1-β 唄を忘れたカナリヤは(2/3)
これはおそらく夢だろう。
その光景のただ中にあって、私の意識はふと、そのことに気がついた。
幼い少女が、山の中をかけ回って遊んでいる。木によじ登ったり、岩の上から飛び降りたり。神社の周辺に広がる森は、子どもたちにとって恰好の遊び場だ。
そういえば、誰かとそんな話をしていた気がする。そのせいで、こんな夢を見ているのだろうか。
幼い頃、確かに私もあの場所で遊んだことがある――あるはずだ。でなければ、こんなことにはなっていないだろうから。
夢の中の少女はひた走る。険しい山道を。危ない崖など、ものともせず。もしも大人がこの光景を見ていたなら、きっと怒られていたに違いない。
とはいえ、子どもは案外、自分なりの用心をしているものだ。もちろん、それが万全かどうかは、また別の話なのだが。
ともかく、これは私が見ている夢に違いなく、それを確信したのは、この場面に見覚えがあったからだ。どうやら私は今、遠い過去の記憶を夢の中で思い起こしているらしい。
そのことに気づいてしまったからだろうか。たとえそれが夢だとしても、私にはその行きつく先の結末を変えられはしなかった。
山中をかけていた少女は、ふいに足を滑らせる。そして、崖下へと落ちていった。声を上げることもなく、急な斜面を真っ逆さまに。
助けを求めて、手を伸ばすような余裕もない。落ちる、と思ったそのときには頭が真っ白になり――
気づけば、山中で幼い私が泣いていた。
ひとり大声を上げながら。
それは始まりの記憶。今ここにある私はそこから続いている。
そのことを、今はっきりと思い出した。見ている光景を、これは夢だ、と気づきながら。
そのとき。
――ほら、時間だよ。
そう声が聞こえた気がして、私はまどろみから目を覚ました。自室の机に向かっていた私は、いつの間にか、うつらうつらと舟を漕いでいたらしい。
慌てて時計に目を向けると、針はちょうど二十三時五十三分を指したところだった。頭に浮かんだ、誕生日おめでとう、の言葉に、ありがとう、という心の声が返ってくる。意味のないひとり芝居に、私は思わず苦笑いを浮かべた。
かちかちと音を刻みながら時計の針は回る。そうして一歩ずつ動いていく秒針が再び十二の数字を過ぎて行かないうちに、私は目の前に並べた自分宛ての誕生日プレゼントへと、ようやく手を伸ばした。
私――金谷理子は、十五年前のこの日この時間に生まれた――はずだ。要するに、今日は私の誕生日だった。
この時間まで待ったことに意味はない。強いて理由を挙げるとすれば、ここにあるものは十五歳の私へ贈られたものだから、そうなるまでは何となく自分のものではないような――そんなことを思ってしまったからだ。
祝ってくれる家族がいれば、そんなことは考えなかったかもしれないが、しんとした家の中には、今は私ひとりしかいない。つい先ほどまでにぎやかなお祭りの場にいたこともあって、この静けさはひとりきりであることをよりいっそう寂しく思わせていた。
そうした状況も相まって、私は自分の誕生日に何か特別な意味を持たせたかったのかもしれない。
誕生日といっても、豪華な夕食が用意されていたわけでもなく――そもそも、屋台で散々買い食いをした後だ――冷蔵庫にあった誕生日ケーキ、もとい冷凍で売られている安いカットケーキは、一部がまだ凍っていたものを特に感慨もなく平らげている。両親がいないのはいつもことだったし、姉が薄情なのもいつものことだった。
姉が結婚して家を出てからは、たとえ誕生日だろうとひとりで過ごすことがほとんどだ。父は仕事で忙しく、母はほとんどが病院での生活。
姉はここから歩いて数分という近場に住んでいるので、会いに行こうと思えば行けるのだが、自分の誕生日だからと言って押しかけることができるほど、私たちの姉妹仲はよろしくない。とはいえ、たまに帰って来ては家事を手伝ってくれているのだから、姉の存在はありがたいと思うべきなのだろう。
三年前までの誕生日は、姉と二人で過ごすことが多かった。とはいえ、そのときでさえ、いつもの夕食に誕生日ケーキとプレゼントが追加されるくらいだったけれども。その上、私が生まれた時間が深夜だったこともあって、おめでとうの代わりに、この時間にあんたはまだ生まれてないんだけど、などと姉から余計なことを言われるのがお決まりだった。
この時間まで待とうと思ったのも、もしかしたらそのことが印象に残っていたからかもしれない。
ともかく、そんな感じで少し寂しい境遇ではあるけれども、私は何不自由ない生活をしていた。私自身も、何の変哲もない、いたって普通の中学生だ。
しかし、それはそれとして、今日くらいは自分のことを特別に思っても許されるのではないだろうか――とも思っていた。なぜなら、今日は私の誕生日なのだから。
今年のプレゼントは両親から贈られた小さな箱がひとつと、姉夫婦から届けられた小包みがひとつ。学校で友人たちから受け取ったプレゼントは、とうに送り主たちの前で開けられていて、今は机の上に置かれている。実用的な文房具とかわいらしいヘアアクセサリーは、どちらもそれぞれの友人らしい選択だ。
あとは家族からのプレゼントを残すのみなのだが、いざ開けようとすると、楽しみなような不安なような――そんな気持ちになってしまって、それを手にすることを、私は少しだけためらっていた。とりあえず、ここは小さい箱から開けてみようか。おとぎ話じゃないけれど、大きな包みには何が入っているかわからないから。
きれいな夕焼け色の包装紙を破らないよう丁寧に広げていくと、中からは黒い箱が姿を現した。つやつやとした素材に金の箔押しの文字。何だか高そうだ、と気圧されながらも、私はその箱をそっと開けてみる。
中に入っていたのは革ベルトの腕時計だった。紺色の文字盤には星図の意匠――私の星座の双子座だ――が施されていて、一等星の位置には煌めくラインストーンが嵌め込まれている。
ひと目見て、すぐにその腕時計が気に入った私は、さっそくつけてみることにした。それは私の手首にしっくりと収まると、その細長い銀の針で静かに時を刻み始める。
しばらくは嬉しさのあまりじっとながめていたのだが、そのうちふと、短針が十二時を過ぎていることに気づいて、私はすぐさま我に返った。慌ててそれを手首から外し、元通りに箱の中へとしまい込む。
明日も学校があるのだから、いつまでもこんなことをしてはいられない。
今日はこの辺りで切り上げて、いい気分のまま眠りにつこうか。そう迷いながらも、私はもうひとつの包みを開けてしまうことにした。
こちらのプレゼントは正直言ってあまり期待はしていない。今まで姉から贈られてきた品々を思い返してみても、いい思い出がないからだ。
とはいえ、ここに放っていておくわけにもいかないだろう。
そうして、誕生日プレゼントらしくもない簡素な包装紙を破くと、何やら誕生日プレゼントとは思われない箱が姿を現す。それが何かということに気づいた途端、私は思わず固まった。