1-2.
『……ロッティ、だけど俺は』
『はい、敗けました。完膚なきまでに、我が国の敗戦です。こののちはきっと、かの国に、飛び地の領土として吸収統合されることでしょう』
聡明な妹姫の、藍玉のような双眸をじっと見詰める。不思議と全身の痛みはなく、会話をするにも労を感じなかった。視界もクリアで、不明瞭な部分はまるでない。
──それが、そのことが、至って不可解な世界だった。
寸前まで、自分は死にかけていた筈だ。
ここは、いったいどこだ。
妹、シャルロットが俺を見据える。
病気がちで、日に焼けぬ白い肌がまるで陶磁器のようで、粗暴な自分はいつだって壊れ物のように恐る恐る触れていた大切な妹だ。
そんな彼女が、波打つ御髪を逆立て、頬を上気させ、珍しくも怒気をあらわに仁王立ちしている。自分が乱雑に掴めばすぐに折れてしまいそうな細い腕で、懸命に我が身を揺さぶって何かを伝えようと必死になっている。
彼女の瞳は、まるで火花のように鮮やかに煌めいていた。
『お聞きくださいませ、お兄様。レッドグレイヴ殿下は、わたくしを、その傍らに立つ妻にと所望しています。もちろん、名目上はともかく、実質的には第一妃などではないでしょう。病弱なわたくしでは、彼の求める剛健な国母にはなれないでしょうから。──要は、我が国土を蹂躙するための理由付けが欲しいのです。海上の要塞、堅牢なる我が城を拠点に、さらなる領土拡大を狙うならば良い手です。あの方は、この地をチェスゲームにおける大変に有利な陣地としてしか見ていないのですから』
シャルロットがこんなに長文を語るとは珍しい。
その明晰なる頭脳で、いつだって自分などには到底見通せない未来を見据えていた妹のことだ。本来、その精神に伴った心身の強さが彼女に備わっていれば、きっと今のように、父母をも導いて、よりよき治世を敷いたであろう。
そんな、ありもしないイフの未来を夢想してしまえることが、今になって至極残念に感じる。
こんな、死に際に見る夢の中でしか、彼女の才が発揮されないとは。
『──お兄様、寝言は寝て仰有ってくださいな。夢の中などではありませんわ。思い出してくださいまし、何故、お兄様が「魔王」などと呼ばれるようになったのかを』
『……城塞を築き、近衛部隊を育て、魔王のごとき容赦ない軍備をしたという自覚はある。本来禁じ手とされてきた、魔力の軍事転用も進んでやった。樹海を挟んで南に隣接する大国に潰されず、海を隔てて北に隣接する新興国にも攻められず、主要な海路の関所となるこの小国を治めるためには、それしかなったんだ──民も納得して、我こそはと志願して魔術を究めてくれたくらいだ』
『その通りです。我が国アヴランシュは、小国ではあれど、周辺国の貿易にとって至って重要な港島国家ですから──民のひとり、赤子に至るまで、みな、その思いは一にしておりましょう。すなわち、』
──やられるまえにやれ、とのスローガンをだ。
なんとも物騒な国是である。
『──お兄様』
『……どうした?』
『わたくし、少々怒っておりますのよ。ノエお兄様が、これほど簡単に、生きることを諦めてしまったこと』
『──……』
彼女のその言葉に、自分はつい言葉をなくす。
だってそうだ。妹は、家族には「ロッティ」と愛称で呼ばれて愛でられてきた彼女は、普通の人間ならば、もう何度も「生」を諦めてしまいたくなりそうな重い病をいくつも越えて──それでもなお、これほど毅然と、生きているのだから。
俺は、つい彼女を直視していられなくなって、ぼうっとぼやけたまろい世界を眺める。
『ですから、お兄様の身体は、わたくしが頂戴することにいたしました』
『……はっ?』
──だから、彼女のとんでもない発言を、俺はつい聴き逃してしまった。
妹ののたまった内容がよくわからなくて、淡く発光するその身を凝視する。
彼女は、さも誇らしげに微笑んでいた。その、近頃母に似てきたような表情に、俺はついどきりとする。
『十月十日です。その間に、わたくしがお兄様の身体を完全回復させます。ほぼ死者蘇生に近い術を行使しますので、期間中は恐らくほぼ寝たきりです。後生ですから、術途中で身体を失わせるようなことがございませんように』
歌うように告げるシャルロットの言葉は、聴いた傍から俺の耳膜を通り過ぎていく。
彼女が何を言っているのか本当に理解が出来なくて、眉根を寄せた。
妹は、ただ揺蕩うように笑うだけだ。
『お兄様は、わたくしの代わりに、レッドグレイヴ殿下を籠絡しておいてくださいな。いわゆるハニートラップというヤツですわね』
『は、はに……?』
『大丈夫ですわ。侍女長のカメリアは、きっとその辺りを理解して、有能な教育者になってくれることでしょう。困ったことがあれば、家庭教師のローザにお尋ねなさいませ。彼女の指導は完璧ですわ。帝王学も王妃教育も、根幹は似たようなものですから、きっとお兄様の肌にも合いますでしょう』
なにやら彼女らしからぬ単語が聴こえた気がしたが、どうやら聞き間違いではなかったらしい。戦場のひとつのパターンとして理解はしていても、とてもだが我が国では採るべき手段ではなかった戦法だ。
──ハニートラップ。
誰が、誰に。何を。
『──お前、それ、どういう意味かわかって──』
『お兄様、「魔王」の腕の見せ所ですわよ。かの悪辣を、残虐に、酷薄に、凶悪に見返してやって御覧なさいませ。我がことをそのように申すのは、些か気が引けますが──この美貌にお兄様の気性を備えさせ、かの略奪王の地位をとことんまで貶めてやるのです!ざまあみろですわ』
シャルロットが高く笑う。
俺は、初めて、妹の妹らしい満面を見たような気がした。
彼女の笑顔にやや面食らって、二の句を継げないでいるうちに、急速に視界が切り替わっていく。
見たこともないほどに美しく焼けた茜色の空を駆け、妹の瞳のような深藍色の海を越え、広大な草原を抜けて──ぱちり、と、重い睫毛が震える音を体感しながら、ようやく目蓋を空ける。
最愛の彼女の、淡い笑声を聞いたような気がした。
視界が開ける。
白っぽくぼやけた世界を埋めたのは、至近距離から自分を覗く、見慣れた侍女の無表情だった。
「──……侍女長」
「私をそう呼ばれるのは、ノエ様ですね。シャルロット様なら、カメリアと、拙名でお呼びになりますから」
侍女長──もとい、カメリアが、丈の長いエプロンドレスのポケットを探り、小さな手鏡を取り出す。相変わらずの無表情で差し出されたそれを、無言のままに受け取って──だってそうだ、それどころじゃない。自分は、軽くパニック症状を起こしていた。
──なんだ、この声は。
いまの言葉は、本当に自分が発したものなのか。
信じられない。こんなの、まるで──
「お帰りなさいませ。身体を着せ変えられたご気分はいかがですか、ノエ様──いえ、シャルロットお嬢様」