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第3章 南の大地へ

 現代、パリ。


 クレール・デュボワは国立図書館の閲覧室で、十九世紀後半のアルゼンチン移民に関する資料を調べていた。エルミニー・キャドルの足跡を追うため、彼女がなぜアルゼンチンを選んだのかを理解する必要があった。


「興味深い時代ですね」


 隣の席の老人が声をかけてきた。南米史の専門家らしく、同じような資料を読んでいた。


「一八八〇年代のアルゼンチンは、まさに黄金時代への入り口でした」


 クレールは顔を上げた。


「どのような意味で?」


「大量の移民受け入れが始まった時代です。ヨーロッパから年間十万人以上が移住していました」


 老人は眼鏡を調整しながら続けた。


「特に興味深いのは、政治的亡命者も多数含まれていたことです。社会主義者、アナキスト、共和主義者……ヨーロッパで迫害された人々が、新天地を求めてブエノスアイレスに向かったのです」


 クレールは資料を見返した。エルミニーの移住時期と完全に一致している。


「女性の単独移住は珍しかったのでしょうか?」


「極めて稀でした」


 老人が首を振った。


「特に技術を持った女性の移住となると……記録に残るほど珍しいケースだったでしょう」


 その日の夕方、クレールはキャドルメゾンのアーカイブを訪れた。プピー・キャドルが案内してくれた地下の保管庫には、百年を超える歴史が眠っていた。


「これがアルゼンチン時代の資料です」


 プピーが古い木箱を開けた。


「あまり多くありませんが……」


 クレールは慎重に書類を取り出した。スペイン語で書かれた領収書、土地の権利書、そして……


「これは……」


 彼女の手が止まった。一枚の新聞記事の切り抜きがあった。一八九〇年のブエノスアイレスの新聞で、記事の見出しは「フランス人女性実業家の成功」とある。


「読めますか?」


 プピーが心配そうに尋ねた。


「大学でスペイン語を学びました」


 クレールは記事を読み進めた。内容は衝撃的だった。


「エルミニーは……工場を三つも所有していたと書いてあります」


「工場を?」


 プピーの目が見開いた。


「ランジェリー製造工場です。従業員は総計二百人以上……これは巨大な企業です」


 クレールは別の書類を取り上げた。


「不動産の購入記録もあります。ブエノスアイレス市内に五つの建物、郊外に農場……」


 二人は顔を見合わせた。これは一介の移民女性の成功を遥かに超えていた。


「一体どうやって、これほどの資本を……」


 プピーがつぶやいた。


 一八八七年、ブエノスアイレス港。


 長い航海を終えたエルミニーとアルシードは、南米の太陽に目を細めていた。港は世界中からの移民であふれかえっていた。イタリア語、ドイツ語、様々な言語が飛び交う中で、エルミニーは冷静に状況を把握していた。


「ママ、これからどうするの?」


 アルシードが不安そうに尋ねた。


「まずは住む場所を見つけること」


 エルミニーは決然と答えた。


「そして仕事を始める」


 移民収容所での手続きを終えた後、エルミニーは市内の下宿屋を訪れた。フランス系移民の多い地区で、同郷の人々から情報を集めるためだった。


「仕立て屋の仕事なら、フランス人街にいくらでもありますよ」


 下宿屋の主人が親切に教えてくれた。


「でも賃金は安いですからね。生活するのがやっとでしょう」


 エルミニーは微笑んだ。


「私はただの仕立て屋ではありません」


 翌日、エルミニーは市内の高級住宅街を歩いていた。アルゼンチンの富裕層がどのような生活をしているのかを見極めるためだった。


 豪華な馬車から降りる夫人たちを観察していると、彼女たちのドレスとコルセットに注目した。技術的には劣っているが、素材は最高級のものを使っている。


「需要はある」


 エルミニーは確信した。


「技術さえあれば……」


 その週のうちに、エルミニーは小さなアトリエを借り、コルセット製作を始めた。しかし、顧客を見つけるのは容易ではなかった。


 転機が訪れたのは、ある貴族夫人がアトリエを訪れたときだった。


「あなたがフランス人のコルセット職人?」


 ドニャ・カルメン・デ・アルバレスは、アルゼンチン有数の名門家の夫人だった。


「パリの最新技術を知っているの?」


「もちろんです」


 エルミニーは自信を込めて答えた。


「パリの一流アトリエで修業を積みました」


 彼女は持参したコルセットのサンプルを見せた。ドニャ・カルメンの目が輝いた。


「素晴らしい技術ね……」


 一週間後、ドニャ・カルメンはオーダーメイドのコルセットを受け取った。その出来栄えは彼女の期待を遥かに上回っていた。


「信じられないわ! こんなに美しく、そして楽なコルセットは初めて!」


 ドニャ・カルメンの絶賛は、瞬く間に貴族社会に広まった。エルミニーのアトリエには注文が殺到し始めた。


 しかし、エルミニーの野心はそれだけでは満足しなかった。


「アルシード」


 ある夜、彼女は息子を呼んだ。


「明日から君にも働いてもらう」


「僕に何ができる?」


「営業よ。富裕層の息子たちと友達になりなさい」


 エルミニーの目には、冷徹な計算が宿っていた。


「情報を集めるの。誰が金持ちで、誰が影響力を持っているか」


 十六歳のアルシードは、母親の指示に従った。上流階級の子息たちとの交流を通じて、彼は貴重な情報を母親にもたらした。


 エルミニーはその情報を元に、戦略的に顧客を選別していった。単に金持ちの夫人だけでなく、政治家の妻、実業家の娘、社交界の女王たち……影響力のある女性たちを顧客にしていったのだ。


 一八八九年、エルミニーは大胆な決断を下した。小さなアトリエから、市内中心部の大きな建物に移転したのだ。


「ママ、こんな大きな店が必要?」


 アルシードが心配そうに尋ねた。


「必要なのは大きさではなく、立地よ」


 エルミニーは冷静だった。


「一流の顧客には、一流の店構えが必要なの」


 新しい店舗は、ブエノスアイレスの最高級ショッピング街にあった。内装にも贅を尽くし、パリの高級ブティックに劣らない雰囲気を作り上げた。


 開店初日、店には百人を超える上流階級の女性たちが詰めかけた。エルミニーの名声は、すでにブエノスアイレス全体に知れ渡っていたのだ。


 しかし、エルミニーの真の野心は、まだ始まったばかりだった。


「次は工場よ」


 その夜、エルミニーは息子に告白した。


「大量生産を始める」


「でも、手作りの価値が……」


「一流向けは手作りを続ける。でも、中流階級向けの商品も作るの」


 エルミニーの戦略は明確だった。市場の全層を押さえ、独占的地位を築くこと。


 一八九〇年、エルミニーは最初の工場を建設した。フランスから職人を呼び寄せ、現地の女性たちを訓練して、本格的な量産体制を確立した。


 その頃、パリの万国博覧会の話が舞い込んできた。


「ママ、パリに戻る気?」


 アルシードが尋ねた。


「戻るのではない」


 エルミニーは地図を広げた。


「世界に進出するのよ」


 現代のクレールは、資料を読み返しながら首を振った。


「信じられない……たった三年でこれほどの成功を」


 プピーも困惑していた。


「でも、どうやって最初の資本を調達したのでしょうか? 移民がそんな大金を……」


 クレールは別の可能性を考え始めていた。エルミニーには、表に出せない資金源があったのではないか。革命時代の人脈、政治的な裏取引、あるいは……


「もう一度アルゼンチンの記録を調べる必要がありますね」


 クレールは決意を固めた。


「真実は、まだ隠されている」


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