3-β 赤い鳥はなぜなぜ赤い(2/3)
何度となく歩いた廊下をたどって、母のいる病室までやって来る。扉を開けると、すぐに姉と母の話し声が聞こえてきた。内容まではわからなかったが、そこにある和やかな空気を感じて、私は何だかほっとする。
ベッドに近づいて行くと、その傍らに座っていた姉と父が、私たちのことに気づいて顔を上げた。体を横たえていた母もこちらを振り向くと、私の姿を見てやさしく笑う。
以前よりだいぶ痩せたかな。そう思って、私は少しどきりとした。こんな風に、ふいに母の衰えを意識してしまうと、どういう顔をしていいかわからなくなる。そんな考えは決して気取られないよう、私は無理にでも母に笑いかけた。
母は私にこう問いかける。
「理子。お姉ちゃんから話を聞いて、驚いた。大丈夫だった?」
母の声はかすれていて、いかにも弱々しい。顔をしかめてしまう前に、私は慌ててこう答えた。
「全然たいしたことないの。ごめん。驚かせて」
「そう。よかった。でも、残念ね。今日はどこかへお出かけの予定だったでしょう?」
私は返答の代わりに苦笑を浮かべた。自分のことで母を心配させたらしいことに、今さら罪悪感を覚えてしまう。
窓からは、カーテン越しに赤い夕日が差し込んでいる。ふと視線をそちらに向けると、その光を背景にして、無言で私のことをにらみつけている姉と目が合った。
怒っているのだろうか。少なくとも心配していたようには見えないが――いや、もしかしたら、どちらでもないのかもしれない。常にこんな顔なのだ。私の姉は。
しかし、見ようによっては、やはり怒っているようにも思えた。仲の悪い姉妹だという自覚はあるが、こういうときくらいは、やさしくしてくれてもいいのではないだろうか。と、私は他人事のように思ってしまう。
父は立ち上がりながら気づかわしげに私の肩に手を置くと、義兄にこう声をかけた。
「迎えに行ってもらって、ご苦労だったね。小瑠璃ちゃんも。何か飲むかい?」
そう言って、父は小さな冷蔵庫の中から缶ジュースをひとつ取り出した。小瑠璃は満面の笑みでそれを受け取ったが、自力では開けられなかったのか、頬を膨らませながら、それをぐいぐいと義兄に押しつけている。義兄は苦笑しながら缶を受け取ると、プルタブを開けてから小瑠璃に手渡した。
「気にしないでください。理子ちゃんに大事がなくてよかったですよ。ほら、小瑠璃。ちゃんとお礼は?」
「おじいちゃん、ありがとう」
小瑠璃はそう言うと、ジュースをおいしそうに飲み始める。
姉は私にはひとことも声をかけることなく、母と近況について話し始めた。そうして、小瑠璃がジュースを飲み終える頃には、姉は鞄を手に取りながら立ち上がる。
「それじゃあ、私たちはおいとまするわ」
姉はそう言うと、小瑠璃を連れた義兄と共に病室を出て行った。母に軽く声をかけてから、父も見送りのためそれに続く。
母とふたりきりになったことで、室内は途端に静かになった。
私は母を前にして黙り込む。たくさんのことがありすぎて、何を話していいかわからなかったからだ。まさか鳩村のことは話せないし、こんなところで事故の話をするのもどうかと思うし……
そうして私があれこれ考えているうちに、母はふいにこう呟いた。
「それ、似合ってる」
私が首をかしげると、母はその細い腕を上げて私の左手首を指差した。その先にあるのは、誕生日プレゼントとして両親から贈られた腕時計。
私はすぐにはっとして、それを握りしめた。
「うん。ありがとう。このデザイン、すごく気に入った」
「よかった。ちょっと変わっているでしょう。喜ぶかなと思って。その星座は、ここからだと、どの辺りに見えるの? 見られるかしら」
とっさに、何のことだろうと思ったが、母の視線を追っていくうちに、腕時計にある意匠のことを言っているのだと気づいた。
「ふたご座のこと?」
私はそう問い返す。母がうなずくのを見て、私は思わず顔をしかめてしまった。
「十二星座は、太陽のある位置の星座なんだよ。だから今の季節は見られない……かな」
「そうなの?」
驚く母に向かって、私は苦笑いを浮かべた。
「そうだよ。ふたご座は冬の星座だから、今は太陽の向こう側」
そう言って、私はカーテンを透かし見るように、窓辺へ視線を投げかけた。今はもう日も落ちてしまったらしく、辺りもだいぶ暗くなっている。
ふいに母がくすくすと笑い出した。私はぎょっとして、母の顔をのぞき込む。
「何かおかしかった?」
母は笑いながら、首を横に振った。
「ごめんなさい。そうじゃないの。理子は本当に星のことが好きなんだなって思って……それで、あなたが小さかった頃のことを思い出したの。図書館でよく、星の本を借りていたでしょう? ずいぶん難しそうな本で、読めもしなかったけど、写真がとてもきれいだからって。気に入ったのか、何度も何度も同じ本を借りてきて、また同じのを借りたの? って言っても、これがいいって譲らなくって」
「そうだっけ」
そんなこともあったような。おぼろげではあるが、それは私の中にも確かにある記憶だった。
母はどこか楽しそうに、こう続ける。
「お父さんとも話していたのよ。理子は星のことが好きだから。だから、その腕時計、絶対気に入ってくれるだろうって。それにしても、不思議なものね。小さいときには、あなたは星なんて見向きもせずに――そうね。カマキリとかダンゴムシだとか、そんなものばかり探していたのに」
それはおそらく、記憶を失う以前の私のことだろう。私は何も言えずに、口をつぐんだ。
私にはない記憶。何か嫌な予感がする。それがただの予感ではないことを示すように、ふいにどこからか、知らない誰かの声がした。
――覚えてる。なつかしいな。
私の中で響く声。
なつかしい? どういうことだろう。
声を発しているのは得体の知れない虫か。あるいは――
あなたは、誰なの? 私は心の中でそう問いかけた。答えなどあるはずもないと思いながら。しかし。
――小さな頃にね。お母さんの誕生日にプレゼントを用意したの。仕切りのある箱に虫を一匹ずつ入れて。それで、お母さんをびっくりさせちゃった。
誰だかわからない声はそう語る。何の話だろう。そう思いつつも、よせばいいのに、私はそれをたずねずにはいられなかった。
「昔、お母さんにプレゼントしたことある? 箱の中に虫を入れて……」
私がそう言うと、母は大きく目を見開いた。
「覚えてるの? 理子」
母の反応を目にした私は、その問いに答えることも、うなずくこともできずに固まった。
これはいったい、どういうことだろう。
私の中にいる何か――そもそも、そんなものはいるはずがないと、今も思っているのだが――その何かは、なぜか失ったはずの私の過去を知っているらしい。私自身は、それを思い出せずにいるというのに。
そのとき、私の中で何かが壊れたような気がした。
何か。今までは、どうにかつないでいた私という存在。それが、たった今示された記憶の矛盾によって、再び揺らぎ崩れていく。
記憶を失っていても、私は新たな私を手に入れたはずだった。しかし、それは本当に正しいものだったのだろうか――
私が何も言わないでいると、母は記憶をたどるように、こう話し始めた。
「確かに、あったわね。誕生日プレゼントだっていうから、どきどきしながら開けたら、虫が飛び出して来て。私、びっくりして箱を落としちゃって、部屋中に虫を逃がしちゃったの。お姉ちゃんは悲鳴を上げるし、あなたは泣き出すし、大変だった」
母はそう言って笑っていたが、私は笑い返すことができない。その代わり、私はどうにか口を開いた。
「あのね、お母さん――」
母は続きを待っていたが、その先はいつまで経っても、私の口から出てくることはなかった。何かを言おうとは思うのだが、何を話していいかわからない。私は一度口を閉じてから、何でもない、とだけ言って首を横に振った。
病室に戻って来た父と一緒に、私は家へ帰ることになる。私は母に、また明日来るから、とだけ声をかけた。