想いを運ぶ。
交わらぬ運命の糸が、静かに絡み始めていた――。




