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第5章 実業家の誕生


 一八八九年、パリ万国博覧会。


 エッフェル塔が空に向かってそびえ立つ中、世界中からの出展者と来場者で賑わう会場に、エルミニーは小さなブースを構えていた。資金的制約から、目立たない場所の質素な展示スペースだったが、彼女の目には不屈の闘志が宿っていた。


「ママ、人が全然来ないよ」


 アルシードが心配そうにつぶやいた。


「まだ始まったばかりよ」


 エルミニーは冷静だった。


「革新には時間がかかるものなの」


 初日と二日目は、確かに閑散としていた。「コルスレ・ゴルジュ」の展示を見る人はいても、興味を示す人は少なかった。伝統的なコルセットに慣れた女性たちには、あまりにも斬新すぎたのだ。


 転機が訪れたのは三日目だった。


 午後の遅い時間、一人の中年女性がブースに近づいてきた。質素な服装だったが、鋭い観察眼を持っていることがすぐに分かった。


「これは面白い発想ですね」


 女性はフランス語で話しかけた。


「胸部と腹部を分離させるなんて、誰が考えついたのですか?」


「私です」


 エルミニーが答えた。


「エルミニー・キャドルと申します」


「マドレーヌ・ヴィオネです」


 女性は手を差し出した。後に伝説的なクチュリエとなる人物だったが、この時はまだ駆け出しのデザイナーだった。


「実際に試着することはできますか?」


 エルミニーは喜んで試着室に案内した。十分後、マドレーヌは感動した表情で出てきた。


「信じられません……」


 彼女は深呼吸を繰り返した。


「これまでのコルセットとは全く違う。体が自由になる感覚です」


「それが目的です」


 エルミニーの目が輝いた。


「女性の体を美しく見せながら、自然な動きを妨げない」


 マドレーヌとの出会いが、エルミニーの万国博覧会出展を成功に導いた。マドレーヌがファッション関係者たちに「革命的な発明」として紹介してくれたのだ。


 その後、次々とデザイナーや服飾関係者がブースを訪れるようになった。そして最終的に、エルミニーは銅賞を受賞した。


「おめでとうございます!」


 授賞式でマドレーヌが祝福してくれた。


「でも、これは始まりに過ぎませんよ」


 エルミニーは確信していた。パリでの成功が、世界への扉を開いたのだ。


 万国博覧会の期間中、エルミニーは精力的に営業活動を展開した。ヨーロッパ各国からの来場者に商品を紹介し、輸出の可能性を探った。


 特に印象的だったのは、アメリカからの来場者たちの反応だった。


「これはアメリカで売れます」


 ニューヨークのデパート関係者が断言した。


「女性の社会進出が進んでいるアメリカでは、実用性の高い下着の需要が高まっています」


 エルミニーは即座に商談を成立させた。アメリカ向けの輸出契約を結び、大西洋を挟んだ新しいビジネスの基盤を築いたのだ。


 パリから南米への帰路、エルミニーの頭の中では壮大な計画が練られていた。


「アルシード、君にアメリカ担当になってもらう」


 船の甲板で、彼女は息子に告白した。


「僕が?」


「商船でアメリカ各地を回り、営業をするのよ」


 アルシードは戸惑いを隠せなかった。まだ十八歳の青年に、そんな重責が務まるだろうか。


「心配しないで」


 エルミニーは息子の肩に手を置いた。


「君には才能がある。それに、若さは信頼を得やすいものよ」


 ブエノスアイレスに戻ったエルミニーは、すぐに事業拡張に取りかかった。万国博覧会での成功と、アメリカからの注文により、生産能力の大幅な拡大が必要になったのだ。


 彼女は市内に二つ目の工場を建設し、フランスからさらに多くの職人を呼び寄せた。また、現地の女性たちを大量に雇用し、本格的な訓練プログラムを開始した。


「品質は絶対に落としてはいけません」


 エルミニーは工場の監督たちに厳しく指示した。


「一つでも不良品を出せば、私たちの信用は失墜します」


 彼女の品質管理は極めて厳格だった。すべての製品は最終的にエルミニー自身がチェックし、基準に満たないものは容赦なく廃棄した。


 一方、アルシードはニューヨーク、ボストン、フィラデルフィアを回り、各地のデパートとの契約を次々と成立させていた。


「ママ、信じられないよ」


 アメリカからの手紙で、アルシードは興奮を隠せずにいた。


「どこに行っても大好評だ。特にニューヨークの女性たちは、コルスレ・ゴルジュを『解放の象徴』と呼んでいる」


 エルミニーは満足そうに微笑んだ。自分の発明が、単なる商品を超えた意味を持ち始めていることを理解していた。


 一八九二年、エルミニーは三つ目の工場を建設した。この工場は従来の手作業中心の生産から、機械化された大量生産への転換を象徴していた。


「時代は変わっています」


 彼女は工場の開所式で演説した。


「女性の地位も、働き方も、そして必要とする下着も……私たちはその変化に応えなければなりません」


 この頃のエルミニーは、すでにブエノスアイレス屈指の実業家として知られていた。彼女の会社は四百人を超える従業員を抱え、南米全土に商品を供給していた。


 しかし、成功と共に新しい課題も生まれていた。


「ドニャ・エルミニー、模倣品が出回っています」


 営業責任者のカルロスが報告した。


「ブラジルとチリで、コルスレ・ゴルジュによく似た商品が……」


 エルミニーの表情が厳しくなった。


「特許侵害ね」


「どうしますか?」


「法的措置を取りましょう」


 エルミニーは即断した。


「私の発明を盗用させるわけにはいかない」


 特許権の保護のため、エルミニーは国際的な法的戦いを開始した。パリ、ロンドン、ニューヨーク、そして南米各国で、彼女は知的財産権の確立に奔走した。


 この戦いは二年近く続いたが、最終的にエルミニーの勝利に終わった。世界各国で「コルスレ・ゴルジュ」の特許が認められ、模倣品は市場から排除された。


「これで安心ですね」


 カルロスが安堵の表情を見せた。


「いえ、これからが本当の戦いよ」


 エルミニーは地図を広げた。


「世界市場を制覇するのです」


 一八九五年、エルミニーの帝国は頂点に達していた。南米、北米、そしてヨーロッパの一部に販売網を拡張し、年間売上は数百万ペソに達していた。


 彼女はブエノスアイレス市内に豪邸を構え、郊外には広大な農場を所有していた。かつてパリ・コミューンで投獄された革命家が、今や国際的な実業家として成功を収めていたのだ。


 しかし、成功の絶頂にあったエルミニーの心に、ある想いが芽生え始めていた。


「アルシード、そろそろパリに戻ることを考えている」


 ある夜、彼女は息子に告白した。


「なぜ? ここでの事業は順調だし……」


「故郷よ」


 エルミニーは遠い目をした。


「私の本当の戦いは、パリで決着をつけなければならない」


 現代のクレールは、アルゼンチン時代の資料を整理しながら感嘆していた。


「これほどの国際的成功を収めていたなんて……」


 プピーも驚きを隠せなかった。


「売上記録を見ると、現在の価値で数十億円規模の事業だったようです」


「でも不思議なのは」


 クレールが首をかしげた。


「これほど成功していたのに、なぜパリに戻ったのでしょう?」


「それが最大の謎です」


 プピーが同意した。


「アルゼンチンでの事業を手放してまで……」


 クレールは別の可能性を考え始めていた。エルミニーがパリに戻った理由は、単なる郷愁ではなかったのではないか。もっと重要な、隠された目的があったのではないだろうか。


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