3-β 赤い鳥はなぜなぜ赤い(1/3)
そうして、私は誰もいない部屋にひとり取り残された。
鳩村とかいう――嵐のようなあの男は、私の心を散々に荒らしはしたが、去ってしまえば、むしろあまりに現実感がなく、いっそ今までのこともすべてが夢だったかのようだ。残されたものがあるとすれば、私が手にした一枚の名刺と机の上の炭酸飲料くらいだろうか。
喉の渇きが無性に耐えがたくなって、私は目の前のペットボトルを手に取った。フタを開けてすぐさま口をつけてみたが、その独特の刺激に私は思わず顔をしかめてしまう。それでも自棄になって一気に飲み干した。
携帯端末がメッセージの受信を通知している。私は空になったペットボトルを片手に、この部屋を出ることにした。
廊下に立って周囲を見回してみたが、鳩村の姿どころか誰の姿も見えない。それでもエントランスがある方へ近づいて行くと、徐々に人とすれ違うようになった。そうして受付の辺りまで来ればもう、何ということはない日常の風景にたどり着く。
その中に立って、私はようやく現実に戻れたような気がしていた。いろいろとおかしな話ばかり耳にしたが、混乱して曇っていた思考の一部が少しだけ晴れたかのような……
しかし、ペットボトルを捨てようとゴミ箱に手を伸ばしたとき、無意識に握りしめていた紙片の存在に、私はあらためて気がついた。
鳩村から受け取った名刺。思わず握りつぶしそうになるが、私はどうにかそれを思い止まる。そうして逡巡した挙げ句、その名刺を鞄の中へとしまい込んだ、そのとき――
「りこちゃん!」
幼い声が私の名を呼んだ。小さな少女は、ぱたぱたとかけてくる足音と共に近づいて来たかと思うと、私の脚に抱きついて止まる。
「……るりちゃん?」
「るりじゃない! こるり!」
そう言って、少女は小さな頬を膨らませた。三歳になる私の姪は、小瑠璃という今どきの小洒落た名の少女だ。姉に似て、なかなか気が強い。
小瑠璃の後を、慌てた様子の男性が早歩きで追って来ていた。メガネをかけた少し気の弱そうなその人は、姉の夫――つまり私にとっての義兄だ。
彼は小瑠璃に追いつくと、彼女の頭を撫でながら小声で叱った。
「ダメだろう、小瑠璃。病院では静かにしなきゃ。走るのもダメ」
小瑠璃は私の脚にしがみついたまま少しの間ぶうたれていたが、そのうち気が変わったのか、ごめんなさいと呟きながら、今度は父親に甘え出した。
ほほえましく思いながらも、私に義兄に向かって頭を下げる。
「白石さん。あの、すみません。わざわざ迎えに来ていただいて……ありがとうございます」
白石は義兄の名字だが、私は彼のことを普段からそう呼んでいた。今はもう、姉も同じ名字なのだけれど――何となく、この呼び名が定着してしまっている。
義兄は小瑠璃を軽々と抱き上げると、気づかわしげな表情で、私にほほ笑みかけた。
「知らせを聞いたときは驚いたよ。大事がなくてよかったけど……本当に大丈夫かい?」
いらぬ心配をかけまいと、私はすぐさまうなずいた。それを見て、義兄はほっとしたようにうなずき返す。
「そうかい。それじゃあ、行こうか。亜衣沙も心配していたよ」
亜衣沙は姉の名だ。心配――していただろうか。私は内心、それはないだろう、と思いながらも、曖昧に笑ってごまかした。
病院を出てから、駐車場に止めてあった義兄の車へと乗り込む。運転席に座った義兄とチャイルドシートに収まった小瑠璃が何か楽しげに話をしているが、私の耳には入らない。
そのうち車は走り出し、私を見知らぬ場所から連れ出した。車窓から流れる景色を見るともなしにながめていると、先ほどまでのできごとが無意識のうちに思い出されてくる。
とはいえ、特別におかしなことが起きたわけではない。ただ、おかしな人と話をしたというだけのことだ。
それでも私の中には、なぜか嫌な予感のようなものがずっと渦を巻いていた。ぐるぐると巡る思考の中では、あのときの鳩村との会話が何度もくり返されている。
姪に話しかけられたので、私は眠ったふりをすることにした。義兄は、疲れているようだからと、そっとしておくよう小瑠璃に言い聞かせてくれる。
しばらくは親子の会話を耳にしながら、走る車の揺れに体をゆだねていたのだが、やがてはどこかに停止したようだ。私は心ここにあらずといった風にぼうっとしていたが、起き抜けだと思われているのか、声をかけられることもない。
車から降りると、私たちは連れ立って歩き出した。ぐずり始めた小瑠璃を義兄が抱き上げたので、私はその後をとぼとぼとついて行く。
目の前にある白い建物の中に入ると、独特な空気がすぐさま私の体にまとわりついた。リノリウムの床、手すりの張り巡らされた廊下。そうしたものは、どこも似たり寄ったりなのかもしれないが、それでもここは、先ほどまでいた場所と違って勝手知ったる何とやら――つまり、ここは母の入院している病院だった。