第2章 革命の炎
一八七〇年、パリ。
セーヌ川の向こうから砲撃の音が響いてくる夜、エルミニー・キャドルは薄暗いアトリエで針仕事に集中していていた。二十八歳の彼女は、結婚して息子ももうけていたが、夫の事業失敗でパリに出てきてからは、必死に働き続けていた。
オルレアン近郊の小さな町で生まれ育った彼女にとって、パリは眩しすぎる都市だった。第二帝政期の華やかさは庶民の暮らしには届かず、特に女性が一人で稼ぐことの困難さを日々実感していた。
「エルミニー、また遅くまで……」
妹のローズが心配そうに声をかけた。ローズも夫を亡くし、幼い子供を抱えてエルミニーと同じアパルトマンに住んでいた。
「コルセットの注文が増えているの」
エルミニーは手を止めずに答えた。
「ブルジョワの奥様方は、相変わらず美しくありたがっているのね」
皮肉めいた口調だったが、エルミニーの手は確実にコルセットの形を作り上げていた。彼女には天性の技術があった。女性の体の構造を理解し、美しさと機能性を両立させるコルセットを作る能力に長けていた。
外では相変わらず砲撃音が続いている。普仏戦争が始まってから、パリの空気は重苦しかった。
「戦争なんて、庶民には関係ないわ」
ローズがため息をついた。
「でも……」
エルミニーが針を止めた。
「関係ないわけではないのよ。この戦争の結果で、私たちの生活がどうなるかが決まる」
彼女の目に、鋭い光が宿った。
「皇帝が負ければ、この国は変わるかもしれない」
翌朝、敗戦の知らせがパリ中に広まった。ナポレオン三世が捕虜になり、第二帝政が終わりを告げたのだ。街には興奮と混乱が渦巻いていた。
エルミニーは急いで仕事場に向かったが、アトリエの女主人は青ざめた顔で彼女を迎えた。
「エルミニー、大変なことになったわ。注文がすべてキャンセルよ」
貴族や富裕層の顧客たちが、政変を恐れて次々と注文を取り消していたのだ。
「でも、働かなければ食べていけません」
「私だって困っているのよ!」
女主人は頭を抱えた。
「しばらく休業するしかないわ」
エルミニーは拳を握りしめた。またしても、政治的混乱が庶民の生活を直撃したのだ。
数日後、パリの街角で演説を聞いているエルミニーの姿があった。労働者や庶民たちが集まり、新しい政府への要求を叫んでいる。
「働く者に平等な権利を!」
「女性にも平等な賃金を!」
演説者の言葉が、エルミニーの心に火をつけた。これまで黙って耐えてきた不公平への怒りが、一気に噴き出した。
一八七一年三月、パリ・コミューンが成立した。労働者による自治政府の誕生に、エルミニーは歓喜した。彼女はすぐに活動に参加し、負傷した同志を運ぶ救急車の運転手として働き始めた。
街頭での戦闘が激化する中、エルミニーは恐れを知らずに最前線で活動した。
「エルミニー、危険すぎるわ!」
ローズが止めようとしたが、彼女の決意は固かった。
「私たちが闘わなければ、何も変わらない」
銃弾が飛び交う街で、エルミニーは負傷者を運び続けた。彼女の勇敢さは同志たちの間で語り草になった。
しかし、コミューンの理想は長くは続かなかった。政府軍の反撃が始まると、パリは血の海と化した。
五月のある夜、エルミニーとローズは政府軍に捕らえられた。監獄に放り込まれた姉妹は、死への恐怖の中で互いを支え合った。
「二人に一人が処刑される」
看守の冷酷な言葉が、牢獄に響いた。
「くじ引きで決める」
エルミニーは妹の手を握りしめた。これまでの人生で最も過酷な瞬間だった。だが、運命の女神は彼女たちに微笑んだ。二人とも生き延びることができたのだ。
監獄から解放されたとき、エルミニーは変わっていた。死の淵から生還した経験が、彼女をより強く、より冷徹にしていた。
コルセット作りの仕事を再開したエルミニーのもとには、意外にも注文が殺到した。戦後の復興期に入ったパリで、女性たちは再び美しさを求め始めていたのだ。
しかし、エルミニーの政治活動は続いていた。労働者の権利向上、特に女性労働者の地位改善を求める運動に、彼女は積極的に参加していた。
「エルミニー・キャドル」
ある夜、秘密警察の男がアトリエを訪れた。
「君の活動は当局に把握されている」
男の冷たい視線が、エルミニーを見据えた。
「次に何か起こせば、今度は命の保証はない」
エルミニーは一歩も引かなかった。
「私は何も悪いことはしていません」
「政治活動は悪いことだ。特に女のくせに……」
男の侮蔑的な言葉に、エルミニーの目が怒りで燃えた。
その夜、エルミニーは重大な決断を下した。このままパリにいては、いずれ殺されるか、再び投獄される。そして息子の将来も危うくなる。
彼女は世界地図を広げ、遠い国々を眺めた。新天地で新しい人生を始める――それが唯一の選択肢だった。
一八八七年の春、エルミニーは十五歳になった息子アルシードを連れて、サン・ラザール駅に立っていた。大きなトランクには、これまでの人生のすべてが詰まっていた。コルセット作りの道具、わずかな貯金、そして燃え盛る野心。
「ママ、本当にアルゼンチンに行くの?」
アルシードが不安そうに尋ねた。
「新しい人生の始まりよ」
エルミニーは息子の肩に手を置いた。
「向こうでは、誰でも成功のチャンスがある」
汽車が動き出すと、パリの街並みが次第に遠ざかっていった。エルミニーは振り返らなかった。過去への執着を断ち切り、未来だけを見つめていた。
革命家エルミニー・キャドルの第一章が終わり、実業家エルミニー・キャドルの物語が始まろうとしていた。




